民主党教育政策の「公立高無償化」を生徒の思考能力・活用力につなげる

2009-07-20 12:37:52 | Weblog

 

 7月20日の「asahi.com」記事――《民主、来年度から「公立高無償化」 学費分12万円支給》が、〈民主党は、総選挙で政権交代が実現した場合、来年度からすべての国公立高校生の保護者に授業料相当額として年間12万円を支給し、事実上無償化する方針を固めた。〉と記事の出だしで述べている。

 さらに続けて、〈私立高生の保護者にも同額を支給し、年収500万円以下なら倍の24万円程度とする。高校進学率が98%まで達する中、学費を公的に負担すべきだと判断したといい、マニフェスト(政権公約)に盛り込む考えだ。 〉とのこと。

 無償化の理由は、〈かねて高校無償化を主張していたが、不況が深刻になり、高校進学を断念したり、入ったものの中退したりする生徒が〉増加していることを挙げ、支給対象を〈多くの企業が業績を落とし、収入が減って不安が広がっており、所得制限をかけず支給するよう判断した。〉と高校進学児がいる全家庭としている。 

 定額給付金の麻生太郎のぶれを学習しているから、いや所得制限を設けよう、元の所得制限無しにしようといったぶれは見せずに、このまま進むに違いない。

 財源は〈実現には年間約4500億円の追加予算が必要と試算しており、国の事業の無駄を洗い出し、不要と判断したものを廃止・縮小することで財源の確保は可能としてい〉て、〈優先課題に位置づけ〉ているという。

 この財源確保策に対して記事は、〈同党は一方で、高速道路無料化、ガソリン税などの暫定税率撤廃といった「目玉政策」も来年度から実施する方針だ。これらに7兆円程度を見込んでおり、全体の予算編成の中で本当に財源が確保できるか、現段階では不透明だ。 〉と財源確保の不確実性を指摘している。

 さらに、〈中学生までの子どもがいる家庭に対し、月2万6千円の「子ども手当」を支給する方針で、政権公約では来年度に半額支給からスタートさせるとしているが、その財源確保策として配偶者控除を廃止するため、妻が専業主婦で子どものいない65歳未満の世帯は負担増となる。〉こと、〈親の年収が400万円以下の学生に生活費相当額の奨学金を貸すなどの奨学金拡充、幼稚園や保育園の無償化推進なども検討しているが、教育・子育て支援は一方で子どものいない世帯の負担増にもつながり、議論になりそうだ。 〉と問題点を指摘している。

 そして最後に教育の質を高める方策としての民主党の主たる教育政策を紹介している。

 1.教員の質を高めるため大学の教員養成課程を医歯薬系並みの6年制とし、教育実習を
   1年間に大幅延長する

 2.学校の風通しをよくするため保護者や住民らが参加する「学校理事会制度」を創設す
   る

   ――(以上参考引用)

 「教員の質を高めるため大学の教員養成課程を医歯薬系並みの6年制とし、教育実習を1年間に大幅延長する」は税金のムダ遣いで終わるだけのことだろうし、「学校の風通しをよくするため保護者や住民らが参加する『学校理事会制度』を創設する」にしても今言われている教師の質・教育の質を高めることにさして役には立たないに違いない。

 これまでも何度も「教員の質」が問題となっている。断るまでもなく教師の質は当然教育の質に深く関係していく。

 日教組による激しい反対闘争があったものの、当時の文部省が1958年4月から教員勤務評定を実施したのは学校教師の尻を叩く意味合いがあったからだろうし、1997年に議員立法によって小学校及び中学校の教諭の普通免許状授与に係る教育職員免許法の特例等に関する法律を制定、新規に教員の普通免許状の授与を受けようとする場合は介護等の体験を義務付けたのも、介護経験を人間を学ぶ機会とし、そのことを通して教員の質の向上を図ろうとしたからだろうし、それまで1度取得したなら無期限に有効であった教員免許が安倍内閣時代(06年9月26日~07年8月27日)の2009年4月からの導入の「免許状更新講習規則」によって更新期限を10年としたのも、教師の質の問題を古くて新しい課題としていたからだろう。

