安倍首相本人だけが理解していない〝夕張は日本の縮図〟

2007-02-15 10:21:31 | Weblog

 上の為すところ、下これに倣う。中央の為すところ、地方これに倣う

 07年2月13日の衆議員予算委員会での民主党・無所属クラブの荒井聰の質問と安倍首相の答弁をNHKテレビから。

 荒井聰議員が夕張の破綻は国や道にも責任がある、メロン城とか各種巨大遊戯施設建設には国の援助も入っていて、貸出し責任があるといった追及を行っていた。貸出すについては経営が可能かどうかもっと精査してから国庫補助をつけるべきだったということだろう。そしてニューヨークタイムズの夕張記事を取り上げて、「数え切れないほどの自治体に対して夕張市を見せしめにしている中央政府の態度は夕張市民の怒りを汲んでいる(?「買っている」の間違いか)。――」と日本語訳を読み上げた。それに対する安倍首相の答弁の概略。

 安倍美しい国首相「ニューヨーク記事自体が極めて不十分。記事の中に財政の中身を誤魔化していたことも書いてないし、破綻が明らかになった後、ボーナスを増やした。飛んでもない話じゃないですか。これはまさに税金のムダ遣いでしょ?そういう体質を根本的に変える必要があるんですよ。写真にも写っているような、ああいう遊戯施設が果してほんとうにうまくいくかどうか、それはちゃんと自分たちで考える必要があるんです。その上で、最低限、私たちが保障しなければならないものは保障しておこう。そして子どもたちやお年寄りに皺寄せがいかないように特別な配慮を行っていく。その上で当然ですね、財政規律と言うことも住民のみなさまにも考えていただいて、再建の道に向かって進んでいただきたいと、このように思います」

 この答弁に先立って、菅総務相は、「基本的には夕張市の破綻は自己責任だと思います」と国にも道にも一切責任がないと明言している。

 いい気なものだ。会計検査院が検査して不当とした平成17年度の各団体の不明朗会計をここに書き出してみる。

 『平成17年度決算検査報告掲記事項の省庁・団体別、事項別件数金額総括表』

*「不当事項」と「意見を表示し又は処置を要求した事項」と「本院の指摘に基づき当局において改善の処置を講じた事項」とがそれぞれ別表で表示されているが、それらを纏めて掲載。「改善の処置を講じた事項」であっても、それ以前は「不当事項」であり、検査院の指摘を必要としたからである。指摘がなければ、改善されることはなかったろう。裁判所の「2740万円」は書き出しているが、それ以外の合計金額が千万円単位の項目は省略。面倒臭くなったから。無責任男です。「支出1」は「支出1件」と言うことで、金額はその合計額を示す。

裁判所     /支出1―2740万円
内閣府(警察庁)/支出1―9億1286万円
内閣府(防衛庁)/支出13―2億5225万円
総務省     /支出7―1億1142万円
財務省     /収入2―5億2263万円
文部科学省   /支出2―43億8264万円
(1兆8755億4680万円)/(11億5564万円)
*( )内数字は「指摘金額」か「背景金額」かのいずれか。

厚生労働省   /収入4―31億2392万円  
        /支出266―79億7835万円
国土交通省   / 支32―78億0008万円
*厚生労働省のうち1件及び国土交通省のうち1件は、それぞれ同一の事態に係るものであるとの注意書きあり。ゴマカシに関しては縦割りではなく、横の連携をうまく働かせたと言うことか。

農林水産省  /支出25―25億1465万円
(1658億円)・(22億9039万円)・(11億1983万円)
*( )内数字は「指摘金額」か「背景金額」

経済産業省  /支15―7億0482万円
日本銀行    /支出3―3億8097万円
*経済産業省のうち1件及び日本銀行のうち1件は、重複があり、件数及び金額の合計に当たっては、その重複を控除しているの注意書きあり。

環境省    /支出1―1億8500万円
日本郵政公社 /支出35―7億5346万円
成田国際空港 /収入1―642万円
       /支出1―2億1025万円
国立美術館  /支出1―115億1185万円 
(34条処置要求)・(36条意見表示)の記入あり
国立博物館  /支出1―2億0026万円
独立行政法人労働者健康福祉機構
       /収入1―232億7537万円
独立行政法人中小企業基盤整備機構
       /支出1―219億4671万円
日本高速道路 /支出(処置要求)1―9億1556万円
東日本高速道路/支出(処置要求)1―2億5070万円
首都高速道路 /支出(処置要求)1―67億8008万円
中日本高速道路/支出(処置要求)1―12億2685万円
西日本高速道路/支出(処置要求)1―42億5825万円
日本放送協会 /収入1―350億円
   /支出1―1995万円
中部国際空港 /支出1―1億8923万円
東日本電信電話 /支出(意見表示)2―44億8460万円
西日本電信電話 /支出(意見表示)2―30億5860万円
放送大学学園  /支出1―10億0744万円
特に掲記を要すると認めた事項/支出4―
 (5028億円)・(1289億円)・(835億円)・(1兆0322億円)
合計(支出・収入合わせて)/449件―452億9727万円

 会計検査院の合計は( )内の数字を含んでいない、一種の罪薄めを行った合計であろう。それにここに現れているのはほんの氷山の一角で、検査の網にかからない不当行為の方が多いはずである。

 安倍美しい国首相が衆院予算委の答弁の言葉を借りて言うなら、「これはまさに税金のムダ遣いでしょ。自分たちで考える必要があるんです」

 「考える」ことのなく、政治家・官僚の犯罪・不祥事は美しい日本の歴史・伝統・文化となって延々と演じ続けられる。

 安倍首相の抗議の言葉は夕張に向けて声を上げるよりも、自らの足元の省庁にこそ向けてキッパリと言うべき言葉である。さらには「税金のムダ遣いでしょ」の大見本たる赤字施設〝グリンピア〟もあれば、郵貯からだが、〝かんぽの宿〟もある。膨大な国庫、あるいは郵貯を使って建設したものの、赤字経営で成り立たなくなり、入札・競売とは名ばかりで、二束三文で叩き売っている。損金は国民の税金に回すばかりで、その責任は誰も取らない。

 天下りで甘い汁を吸い、随意契約でキックバックのたっぷりとした役得を受け、裏ガネで贅沢を味わい、接待でグルメ・銘酒の腹肥やしをする。「財政規律と言うことも住民のみなさま」ではなく、役人や国会議員の「みなさまにも考えていただ」かなければならない緊急課題であろう。そしてそういうことなら、安倍美しい国首相が先ず各省庁に対する監督・監視をこじっかり行わなければならない。

 夕張市が各種巨大箱物を建設するとき、国の補助金を出す側の関係官庁は「ああいう遊戯施設が果してほんとうにうまくいくかどうか」、「自分たちで考え」、経営可能かどうか厳しく審査したのだろうか。夕張市は一つを造っては、それが赤字だからと、次を造って赤字を埋めようとする、借金を新たな借金で埋めていくその場凌ぎと同じ形態の経営を行っていたようだから、前例(既設の箱物)を調べれば、その経営状況は把握できるただろうし、それを参考に次の建設予定箱物の将来的な経営状況は予測可能となるはずである。少しぐらい黒字が予想されたとしても、前の赤字が足を引っ張ることだろうから、余程の黒字が計算できない限り、補助金を出さないことで建設断念に追い込むことぐらいのことはすべきだったろう。

 日本の役人の一般的な生態から予想すると、夕張市役所の職員から書類上の数字の説明を受けただけ、説明に頷いただけで必要とする補助金を太っ腹にも気前よく差し出したのではないか。そうでなければ赤字施設の建設に国庫補助をつけることはできなかったはずで、当然建設そのものも不可能となる。

 許可に向けた色よい返事が出れば、一件落着とばかり夕張市一の料亭か、夕張市になければ札幌市にまで出張って、札幌有数の料亭に一席を設け、美人どころをはべらせ、飲ましたり食わせたりする。

 それとも書類説明する前に色よい返事を狙って、既に一席設けていて、許可を戴いた後の一席はご苦労様との意味を持たせた慰労会と言うことなのだろうか。

 中央役人が権限の笠を着ているだけのことで自分の懐を痛めない地方自治体のカネで何様顔をしながら卑しいばかりに飲んだり食ったり、女の身体を触ったりするところを見れば、地方役人も自分たちもと思って、お手盛りで「ボーナスを増や」すといったこともしたくなるだろう。中央省庁の裏ガネづくりと裏ガネを使った飲み食いの大盤振舞いの隠れ制度と地方自治体の同じ構図の隠れ制度は軌を一にした響き合った関係にあり、上が下の悪事を見習うという関係は上の資格を失う行為であるが、下が上の悪事を見習うの分には下の資格を失うわけではない。ある意味、よくぞ上を見習ったと、褒められる行為に入る。

 県会議員の政務調査費の私的流用にしても、国会議員の〝政治とカネ〟の金権体質を見習っての、上の為すところ、下これに倣う、中央の為すところ、地方これに倣うが順当な順序のはずである。

 夕張の破綻が代々の夕張市長を陣頭とした夕張市役所職員のズサン体質が招いた破綻であったとしても、そのズサンさは中央の国会議員や各省庁員のズサン体質と同じ線上でつながった関係にあるのであり、夕張市の自己責任だけで片付けることはできないはずある。そう、中央と夕張のズサンさはつながっているのであり、夕張の破綻と日本の借金・ムダ遣いは対応しあった関係にあるのである。

 夕張は日本の縮図だと多くの人間が把えている中で、政府のみが自己責任だと、夕張単体の問題で、中央の無関係責任事項としている。「裸の王様」と批判されたと言うことだが、まさに裸の王様状況にある単細胞人間だけに許される視野狭窄的判断なのだろう。

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人の死をも利用する安倍首相の冒涜行為?

2007-02-14 12:02:23 | Weblog

 昨日の『朝日』夕刊(07.2.13)『お巡りさん快復適わず 女性救助の宮本さん死去』

 「女性を救おうとして電車にはねられ、意識不明の重態だった警視庁板橋署常盤台交番の宮本邦彦巡査部長(53)=12日付で2階級特進し警部=が12日午後、入院先の東京都板橋区内の病院で死亡した。快復を願う家族や市民らの願いは届かなかった。知らせを聞いた市民らが13日朝も宮本さんの勤務先だった交番を訪れ、手を合わせた。(後略)」

 後段に、『安倍首相が弔問』の見出しで次のように伝えている。

 「安倍首相は12日夜、死亡した板橋署常盤台交番の宮本邦彦巡査部長の弔問のため、同署を訪れた。殉職した警察官に対する首相の弔問は異例だ。
 首相は記者団に宮本さんの名前を「ミヤケさん」と言い間違えながらも、『危険をかえりみずに人命救助に当たったミヤケさんのような方を私は総理として、日本人として誇りに思います』と語った。」

 実は安倍首相の弔問は13日早朝のTBS「みのもんたの朝ズバッ」で知った。そのテレビ画面では安倍首相の弔問を次のように映し出していた。

 「ミヤケさんの、亡くなられたミヤケさんのような方が街の安全をお、(と言いかけて)守っているのだと思います」

 昼前のTBSテレビは「危険を顧みず、救助に当たった。総理として、日本人として誇りに思います」と話した部分のみを報道している。

 「街の安全を守っている」で済むところを、「お守っている」と、丁寧語の「お」をつけかけた。いくら丁寧に言おうと心掛けたとしても、普通は間違えない間違えであろう。そして「宮本さん」と言うべき肝心要の名前を「ミヤケさん」と間違えている。

 どの新聞もテレビも、これらの間違い自体に焦点を当てて取り上げていなようだが、死んだ者を悪く言わないという一種の慣例から、首相の間違いに焦点を当てた場合、善行を働いた結果の〝死〟に対してもケチをつけることになるのではないかという日本人特有の当たり障りのなさを願う物怖じが働いたからかなのだろうか。

 宮本巡査部長が意識不明の重態に陥って入院して以来、勤務先の常盤台交番には近隣住民や地元小学校の児童が無事回復を祈って千羽鶴や花束を持ち寄っている。記帳台も設けられ、記帳(200人を超えたと言う)や献花に訪れる人が跡を断たなかったという。いわば街の人間の信頼を得ていた証拠の現れであろう。

 安倍首相の弔問に関しての具体的な様子を、『日刊スポーツ』のインターネット記事が次のように伝えている。

 「(前略)夜には安倍晋三首相(52)と伊藤哲朗警視総監(58)が弔問のため、板橋署を訪れた。安倍首相は、講堂に設けられた祭壇の遺影に手を合わせ、宮本巡査部長の長男に『お父さんを見習って頑張ってください』と声を掛けた。

 弔問後、首相は、同署玄関前で報道陣の代表取材に応じた。その際、宮本巡査部長の名前を『ミヤケ』と繰り返し間違える失態を演じた。『亡くなったミヤケさんのような人が日本の安全を守っている。危険を顧みずに人命救助に当たったミヤケさんのような方を、私は総理として日本人として本当に誇りに思う。そのことをご遺族に伝えた』と述べた。関係者によると、弔問は急きょ決まったというが、締まらない結末になってしまった。[2007年2月13日8時7分 紙面から]」

「弔問は急きょ決まった」。ここに名前の言い間違えと「守っている」に「お」をつけかけて「お守っている」と言いかけた原因があるのではないだろうか。

 宮本巡査部長が線路内に入った女性を助けようとして電車にはねられ重傷を負ったのは2月の6日の夜であって、回復ならずに死亡したのは6日の夜から6日間経過した12日の夜である。

