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少々古いニュースだが、伊藤祐一郎鹿児島県知事が8月27日の県の総合教育会議で、高校教育のあり方について、「高校で女子にサイン、コサイン、タンジェントを教えて何になるのか。それよりもう少し社会の事象とか、植物の花や草の名前を教えた方がいいのでは」といった趣旨の発言をしたことを女性蔑視だと、ちょっとした波紋を広げていた。
翌日の記者会見で、「サイン、コサインというのは何に使うのか、従来から疑問に感じていて、たまたま女性と結びつけて、口が滑った形で喋ってしまった。それが実際のところで、女性蔑視とかではなくて、どうしてああいう記事になるのかよく分からない」と釈明したそうだ。
「サイン、コサインを教えて何になるのか」という疑問をなぜ女性とのみ結びつけたのだろう。男女別なく結びつけて、「高校で男子・女子に教えることも教わることも必要ではないのではないか。もっと社会に有用なことを教えたらいいのではないのか」と、なぜ言わなかったのだろう。
だが、男の立場で「何になるのか」と、その不必要性を女子とだけ結びつけた。
これでは女子の頭脳が男子の頭脳よりも劣ると見做している見られても仕方がない。
男子にしても、高校で三角関数を習っても、社会に出て一度も使ったことのない者はゴマンといるはずだ。サイン、コサイン、タンジェントの言葉は覚えていても、使い方そのものを忘れてしまった者もゴマンといるだろう。
逆に社会に出て必要として使っている女子は少数派ながら、存在するかもしれない。
必要・不必要の線引きは男子・女子の性別を基準に決めることではなく、また、教師が決めることでもなく、男女別なく本人の事情が決めることである。
本人の事情とは、興味を持ったり、必要に迫られたりすることによって形作られる。
このようなことが人それぞれの可能性を決定づけていく。
当たり前のことだが、教師が興味を持ったり、必要に迫られたりするのではなく、生徒それぞれが興味を持ったり、必要に迫られたりするそれぞれの事情によって、それぞれの可能性というものが確定されていく。
いわば可能性の決定権は教師にあるのではなく、男女別なく生徒それぞれにある。教師はこのことに関与できない。生徒それぞれに任せるしかないのだから、数学が選択制であったとしても、教える側や、何を教えるのかを決める側が男女の性別で区別するのはやはり女子の能力が劣っていると見ていることになって、女性差別、あるいは女性蔑視と取られても仕方がない。
女性差別、あるいは女性蔑視の主体は断るまでなく男性であって、本質的には女性よりも男の能力が優れているとする男尊女卑の思想が生み出すことになっている女性差別、あるいは女性蔑視である。
日本は封建社会以来、男尊女卑の思想を伝統としてきた。戦後、GHQによって日本国憲法や教育基本法で民主主義を植えつけられ、民主主義を学びながら、戦後70年を経ても尚、男尊女卑の思想は退化せずに生き続けている。
このような発言をした伊藤知事は男尊女卑の思想を根付かせている一人ということになる。「口が滑った」では済まない。
例え口を滑らせなくても、このような男尊女卑の思想が潜在的な形で日本社会に支配的であるから、その殆どを日本人男性が形成していて、少なくない女性が仕方がないと受容しているのだが、女性の社会参加が男女平等の欧米社会と比較して後進国となっている大きな理由となっているはずである。
いわば女性の社会参加にブレーキをかけている病根となっている。
県知事が男尊女卑の思想に取り憑かれている一人であるという一点で、総合教育会議の他の発言でいくら立派な教育論を展開しようとも、県知事の立場にいることは許されないはずである。