 また独立行政法人「教員研修センター」がどのくらいの予算を国が補助しているのかいないのか、文科省等からの天下りが何人いるのかいないのか知らないが、採用5年次研修とか教職10年目研修を行っていることも教員の質・教育の質の問題が関わっているからだろうし、さらに幼稚園、小学校、中学校、高等学校、中等教育学校及び特別支援学校の新任校長(校長就任2年目まで)を対象とした「中堅教員研修」まで行っているが、長としての人事管理の問題だけではなく、教育とは何かの教育観の影響を少なからず受けて形成される下に位置している者たちの教員の質、教育の質への関与までを考えて実施する研修だろうから、研修対象者自体の教員としての質・教員として持っている教育の質の向上をも対象とした研修であろう。

 いわば、あの手この手の政策を行って教員の質・教育の質の向上を図ってているが、そうしなければならないのは問題解決とはいかず、今以て教員の質・教育の質を永遠の課題としているからだろう。

 1958年の第2次岸内閣のときの8月に文部省令によって小・中学校の道徳教育の義務化を図ったが、当時の小学校1年生は09年の現在、51歳となる。教師となった者たちの中には教頭もしくは校長に昇進した者もいるだろう。だが、現在も教師・生徒も含めて道徳の問題は解決できない課題として突きつけられている。

 また51歳以下の教師は道徳教育を受けてきたはずだし、大学の教師過程でも道徳を学んだはずだし、採用後5年経過すれば研修も受けるはずだが、教師の性犯罪・ハレンチ行為は跡を絶たない。

 性犯罪・ハレンチ行為に縁のない教師であっても、多くの教師が教室が荒れている問題に無縁ではないだろう。このような教師の質の問題は深く関連していく教育の質の問題も含めて、道徳教育が殆ど役に立っていなかったことの証明としてある現象であろう。

 そこで国家主義者たちは役に立たないと先を見通す目も持たず、「愛国心教育」を持ち出した。学校教育の一環として位置づけた「道徳教育」にしても教師採用後の研修も全体としては役に立っていない、その原因を探らないままの「愛国心教育」だから、名目が仰々しいだけで終わる「愛国心教育」に過ぎないだろう。

 一つ一つが役に立っていたなら民主党が今さらながらに「教員の質を高めるため大学の教員養成課程を医歯薬系並みの6年制とし、教育実習を1年間に大幅延長する」といった教育政策を持ち出す必要はない。

 だが、持ち出した。しかしこれは生徒時代に行う「道徳教育」や教師になるべく受ける大学教育、そして採用後の「教員研修」と同質の教育に過ぎない。現状の教育が役に立っていないのだから、単に時間延長を図るだけの同質の教育を掲げても役に立つはずがない。

 そもそもからして日本の学校教育が教師が教えた知識をその教えの形式を忠実に守って生徒が咀嚼もなく、いわば自分の考えを入れた解釈を行って自分なりの知識とするプロセスを経ないまま頭に暗記する、考えることをしない知識授受を相互に行う教育を受けるだけだから、そのような生徒が教師を目指して教師としての大学教育を受けたとしても、似たような知識授受を積み重ねるだけだから、教師試験を受けて学校に採用されたとしても、生徒を教えるに際して当然自分が受けた知識授受の形式に従って生徒を教えることになるから、折角大学教育まで受けながら、教師も生徒共々考えることをしない知識に従って考えることをしない行動を取ることになる。

 だからこそ現在、「考える力の育み」が叫ばれているのだろう。それを「思考力」と言おうが、「活用力」と呼ぼうが、すべては「考える力」がなければ成り立たない能力である。

 だが、日本の学校生徒の「考える力」の不足、「思考力」・「活用力」欠如は教師(=大人)の「考える力」の不足、「思考力」・「活用力」欠如を受けたその反映に過ぎない。

 日本の教育は教師になる生徒だけではなく、すべての生徒が受けているから、日本の大人自体が「考える力」の不足、「思考能力」・「活用力」欠如を受けていると言える。

 もし教師やその他の大人が「考える力」を持っていたなら、学校では生徒はその影響を自然と受けるだろうし、家でも子どもたちは親の考える力の影響を受けて自らも考える力を養うだろうから、家庭での親の教育力を問題とすることもなかったろう。

 学校教師が自分の頭で考える習慣を持ち、その習慣が与えることとなる「考える力」、「思考力」・「活用力」を保持していたなら、学校教師として採用後、生徒を教えながら、教育とは何か、子どもとは何かを自ら考え、考えながら多くを学んでいくはずである。

 このような自分で考え、自分で学ぶというプロセスは採用後の研修に取って代わる自己研修となるはずだが、そのようなプロセスを欠いているから、いつまで経って上から公的な研修を与え続けなければならない。

