《首長経験アピール=兼職禁止撤廃なら参院選挑戦-維新・橋下氏【12衆院選】》(時事ドットコム/2012/11/19-16:24)
11月19日(2012年)の大阪府高槻市内での、維新と太陽の党合流後初の街頭演説。
橋下代表「東京都知事、大阪府知事(経験者の)2人がタッグを組んだ政党は日本の政治史上初めて。行政経験のある石原慎太郎と橋下徹が中心の日本維新の会に一度力を貸していただきたい。
市長も知事も経験のない議員が日本国家を運営できるわけない」
要するに真の意味での日本国家運営、あるいは日本国家を正しい方向に導く政権運営は行政のトップを経験していない国会議員には不可能だと断定している。
国会議員には不可能なことを行政トップ経験者は可能とするということだから、行政トップ経験者を国家運営に於ける全能者に位置づけていることになる。我々こそ、オールマイティだと。
なかなかの大自信家である。
記事は題名にあるように橋下氏自身の国政進出に関わる発言も伝えている。
橋下代表「大阪市長のまま国会議員にならせてくれるなら、来年の参院選に挑戦したい」
これは衆院選出馬の可能性は否定したものの、地方の首長と国会議員の兼職を禁止している地方自治法改正などの必要性を訴えた発言だそうだ。
果たして行政トップ経験者の国家運営万能者説に正当性を認めることができるのだろうか。
二つの疑問が湧く。
第一の疑問は市長や県知事等の行政トップ経験者が国政に進出、多くが国会議員となっているはずだ。彼らはその経験を生かして、行政トップ経験者以外はできないとされる国家運営をなぜ担わなかったのだろうか。
あるいは行政トップ経験者ではないその他大勢の国会議員は行政トップ経験者に行政トップ経験者以外はできないとされる国家運営をなぜ担わせなかったのだろうか。
行政トップ経験者で国政トップを務めた政治家は熊本県知事を務めたことがある細川護熙氏が唯一の事例だそうだが、もし行政トップ経験者であってもその政治能力に優劣があって、国家運営を任せる程の能力ある議員が存在しなかったというなら、「市長も知事も経験のない議員が日本国家を運営できるわけない」という表現で、行政トップ経験者のみが国家運営ができるとする説はウソ・矛盾が生じることになる。
二番目の疑問は、行政トップ経験者のみが国家運営に能力を発揮すると言うなら、ブレーンの価値を貶めることになる。例え有能なブレーンを採用しても、採用者が行政トップ経験者でなければ、満足な国家運営はできないことになり、ブレーンの存在はあってもなきが如くとなる。
あくまでも行政トップ経験の有無が国家運営のキーワードとなるからだ。
一般的には国政トップは市長も知事も経験していなければ、市長・知事を経験した者、もしくは行政組織に詳しい識者をブレーンとして採用、自身のその方面の乏しい経験・知識を補って国家運営に役立てる方法を採っているはずだ。
それが地方行政に役立っていないのは日本の国が国家を頂点に据え、地方を下の位置に従属させる権威主義的な中央集権国家だったからだろう。
このような国家体制は基本的には上(=国家)を発展させ、その発展の恩恵を下(地方)に配分していく構造を取る。中央と地方を対等な関係に置いて、共に発展させていくという発想、あるいは視点がなかった。
だが、国の経済が沈滞し、それ以上に地方が疲弊している現在、地方の立て直し・救済が急務となった。にも関わらず、国の手がまわらないために、地方の自立が言われるようになり、国から地方への財源と権限の委譲まで求められるようになった。
国の手がまわらないことからの地方自立だから、あくまでも意識の上では中央集権を構造とした国の関与のもとの地方自立となっているため、国からの完全且つ対等な自立を求めて地方の戦いが続いている。
橋下徹は自身をも含めて行政トップ経験者を全能と位置づけ、結果的にブレーンの存在を影薄くしているが、日本維新の会は竹中平蔵や堺屋太一、古賀茂明、上山信一等々の傑出したメンバーをブレーンとして採用している。
このことも矛盾のうちに加えなければならない。
橋下徹は11月18日のフジテレビ「新報道2001」でも同じ趣旨の発言をしている。
細野豪志民主党政党会長と甘利明自民党政調会長が出演していて、細野が自民党の世襲議員の多さを批判、甘利がそれに対応戦していた。
そのあと司会者から大阪から中継生出演していた橋下徹に世襲の是非を問われた。
橋下徹「今、あのー、細野さんや甘利さんのお話を伺ってました。世襲かどうかっていうところが問題になっていますけど、正直、世襲かどうかっていうところは問題ではないんですね。
あの、問題なのはですね、行政組織のトップについていたかっていうことが問題なんですね。これは、あの、国会議員の立場から、政府に入ってですね、政府組織を動かすときに、もう、全然違うんですね。