 もし安倍首相が「亡くなったミヤケさんのような人が日本の安全を守っている。危険を顧みずに人命救助に当たった」(日刊スポーツ)、あるいは「私は総理として日本人として本当に誇りに思う」(同)と言っていることが心の底からの事実なら、事故に遭ってから死亡するまでの6日間、関心を持って新聞・テレビの報道に接していたに違いない。自身が常日頃言っている「美しい国」日本の一場面にしてもおかしくない人命救助でもあろう。

 さらに言うなら、支持率を気にしている手前、マスコミが自分のことをどう報道しているか、新聞・テレビを仔細に眺めることを日課としているだろうから、そのついでに目に入ってしまう程度の関心ではなく、注意を持って眺めていたはずである。

 当然の結果として、宮本巡査部長の顔と名前は否でも安倍首相の記憶に張り付く。安倍内閣の支持率・非支持率の数字に優るとも劣らないインパクトで記憶に張り付いていたとしても不思議はない。

 だが「宮本巡査部長の名前を『ミヤケ』と繰り返し間違える失態を演じた」(日刊スポーツ)。

 安倍首相の記憶には「宮本巡査部長」という名前は張り付いていなかったのである。「宮本巡査部長」という名前の代わりに「ミヤケ」なる名前が張り付いていた。親しくしている女性の名前でないことを願うだけである。

 記憶に張り付いていなかったと言うことは、人命救助と入院後の経過を献花や記帳した近所の児童や成年男女程には強い関心を持って眺めていたわけではないことを証明して余りある。

 「弔問は急きょ決まった」ことも関心を持って眺めていたわけではないことを証明している。日本国の首相が持つ情報収集力を頼まずとも、どの程度の確率で助かるか病院に問い合わせるくらい簡単なことで、関心の程度で「弔問」は前以て予定に入れることもできる。しかし予定にも入れていなかった。

 では、なぜ「弔問は急きょ決まった」のか。「殉職した警察官に対する首相の弔問は異例だ」と『朝日』が報じている「異例」の「弔問」なのである。これはテレビ・新聞、特にテレビの報道頻度と無関係ではあるまい。マスコミは世間の関心を考慮して報道頻度を決めるが、報道頻度を自ら高めることで世間の関心を焚きつける場合もある。ある特定の食品に特定の健康効果があるとする番組を報道して、視聴者がその食品に飛びつくという構図はマスコミ側が焚きつける世間の関心の典型例であろう。その効果を利用しようとするあまり、捏造番組に走ることになる。

 「常盤台交番には13日朝までに約60束の花束が届けられ、記帳する人は200人を超えた。出勤途中や近所の人たちが交番の前で足を止め、手を合わせて宮本巡査部長の冥福を祈った。」(北海道新聞/2007/02/14 07:13)

 「宮本巡査部長が一昨年2月に配属された常盤台交番には、7日朝から近隣住民や地元小学校の児童らが千羽鶴や花束を持ち寄った。8日も別の小学校から千羽鶴が届き、駅の利用客らも、交番の同僚に「自分より、都民を守ろうとする姿に感動した」「早く良くなって」と声をかけていた。」(2007年2月9日3時12分 読売新聞)

 6日夜に事故が発生し、その次の「7日朝から近隣住民や地元小学校の児童らが千羽鶴や花束を持ち寄った」のである。如何に人望があったか物語って余りある。

 テレビも新聞が報じる光景を連日のように報道していた。マスコミの関心も世間の関心も同情と回復を祈る方向で集まっていた。そこに安倍首相が「弔問」の形で顔を見せる。宮本巡査部長の勇気ある行為に思いを馳せつつ切に回復を祈り、その祈りも空しく死を知って残念に思う世間の人々と同じ位置に立って自分を重ねる。どれ程に深い気持ちで回復を願ったか、だが、その祈りも空しく、どれ程に残念に思っているか。だが、その殉職行為は「総理として日本人として本当に誇りに思う」。

 それが事実なら、世間は何と素晴しい首相だろうと思うに違いない。世間がそのように受け止めたなら、支持率低下の逆境に見舞われている安倍首相にしたら、間違いなく一服の支持率回復剤になるに違いない。

 しかしそれは名前の言い間違えがウソだと教えている。名前の言い間違えだけではなく、言葉の使い方に意識を過剰に働かせること自体、本心からの言葉でないことを証明している。「お守っている」と敬語の「お」までつけかけたおまけつきまで犯してしまった。捕らぬ狸の皮算用とまで行かなくても、かなりのヘマを演じたことになる。

 いわば「異例」の「弔問」は支持率回復の計算を働かせたパフォーマンスだったと考えられないこともない。そう疑われても仕方がない名前の言い間違いであり、言いかけた「お守っている」ということだろう。周囲から勧められたのか、自分から買って出たのか。

この推測が当たっているとしたら、安倍首相の行為は自身の人気回復のために宮本巡査長の死をも利用した、「弔問」の形を取った一個の死に対する冒涜行為となり下がる。 

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運動に於ける新たな練習理論 :(<リズム&モーション>)

2007-02-13 06:27:30 | Weblog

 これは主として特別な才能を持たない運動選手の体力と技術の底上げを目的とした練習理論である。野球で言えば、高校野球や大学野球、あるいはプロ野球の万年2軍選手に有効と思われる。

 この運動理論は最初に断っておくが、科学的根拠なし、経験からの理論付けのみ。経験からと言っても、プレーヤー、あるいはアスリートとしての経験・実績はゼロに等しいから、乏しい経験を基に頭の中で考え出した練習理論に過ぎない。既に誰かが以前から実践している理論であるとか、全然役に立たない可能性もあるが、だとしたら、悪しからずご容赦を。
* * * * * * * *
 ①<リズム&モーション>

 すべてのトレーニングに亘ってのコンセプトは<リズム&モーション>。リズムとモーションを一体化させたトレーニングを意識的、目的的に、且つ継続的に行うことで、その二つが身体に一体化して記憶され、肉体化を受ける。

 当然必要とする動きが求められたとき、身体は記憶し、肉体化していた情報に従って、リズムとモーションを一体化させた動き(<リズム&モーション>)で反応することになる。

 ダンスを考えてみれば、理解を頂けると思う。同じステップを踏み続けることで、リズムとモーションが身体に記憶され、肉体化して、逆に身体は音楽を主体とした外部からの動きの指令に従って自然とステップを踏むようになる。ダンスのステップ自体が<リズム&モーション>で成り立っている。私自身、ダンスの経験はないのだが、上達したダンサーを見ると、彼らは非常に心地よい動きをする。運動に於いても、リズムとモーションを一体化させた動きは大切で、そのことは野球の試合で解説者が好調に投げている投手を評して、「非常にリズムよく投げている」とか、勝利投手自身が「最後までリズムよく投げることができた」と勝因を分析したりする言葉が証明している。途中で崩れた投手は「リズムに乗れなかった」とか言う。

 勝利を手にしたマラソンランナーにしても、「最後までリズムよく走れた」と言うし、逆に希望したとおりに走れなかったランナーは「途中でリズムが崩れてしまった」と述懐したりする。

 かくこのようにプレーする点でリズムに則った動作(モーション)=<リズム&モーション>が重要な要素となるということなら、リズムとモーションを一体化させた身体の動きの習得を最初から目的とし、そのことを基本に据えた継続的なトレーニングが重要になる。

 ではどのような種類のトレーニングかと言うと、2種類の方法がある。第1の方法は、一般的な行動速度よりもゆっくりとしたリズムとモーションを長時間持続させるトレーニング。ゆっくりとしたリズムとモーションを一つ一つ味わい、身体に受け止めることで、逆にそのリズムとモーションを身体に確実に記憶させていきながら、それを長時間続けることで体力と精神的な忍耐力をつけていく方法。

 人間は歩く場合も人それぞれに歩くリズムとモーション(歩くスタイル)を持っている。普段歩く速度を半分にしてスーパーに行くにもコンビニ行くときも用を足せと指示されたら、目的地に着かないうちに苦痛に感じて、目的を達するには相当な忍耐力を必要とするに違いない。だが、このような指示を繰返し完遂させていったなら、逆に忍耐力がついていくはずである。

 人間の1時間当りの歩く速度は平均4キロだと言われている。健康である人間なら、4キロを1時間で歩けと言われても、さして苦にならない。ましてや何らかの運動をしている人間にとっては朝飯前に違いない。

 だが、1時間で4キロ歩くのと同じ体勢(リズムとモーション)で立ち止まらずに4キロの距離を2時間で歩けと言われたら、体力的には何らきつくなくても、心理的には相当な苦痛を強いられるだろう。人間に与えられている普段の自然な歩行速度(リズムとモーション)に反して、その半分の速度に落とし、その速度を2時間維持しつつ歩かなければならない。1時間で解放されるところを2時間も費やさなければならない。

 2時間を通して相当な忍耐が要求される。要求を完遂することによって、逆に忍耐は身についていく。忍耐を要求されたことのない人間は忍耐することを知らず、覚えることはないことの逆バージョンである。人間は学習することによって、学習した事柄が身についていく。

 しかし今までの練習はリズムとモーションを一つ一つ味わい、身体に受け止めていくと同時に体力だけではなく、忍耐力もつけていくことを目的としたトレーニングとなっているのだろうか。単に指示されたことを上手にこなす(消化する)トレーニングとなっていないだろうか。

 具体的な方法を述べる。足腰の鍛錬のための長距離ランニングの場合。

 主としてランニング練習はグランドで行う。グランドで行う長距離ランニングはフェンスの内側に沿ってグランド何周とか走行距離を決めてか、大体の時間を決めて走らせたり、あるいは塁間のラインを何回も往復させてタイムを競わせるといったことをする。フェンスの内側に沿ってのランニングの場合に於ける<リズム&モーション>では走行距離も走行時間も決めず、また競争もさせずに整然と整列した集団で、口の中で1、2、1、2とリズムを取らせて電動車椅子の速度程度に決めて、その速度を最後まで一定させたゆっくりとした走りで黙々と走らせる。コーチの一人が電動椅子を運転して先導のペースメーカーを務めるか、一定の速度にセットして走らせことのできる、ゴルフ場のカートみたいな自動走行車両を利用するかしたらいいかと思う。

 これは人間の1時間で4キロ歩く歩行能力を2時間で4キロ歩かせるトレーニングの応用なのは言うまでもない。

 1、2、1、2のリズムを全員が一斉に口に出して取るのではなく、選手それぞれの口の中で取らせるのは、口に出した場合、リズムが外に向かい、それだけムダが生じるからである。口の中で取ることによって、身体がムダなく呼応し、ムダなく記憶されていく。

 選手たちは走行距離も走行時間も決められていないから、意識を最終地点に向けることができないためにどれくらい走ればいいと消化のための走りはできなくなり、逆に1、2、1、2と口の中でリズムを取ることによってリズムとモーションを一つ一つ受け止めながら黙々と、且つ延々と走ることになる。各選手は息が切れていくに従って、口の中の1、2、1、2のリズムが崩れてきて、集団から遅れてくる選手が出てくるが、口の中の1、2、1、2のリズムを可能な限り保持し、可能な限り集団についていくように前以て指示して置く。

 それでも集団は息の切れた選手からバラけてくるが、〝延々〟の距離は最後に息切れすることになる選手がもうこれ以上走れないと歩き出し、疲労を回復させてから再び口の中でリズムを取って走るといったことを2~3回繰返させるまでとする。それ以前に息切れした選手も立ち止まることを許さず、どのくらい先頭に遅れても歩いて従い、疲労が回復したところで、口の中で1、2、1、2、のリズムを再度取って、終了時間まで何度も走らせる。最後にスタート地点から終了地点までのタイムと距離を記録しておく。次回はその距離を伸ばし、逆にタイムを縮めるように仕向けていく。

 電動車椅子程度のゆっくりとした速度で口の中で1、2、1、2のリズムを取らせ、黙々と、且つ延々と走ることによって、そのリズムとモーション(=身体の動き一つ一つ)は自然と自身の身体に記憶されていく。1、2、1、2とリズムを取ることによって、否応もなしに地に足をつけた走りとなり、且つ、どのくらい走っていいのかも分からない距離を息切れしても、その息切れが直ったら、また走らせる反復はひたすら走ることを受け止めていかなければならないから、肉体的と同時に精神的な忍耐力(持久力)を養う。  

 逆に何周とか、どれくらいの時間と前以て決めておくと、何周を目的にしたり、時間を目的に走る消化の要素の入ったトレーニングになりやすい。

 急な勾配の山道を膝に手を置き、息を切らしながら一歩一歩のリズムをつけて黙々と登っていく姿を想像すれば、理解できると思う。一歩一歩のリズムを身体が受け止め、受け止めることによって登っていく姿が自然と目に焼きついていく。そういったことを通して肉体的な忍耐力(持久力)だけではなく、精神的な忍耐力(持久力)が自然と身についていく。逆にそういった山登りを何回も繰返すことで、より確実に肉体化させた山登りのリズムとより強化されることになる肉体的・精神的な忍耐力(持久力)が渾然一体となったより高度な<リズム&モーション>を獲得していくことになる。そのような山登りの長距離ランニングトレーニングへの応用でもある。

 一つのトレーニングが終了したら、5分程度の休憩を入れる必要がある。休憩を取ることによって、体力は蓄積されると同時に休憩による体力の回復が新たな力を生むからでもあるが、休むことによって精神的な余裕を持つことができるからでもある。どこかに余裕(機械で言うと〝遊び〟)がないと、疲労回復を遅らせるだけではなく、回復の遅れが常態化して、最終的には体力の寿命を縮めることになる。

 休憩による体力の回復は新たな力を生むと言ったが、疲れ切った状態で休みなしに次々とメニューをこなそうとすると、どうしても動きが惰性となる。当然リズムを失う。個々のトレーニングだけではなく、練習全体もただ単に消化するための義務となり、その繰返しを続けるだけとなり、惰性化したモーションとリズム喪失の状態からは満足な<リズム&モーション>は生まれるはずはないし、当然満足な形で身体に記憶されないことになる。