 この上から公的な研修を与えるというシステム自体も日本の学校教育が知識を上から与え、下がそれをただ受取るシステムとなっていることに相互関連する形式であろう。

 よく使う例だが、誰が言ったのか、「日本人は人から言われたことは卒なくこなすが、自分から考えて行動しない」という行動形式=思考形式も、日本の教育が考えるプロセスを欠く暗記形式の知識授受となっていることの反映を受けた行動性と言える。

 日本の教育が暗記教育形式から脱してこそ初めて一人ひとりが自ら考える力を持ち、教師となった者は教えながら自分で考えて自分なりの教育方法を学び取り、学び取っていけば当然のこととして各種研修を必要としなくなる。生徒たちも自分の考えを入れた学びを行うことで、友人関係からも教師との関係からも、親やその他の大人の関係からも人間というもの、その良い面・悪い面をも学んでいき、その学びを他人と響き合わせることによって自前であることから脱して、より普遍性を持った優れた道徳教育となるはずである。

 親の収入が子どもの学歴に影響して、収入の差によって教育格差を生じせしめている反面政策として教育の機会均等をより平等に図るための「公立高無償化」は必要な政策であろうが、学習指導要領で「思考力」や「活用力」を言っているなら、単に国が資金面で支援するだけでは「思考力」や「活用力」の育みに影響を与えるとは思えない。

 大体がせめて高校の学歴だけは身につけさせたい・身につけたいという学歴主義からの高校進学が多いことも事実である。「公立高無償化」が単に学歴を身につけるためだけの進学の後押ししない保証はない。

 そうならないためには、教育の機会均等を目的とした「高校無償化」と「思考力」や「活用力」の育成を関連付けさせる政策をも伴うべきではないだろうか。

 考えられる方策はいくつかあると思うが、私なりに考えた方法は国の支援の生徒の側からの反対給付として、年に何回か論文を書かせることを義務付けたらどうだろうか。

 論文の材料は自由とする。体育系部活に所属していて、野球部に所属する生徒は野球をテーマとした論文でもいいし、野球も高校野球は勿論、日本のプロ野球やアメリカの大リーグであっても構わない。野球をやっていたとしても、絵画や音楽に興味がある者は絵画・音楽をテーマにしてもいい。論文の材料もテーマも生徒それぞれの自己選択に任せる。

 勿論、審査がなければ、日本の暗記教育がその場その場のテストの回答に必要な分だけ暗記しただけで終わる傾向に応じて、ただ単に書く必要が生じたから書いたというだけで終わる内容の乏しい論文が氾濫することになりかねない。

 但しすべての生徒のすべての論文に目を通すとなると、その時間と人間は膨大な量が必要となって、現実的ではない。論文はパソコンで書かせて、論文の表紙にテーマを書き入れる。それぞれの学校でそれをテーマ別に仕分けて、学校名を書いてそれを国が運営するコメント欄を供えたHPに仕分けたテーマ別に投稿する。論文それぞれにアクセスカウンターを備えていたなら、アクセス数が分かることになるだろう。

 論文を書いた生徒のうち、その出来と同時に他人の論文の出来も気にかかる場合はそのHPにアクセスして目を通すだろうし、読めばコメント欄に感想を書くことも生じる。

 高校生ではなくても、興味を持ったンターネットサーファーがアクセスし、希望のテーマの論文を読むとすると、面白い論文に出会えば興味が湧き、コメント欄に感想を書き込みか、学校に読んだ感想をメールする読者も出るてくるだろう。掲示板に投稿する読者も出る化も知れない。評価は口コミで広がる。

 評判の多さ・大きさ、アクセス数の多さで、それぞれの学校の生徒の論文作成能力(=思考力=活用力)が判断できることになる。いわば批評は読者の評価に任せる。

 それぞれの学校の教師も時間が余っているとき、自校の生徒の論文の出来具合が気にならない教師ばかりではあるまい。アクセスして読めば、見るべき内容の論文は生徒にその評価を伝えることになるだろう。そうすることによってまた教師と生徒の人間関係が何らかの形で発展することになる。

 インターネットの情報をコピー&ペーストしただけの論文で誤魔化す生徒も出るだろうが、HP化した情報とすることによっていつかは誰かの目に留まり、盗作の指摘を受けるに違いない。そのことが問題となれば、盗作は減るだろう。

 少なくとも400字詰め原稿1枚以上の字数を義務付ける。

 この方法が有効かどうかは分からないが、支援を与えるだけで終わらずに「思考力」・「活用力」の獲得につながる支援とすべきは誰にも異論はあるまい。

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