細野さんも環境大臣に就かれましたけれども、恐らく、議員のときの立場と全然違ったはずです。行政組織を動かすっていうのはね、もうトップにしか分からない問題がたくさんあるんですね。
1300万人のトップに立たれた石原、あー、代表とですね、880万人のトップに立った僕と。あと僕は大阪、あの、大阪府知事、大阪市長を経験した者っていうのは、日本全国で僕しかいません。
やはり行政組織を動かす、どこに問題があるかを判断して、そのような指示を出すのか、これはね、自治体の長を務めた者しか分かりません。
こういう自治体の長が国政を動かしていく、ってことが世界各国の潮流なんですよ。もう、このような方式をやらざるを得ませんね」――
この発言は上記記事の発言以上に行政トップ経験者を国家運営全能者にリンクさせている。「大阪府知事、大阪市長を経験した者っていうのは、日本全国で僕しかいません」、あるいは何をどう判断して、どのような指示を出すかは「自治体の長を務めた者しか分かりません」と、自分の口から行政トップ経験者の国家運営能力に太鼓判を押していることからも判断できる全能性と言える。
これ程にも全能であるなら、ブレーンなど一人も必要ないように思えるが、しっかりとブレーンを抱え、抱えながら行政トップ経験者の国家運営能力の優越性を説いている。
全能であるゆえに、「自治体の長が国政を動かしていく、ってことが世界各国の潮流」となっているのであって、だから日本も世界の潮流に遅れないように行政トップ経験者を首相に就ける方式でやっていくしかないと説いている。
これが事実としたら、憲法を「内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを指名する」の規定を「内閣総理大臣は、行政のトップを経験した国会議員の中から国会の議決で、これを指名する」に変えなければならない。
果たして「世界各国の潮流」になっているのか、アメリカに限って調べてみた。
確かにアメリカは州知事から大統領になるコースが一般化しているが、全てではない。
ジョージ・ウォーカー・ブッシュ前大統領はテキサス州知事を1995年1月17日から2000年12月21日まで務めてから、2001年1月20日に第43代アメリカ大統領に就任しているから、行政トップ経験者に入る。
だとしても、国家運営の万能者と言えただろうか。
但し父親のジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュはレーガン大統領のもとで1981年1月20日から1989年1月20日まで副大統領を努めてから、第41代アメリカ大統領に就任。それ以前はテキサス州選出下院議員であって、州知事等の行政のトップを務めていたわけではない。
ブッシュ親子の間に挟まって第42代アメリカ大統領を務めたビル・クリントンは1978年に32歳でアーカンソー州知事を務めていて、行政トップ経験者と言える。
だが、ビル・クリントンに民主党員として続く第44代アメリカ大統領のオバマはイリノイ州議会上院議員を務めているが、州知事等の経験はない。
こう見てくると、「自治体の長を務めた者しか分かりません」などと、国家運営を行政トップ経験者にリンクさせる意味合いはなくなる。
また橋下徹の発言は日本の中央集権体制下で上に立つ意識で組織が動いている霞が関と、その霞が関に対して下に立つ意識で組織が動いている東京都庁や大阪府庁、大阪市庁を同レベルに置いていることになる。
上に立つ意識で動いている組織程、難儀な相手はないと思うが、橋下徹にかかると、大阪府庁、大阪市庁と同レベルに見えるらしい。
それ程にも官僚主導が生易しければ、とっくの昔に官僚政治は死語となっているはずだが、どっこい依然として中央集権体制を堅固に維持している。
国政トップが行政トップ経験者ではなくても、国民の総体的利益と合致させるために自身にとって何を最重要課題とするか、選択意志の問題であり、それを実現させるための最善のチームを構成するためには閣僚や党役員を含めてどのようなブレーンを必要とするか、チーム構成後、そのチームを率いて、彼らの有能性を引き出しつつ課題を実現していく実行意志(=リーダーシップ)が問題となるはずで、行政トップ経験者であることが国民による首相選択の基準では決してないはずだ。
橋下徹の発言は早口で切れ味よろしくきっぱりとした口調で断定的に言うから、一見、正当性を持っているかのように尤もらしげに聞こえるが、かなりインチキがある。矛盾は矛盾として摘出、決して誤魔化されてはいけない。
「新報道2001」を見た中には誤魔化される国民が少なからずいるに違いない。