 ボクサーが試合で3分のラウンドの間に1分の休憩がなかったなら、回を重ねるごとにステップはリズムを失い、打ち合いの殆どは威力もないパンチを惰性でただ単に繰り出すだけとなるのは目に見えている。1分の休憩があることによって、体力の回復が可能となる。ラウンドを重ねるごとに体力の回復は遅くなるが、それでも戦っているときの体力消耗を1分の休憩が僅かでも救うことになる。

 このゆっくりとしたスピードで延々と続けるトレーニングは他のすべてのトレーニングに応用する。ゆっくりとしたスピードによって、身体への<リズム&モーション>の記憶を確実に刻み込んでいく。距離を決め、選手個々のスピードで競わせるトレーニングは、それが苦痛を伴うほどに消化が目的となる。例えば同じ足腰の鍛錬としてうさぎ跳びをホームベースからダイヤモンドを一周させるといったことをさせるが、息切れがして苦しくなると、その苦痛から逃れるために少しでも早くホームベースに辿り着こうと消化が目的となって、膝を最後までしっかりと曲げずに、中腰のうさぎ跳びとなる。結果、<リズム&モーション>を身体に受け止め、記憶する作業が疎かになる。消化が目的となっても、何度も反復することによって体力も忍耐力もそれ相応に身についていくが、一つ一つの動きなどどうでもよくて苦痛から逃れようとするのと例え苦痛であっても、一つ一つの動きを自分から全身に受け止めていくのとでは、リズムの受け止めにも違いが生じるし、記憶されることになる<リズム&モーーション>の質・強弱にも違いが生じる。当然忍耐力にも関係してきくる。

 うさぎ跳びにしても距離も時間も決めず、コーチの一定の時間を置いて吹くホイッスルに合わせて跳ばせる。ピーと吹いて一歩前進させてから腰を完全に落とした状態で停止させ、またピーと吹いて一歩前進させる反復をかなりの距離続ける。可能な限り同じリズム、同じ動き(=モーション)を維持させることによって、身体への記憶と忍耐力を確かなものへと仕向けさせる。

 ホイッスルに合わせなければならないことと最終地点が不明であることによって、苦痛から逃れるための消化とすることはできない。苦痛にギリギリまで耐えることだけが要求される。順次遅れの出る者が出てくるが、息切れした場所にうさぎ跳びの姿勢のまま休憩させ、跳べるだけの体力(=耐力)が回復したら、再び続行させる。要領のいい人間は回復しても、少しでも苦しいトレーニングから逃れるために回復しない振りをするかもしれないが、そういったことは個々の選手の判断と責任に任せる。積極的に続行する選手はそれだけ忍耐力と体力、及び<リズム&モーション>を身につけていくだろうから、そのうち、違いが出てくる。

 どのトレーニングも回数を重ねることによって、距離も時間も延ばしていくことができる。選手は常に距離も時間も知らされていない状態で一つ一つのトレーニングを続けていかなければならないから、一つ一つを消化しようとする心構えではなく、最初から耐える心構えで応じるしかない。

 今シーズンから読売巨人軍から横浜ベイスターに移籍した工藤投手がトレーニングジムで鉄棒を使って懸垂している姿をテレビで報道していたが、回数を重ねてきつくなると、最後の方は両足を撥ねて、その反動で身体を持ち上げると同時に顎をギリギリのけ反らせて鉄棒の上に持っていき、それを一回とし、それができなくなるまで懸垂に挑んでいた。これは多くの者が行う一般的な懸垂の方法となっている。

 この遣り方は苦痛から逃れるための消化運動ではなく、自分から苦痛に立ち向かって、ギリギリ耐えることができる限界まで挑んで腕力や肩の力をつけ、同時に忍耐力を養う運動となっていて、それなりの効果はあるだろうが、逆に身体のリズムは無視され、記憶されないことになる。

 両足を伸ばした正しい姿勢で最後まで同じ一定の規則正しいゆっくりとした速さで腕の力だけでイーチと口の中で回数を数えながら身体を持ち上げて顎の下に鉄棒を持っていき、身体を下ろす上下運動を往復のリズムとして何回か繰り返したのち、腕の力だけで持ち上げることができなくなったら、一旦鉄棒から降りて一休止して息を整え、力を回復させてから、再び鉄棒に飛びついて往復のリズムを崩さず、腕の力だけで身体を持ち上げることができる回数まで懸垂を行うということを繰返す。

 この方法は途中途中に一息入れることになっても、回数を重ねることで体力(耐力)をつけることができるし、一定のゆっくりとした速度(往復のリズム)と同じ姿勢を最後まで保とうとすることによって、<リズム&モーション>を味わい、記憶させていくことが可能となる。<リズム&モーション>を味わうとは、自分の身体の動き、あるいは身体の流れの一つ一つを意識することを意味し、意識することによって動きとリズム(<リズム&モーション>)が記憶へと向かう。意識のないところに記憶は生まれない。意識することによって、記憶は生まれる。また自身の動きを意識し、味わうためには、自分の身体の動きを振り返る(=確認する)心の余裕がなければ不可能である。心の余裕を常に用意しておくためには、身体を無暗我武者羅に動かしたり、痛めつけたりするのではなく、一定のリズムが必要となる。

 腕立て伏せも同じ。現在では腕立て伏せは胸が床や地面すれすれに触れるくらいに腕を曲げるといったことをせず、ほんの少し曲げ伸ばしするだけのチャカチャカした速い速度で100回200回と回数をこなすものとなっているが、<リズム&モーション>を一つ一つ確実に意識して自分の身体に受け止め、味わう作業が省略されていて、実のある<リズム&モーション>獲得のトレーニングとなっていない。

 これも一定の間隔を決めて吹くホイッスルに合わせてイーチ、ニーと口の中でリズムを取らせながら胸が床や地面すれすれに触れるくらいに腕をしっかりと曲げさせ、伸ばす繰返しを、自身の身体の動きに目を向けさせ、動きとリズムを受け止め、味わわせる具合に仕向けて耐えることができる回数までやらせる。続かなくなった者は腕を伸ばした状態で休ませ、体力が回復したら、再度ホイッスルに合わせて腕立て伏せを行わせる。全員がある程度くたくたになったところで、一息入れさせて力を回復させてから再度行うことを繰返す。

 動きに一定のリズムを伴わせて、一体とさせたその動きとリズム(<リズム&モーション>)を身体に記憶させる訓練は、より躍動感を持って身体を動かすことにつながっていく訓練となる利点を持つ。先に野球のピッチャーを例に挙げたが、打者のホームランにしても、サッカー選手のゴールシュートにしても、素晴らしいプレーというものは、すべて動きにリズムが伴っているが、一体化されて記憶した動きとリズム(<リズム&モーション>)が必要とされる運動に応じて相呼応する形で反応することになるからだろう。

 逆の関係も成り立つ。実際に身体を動かしていないときでも、1、2、1、2と頭の中でリズムを取ると、リズムと動きを一体化させて記憶している全身的な動き(<リズム&モーション>)が条件反射によって身体の内側に蘇ってくる反応を生じせしめるはずである。
 
 試合が緊迫した場面で打席に立って過度に緊張してあれこれと余計なことを考えてしまったとき、それを振り払う方法として1、2、1、2と口の中でリズムを取って身体に記憶させた<リズム&モーション>を蘇らせて身体の内側に躍動感を呼び覚ますことができたなら、より積極的な姿勢で投球に向かっていくことができるようになるのではないだろうか。

②試合に於ける<リズム&モーション>の練習での実践

 グラブとボール、バットを使った練習は、実際の試合で選手個々が発揮する<リズム&モーション>を実践できる形式とし、その反復によって、<リズム&モーション>にさらに磨きをかけることを目的とする。そのためには、可能な限り実際の試合に近づけた舞台設定が必要となる。

 最近試合形式の練習が多く行われるようになったが、実際の試合(=実戦)に役立てることを目的としているものの、試合で発揮する<リズム&モーション>を重点的に学習させることを優先目的とはしていない。そこに多少のズレ、もしくは無駄が生じていないだろうか。

 例えば読売ジャイアンツの原監督が3塁の守備位置にそこをポジションとする選手を何人か立たせて、捕球練習を交代で受けさせるべくバッターボックスの位置からノックをしていたが、各選手は捕球したあと、2塁ベースに入っている選手に単に素早い動作で送球して終わりの繰返しを行っていたが、そこには2塁ベースに走り込む走者がいないから、送球する選手の目の中に走者を把える必要もなく、走者の進み具合に応じて送球動作に緩急をつけるといった必要もなく、実際の試合で発揮する<リズム&モーション>と微妙にズレが生じたものとなっていたはずである。いわば実際の試合に可能な限り近づけた舞台設定となっていないから、その分、ムダな練習となっていないだろうか。

 捕球と同時に2塁送球の練習をも目的とするなら、1塁にランナーをリードする形で立たせておいて、ノックと同時に走らせ、3塁手は捕球と同時に走者を目に捉えて、その位置に応じて適確に送球を行うことをすれば、実際の試合に近い形の<リズム&モーション>で送球することになって、実際の試合の<リズム&モーション>と差がなくなってムダが生じない。

 また練習で実際の試合に近い形の<リズム&モーション>を身体に刻み付け、記憶させる反復を行うことで、それがそのまま実際の試合でも活用されることになり、やはりムダを生じさせないで済む。

 一人の選手に対して重点的に守備練習させる1000本ノックといったハードな練習は惰性、消化のための反復に陥りやすいだけではなく、ノッカーの打球を捕球しても、ランナーがいるわけでもなく、他の選手が守備についているわけでもなく、捕球してノッカーの横にいるキャッチャーに返球すれば精々済むだけで、3塁からホームに向かうランナーとキャッチャーへの返球を競う必要もなく、ランナーと返球が交錯するといった場面もなく、複数ある送球箇所のうち、どこへ送球したらいいのかの咄嗟の判断を伴わせる必要もなく、いわば試合を想定した打球・捕球・返球・送球・走塁等の遣り取りはそこにはないために(実際の試合に近い舞台設定とはなっていないために)、そこで学ぶ<リズム&モーション>は実際の試合で発揮しなければならない<リズム&モーション>と自ずと違ってくる。当然緊張感自体も試合中の緊張感とはかなり異なってくる。

 体力のつける訓練は先に挙げた時間と距離を決めないゆっくりとした速度の長距離ランニングや同じ趣旨のうさぎ跳びや腕立て伏せに任せて1000本ノックはやめ、選手全員を守備位置に着かせ、どこにノックするか告げずに、任意に三塁や二塁に難しい打球となるノックを行う。同時にベース横に立たせた走者をノックと同時に走らせる。セーフなら走者を類に残して、試合形式で難しい打球となるノックを続ける。3塁に走者が進んだなら、外野にもノックして、実際の試合と同様のタッチアップの練習をさせる。紅白試合ではなかなか難しい打球を求めにくいから、それをノックで代用させる。

 選手は打球を追って捕球し、送球するだけではなく、打球を待ち構えるときの腰を落とした自分の姿勢、打球が来たら、それを追う身体の動き、グラブを差し出し捕球する体勢、送球するときの身体の動き――それらの身体の動き一つ一つを自身の意識と身体自体で確認し、受け止めていく。そうすることによって<リズム&モーション>はより確かな形を取って発揮されることになる。

 少なくとも何ら意識することなく身体の動きだけで打球を受けたり、捕球したりするよりも、身体の動きを意識的に確認しながらプレーすることの方がリズムの獲得に早道であろうし、リズムとモーションの一体化をより早く自分のモノにすることができるはずである。

 最近紅白試合が多く行われるようになっているが、イニング数は試合と同じ9回とか、あるいは紅白試合だからと5回程度で済ましている。打席数や捕球・送球回数を増やせば、それだけ試合中と同じ<リズム&モーション>の習得に役立つはずだから、イニング数を15回、18回、あるいは21回として、実戦での<リズム&モーション>をより多く学ぶ機会とするのも一つの方法かもしれない。

 ときには両チームでメンバーを取り替えたり、野手に守ったことのない守備位置につけさせたり、変わった経験をさせたなら、より多くの<リズム&モーション>を学ぶように仕向けることができる。また打者に多くのタイプの投手を経験させるために、投手は3イニングと限定し、専門の投手だけではなく、野手にも俄仕立ての投手として投げさせたなら、より多くの球種、球の癖を学ばせることもできる。野手が投手役を買って出ることで、その肉体的しんどさ、バックの野手がエラーしたときの気持など自ら学ぶ機会となる。

 以上、頭の中で考えた<リズム&モーション>を主眼とした練習理論を展開したが、実際に役立つかどうかが問題となる。

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菅直人の「産む生産性」なる言葉

2007-02-11 09:32:17 | Weblog

 2月9日(07年)早朝のTBS「みのもんたの朝ズバッ」の柳沢発言問題のコーナー。

 公明党の松あきら「実に1月18日(07年)、愛知県の知事選で菅さんがあの――」
 みのもんた「菅直人さん?――」
 松あきら「えぇ、菅直人さんが名古屋・東区でですね、えぇ。演説を行いましてね。そのときにどう言ったかというと、愛知も東京も経済がいいと。まあ、いいですね、一応ね。生産性が高いと言われるが、ある生産性は一、二を争うぐらい低い。子どもを産む生産性が最も低いとおっしゃってるんですね。これは、あの地方紙に、朝日新聞の地方版に出たですよ。あのう少し当たり。ですから、あんまり話題にはならなかったんですけど、私はやっぱり、その、柳沢大臣だけではなくてね、例えばそういう菅直人さんのような発言をする方もいらっしゃる。つまり、まだまだ男性議員の中にはそういう考えの方は、まあ、生産性が低いっていう言い方もひどいですよね。そういう方がたくさんいらっしゃるってことが残念であります」
 みのもんたが菅直人がそんなことを言ったらまずいなあというふうに首を何回も振ってみせた。――

