安倍晋三の一党の代表資格喪失の頭足らずな「国民は無罪と無実は違うと思っている」の小沢氏批判

2012-11-13 09:40:07 | Weblog

 昨日11月12日(2012年)「国民の生活が第一」小沢一郎代表が政治資金をめぐる強制起訴裁判2審で、1審に続いて無罪の判決が出された。

 この無罪判決に安倍晋三自民党総裁が一言物申している。

 安倍晋三「おそらくこういう判決が出ると予測していたが、多くの国民は裁判での無罪と無実というのは別だと思っていると思う」(MSN産経

 「多くの国民」の評価はそうだとして、そこに多数派の正当性を置くことで自身の評価を同じと位置づけ、正当化している。

 確かに「無罪」と「無実」は「別」の意味を有する。それぞれの意味を辞書から取ってみる。

 【無罪】「刑事裁判で、被告人の行為が犯罪にならないこと。または犯罪の証明がないこと。また、その旨の判決」(『大辞林』三省堂)

 【無実】「罪を犯した事実がないのに罪があるとされること」(『大辞林』三省堂)

 「罪を犯した事実がない」のだから、「無実」とは、罪がないことを意味する。

 小沢氏が強制起訴裁判に訴えられて、今回その2審で、1審と同様に「被告人の行為が犯罪にならない」「旨の判決」――無罪の判決を受けたということは「罪を犯した事実がないのに罪があるとされ」たことに相当するはずだ。

 どこに不都合があるのだろうか。そもそもからして検察の取調べに対する裁判所の判断に優る犯罪事実の証明はないはずだ。

 裁判所の判断に優る犯罪事実の証明能力を国会や国会議員が有しているとでも言うのだろうか

 「罪を犯した事実」がありながら、無罪判決を受けたとするのは論理矛盾を来すだけではなく、裁判の否定となる。

 安倍晋三が言いたかったことは、裁判で無罪とされたが、決して無実とは言えないということなのだろう。

 一党の代表である、言葉を正確に用いる情報発信能力に頭っ足らずにも欠いていたなら、代表としての資格喪失を意味する。

 また、一党の代表である以上、推測した「多くの国民」の評価を利用して抽象的・間接的に自己評価を正当化するのではなく、自身の声で直接的に評価を下すべきだろう。

 勿論、自身の直接的な評価である場合、公人である以上、そこに証明の説明責任が生じる。

 だが、「多くの国民」が「思っている」評価を自身の評価とする場合、その証明の直接的な説明責任は「多くの国民」が負うことになって、安倍晋三自身は証明の説明責任を免れることができる。

 自らが負うべき証明の説明責任を免れるために、「多くの国民」の評価を利用したとも言える。

 尤も裁判は無罪であっても、政治責任は残っている、国会で説明責任を果たすべきだという声があり、そのような国会証言によって「無実」ではない証明を行うと言うだろうが、裁判の無罪判決を無視し、調査能力がないことも加わって有罪の固定観念を前提に追及する今までの例からすると、どう反論しようと、疑惑を掻き立て、掻き立てた疑惑を国民に植えつける、一方的且つ不毛な魔女狩りで終わりかねない。

 いわば疑惑を掻き立てることには役立つが、有罪か無罪か、あるいは無実か否かを白黒つけることには役立たない国会説明責任となるのは目に見えている。

 多分、有罪の固定観念を前提に追及する側は参考人招致や国会証言後、白黒つけることことができないにも関わらず、「疑惑はますます深まった」とする常なる常套句を発して、限りなく黒に近づける陰謀を企むだろう。

 いわば白黒をつけることから疑惑を深めて限りなく黒に近づけることに目的をすり替えて、疑惑は深まった、限りなく黒だとすることを以って小沢氏を、その権利がないにも関わらず、裁判所に代わって擬似有罪扱いし、自己満足に浸る、民主的な法概念に外れた対応に出るに違いない。

 検察役の指定弁護士が2審判決に対して控訴に出るかどうかで最終判断は決着することになるが、裁判所に白黒の判断を委ねる以外に正当な方法はないと言うことである。

 安倍晋三にしても、自らが発信した「多くの国民は裁判での無罪と無実というのは別だと思っていると思う」とする頭っ足らずな判断は結果的に小沢氏を疑惑漬けにすることには成功するだろうが、疑惑漬けだけで終わることは公党の代表として責任ある態度とは決して言えない。

 検察や裁判所しかできない具体的証拠を自ら並べ立てて、疑惑漬けから一歩出て、これこれを以て有罪だと、無実ではないと証明する責任を小沢氏に対しても負っているはずだ。

 政治資金規正法の不備を指摘する向きもあるが、それが不備だと言うなら、小沢氏一人のみならず、国会議員全体の責任となる。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする