《麻生首相:高齢者「働くしかない」発言 首相発言の要旨》(2009年7月26日)
〈麻生太郎首相の25日の高齢者に関する発言要旨は次の通
り。
日本は65歳以上の人たちが元気。65歳以上の人たちで、
働ける健康な人、いわゆる介護を必要としない人は実に8
割を超えている。
元気な高齢者をいかに使うか。この人たちは皆さんと違い働くことしか才能がないと思ってください。働くということに絶対の能力がある。80過ぎて遊びを覚えても遅い。遊びを覚えるなら青年会議所の間ぐらい。そのころから訓練しとかないと。60過ぎて、80過ぎて手習いなんて遅い。
働ける才能をもっと使い、その人たちが働けるようになれば、その人たちは納税者になる。税金を受け取る方ではない。行って来いで、日本の社会保障は違ったものになる。どうしてそういう発想にならんのか。明るい高齢化社会、活力ある高齢化社会。これが日本の目指す方向だ。活力ある高齢化社会の創造に成功したら、世界中、日本を見習う。〉――
野党の間に批判が起きている首相発言を河村官房長官は昨27日の午前11時過ぎの記者会見で擁護している。「NHK」の動画で見てみる。
河村官房長官「総理の本意は、こういうことです、と。元気のある、高齢社会をつくる。高齢者のみなさんの雇用の場をつくっていく。その前段の話が飛んでおりまして(ここが問題だとばかりに失笑気味に軽く笑いを洩らす)、『働くしか才能がない』と(再び失笑気味に軽く笑いを洩らす)、いう言い方になったようです。自分の思いはむしろ、その働く人たち、働きたいと思っている人たちに対して、その、敬意を払っているちかー(ママ)、褒め言葉。舌足らずであったことを認めて、おられるようです。そういう誤解を招いた――と、(自分で二、三回頷く)思います。非常に残念なことで――」
果して「舌足らず」が生じせしめた失言なのだろうか。
麻生が言ったことは前段・中段・後段の3段落に分けることができる。
前段
「日本は65歳以上の人たちが元気。65歳以上の人たちで、働ける健康な人、いわゆる介護を必要としない人は実に8割を超えている」
中段
「元気な高齢者をいかに使うか。この人たちは皆さんと違い働くことしか才能がないと思ってください。働くということに絶対の能力がある。80過ぎて遊びを覚えても遅い。遊びを覚えるなら青年会議所の間ぐらい。そのころから訓練しとかないと。60過ぎて、80過ぎて手習いなんて遅い。」
後段
「働ける才能をもっと使い、その人たちが働けるようになれば、その人たちは納税者になる。税金を受け取る方ではない。行って来いで、日本の社会保障は違ったものになる。どうしてそういう発想にならんのか。明るい高齢化社会、活力ある高齢化社会。これが日本の目指す方向だ。活力ある高齢化社会の創造に成功したら、世界中、日本を見習う。」――
河村官房長官が釈明した「総理の本意」が「元気のある、高齢社会をつくる。高齢者のみなさんの雇用の場をつくっていく」ことにあったとすると、後段のみで「舌足らず」どころか、舌は足り過ぎるくらいに足りる。一見バラ色に見える高齢化社会を描いて余りあるからだ。何しろ、「世界中、日本を見習う」ような高齢化社会を謳って見せたのだから。
後段にも問題点はあるが、一番の問題は中段にある。
くどくなるが、再度中段部分の発言を取り上げてみる。
「元気な高齢者をいかに使うか。この人たちは皆さんと違い働くことしか才能がないと思ってください。働くということに絶対の能力がある。80過ぎて遊びを覚えても遅い。遊びを覚えるなら青年会議所の間ぐらい。そのころから訓練しとかないと。60過ぎて、80過ぎて手習いなんて遅い。」――
この中段部分は「明るい高齢化社会、活力ある高齢化社会」づくりがなぜ必要なのか、その最初の理由を述べたものであろう。
「この人たちは皆さんと違い働くことしか才能がない」からだと、その理由を挙げている。「働くことしか才能がない」から、河村官房長官が釈明しているように、「高齢者のみなさんの雇用の場をつくっていく」というわけである。
その「才能」たるや、青年会議所のメンバーと比較した「才能」だということは、青年会議所のメンバーがしているような頭脳労働を言っているのではなく、肉体労働を指して言っている「働くことしか才能がない」であろう。