 松あきらの「そういう方がたくさんいらっしゃる」は、菅直人の例を取り上げて、民主党にもいる、柳沢大臣一人だけの問題ではない、一般的現象だとする意図を持った発言だろう。

 いわば柳沢発言を特殊ではない一般的現象だと格下げして、その罪・責任の軽減を図ろうとする柳沢発言擁護の意図が働いていると言える。自民党や公明党の女性議員の柳沢発言に見せていた激しい怒りが、女性という立場上見せなければならない演技であることがよく分かる。

 しかしこのような企みと言ってもいい意図は発言の内容自体を問題とすることを放棄することを意味していて、心得違い以外の何ものでもない。菅直人発言を問題とするなら、民主党以下の野党が柳沢発言を問題として厚労相の辞任を求めたように、菅直人に対してもそれ相応の責任を取らせるべく迫るべきだろう。責任の取らせ方として、民主党代表代行の辞任以外にない。

 しかし、その手の追及を行ったなら、柳沢辞任要求に応ぜざるを得ない状況を招きかねない。だから、批判しながら、一般的現象だとするにとどまっている。

そのことの証明と菅直人発言の具体的な内容を知るためにインターネットから、関係記事を拾ってみた。

 『出生率を「子供産む生産性」、菅氏発言を公明が批判』(07.2.8/22:12/読売)

 ――公明党の斉藤政調会長らは8日、民主党の菅代表代行が出生率を「子どもを産む生産性」と表現したとして厳しく批判した。
 斉藤氏は「柳沢厚生労働相の(「産む機械」)発言は論外で、猛省を促したが、同じことを菅氏にも申し上げたい」と国会内で記者団に語った。松あきら女性局長も「(菅氏の)言い方はひどい」と非難した。
 菅氏は1月18日、名古屋市内での演説で、「愛知も東京も景気が良い、生産性が高いと言われるが、愛知も東京も1、2を争うほど、子どもを産むという生産性が最も低い」と語った。
 菅氏は8日の記者会見で、「東京など大都市は地方に比べて景気が良くて生産性が高いと言われるが、出生率は低いと申し上げた」と説明した。――

 (「厳しく批判」しても、柳沢厚労相に対しても菅直人に対しても、その責任には一切言及していない。)

『菅の「産む生産性」発言 柳沢批判の資格あるのか』(J-CASTニュース/07.02.08/19:53)

 ――「産む生産性」発言への言及は民主党HPにはない
 柳沢伯夫厚生労働大臣の「女性は子供を産む機械」「子供を2人以上もちたいという健全な状況」といった発言が民主党などの野党に厳しく追及されているが、今度は公明党が、民主党・菅直人代表代行の「子供を生む生産性が低い」との発言を猛烈に批判しはじめた。「言葉狩り」とまで揶揄され始めている民主党の追及だが、今度は同じく「言葉狩り」で逆襲された格好だ。

 公明が猛烈に菅氏批判始める
 公明新聞は2007年2月7日、次のように菅代表代行を批判した。
 「菅氏は、愛知県知事選が告示された1月18日に名古屋市東区で演説を行い、『愛知も東京も経済がいい。生産性が高いといわれるが、ある生産性は、一、二を争うぐらい低い。子どもを産む生産性が最も低い』(1月19日付「朝日」名古屋地方版)と述べたという。この発言は、子どもを産む崇高な行為を経済的な生産と同列視したもので、菅氏もまた、女性を“子どもを産む機械”のように認識していることをはしなくも露呈している。菅氏はその後、厚労相の件の発言を、鬼の首を取ったように取り上げ、政府・与党批判を繰り返しているが、菅氏にいったい批判する資格があるのか」
 さらに、07年2月8日のTBS系情報番組「みのもんたの朝ズバッ!」には、公明党の松あきら衆議院議員が出演し、「男性議員のなかにはこういう(菅氏のような)考えの方がたくさんいらっしゃることが残念でございます」と発言するなど、公明党も菅氏追及に乗り出したかたちだ。
 これについて、民主党はJ-CASTニュースの取材に対し、「党事務局としては、コメントすることはない」と返答。07年2月8日午後に行われた記者会見では、「そういう発言があったのか」という質問に菅氏は答えず、「本会議の議事録に私が発言したことの趣旨が書いてあるのでそれを読んで欲しい」と答えるだけ。
 「産む生産性」は菅の「お決まり」の言葉だった
 なお食い下がる記者には、
「そのときの表現が、一字一句どうなっていたのかというのは、率直に申し上げて私が喋った全部、言葉尻までは覚えていませんから。少なくとも趣旨は、地域について申し上げたんです。生産性が高い、景気のいいといわれる地域が、出生率の点では低いところが東京など含めて多いということを申し上げました」
と、「覚えていない」ことを明らかにしただけだった。
ちなみに、菅氏は山陰中央新報の個別インタビュー(06年8月掲載)でも「少子化問題でも、生産性が高い東京が、子どもの生産性は一番低い」などと答えており、「産む生産性」は菅氏の「お決まり」の言葉だった可能性が高そうだ。
 同日の記者会見では、
 「『柳沢発言』の大きな問題性は、多くの国民の皆様には相当程度、私たちの行動は共感いただいたと思っている」
 とまで熱弁していた菅氏だが、なんとも恥ずかしい「結末」になりそうだ。もっとも、J-CASTニュースが2月5日「橋下徹弁護士 『柳沢擁護』に熱弁」でも報じたとおり、「言葉狩り」に終始する国会運営については、「共感」するどころか「疑問」の声が多く上がっているのも事実だ。(以下略)――

 『民主・菅氏、「生産性」発言の真意説明=安倍首相「政策論議を」(時事通信/07/02/08-20:11)

 ――民主党の菅直人代表代行は8日午後の記者会見で、菅氏が演説などで出生率を「生産性」という表現を用いて述べていたとの一部報道について「東京など大都市は地方に比べ景気が良く、生産性が高いといわれるが、出生率の点では低い。(そういう)地域の差を申し上げた」と説明した。
 これについて安倍晋三首相は同日夜、首相官邸で記者団に「あまり言葉じりをとらえて議論をするよりも、少子化対策や政策について議論すべきだ」と語った。――

 (安倍首相にしても、柳沢辞任につながりかねない、菅直人責任追及はおくびにも出さない。「少子化対策や政策について議論」する方が自身にとっては有利だからだろう。)

 『菅代表代行も失言「東京は子供の生産性低い」(07.2.9/06:00/スポーツ報知)

 ――今度は民主党の菅直人代表代行(60)に“失言”問題が浮上した。菅氏は、街頭演説や地方紙のインタビューなどで「東京は生産性が高いと言われるが、子どもの生産性が最も低い」などと発言していたことが判明。しかし、7日の会見では「表現が一字一句どうなっていたか言葉じりまでは覚えていない」などと歯切れの悪い説明に終始した。「女は産む機械」発言の柳沢伯夫厚労相(71)に強く辞任を要求していた菅氏だが、年金未納騒動の時と同様、またしても“ブーメラン”が返ってきた形だ。
 最初に“ブーメラン”を投げ返したのは、自民党の中川秀直幹事長(63)だった。
 中川氏は6日、自身の公式サイトで柳沢発言を追及する野党に対し「そんなに『ことば狩り』がしたいなら、一つの題材を与えよう」と切り出し、1月の民主党大会で菅氏が「東京は日本で一番生産性の低い大都市。何の生産性か、それは子どもの出生率において…」などと発言していると指摘。「出生率と生産性を結びつけるということは、出産と機械が結びつくことではないのか」「こんな『ことば狩り』はもうやめようではないか」と痛み分けによる“停戦”を提案した。
 菅氏は、1月の愛知県知事選の応援演説でも「愛知や東京は生産性が高いと言われるが、子どもを産む生産性が最も低い」などと発言。昨年8月の地方紙のインタビューでも同様の発言をしていたことが分かっている。
 菅氏は党代表を務めていた04年、国民年金未納の自民党議員を「未納3兄弟」などと批判していたが、その後、自身の未払い疑惑が浮上(後に社会保険庁の過失と判明)し、代表を辞任している。
永田町では、民主党の“ブーメラン伝説”は広く知られている。自民党のスキャンダルを攻撃すると、必ず同様の問題で民主党にも攻撃が返ってくる。最近では、事務所費問題で民主党にブーメランが返ってきた。
 またしても思わぬブーメランを食らった菅氏だが、7日の会見では、これらの発言についての質問が出ると「12月の衆院本会議で同様の趣旨の発言をしているので議事録を読んでください」とやや的外れな回答。「柳沢氏の発言と結びつけられてもおかしくないのではないか」との質問にも「議事録をよく読んでみてください」と繰り返すだけだった。
 さらに、愛知県知事選での応援演説については「その時の表現が一字一句どうだったか言葉じりまでは覚えていない」と言う始末。最後にようやく「生産性のいい景気のいい地域では、出生率の点では低いところが多いと申し上げた」と説明したが、菅氏の「生産性発言」が今後の国会審議で問題となる可能性もありそうだ。――

 (中川幹事長の場合は、野党の柳沢追及を「言葉狩り」の次元の問題に貶め、返す刀で菅発言を「言葉狩り」の犠牲にしない交換条件で問題終息を図ろうとしているに過ぎない。中川秀直らしい程度の低い戦術である。)

 『五十歩百歩の「産む機械」騒動は国会の場で』(ライブドアニュース)

 ――【PJ 2007年02月07日】- 2006年度補正予算案は6日午後の参院本会議で、柳沢厚生労働相の「産む機械」発言に反発した民主、共産、社民、国民新の野党4党欠席のまま自民、公明党などの賛成多数により可決した。補正予算案が野党欠席のなかで成立したのは41年ぶりという。そして7日から衆院予算委員会を開き、07年度予算案の実質審議に入る予定で、今後、野党と協議を進めるという。
 補正予算は基本的に必要性・緊急性の高いもので、国民の生活に密着したものが多い。今年度の例で言えば、集中豪雨等の災害被害対応(8764億円)、障害者自立支援制度の運営円滑化対策費(960億円)、いじめ・児童虐待問題対策費(45億円)等、ある意味国民にとって切迫した政策対応にかかるものであり、その合計金額は4兆9千億円にのぼる。その補正内容、金額について野党はその対策の必要性と対策金額の妥当性等政策審議にまったく参加することがなかった。わたしの頭には憲法第41条の「国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である」の文言がむなしく響くのみである。
 今回の野党の審議拒否は、柳沢発言を奇貨として目先の北九州市や愛知県知事選挙を有利に導こうとする意図が見え見えのパフォーマンスとしかわたしの目には映らなかった。
 本当に柳沢大臣の女性に対する考え方が不適切ではなく「不当」であるとするのならば、本来、国会の場で正面から大臣に問い質し、非を認めさせ、そして不信任案を突きつければよい。大臣の真意が「不当」なものであることがわかったうえでの不信任案を、与党が否決することになれば、与党議員も女性に対し柳沢大臣と同様の考え方を有するということになり、国民の反発は必至のはずであった。
 なぜ野党がそうしなかったのか普通であれば不思議でならぬのだが、知事選直前の今と言う政治日程を考えると、やはり目先の選挙の功を焦ったとしか思えぬのである。そう思い至ると「国権の最高機関である」国会という場を無視したやり口は到底いただけないと思ってしまうのである。大臣のこうした発言に対しては、少子化対策という大きな問題の啓蒙の意味も含めて、国会の場においてもっと冷静に緻密な議論がなされて然るべきと考える。
 そもそも国会議員は会期中には国会の場でこそ自らの主張、信念を通すべきなのではないか。補正予算という審議をボイコットまでした今回の対応は、国会議員としての当然の役割を野党議員は果たしていないと言われても致し方ないのではなかろうか。
 しかも、民主党の菅直人代表代行が「年初以来、党大会などで『生産性が高いと言われる東京や愛知でも、子供を産むという生産性が低い』と、何度か発言した」(東京新聞2月6日付「うさぎの耳」)のも都市部の出生率が低いことを例えた表現法であるとすれば、柳沢大臣の「産む機械」発言の例えと五十歩百歩である。
 片や少子化問題の大本山である役所の厚生労働大臣の発言であり、片や野党第一党のナンバーツーの発言である。その重みにおいても五十歩百歩であるといってよい。
 今国会は将来の道筋を定める国民投票法、共謀罪、学校教育法の改正案等重要法案が目白押しである。国会議員は「国権の最高機関である」国会において腰をすえた審議を行っていただきたいと切に願う次第である。【了】――
 * * * * * * * *
 「大臣の真意が『不当』なものであることがわかったうえでの不信任案を、与党が否決することになれば、与党議員も女性に対し柳沢大臣と同様の考え方を有するということになり、国民の反発は必至のはずであった」は一見尤もに聞こえるが、与党の女性議員は不信任案が提出されたなら、女性票を失わないために賛成に回るだろ。回ったとしても、与党は絶対安定多数を獲得しているのであって、否決は最初からの予定調和でしかない。それくらいのことは前以て党と謀っていて、党としても女性票を引き止めておくために有利になることだから、女性議員に限って逆に賛成に回るよう勧めるだろう。

 与野党の議席数が接近している参議員でさえも、与党の女性議員の全員が賛成に回ったとしても、10票以上の差が出る。言ってみれば、与党にとっては不信任案提出は柳沢発言終息のための飛んで火にいる夏の虫の絶好のチャンスに過ぎない。野党はそれが分かっているから、審議拒否に出た。マスコミの世界で給与を得ている人間でさえ、このことを理解できない人間がいるのだから、一般国民が理解できないのも無理はない。

