2015年10月17日、安倍晋三が防衛省で開催の2015年度自衛隊殉職隊員追悼式に参列、挨拶している。
殉職者は勤務中に事故や病気等で死亡した自衛隊員だそうだが、中にはイジメで自殺した自衛隊員も含まれているのだろうか。
挨拶は首相官邸サイトに載っている。「NHK NEWS WEB」記事がによると、防衛相の中谷元が今年2月にヘリコプターでの訓練飛行中に宮崎県の山中に墜落・死亡した海上自衛隊男性隊員3人を含む27人の名簿(NHKニュースで見ていたら、金色をした金属製の1枚の銘板のようだった。)を慰霊碑に納めたと解説していた。
気になった発言には文飾を施した。
安倍晋三「平成27年度自衛隊殉職隊員追悼式に当たり、国の存立を担う崇高な職務に殉ぜられた自衛隊員の御霊に対し、ここに謹んで、追悼の誠を捧げます。
この度、新たに祀られた御霊は、27柱であります。
御霊は、それぞれの持ち場において、強い責任感を持って、職務の遂行に、全身全霊を捧げ、自衛隊員としての誇りと使命感を、自らの行為によって示されました。
このような誇り高き有為な方々を失ったことは、自衛隊にとって、そして我が国にとって、誠に大きな痛手であります。
御遺族の皆様の、深い悲しみに思いを致す時、お慰めの言葉もありません。
私どもは、このような不幸な事態が再び起きることの無いよう、最善の努力を尽くしてまいります。
御霊は、立派に使命を果たし、この国のために尽くし、大きな足跡を残されました。
私たちは、その勇姿と名前を、永遠に心に刻みつけていきます。
これまでに祀られた、1878柱の御霊を前にして、その尊い犠牲を無にすることなく、御遺志を受け継ぎ、いかなる事態にあっても、国民の命と平和な暮らしは断固として守り抜いていく。
そして、世界の平和と安定に寄与するため、全力を尽くすことを、ここに、固くお誓いいたします。
いま一度、殉職者の御霊の安らかならんことを、そして、御遺族の皆様の御平安と末永い御健勝をお祈り申し上げ、追悼の辞といたします」――
確かに国家自体が安全保障上の危機に迫られているとき、あるいは戦前のように政治が、あるいは軍隊自らが安全保障上の危機をつくり出したときのような状況に見舞われた場合、自衛隊は直接的に前面に立って「国の存立を担う」ことになる。
だが、そういったとき以外は「国の存立」は国民全体が結果として協同で担うことによって成り立ち可能となる。政治・経済・社会・文化・教養等々の総合力が国を存立させ、国の姿を決めていく。
勿論、軍事力が存在するから、他国からの侵略を防いでいるという考え方もあるが、それでもなお、国民の総合力が「国の存立」を確定していくはずである。
それが証拠に国家の経済が成り立たなければ、軍事力は満足には成り立たなくなる。無理に成り立たせようとすると、北朝鮮みたいな国家となる。
国家主義者の安倍晋三が麗々しく「国の存立を担う崇高な職務に殉ぜられた自衛隊員の御霊」と言うと、自衛隊員だけが「国の存立を担う」存在であるかのように聞こえる。
いわば「国の存立を担う」者として特別な存在と見ることに他ならない。
危険なのはそういった特別な存在と見ることが自衛隊員をして自分たちを特別な存在だと思わせかねないことであろう。特別な存在だと思い込んだとき、自身を絶対視し、自分のやることなすこと全て正しいと信じるようになり、結果、合理的判断能力を欠くことになる。
戦前の日本の軍人は自らを天皇の軍隊・天皇の兵隊として特別な存在だと思い込み、国民も特別な存在だと特別扱いしたものだから、思い上がって自分たちを絶対視することになって合理的判断能力を欠いた集団と化し、結果、それが間違っていても、上官の言うことは絶対という教条主義・精神主義に支配されることになり、最終的には軍隊や軍人としての存在理由を玉砕という精神主義からの一つ覚えの突撃にしか置くことができなくなった。
そうすることが「天皇陛下のため」、「お国のため」だと思い込んだ。