いわばここで既に一段蔑んでいる。麻生太郎は頭脳労働者を上に置き、肉体労働者を下に置く労働差別主義者の姿をここで見せたのである。労働を種類によって上下に価値づける、あるいは権威づける権威主義者の顔を曝したというわけである。
元々「一文化、一文明、一民族、一言語の国は日本のほかにはない」と自民族を優越的に権威づけている権威主義者だから、労働の種類で人間を価値づける権威主義者であったとしても、不思議はない。逆に当然の姿と言える。
高齢者の労働を一段蔑んでいながら、「働くということに絶対の能力がある」という評価は決して「敬意を払っている褒め言葉」とは言えない蔑視言葉そのものであろう。その上、「80過ぎて遊びを覚えても遅い。遊びを覚えるなら青年会議所の間ぐらい。そのころから訓練しとかないと。60過ぎて、80過ぎて手習いなんて遅い。」と、ナチスが占領ポーランド人を労働者としか看做さず、強制労働に駆り立てた程酷くはないが、高齢者を労働の世界に押し込め、趣味に生きることを断念させようと強制意志を働かせている。
要するに麻生太郎が描く「明るい高齢化社会、活力ある高齢化社会」とは立派にも高齢者が働くだけの世界だと見ているのである。だから、元会社経営者の血がそうさせるのか、「元気な高齢者をいかに使うか」という使役の観点からのみ高齢者を把えることになる。
このような観点に高齢者蔑視が存在しないと言えるだろうか。
麻生太郎が後段で描いている「明るい高齢化社会、活力ある高齢化社会」を一見バラ色に見える、問題点があるがと指摘したが、高齢者を働かすことで「その人たちは納税者になる」というところに麻生の最終的な意図が見えるからである。
麻生は総理大臣として財政構築の責任者の立場に立っている。その人間が「働ける才能をもっと使い、その人たちが働けるようになれば、その人たちは納税者になる」と言っている。
いわば高齢者を税収を生み出す対象と見立て、その労働を税収を増やす便宜としてのみ把握しているということだろう。生き甲斐を考えての提案ではない。税金を払うための労働に従事させようと言うことだから、一種の強制労働観がここにある。働かすことによって生じる国の側の実利のみを考えていると言わざるを得ない。
結果として「その人たちは納税者になる」と言っているのでは決してない。高齢者の生き方を労働に限定して言っているのだから、「納税者になる」ことを意図させた言葉であろう。
労働に生き甲斐を見い出すのもよし、蓄えを元手に若いときから憧れていた田舎暮らしを始めて、ちょっとした趣味の菜園を拵え、採り立ての瑞々しい野菜を自給自足する、精神的にも肉体的にも健康なのんびりとした生活を送ることを生き甲斐とするのもよし。どのような暮らしを以って生き甲斐とするかは、高齢者それぞれが決める選択事項であろう。
そのことに反して麻生太郎は「働くことしか才能がない」と決めつけ、最終的には「その人たちは納税者になる」と意図して、税収を増やす観点から、「80過ぎて遊びを覚えても遅い」、「60過ぎて、80過ぎて手習いなんて遅い」と他の生き甲斐を排除し、労働のみに駆り立てる強制労働意志を働かせている。
それが「世界中、日本を見習う」「日本の目指す」「活力ある高齢化社会」だと言う。
労働だけが高齢者の文化ではない。ボランティア、その他の趣味に生きる、その他の生き甲斐を持つのも文化である。高齢者の世界が労働だけの文化、あるいは労働が圧倒的確率で占める文化だとしたら、逆に空恐ろしいことではないか。
小賢しさだけが目につく麻生の“高齢化社会観”と言わざるを得ない。
麻生本人が弁解しているように、決して「舌足らず」ということではない。「高齢者は働くことしか才能がない」などは一言も二言も多い余分な言葉であり、麻生の「意図が正しく伝わっていない」というゴマカシの弁解を含めて、二枚舌、三枚舌、四枚舌――責任逃れと言い訳に関しては舌が多過ぎる人間に出来上がっているだけのことでしかない。こういった点にこそ、麻生の人間性が現れていると断言できる。
麻生は自分の意図がどこにあったかゴマカシの言い訳を謀った上、「ぜひそういうところを(報道で)取り上げてもらいたかった」(時事ドットコム)とマスコミへ責任転嫁まで謀っているが、卑劣としか言いようがない。
小賢しい上に卑劣ということなら、救いようがないではないか。
「毎日jp」記事が要旨の形で発言の内容を詳しく取り上げていたから、改めて麻生太郎の「働くことしか才能がない」を参考引用してみる。