 公明党の「子どもを産む崇高な行為を経済的な生産と同列視したもので、菅氏もまた、女性を“子どもを産む機械”のように認識していることをはしなくも露呈している」は果たして正当性を持った批判だろうか。

 菅発言は愛知、東京の好調な経済状況と対比させて、両地域の「子どもを産む生産性が最も低い」と言っただけのことで、女性個人を対象として「産む生産性が低い」と言ったわけではないだろう。

 「生産性」なる言葉の意味を辞書で見てみると、「生産のために投入される労働・資本などの生産要素が生産に貢献される程度」(『大辞林』)となっている。以上の説明を菅発言に当てはめてみると、「女性が子どもを産むために投入されべき労働・資本が愛知、東京では地域経済が好調で財政的に余裕があるにも関わらず、そのような好調な財政状況に反して効果的に投入されていず、出産に寄与する貢献度が少ないから出生率の低さに現れている」ということだろう。

 「出産のために投入されるべき労働・資本」とは、わざわざ断るまでもなく、児童待機問題解消等を含めた保育所整備、乳児や妊婦への保健サービス、育児休業制度整備・充実、産婦人科の整備・充実 出産費用の援助制度の整備・充実、充実した出産手当・育児手当て等のために投入されるべき人員(あるいはアイデア)と予算(=労働・資本)のことであろう。それらが効率・効果を見て、「産む生産性」(=出生率)が上がる。当然のことではないだろうか。

 さらに言うなら、教育費の問題もある。複数産んだが、そのために一人頭の教育費を軽減しなければならない、結果として進学を諦めさせなければならない。そういったことでは元も子もなくなる。経済力を考えて、一人でやめておけばよかった、あるいは一人も産まない方がよかったが社会通念化した場合、あとからの女性が順次学習していくことになるだろう。

 教育費に関しては仕事を持っていた女性の職場復帰の問題も無視し難く関わってくる。育児に1年2年かけると、元の職場への復帰、あるいは以前関わっていたのと同じ仕事での就職が難しくなり、その多くがパートで我慢せざるを得なくなって、以前と収入がはるか減少するといった問題は、即子どもの教育費に響いてくるだろう。女性の職場復帰の問題は受け入れ側の意識と制度の問題となる。

 上記課題はすべて女性の出産傾向=「産む生産性」に関係してくる。いわば菅直人発言は出産しやすい環境整備・充実がなっていないのではないかと批判したと受け止めるべきではないだろうか。

 例え女性個人の「産む生産性」を言ったのだとしても、公明党が批判するように「女性を“子どもを産む機械”のように認識」していたとかいないとかではなく、女性個人個人のそれぞれに安心して生める環境整備・充実への言及であることは、「生産性」という言葉自体が証明している。国や自治体の出産に対する少子化問題をも視野に入れた生産性対策(=労働・資本の投入とその効率・効果の実現)と女性たちの妊娠・出産とは密接な呼応関係にあるのである。

 このことは同じ日(2月9日)の「朝ズバッ」の同じ少子化問題のコーナーで、「群馬県在住の女性、37歳からのメールです。抜粋しました」とみのもんたが大型のボードに文字化したメールを読み上げた場面が証明している。

 「一児の母です。私は安心して子育てに専念できる環境が欲しいです。経済的に安心できれば、子どものそばにいたい親はたくさんいるのではありませんか。我が家も、子どもの世話をキッカケにパートに出ざるを得ませんでした。主人も一生懸命働いてくれています。でも、子どもにたくさんの選択肢を用意させたやりたい。やりたいことがあったとき、カネがないからと諦めさせることだけはしたくありません。そう思えば、一人育てるのが精一杯です。二人目が欲しいと不妊治療にも通いましたが、経済的に長続きしませんでした。夫婦が必死に働いても、家を持てない、教育におカネがかかる。親たちの将来も心配です。どうして子どもが産めますか。たくさん子どもは欲しい。今、子供を安心して学校にも行かせられない状況の中で、少子化だの、保育だといってますが、先ず子育てに専念できる環境を下さい」
 みのもんた「だから」と声を大きくして、「二人が健全だとかに国民は本当にトガっちゃうんですよ。やっと野党が国会に出ました。昨日(2月8日)の国会です」
 野党の責任追及質問にひたすら謝罪答弁を繰返す柳沢厚労相の場面へと転換。――

 「子育てに専念できる環境」を最優先要求順位としている。そのような要求を満たすためには目的に添った労働・資本の投入と効率的な運用が先決条件となる。菅直人の批判は尤もなことではないか。

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安倍晋三って、日本の首相?

2007-02-10 11:53:20 | Weblog

 日本という国だから、首相になれたのか

 2月9日、衆議院予算委員会での社会保険庁改革に関する安倍首相の答弁。

 「年金の管理を行っております社会保険庁は、すでに国民の信頼を失っているわけでありまして。国民のみなさまにこの組織であれば大丈夫、とこのように信頼をしていただける組織に必ず変えてまいります」(TBSの07年2月9日お昼前のニュース)

 厚生労働省のHPの「社会保険庁」のページには次のような案内が書いてある。

 「社会保険庁は、厚生省の外局として置かれ、政府管掌健康保険、船員保険、厚生年金保険、国民年金の各事業の運営実施の実務を担当しています。」

 「政府管掌」とは政府が「健康保険、船員保険、厚生年金保険、国民年金の各事業」を自らの権限事項としているということであろう。社会保険庁はそれら「各事業の運営実施の実務を担当している」、単なる事務方だということになる。

 と言うことは、社会保険庁が厚生労働省の外局という関係から、順番から行けば、厚生労働省が社会保険庁の監督官庁に位置し、政府自身が社会保険庁を含めた厚生労働省を監督する責任を負っている。当然最終管理責任は政府にある。

 この構造から行くと、安倍首相の国会答弁「年金の管理を行っております社会保険庁は、すでに国民の信頼を失っているわけでありまして」には、社会保険庁に対する間接的監督者であり、しかも最終責任者である政府自身の「国民の信頼を失」うに任せた監督責任・監督無能力への言及が一切ない。余りにも第三者的、他人事のような物言いで、このこと自体が余りにも無責任、無考え、鈍感に過ぎるのではないだろうか。

 このような無責任、無考え、鈍感な頭で一国の首相を務めている。責任感覚もない指導者が「美しい国を目指す」だ、改革だといくら叫んだとしても、国民が望むだけの結果は悲観的な期待で終わるに違いない。「国民のみなさまにこの組織であれば大丈夫」だなどという成果は、夢のまた夢の可能性大であろう。客観的認識性の過不足が物事のその後の対応・対策に距離を生じせしめると同じで、責任意識の有無・強弱がその後の姿勢の真摯さ・積極性に影響を与えるからだ。

 責任感覚もない指導者ということでさらに言うなら、安倍改正教育基本法・第十条(家庭教育)で「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有する」と規定しているが、「父母その他の保護者」に自分が保持してもいない責任感覚を求めること自体も、お門違いと言うことになる。
 
また、社会保険庁の「国民の信頼を失」うまでに至った度を外れたズサンな運営に政府自身が何ら責任を負わないで済むとしたら、番組内容捏造問題で放送局である関西テレビに提出を求めた調査報告書に関して、菅総務相が「『孫請け会社がすべてやったことになっていて(関西テレビの)経営全体の責任というのが全く書かれていなかった』と厳しく批判した」(07.2.9/14:17/asahi.com)態度は正当性を失う矛盾した行為となる。

 社会保険庁のズサン運営に対して間接的監督者であり最終責任者である政府自身が何ら責任なしとする責任回避の構図が許されるなら、「孫請け会社」に対して直接的監督者の立場に立ち、番組内容に関わる最終責任を負っている関西テレビにしても、「孫請け会社がすべてやったことになっていて(関西テレビの)経営全体の責任というのが全く書かれていな」い責任感覚なしの自己免罪の態度、責任回避態度にしても許されるとしなければ、責任追及の態度に整合性を失うからである。

 政府・官は許して、民は許さないと言うことでは公平性をも欠くことになる。安倍首相なら、それくらいのことはするだろう。

 菅総務相が「経営全体のですね、そういう責任というのがまったく書かれていなかった。また、再発防止に対して具体的なものがなかった。そういう点を再調査という形で、事務的な手続きを取る、まあ、そういうことにしました。そして今月一杯に再提出、それを求めたい、こう思います」(07.,2.9/NHKテレビ・正午のニュース)と報告書の再提出を求めたということは、安倍首相が「それはまずいよ、社保庁問題で政府も厚労省も責任を取らないで、民間企業にだけ責任を取れというのは、それはまずいよ」と止めなかったということだから、
安倍首相は既に〝それくらいのことはした〟ということになる。日本の首相だから、許されることなのだろう。

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柳沢発言/小池百合子の自己都合

2007-02-09 10:25:10 | Weblog

 責任を取るべきは自民党政治である

 07年2月5日の『朝日』朝刊『「イスラム国よりも遅れている」小池百合子氏が不快感』

 小池百合子首相補佐官(国家安全保障問題担当)は4日の民放テレビ番組で、柳沢厚生労働相の『女性は産む機械』発言について、『柳沢さんだけじゃなくて、イスラムの国よりも日本における男性の女性に対する見方は遅れているんじゃないか』と語り、不快感を示した。
 小池氏は中東へ留学体験があり、イスラム社会に詳しいことで知られている。辞任の必要性について『ないんじゃないですか』と否定したが、『男性にそのたぐいの人はいっぱいいます』と述べ、日本女性の人権状況に疑問を投げかけた」

 私自身は「中東へ留学体験」もなく、「イスラム社会に詳し」くないことで「知られている」人間だが、「女性に対する見方」は「イスラムの国」も「日本における男性」もどっちもどっち、五十歩百歩で、あるいはおっとこどっこいのいい勝負で、甲乙つけがたいのではないか。

 04年5月(日付は記入忘れ)の『朝日』記事『女性の権利、サダム以下』に次のような趣旨のことが書いてある。

 米英占領体制下のイラク統治評議会が03年12月29日に出した婚姻や離婚、相続など女性の地位にかかわる民法の諸規定を『イスラム法(シャリア)で置き換える』との内容の通達が発効した場合、「男性が2人以上の妻を娶る場合、これまで最初の夫人の承諾が必要だったのが不要になる。▽女性側からの求めによる離婚が難しくなるなど、イラクの法体系は大きくイスラム教原則に基づいたものに変えることにな」って、女性に不利になるとのこと。

 これに対してイラク女性連盟のメンバーを含む数百人の女性がバクダッドで抗議デモを展開し、イラク占領者であり、敵であるはずのブッシュ米大統領に通達を無効とするよう要請する内容のものなのだろう、書簡まで送った。このような騒動に対して統治評議会は「『手続きに欠陥があり、決定自体が無効』との見解を表明した」という。

 イラク女性連盟の事務局長のサラミ・フセイン女史の言葉「サダムは女性を弾圧したが、イラン・イラク戦争や湾岸戦争で男性の働き手が減り、一定程度の女性の社会進出は認められた。私たちが勝ち取った成果が台無しになりかねない」(同記事)

 「通達」が完全撤回されたとしても、「通達」で示すことになった女性に関わる〝認識〟(女性の意思よりも男性の意思を優先するという、あるいは無視するという差別認識)を政治権力者が体現していたという事実、これからも体現し続け、隠し持つことになるという事実自体は消すことはできない。認識は認識として残るからである。

 政治権力に位置している人間の差別的女性観という点で、イラクの統治評議会と「美しい国」日本の柳沢厚生労働相は対応しあっていると言える。

 小池百合子の「イスラムの国よりも――遅れているんじゃないか」は「柳沢厚生労働相の『女性は産む機械』発言」をキッカケとした感想であり、「日本における男性」の中に当然のこととして柳沢厚労相をも含めた発言だろうから、上記対応性(=どっちもどっち)を否定する矛盾が生じる。

 イスラム社会でよく例示される女性差別として、女性の貞操(日本では死語となりつつある言葉ではないだろうか)に関わる男性側からの不当な過度の要求が挙げられる。性的暴行被害者が暴行された事実を証明されないと、日本でも戦後は廃止されている姦通罪で訴えられたり、夫以外の男との実際の姦通でも、男は無罪になったり、軽い罪で済んだりするのに対して、女性は厳しく罰せられる法的な差別と同時に道徳上の男女差別を受けたり、あるいは離婚女性でも、再婚しない状態での性交渉は姦通と見なされて、それを知った第三者から訴えられ、裁判にかけられて女性がより厳しい刑罰を受けるという差別。当然、姦通女として人前で蔑まれ、様々な侮蔑行為を受けることになるのだろう。

 つまり、〝姦通〟とは男女二人の共同行為であるはずだが、それが不倫なら、共犯行為と言えるが、女性の行為がより重い邪な罪悪だとする制限を加えている。女性側にのみより多くの制限を加えることも男女差別というはずである。

 美しくない国日本の首相・安倍晋三が掲げている「戦後レジームからの脱却」とは、日本が誇って戦前まで制度としてきた、江戸時代は不義密通はお家の恥と切り捨て御免を決まり文句としてきた姦通罪を、戦後アメリカ民主主義によって廃止の憂き目を見たからとその復権をも「脱却」の目玉の一つにしているのだろうか。

 大体がイスラム社会での顔を目以外隠すスカーフの女性のみの着用は、男の側からの女性側への要求事項の一つとしてある慣習だろうから、男女差別を意味するものだろう。男女平等を言うなら、男もスカーフを着用して、目以外を隠すべきである。