旧日本軍は、上官をも含めて軍人単位では「国の存立を担う崇高な職務」を担っていたと自負していただろうし、日本国民もその崇高な職務ゆえに「国の存立」を託していたのだろうが、アジアの国々に侵略し、多くの外国人と外国人兵士を犠牲にし、なお且つ日本の国土を破壊し、兵士のみならず多くの国民を犠牲にして、結果的に「国の存立」を危うくした。
だが、戦後に生きた日本人はGHQが与えた民主主義の元、国を再興し、発展させ、現代国家へと生まれ変わらせることができた。国民が協同して戦後に於ける「国の存立」を全うしたのである。
「国の存立」は自衛隊だけが担うものではなく、また政府だけが担うものではない。
自衛隊だけを、あるいは自衛隊員だけを「国の存立を担う崇高な職務」に就いた特別な存在だと見る合理的な判断能力の万が一の喪失の危険性に常に留意しなければならない。
安倍晋三は殉職した自衛隊員の「御霊は、それぞれの持ち場において、強い責任感を持って、職務の遂行に、全身全霊を捧げ、自衛隊員としての誇りと使命感を、自らの行為によって示されました」と高く価値づけながら、そのような職務・行為を「私どもは、このような不幸な事態が再び起きることの無いよう」にと、「不幸な事態」だと価値づけている。
殉職者は勤務中の事故死や病死の自衛隊員と言うことだから、そのような不本意な死を「不幸な事態」とすることは間違っていない価値判断となるが、例え死の瞬間まで、「自衛隊員としての誇りと使命感」を持ち、「強い責任感を持って、職務の遂行に、全身全霊を捧げ」る思いを失っていなかったとしても、例えその思いを汲んだことであったとしても、「自衛隊員としての誇りと使命感を、自らの行為によって示されました」とは言うことはできない。
例えば殉職者の中に含まれていた今年2月の宮崎県の山中でのヘリコプター訓練飛行中の3人の海上自衛隊隊員の墜落・死亡行為を「自衛隊員としての誇りと使命感を、自らの行為によって示されました」と表現することは許されるだろうか。
墜落・死亡が操縦の過ちなのか、エンジン、その他の機器の不具合によって起きた操縦不能であったのか分からないが、そのような自らの墜落・死亡行為によって「自衛隊員としての誇りと使命感」を示したということになるからである。
もしこのような表現が許されるとしたなら、如何なる行為をも、つまり何でもかんでも、「自衛隊員としての誇りと使命感」を示したものとすることになって、やはり特別な存在とすることになる。
いや、安倍晋三自身が自衛隊及び自衛隊員を特別な存在と見ているからこそ、安全保障上の危機の存在の有無に関わらず、自衛隊や自衛隊員だけが担っているわけではない「国の存立」を、さも自衛隊や自衛隊員だけが担っているかような表現となり、病死や事故死等、どのような殉職行為であっても、何でもかんでも「自衛隊員としての誇りと使命感を、自らの行為によって示され」たものだと、さも特別な存在であるかのような賛辞を送ることができるのだろう。
安倍晋三は「これまでに祀られた、1878柱の御霊を前にして、その尊い犠牲を無にすることなく、御遺志を受け継ぎ、いかなる事態にあっても、国民の命と平和な暮らしは断固として守り抜いていく」と、「国民の命と平和な暮らし」を守ることを自衛隊、もしくは自衛隊員の意志としているが、何も自衛隊あるいは自衛隊員だけが「国民の命と平和な暮らし」を守るわけではないのだから、ここにも自衛隊、もしくは自衛隊員を特別な存在とする絶対視を窺うことができる。
安全保障上の危機の有無に関係なく、「国の存立を担う」のも、「国民の命と平和な暮らし」を守るのも自衛隊や自衛隊員だけであるかのように言い、そこに国民協同の視点を欠いていることは自衛隊、もしくは自衛隊員を特別な存在とする絶対視の精神を安倍晋三が抱えているからであり、こういった絶対視が戦前の日本の歴史に見てきたように時に軍隊の横暴・暴走を招くことになる。
安倍晋三は自衛隊と絡めて「国民の命と平和な暮らしを守り抜いていく」とか、「国の存立を担っている」などと言わない方がいい。