安倍晋三って、日本の首相?

2007-02-10 11:53:20 | Weblog

 日本という国だから、首相になれたのか

 2月9日、衆議院予算委員会での社会保険庁改革に関する安倍首相の答弁。

 「年金の管理を行っております社会保険庁は、すでに国民の信頼を失っているわけでありまして。国民のみなさまにこの組織であれば大丈夫、とこのように信頼をしていただける組織に必ず変えてまいります」(TBSの07年2月9日お昼前のニュース)

 厚生労働省のHPの「社会保険庁」のページには次のような案内が書いてある。

 「社会保険庁は、厚生省の外局として置かれ、政府管掌健康保険、船員保険、厚生年金保険、国民年金の各事業の運営実施の実務を担当しています。」

 「政府管掌」とは政府が「健康保険、船員保険、厚生年金保険、国民年金の各事業」を自らの権限事項としているということであろう。社会保険庁はそれら「各事業の運営実施の実務を担当している」、単なる事務方だということになる。

 と言うことは、社会保険庁が厚生労働省の外局という関係から、順番から行けば、厚生労働省が社会保険庁の監督官庁に位置し、政府自身が社会保険庁を含めた厚生労働省を監督する責任を負っている。当然最終管理責任は政府にある。

 この構造から行くと、安倍首相の国会答弁「年金の管理を行っております社会保険庁は、すでに国民の信頼を失っているわけでありまして」には、社会保険庁に対する間接的監督者であり、しかも最終責任者である政府自身の「国民の信頼を失」うに任せた監督責任・監督無能力への言及が一切ない。余りにも第三者的、他人事のような物言いで、このこと自体が余りにも無責任、無考え、鈍感に過ぎるのではないだろうか。

 このような無責任、無考え、鈍感な頭で一国の首相を務めている。責任感覚もない指導者が「美しい国を目指す」だ、改革だといくら叫んだとしても、国民が望むだけの結果は悲観的な期待で終わるに違いない。「国民のみなさまにこの組織であれば大丈夫」だなどという成果は、夢のまた夢の可能性大であろう。客観的認識性の過不足が物事のその後の対応・対策に距離を生じせしめると同じで、責任意識の有無・強弱がその後の姿勢の真摯さ・積極性に影響を与えるからだ。

 責任感覚もない指導者ということでさらに言うなら、安倍改正教育基本法・第十条(家庭教育)で「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有する」と規定しているが、「父母その他の保護者」に自分が保持してもいない責任感覚を求めること自体も、お門違いと言うことになる。
 
また、社会保険庁の「国民の信頼を失」うまでに至った度を外れたズサンな運営に政府自身が何ら責任を負わないで済むとしたら、番組内容捏造問題で放送局である関西テレビに提出を求めた調査報告書に関して、菅総務相が「『孫請け会社がすべてやったことになっていて(関西テレビの)経営全体の責任というのが全く書かれていなかった』と厳しく批判した」(07.2.9/14:17/asahi.com)態度は正当性を失う矛盾した行為となる。

 社会保険庁のズサン運営に対して間接的監督者であり最終責任者である政府自身が何ら責任なしとする責任回避の構図が許されるなら、「孫請け会社」に対して直接的監督者の立場に立ち、番組内容に関わる最終責任を負っている関西テレビにしても、「孫請け会社がすべてやったことになっていて(関西テレビの)経営全体の責任というのが全く書かれていな」い責任感覚なしの自己免罪の態度、責任回避態度にしても許されるとしなければ、責任追及の態度に整合性を失うからである。

 政府・官は許して、民は許さないと言うことでは公平性をも欠くことになる。安倍首相なら、それくらいのことはするだろう。

 菅総務相が「経営全体のですね、そういう責任というのがまったく書かれていなかった。また、再発防止に対して具体的なものがなかった。そういう点を再調査という形で、事務的な手続きを取る、まあ、そういうことにしました。そして今月一杯に再提出、それを求めたい、こう思います」(07.,2.9/NHKテレビ・正午のニュース)と報告書の再提出を求めたということは、安倍首相が「それはまずいよ、社保庁問題で政府も厚労省も責任を取らないで、民間企業にだけ責任を取れというのは、それはまずいよ」と止めなかったということだから、
安倍首相は既に〝それくらいのことはした〟ということになる。日本の首相だから、許されることなのだろう。

コメント (1)
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