 フランスで公立校でのイスラム教徒のスカーフやユダヤ教徒のキッパといわれる帽子等の着用を禁止する「宗教シンボル禁止法」が04年9月に施行され、それを拒んだイスラム系の女子中学生40人が退学処分を受けた(05.1.12.『朝日』朝刊『スカーフ守り退学40人 仏の宗教シンボル禁止法』)ということだが、逆に西欧社会は男女平等社会だから、西欧社会で生活する以上、イスラム男性もスカーフをつけるべきだとした方が効果があるのではないか。女性は慣習だからと慣れていたとしても、イスラムの男たちはスカーフが如何に不便であるか、頑なな固定観念が強いている因習に過ぎないかを知って、少なくとも男の側から着用を強制することはなくなるのではないだろうか。

 再度言うことだが、当たり前のこととして差別は認識自体に含まれていて、その発令を受けて行為の形を取る。認識自体が既に差別意志に侵されていることを前提として成り立つ。小池百合子が言う「女性に対する見方」がイスラムの認識そのものとして前以て植え込まれているということであり、行為の形で現れなくても、認識は認識として残るのだから、男女差別は一般的と言える。

 こう見てくると、イラクと日本の政治権力に位置する人間の女性差別の対応性が双方の一般男性にも及んでいることを疑って、「男性の女性に対する見方」はどっちもどっちと取った方が無難ではないだろうか。まあ、「中東へ留学体験」もなく、「イスラム社会に詳し」くないことで「知られている」人間の言うことだから、当てにもならないが。

 小池百合子としては、女性の立場として柳沢発言を容認できない、「不快感を示」さざるを得ない立場にいる。擁護したら、日本の多くの女性を敵に回し、自民党の支持率だけではなく、首相補佐官(国家安全保障問題担当)を拝命している関係からも内閣支持率に悪影響を受けることになるだろう。当然今夏の参院選の形勢に不利な状況をつくり出しかねない。

 いわば自民党や内閣にも影響を及ぼす自己の立場を守る自己都合の発言として、「イスラムの国よりも」お粗末だと「不快感を示した」に過ぎないのだろう。

 自己都合の発言でなければ、「辞任の必要性について『ないんじゃないですか』と否定」は矛盾する物言いとなる。国会議員であり、内閣を形成する厚生労働省の大臣である柳沢なる公職にある人間と一般人を相対化し、同等に扱うことことは許されるはずもないにも関わらず、「男性にそのたぐいの人はいっぱいいます」と罪の平均化を行い、それを免罪理由に辞任しないことを許している。人殺しは他にもたくさんいますと言って許すのと同じだろう。

 逆に「イスラムの国よりも日本における男性の女性に対する見方は遅れている」代表者として、柳沢厚労相を辞任の血祭りに上げるべきではないか。「美しい国」経済大国日本の厚生労働大臣である。代表者になる資格は十分過ぎるほどある。血祭りに上げてこそ、言ってることに整合性と正当性を与えることができる。

 公明党の女性議員にしても、小池百合子以外の自民党の女性議員にしても、柳沢発言に対して不快感を示したり、容認できない態度を取っているのは与党という立場、女性の立場という自己都合からの形式的なシグナルに過ぎないのは、誰一人辞任まで求めない姿勢から窺える。批判的な姿勢を強く示すことで世論――特に女性世論を納得させようということなのだろう。「私も怒ってるんですよ、許せませんよね。みなさんの気持ちがよーく理解できます」と相手の立場に立つことで怒りを和らげる。
 
 国会で質問されたからだろう、閣僚まで同じ自己都合を演じなければならない対応を迫られている。

 尾身財務相「柳沢大臣の発言は全体として不適切なものがある、――と考えております」
 麻生外務相「私もその内容につきまして不適切、適切さを欠いていたということははっきりしていると思っています」(07.2.9.TBS「みのもんたの朝ズバッ」)

 二人とも「適切」な発言とは言えない立場上の発言、自己都合の発言なのは、単に「不適切」と片付けるだけで、それ以上のものではないとしていることに現れている。

 勿論民主党にしても社民党にしても柳沢厚労相を辞任に追い込み、その任命権責任を安倍首相に問うことで、安倍内閣自体を追い詰め、夏の参院選を有利に運ぼうとする党利党略の意思無きにしも非ずだが、しかし柳沢大臣自体の資質の問題追及では、野党に正当性がある。あるからこそ、与党は防戦一方なのであり、柳沢厚労相は謝罪一辺倒の低姿勢を見せなければならないのだろう。

 それでも国民の多くは国会は議論する場であり、差し迫った問題となっている少子化問題を議論すべきだとして、自民党に対しても民主党に対しても厳しい態度を示しているが、「日本が人口減少社会になっていくのは実は30年前に分かっていた。残念ながら30年間、我々の社会は有効な手段を準備できなかった」(05.12.22.『朝日』朝刊『人口減産めぬ現実』)と小泉内閣で総務相を務めた竹中平蔵自身が言っているのである。

 「30年」間も「有効な手段を準備できなかった」、無為無策だったのは「我々の社会」ではなく、自民党政治なのである。民主主義の多数決の原理を利点として、無為無策を続けてきた。この場に及んで国会は議論の場です、審議する場所ですと少子化問題を熱心に討論したとしても、「30年前」から差し迫っていた少子化問題の、これが万能薬ですと言えるような解決策など、有能なマジシャンが見せる鮮やかなマジックみたいに一朝一夕の間に自民党の多数決が目の前に出せるはずはない。

 「有効な手段を準備できな」いまま「30年」も経過しないうちに国民は無為無策の自民党政治に責任を取らせるべきだったのである。取らせもせずに、少子化問題は差し迫った問題である、国会の場で審議せよと言うこと自体、矛盾している。認識不足この上ない。国民は矛盾していることに気づくべきだろう。

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政治とカネ/客観的認識性と問題解決の距離

2007-02-08 10:32:31 | Weblog

 認識不足から、適切な対策は生まれない

 昨日(07.2.7.)載せた「政治とカネ/桜井よしこのお粗末な客観的認識性」に関して,少々舌足らずであることに気づいたので、少し付け加えます。

 桜井よしこ「日本の政治は田中角栄以来、おカネを使うことに非常に鈍感になって、何をしてもいいという風潮になった。西欧では考えられない」

 この言葉は金権政治は田中角栄が始め、それ以来日本の政治的慣習となったということを言っている。裏返すと、日本人自身の問題、あるいは日本人全体の問題と把える意識は一切ない。日本人の問題とは日本の社会の問題でもあろう。勿論何人であろうと、「西欧」の人間であろうと、カネを力とする体質に無縁というわけではないだろう。但し政治後進国ほど、政治にカネを力とする傾向が強いように思える。

 田中角栄一人を張本人とし、悪党とする、その影響を受けた慣習と把えることと、日本人全体の問題、日本の社会の問題だと把えることとでは、その防止の網のかけ方――対処方法に違いが出てくる。勢い前者の防止策は対症療法を取ることになり、後者と見た場合は、否応もなしに原因療法と向き合わなければならなくなるだろう。

 また前者か後者かと見た場合とでは、問題に対する態度の真剣さに違いが生じる。日本人全体の問題ということになったら、真剣に取り組まなければならなくなる。当然、改善に向けた罰則を含めた対策の強弱・寛厳に関しても違いが生じてくる。

 児童虐待は、1980年代まで日本の専門家は欧米の問題であって、日本には存在しないとしていたという。平安・鎌倉・室町の時代から、継子いじめの物語が存在し、貧困からの乳幼児の間引き問題、捨て子問題が歴史的事実として存在していたにも関わらずである。

 継子いじめが行き過ぎて、虐待死に至らしめた事実がなかったと言えるだろうか。間引きに慣れて、単に邪魔だからと、あるいは子どもが一人増えてもどうにか食べていける状態にあっても、自分の食べ分が減るのがいやで、ついでに間引きしてしまえと殺してしまうということがなかったと言えるだろうか。

 江戸時代は間引きだけではなく捨て子が横行したというが、そのような習慣に便乗して、育児が面倒だからと、あるいは新しい男とやり直すために邪魔だからと、捨て子にしてしまうといったことはなかっただろうか。

 認識が事実をつくる。例え学校側が責任逃れからだろう何だろうと、いじめをいじめと認識しなければ、いじめはいじめの形を取ることはないのと同じである。専門家に児童虐待という認識がなかったことが原因して、日本には存在しないとしたのではないだろうか。しかし人間の存在性を問題としたとき、その本質は民族の違い(それぞれの文化や慣習の違い)を超えて通底している。

 児童虐待という認識が社会に存在しなければ、そのような事実が起こったとしても、マスコミも世間も児童虐待とは受け取らない。虐待した相手が義父や義母であった場合は、単なる継子いじめと受け止めることになるだろう。

 児童虐待は欧米の問題で、日本には存在しないというそもそもの認識が、少なくともその事後対策を今以て甘くしている素因となっているのではないだろうか。欧米で問題化したときに人間なるものの存在を省みて、どこでも、誰にも起こりうる日本人自身の問題でもないかと受け止めるだけの客観性があったなら、日本の社会に一般化していた児童虐待に関わる認識(日本には存在しないという認識)をいち早く改めるキッカケとなっただろうし、その対策に関わる姿勢・態度にも影響したことだろう。

 いじめに関しても、今みたいな陰湿ないじめや、いじめ自殺は昔はなかったとか、不用意に言わない方がいい。単に子どもの厭世自殺、あるいは衝動的な自殺と片付けられてしまったということも無きにしも非ずだからである。

 江戸時代の慣習で、その後もあとを引いている村八分には相当陰湿なものがあったということだが、村を出て行かざるを得なくなり、移り住んだ村で他処者と冷たくあしらわれてな追いつめられ、にっちもさっちも行かなくなって自殺したといった例がなかったとは誰も言えないだろう。かつての子どもたちの朝鮮人の子どもに対する陰湿ないじめは日本の大人たちの在日朝鮮人に対する意識(=認識)を受け継いで形作られたものであろうし、そのことから考えると、村八分で発揮される大人たちの権威主義の情け容赦のない力学を子どもたちが学習して、大人の権威主義の序列を引き継いだ子どもの序列間で再実演しなかったという保証はない。

 客観的認識性の過不足が物事のその後の対応・対策に距離が生じてくるとするなら、当然物事を見る目、人間の営為を観察する目が重要となる。

 桜井よしこの「日本の政治は田中角栄以来――」云々が如何に客観性を欠いた認識(=意識)によって成り立っているか、他の資料を使ってさらに補強してみる。

 田中角栄は1972年に佐藤栄作内閣の跡を受けて田中内閣を発足させている。佐藤栄作は後継者に福田赳夫を望み、そのため田中角栄は佐藤派を離れ、田中派を結成。福田赳夫と総裁選を争い、当選しての首相職である。竹下登が田中角栄に離反し、田中派を離れて竹下派を結成したのに似ている。

 総裁選当時、田中角栄は80億のカネをバラ撒いたと言われているそうだが、角福戦争と謂われた所以だろう、福田赳夫もそれ相応のカネをバラ撒き、当時〝実弾〟が飛び交ったと新聞を賑わした。買収のための現ナマを、その威力から〝実弾〟と形容するとは言い得てこれほどの妙はない。

 田中が80億ものカネをばら撒いたのは、佐藤栄作の後継の意中に入らなかったことと、当時は首相の学歴は旧帝大卒が相場となっていて、高等小学校と今で言う専門学校(中央工学校土木科卒)のみの学歴しかなく、首相の学歴を経歴としていないことの二つのハンデを撥ね返すためのなりふり構わない手段でもあったろう。

 だからと言って、桜井よしこが言うように田中角栄が政治をカネまみれにしたのはではなく、日本の政界は既にカネまみれだった。カネまみれの中で政治の世界を泳ぎ、その泳ぎ方を習って、熟達していった。造船疑獄事件がそのことを証明している。インターネット記事から見てみる。

 『造船疑獄事件(事件史探求)』

 -経緯-
昭和29年1月15日、東京地検は、山下汽船の横田愛三郎社長を贈賄容疑で逮捕した。さらに2月8日、日立造船の松原与三松社長ら4人を特別背任の容疑で逮捕。25日には、飯野海運、新日本汽船、東西汽船などを家宅捜索し、飯野海運副社長の三益一太郎らを逮捕した。

事件の発端は、当時日本最大と言われた高利貸し、森脇将光が「日本特殊産業」の猪俣功社長を訴えたことから始まった。当時、森脇が日本特殊産業に貸し付けた金が焦げ付き告訴したのであったが、当局が調査した結果、猪股社長の実体が無い会社から、山下汽船へ1億6000万円、日本海運へ3350万円と融資が焦げ付いていることが発覚した。そこで、東京地検が山下汽船を家宅捜査した際、隠し金の出納を書き込んだ「横田メモ」を発見し、政界・官界に流れた不正資金が明るみになった。

-時代背景-
戦前、世界三位だった日本海運業は、敗戦の影響で大打撃を被っていた。そこで、昭和22年から全額政府出資の「計画造船」がスタートした。1隻10億円の外航船の場合、政府出資の「船舶公団」から70%の融資、残りは銀行が貸すという保護措置であった。やがて、朝鮮戦争の勃発で、大型船舶の建造が認められ、しかも資金の70%は米国の「見返り資金」(日本が支払った配給小麦粉などの積立金)を年利7.5%で使っていいという厚遇処置も受けた。

ところが、朝鮮戦争休戦とともに、海運・造船業に不況の嵐が吹く。このため、銀行からの融資の利子を軽減するため、国が一部を肩代わりする「外航船建造利子補給法」の制定を政界・官界に働きかける。
この「外航船建造利子補給法」とは、日本開発銀行で借りていた年利5%を3.5%に、11%の市銀からは5%とし、その差額は政府が負担するというものだった(勿論、この差額は国民の血税で、国民の負担は167億円にのぼる)。
この法案は昭和28年8月、吉田自由党と鳩山民主党、改進党の保守3派共同提出案として国会に提出され、審議わずか10日間で可決した。

-賄賂を受け取った政治家と指揮権発動-
飯野海運の俣野健輔社長が中心となり、政界・官界にばら撒いた金は2億7000万円を超え逮捕者71人を出した。中でも、自由党の佐藤栄作幹事長(後に首相)、池田勇人政調会長(後に首相)は、党宛てに1000万円、個人宛てにそれぞれ200万円を受け取っていた。このため佐藤、池田らは「外航船建造利子補給法」制定に関し国会に強く働きかけていた。

東京地検は、いよいよ佐藤、池田への逮捕を目前に控えていた。検事総長は、佐藤の逮捕許諾請求を犬養健法務大臣に請訓する。ところが、犬養法相は「指揮権発動」で、佐藤の逮捕見送りを指示する。まさに、日本の法治国家が崩れた瞬間であった。

その後、佐藤は昭和29年6月に政治資金規制法で起訴されたが、国連加盟で恩赦となる。池田も佐藤もその後、総理大臣となる。日本では、逃げ切った者が勝者、捕まったものが敗者という図式はこの頃すでに出来上がっていた。――

 「指揮権発動」は〝事実〟の存在を証明して余りある。ワイロを受け取ったという〝事実〟である。無実なら、「指揮権発動」の必要はない。日本の政治は二重のゴマカシを犯した。

 田中角栄の親分だった佐藤栄作が既に金権政治に無感覚な体質をしていたのである。カネの力の有効性を身近にいて学ばなかったということはあり得ない。

 そして今以て日本の政治・日本の社会は〝政治とカネ〟を引きずっている。それは長い歴史を経て、日本人の伝統・文化となっている習性だと厳しく受け止めることができない甘い認識、客観的認識の偏りの仕返しとしてある社会的欠陥と見ることもできる。

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政治とカネ/桜井よしこのお粗末な客観的認識性

2007-02-07 11:41:15 | Weblog

 間違った常識を常識とする小賢しさ

 1月14日(07年)の「サンデーモーニング」でのこと。評論家の桜井よしこが昨年末の佐田玄一郎前行革担当相の事務所経費の付け替え問題や、松岡農相、伊吹文科相等の事務所費付け替え問題に絡んで次のように発言している。

 桜井よしこ「日本の政治は田中角栄以来、おカネを使うことに非常に鈍感になって、何をしてもいいという風潮になった。西欧では考えられない」

 これは桜井よしこ一人の考えではなく、かなり多くの人間の常識となっている。果して金権政治は田中角栄の発明による、田中角栄発祥の政治手段なのだろうか。

 私が中学か高校の頃にある人から大正時代の子どもの頃実際に見たこととして聞いた話だが、東北の農村地帯で力を持っていた豪農の主(あるじ)が村の選挙になると立候補者が立候補の挨拶に順次来るそうだ。「立候補することになりました。よろしくお願いします」と挨拶すると、主は「いくら必要なんだ?」と聞く。相手は「選挙資金にどれくらい必要です」と答える。すると主は脇に積み上げてった札束の中から相手が必要とするカネを数えて、相手が正座してかしこまっている前にポンと投げ渡したそうだ。相手は押し頂いて、引き下がる。

 ポンと投げて渡した――手渡すことのできる距離に相手は座っていなかったということだろう。離れて座っていたから、ポンと投げることになった。裏を返すと、手渡して貰える程の近い距離に座ることはできなかった。その距離も、投げて渡す行為からも、主と立候補者との力関係の差、あるいは違いがどれ程のものか窺うことができる。相当な距離があったに違いない。

 その豪農の主にとって、カネを受け取った者のうち誰が村会議員に当選しようとも、そのすべてがお釈迦差の手のひらの中の孫悟空と同じく、薬籠中の存在に過ぎないだろう。現在の若者言葉で言うなら、パシリに当たる存在だったに違いない。カネの力がそうさせるのである。

 立候補者たちは受け取ったカネを村の者を集めて、飲ませたり食わせたりしたに違いない。村の中で一般の村人よりも力を持った者は女まで抱かせてもらったかもしれない。

 このような光景は日本ではどこでも一般的な光景だったことは簡単に予想がつく。その証拠を『近世農民生活史』(児玉幸多著・吉川弘文館)から見てみる。

 「太宰春台(江戸中期の儒学者)はその著『経済録』において検見法の弊害を論じ、『代官が毛見(検見――役人が行う米の出来栄えと収穫量の検査)にいくと、その所の民は数日間奔走して道路の修理や宿所の掃除をなし、前日より種々の珍膳を整えて到来を待つ。当日には省や名主などが人馬や肩輿を牽いて村境まで出迎える。館舎に至ると種々の饗応をし、その上に進物を献上し、歓楽を極める。手代などはもとより召使いに至るまでその身分に応じて金銀を贈る。このためにかかる費用は計り知れないほどである。もし少しでも彼らの心に不満があれば、いろいろの難題を出して民を苦しめ、その上、毛見をする時になって、下熟(不作)を上熟(豊作)といって免(年貢を賦課する割合)を高くする。もし饗応を盛んにして、進物を多くし、従者まで賂(まいない)を多くして満足を与えれば、上熟をも下熟といって免を低くする。これによって里民は万事をさしおいて代官の喜ぶように計る。代官は検見に行くと多くの利益を得、従者まであまたの金銀を取る。これは上(かみ)の物を盗むというものである。毛見のときばかりではない。平日でも民のもとから代官ならびに小吏にまで賄を贈ることおびただしい。それゆえ代官らはみな小禄ではあるが、その富は大名にも等しく、手代などまでわずか二、三人を養うほどの俸給で十余人を養うばかりでなく巨万の富を貯えて、ついには与力や旗本衆の家を買い取って華麗を極めるようになるのである。――』」云々。

 上記光景は、「難題」を用いた、現在の政・官も用いている間接的なワイロ請求=収賄であることを示している。そして民は「難題」を避け、手心を加えてもらうために積極的に贈賄せざるを得ない立場に立たされている。今で言えば、パーテー券を買ってくれと依頼されて、仕方なく買うようなものだろう。代官はワイロで得たカネを力として、「与力や旗本」といったさらに上の家柄と権力を手に入れる。

 このように地位を権力とし、カネを力(=権力)とする効用が村世界を介してサムライ世界の習いとなっていることを村の住人は痛いほど知っていた。村の最高権力者である豪農の主が自らの権力の証明と、それをより確かなものとするために自らの地位とカネを村世界の習いとして自ら利用していたとしても不思議はないだろう。それが歴史・伝統・文化として後世にまで伝えられ、21世紀の日本の今日にまで至っている〝政治とカネ〟の問題であろう。
 
 『日本疑獄史』(森川哲郎・三一書房)によると、明治の元勲山県有朋は親友である医者の出でだが、尊王の志士として活躍し維新後山城屋和助を名乗って商人となった親友野村三千三を自らの贔屓で陸軍省の御用商人とし、当時は競争入札がなく、いわゆる今でいう随意契約で陸軍省への納入を引き受けさせて儲けさせ、リベートを受け取っていたという。山城屋和助はたちまち巨額の資本をつくり、海外にまで手を広げようと野心を抱き、生糸の海外取引を目論み、外国資本と対抗するための60万円の資金を山県に依頼した。山県当人がそれだけのカネを所持しているわけがなく、最初から陸軍のカネを当てにした依頼だったはずである。当時の政府の最高クラスの位置で800円くらいだったという。60万円はその約62年分の金額に当たる。

 山県は陸軍の予備金64万円を「貸し下げ金」の名目で山城屋和助に渡す。山形屋は生糸の海外取引で一時は巨額の利益を上げたが、普仏戦争で取引先であるフランスが敗れ、翌年パリ・コミューンの乱が起こり、労働者が政権を取ると、生糸を原料とした絹製品は殆ど売れなくなり、大和屋は30万円の大損をこうむり、その上和助が洋行中に店の番頭が相場に手を出して50万円の赤字を出す。64万円の陸軍予備金の私的払い下げが露見する。山城屋は窮して山県に依頼して貸し下げ金の返済を装ったニセ帳簿を作らせるが、それも露見して、陸軍省に出頭を命ぜられた和助は「観念して、一切の証文を破り捨て、山県を初め長州閥高官に送った割り戻し(リベート)の記録もすべて焼き捨てた上、明治4(1871)年11月29日朝、陸軍省に出かけ、返済が遅れていることをわび、『書類の整理をしますので、暫く一室をお借りしたい』と教師官の空き部屋を借りて中にとじこもった」。

 死人に口なしが幸いしたのか、元々長州閥の雄としてそれなりの権力を持っていたからなのか、明治維新から3年経過したばかりの、新政府に不満を持った旧藩士等の不平士族の横行で人心も世の中もまだ定まっていない時期と重なって、政府高官である山県まで関与していたということが世間に知れたら、新政府攻撃の材料を与え、維新の正当性に傷がつくと考えたからなのか、多分そんなところだろう、『日本疑獄史』には「山県も山城屋のあとを追って割腹しようとしたが、西郷隆盛に抑えられて、果たさなかったともいう。これが事実としてもゼスチュアだけであったろう」と書いているが、山県にまで咎めは及ばずに済んだ。

 山県にしても、リベートで得た資金を自らの地位の保全や更なる上の地位獲得のためにばら撒かなかった保証はない。江戸時代の大名たちは江戸城で将軍に謁見するときの席次が同じ石高である場合は天皇から与えられる官位によって上下が決まるために、それを得るために将軍に進言する老中にワイロを贈ることを習慣としている。官位による席次の違いがそれぞれの誉に影響したいうから、誉はそれぞれの政治力に順次影響していっただろうし、官位自体が自己を誇る権威ともなり、政治力ともなっただろうことは容易に想像できる。それがワイロで決まった。

 これらは国会議員の地位がカバンを主としてジバン・カンバンで決まり、その恩恵を経て大臣の椅子獲得の要素となる4期だとか5期だとかの当選回数が、江戸時代の官位に相当する勲章と言えないことはない。

 こうしてみてくると、政治がカネを力としているのはあくまでも日本の美しい歴史・伝統・文化であることがよく分かる。桜井よしこが言っているように決して「日本の政治は田中角栄以来、おカネを使うことに非常に鈍感になって、何をしてもいいという風潮になった」わけではない。

 桜井よしこの認識が客観的認識の欠如から出ていることは言うまでもないが、欠如させている主たる理由は〝政治にカネ〟が美しい日本の歴史・伝統・文化としてあるものだとするのは国家主義的立場からして、とても容認できないからだろう。彼らにとって、あくまでも「美しい国」日本でなければならない。「田中角栄以来」とした方が日本の国を傷つけない方便としては都合がよく、容易に受け入れることができる。日本人の自分のことしか考えない利己主義が戦後のアメリカナイズが原因だとした方が都合がいいようにである。そうしなければ、日本民族優越論が早々に破綻することになる。

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野党審議拒否のコストと日本の借金のコスト

2007-02-05 03:19:31 | Weblog

 不思議の国ニッポンのジャーナリスト

 2月4日(07年)の朝日テレビ『サンデーモーニング』

 司会の田原一郎が民主党政調会長の松本剛明に対して、「柳沢厚労相が辞任しない限り、審議拒否は永久に続けるのか続けないのか、審議に応じて柳沢不信任案の提出で応じるべきではないか、出すのか出さないのか」とか、「辞任要求と審議拒否を愛知県知事選挙と北九州市長選挙に利用しようとしているのではないか」とか、田原自身はいつものことだが単刀直入な物言いを使ってホンネを聞き出そうと思ってしたことだろうが、元々単刀直入には答えようがない問題だとは単細胞だから考えが回らないらしい。

 田原総一郎の頭の中とは違って、世の中はそんなに単純にはできていない。民主党の松本は「永久にというわけではない」とか、「不信任案提出は今のところ予定していない」とか、「県知事選と市長選は柳沢問題とたまたま重なったでけで、選挙に利用しようとしているわけではない」と、まあ、そんなことを言って、ごく当たり前のことを答えていたが、田原は白黒はっきりさせようと、「どっちなんです、どっちなんです」とせっつく。

 戦術は一般的には状況の変化に応じて常に変化させていくものである。例え最後まで同じ戦術を押し通すにしても、状況に変化がなかったか、変化しても同じ戦術でよしと見たか、あるいは戦術を変えるだけの頭が働かなかったか、いずれかであろう。

 いわば状況が変化すれば、戦術も変えていくのだから、現時点で白黒など簡単にはつけることなどできないことを無理につけさせて、誰それはこういった、俺が言わせたのだと手柄にしたいだけのことだろう。名前は知らないが、血圧が高くて脳梗塞の危険信号一歩手前のような赤っぽい崩れかかった顔をしたコメンテーターのオッサンが(郵政造反組復党問題が持ち上がった時の、そのあと脳梗塞で倒れた平沼赳夫に似た赤っぽい表情)「国会が1日空転することで、どれくらいのコストがかかるか、昔とは全然違う・・・・」といった口の挟み方でトンチンカンなことを言い出した。何とまあ、こんな人間がジャーナリストでございます、コメンテーターでございますとジャーナリズム世界のヒナ檀に座っていられる。不思議の国のニッポンならではの光景だと思った。

 「インサイダー」編集長の高野孟が「数のバランスの問題で、不信任案を出しても1発で否決されてそれでおしまいとなるから、審議拒否という手に出たと思います」と分かりきったことを解説をして見せた。

 賛否の大勢は決まっているという既成事実を前にしてすべての事を行わなければならない。野党にとっては柳沢発言自体は問題だが、問題が大きいからこそ、その大きさに応じて不信任案提出・与党反対多数の否決という分かりきったパターン・分かりきった儀式で終わらせてはならない、安倍内閣を追いつめるための絶好のチャンスでもあるのだ。与党側から言わせたら、不信任案提出は逆に柳沢問題を幕引きとし、安倍内閣にこれ以上の深手を負わせないで済ますことのできる思う壺となる。野党はそれを知っているからこそ、簡単には不信任案は出せない。出す、出さないの言質も、審議拒否をどれくらい続けるのかの言質も取られることはできない。

 与党は国会審議に応じよ、審議してこそ政治だ、議論してこそ政治だと応じないことがさも政治の道に反するようなことを言っているが、立場を変えれば、同じことをするだろう。例え審議に応じて論戦を挑んだとしても、野党が議論は尽くされていない、もっと審議に時間をかけよと要求したとしても、与党は審議打ち切りの動議を提案、賛成多数で可決し、同じ賛成多数で与党の法案を可決・通過させる。議席数の趨勢でパターンは最初から決まっているのである。柳沢失言を安倍内閣追及のチャンスとしないで、そう簡単には決まりきったパターンには乗れないだろう。

 田原総一郎にしても分かっていながら、当たり前なら口にできない言質を一つでも取って自分の手柄にしたいばかりに、はっきりとは言えないことを言わせようと小賢しい振舞いに出ているのだろう。

 ここら辺で野党も開き直って、そうだよ、不信任案提出・否決のワンパターンで終わらせないための審議拒否だよ。日本のために何が何でも安倍内閣を倒すという国民のためになる絶対善の前に、少しぐらいの駆引きはするる。県知事選にだって利用するよ。地方選挙で自民党候補に勝つことも安倍内閣を追いつめる一助にもなるんだから、当たり前のことじゃないか、と強気に出た方がいいのではないか。

 勿論、審議拒否が野党に不利になる状況が生じるようになれば、それなりの口実を設けて審議に戻る。戦術は状況に応じて変化させなければならないからだ。勿論裏目に出ることだってある。すべては安倍内閣を倒して、日本を美しい国にするための駆引きなんだ、柳沢厚労相が辞任しない限り、審議拒否は永久に続けるのか続けないのかなどと、バカなことは聞かないでくれぐらいは言ってやれ、言ってやれ。

 バカなコメンテーターが「国会が1日空転することで、どれくらいのコストがかかるか」などとたわけたことを言っていたが、自民党が戦後ほぼ一党独裁状態で政権を引き継いできて積み上げた国の莫大な借金800兆円のコストに比べたら、1ヶ月や2ヶ月の国会空転でも、たかが知れたコストでしかないだろう。地方の200兆の借金にしても地方が自民党の支配下にあるようなものだから、自民党政治がつくり出したコストと言える。合計1000兆の借金という名のコストの中に政治家のムダ遣いばかりではなく、中央省庁のムダ遣いと地方自治のムダ遣いが大きな顔をして席を占めているのは断るまでもない。そのような無責任な借金主である自民党を倒すことこそが、日本という国にとっての最大の善になるはずである。

 自民党に言わせれば、借金もつくったが、日本を経済大国に押し上げ、国民の生活を豊かにしたのは自民党政治のお陰だと言うだろうが、戦後の1ドル=360円の円安固定相場とその後の変動相場下でのほぼ一貫した円安に力を借りた貿易黒字、さらにアメリカ経済の恩恵、朝鮮戦争特需にベトナム戦争特需といった数々の僥倖、それに日本の技術がなぞることで培うことのできた欧米技術の存在が幸いしたのであって、自民政治がつくり上げた経済発展ではない。

 日本の技術、日本の技術と日本の技術が日本独自の優秀さを持っているが如くに言う人間が多いが、日本の技術は日本の技術だけのものではない。日本の技術は中国の技術でもあるからだ。中国にしても欧米の技術をなぞり、欧米の技術をなぞった日本の技術をさらになぞって、かつての日本のように着々と技術力を高めている。日本は単に欧米技術の尻について時間的なスタートラインを30年も40年も先につけて技術を先行させたに過ぎない。中国の小平が改革開放経済に着手したのは1979年で、日本の敗戦から遅れること24年後であり、それから27年しか経っていない。この時間的な差は大きな財産でもあるだろうが、日本の技術が日本の技術だけのものだと過信していたら、過信のしっぺ返しを何らかの形で受けることになるだろう。

 安倍晋三は「美しい国を目指す」、「美しい国を目指す」とバカの一つ覚えのように言うが、今の「美しくない国」日本をつくり出したのが自民党だということ誤魔化すために「美しい国」、「美しい国」と言っているに過ぎない。今の美しくない日本をつくり出した元凶は自民党の自作自演政治だということを総括しないで「美しい国を目指す」ことなどできようがないからだ。総括せず、アメリカがつくり出した戦後体制(「戦後レジーム」)に責任をなすりつけようとしている。

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無資格助産と高校履修無視

2007-02-04 08:58:59 | Weblog

 「横浜市瀬谷区の堀病院が助産師の資格のない看護師らに助産行為をさせていた事件で、横浜地検は、保健師助産師看護師法(保助看法)違反の疑いで書類送検された堀健一院長(79)ら11人を1日にも起訴猶予とする方針を固めた」(07.2. 1/読売新聞『無資格助産 院長ら11人起訴猶予 横浜地検』)

 不起訴理由は無資格助産行為は個人病院の多くで行われていて、起訴した場合、産婦人科医療現場に混乱が起きると見たということらしい。

 受験科目を優先させるための世界史履修無視が多くの高校で慣習化していた。一つ二つの高校だったなら、校長やそれを知っていた教育委員はそれなりの罰則を受けただろう。時間を減数した再履修で事なきを得たが、罰則で臨んだ場合、教育現場に混乱が起きたに違いない。両者とも現場の実態に行政が対応しきれない能力不足の面もあるだろう。

 履修無視は政治家・行政が学力低下を言い立て、学力の向上で学校の尻を叩くが、学力が高校入・大学入試を含めたテストの成績で計る構造となっていることから受験に無関係な科目の排除・受験科目重視へと追い立てることとなった教育現場の実態に何ら手を加えることができなかった教育行政の認識不足も原因しているはずである。

 同じ新聞は「内診について厚生労働省が02年と04年の2度、『看護師では違法』とした通達を出している」が、「厚労省が05年に設置した諮問機関『保助看法あり方検討会』では、看護師が内診を行っていいかどうかなどについて統一見解を示せず、医療関係者から通達の見直しを求める動きも出ている」と伝えて、「統一見解を示せ」なかったのは、「看護士では違法」、「内診」は助産師に限るとした場合、やはり検察と同様に現場に混乱が起き、出産が不可能となる恐れが出ると見たからだろう。いわば、現状追認の形で放置しするしかなかった医療行政の対応能力不足を指摘している。

 言ってみれば、無資格助産行為も高校の履修不足も無能な行政の犠牲と言えないこともない。

 厚労省に対しても検察に対しても上記状況に追い込んだ〝現状〟の具体的な説明を新聞は次のように解説している。

 「看護師らによる違法な助産行為の背景には、助産師の雇用を巡る問題がある。国内で就業する助産師は約2万6000人おり、国は『総数は足りている』としているが、実際は助産師が公的病院に集中し、個人経営の産院には不足している“偏在”が問題になっている。
 病院と個人経営の産院で扱う分娩(ぶんべん)総数はほぼ同数だが、産院などに雇われている人は18%と少なく、68%が病院で働いている」(06.8.24.「読売」『「出産数日本一」の病院、無資格の助産行為で摘発」)

 助産師資格のない看護師による「内診」で手荒な処置や出産後の母親の死亡事故等が起きているとのことだが、「産院などに雇われている人は18%と少なく、68%が病院で働いている」という実態の原因は、「『待遇』を指摘する声がある。給与や福利厚生、労働条件は大病院と比べると見劣りしがちだ。人員が少ない分、責任も重くなることを敬遠する傾向もあるようだ」(06年9月6日の『読売』『(2)診療所をなぜ嫌う 産科看護師との微妙な関係』)と報じている。

 待遇がいいからと、総合病院などの大きな病院に集中する。結果、排除された個人経営の医院などの小さな病院は人手不足に陥り、一人頭の責任が重くなって、なお敬遠される悪循環を窺うことができる。

 これは都会の方がいい暮らしができる、さまざまな娯楽施設・商業施設も整っていて、充実した人生を送れると都市に集中し、地方を敬遠する人口偏在と軌を一にする傾向だろう。その結果の地方の過疎化と都市の過密化。その果ての東京一極集中。

 しかしこれらの傾向の本質的原因は日本人の権威主義的性向が仕向けた実態化でもあろう。助産師や看護師の場合で言えば、街の医院よりも、総合病院に勤めた方がカッコーがいい、ステータスとなるからと選択する権威主義(上下に権威づけて、上の権威をより価値ありとする価値観)がそもそもの「偏在」をつくり出し、結果として総合病院の待遇をよくして、なおさら「偏在」に拍車をかけ、街の医院の人員過疎と低待遇を招く。

 地方から都市への人口流出にしても、きつくて身体が汚れる肉体労働だと農業を低く見て忌避し、格好よくしていられる都会のサラリーマンを上の職業と見る権威主義が本質のところで誘因を成す現象であろう。若い女性の農家の嫁になるよりも、都会のサラリーマンの嫁志向にしても、農家の嫁を低く見る権威主義が仕向けた傾向に違いない。そのことが農村の嫁不足を生じせしめて独身者をつくり出し、せっぱ詰まって嫁探しに最初は韓国、ついで中国、さらにスリランカ、アフリカにまで足を伸ばす農村の皮肉な実態を現出せしめた。

 高校の履修無視にしても素因は旧帝国大学を全身とする国立大学や私大でも歴史の古い早大・慶大を上位権威とし、その他の大学を順次下位に置く序列づけと、その序列を学制にまで広げて、高卒よりも大卒を上の権威とする教育場面での権威主義を成す学歴主義の煽りを受けた学力偏重(=テストの成績重視)が引き起こした受験科目偏重に過ぎない。さらに言えば、このような傾向は社会の大卒偏重、特に有名大卒偏重の権威主義を受けた構図としてあるものだろう。

 社会の実態がそうであり、それを受けた学校の実態を認識することもできずに教育行政に関わっている。例え履修無視を行っていない高校でも、受験重視(=テストの成績重視)教育となっているはずである。そのような学歴主義の恩恵を受けて、行政に関わるそれぞれの官庁の役人は現在占めている席に座っていられるのだろう。テストの点数を力とした学歴主義の成果だから、「看護師が内診を行っていいかどうかなどについて統一見解を示せ」ない現状追認の無責任な対応しかできなかったのだろう。

 厚労省は「現在、国内で就業している助産師は約2万6000人だが、日本助産師会によると、助産師免許を持ちながら、助産師としては働いていない『潜在助産師』が、やはり約2万6000人いる。国は今年度から、潜在助産師に復帰を促す研修事業を始めた」(06.8.25.『読売』『無資格助産行為、出産現場は違法日常化 “割安”看護師が代役』)ということだが、自ら働く気があれば、他人の手を煩わさずに「復帰」しているだろう。中には他から促されて、じゃあ、と思い直す人間もいかもしれないが、多くを望めるのだろうか。

 尤も時間とカネをかけることになる「研修事業」を始めるについては多くを望めると計算した上でに違いない。何しろテストの成績で地位を獲得した優秀この上ない日本の役人たちである。ただ雁首を揃えているわけではあるまい。障害者が福祉サービスを利用する際の自己負担額原則1割とした06年4月から施行の「障害者自立支援法」が障害者に過剰な負担を強いる内容だと分かって1年も経たずに軌道修正するといった誤った見通しを立てるはずもない。

 平成15年度の厚生省統計で国民医療費に占める割合が「36.9%」の「約11兆6,523億円」にも達している高齢者医療費の増加の食い止めと介護保険料給付費の減額を目指して(06年度は1500億円の介護保険料給付費の減額を見込んでいたという)、運動施設を国が用意し介護を必要としない老人の育成を目的とした「介護予防事業」を06年度事業費として320億円つけてスタートさせたものの、予定した参加者が集まらず、1年で見直すヘマを犯すはずもない。

 日本産婦人科医会は「かつて、お産の進行度などを診断する『内診』を『単なる計測であり、看護師にもできる「診療の補助」に当たる』と解釈、会員を指導してきた。同医会は1960年代から『産科看護研修学院』という講座を各地で開催、看護師や准看護師らに研修を受けさせ(産科看護師)などと呼んで組織的に内診させていた」(06.8.24.『読売』『「出産数日本一」の病院、無資格の助産行為で摘発』)といった経緯があるという。

 ドイツの自動車運転免許取得は日本のように自動車教習所内で運転を習うのではなく、いきなり一般公道に車を走らせて練習するということだが、例えエンジンをかける方法を知らない人間でも、訓練次第で満足に運転できるようになる。

 このドイツの実態を産婦人科医院の看護師に当てはめるとしたら、ドイツの運転教習者以上の、既にある程度の医療知識を身につけた立場で彼らは〝公道〟に出ているのである。助産教育現場ではなく、医療現場という〝公道〟から出発したとしても、既に身につけている先行条件に助けられて、ドイツの運転教習者が習得する以上の助産技術を身につけるはずである。技術とは所詮、センスがモノを言う。有名医科大学で高度の技術を学び、国家試験に1発で合格したとしても、センスのない人間が自身の経歴を過信したら(センスがないから過信するのだが)、何らかの医療事故を引き起こすことになるだろう。

 〝公道〟での訓練で資格を与えた上で、何らかの事故を犯した場合は不起訴といった現状追認の事勿れな処置ではなく、関係者共々厳しく罰してそれ相応の責任を取らせるべきではないだろうか。

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