柳沢発言に対して、民主党以下の野党は安倍首相に柳沢辞任を迫ったが拒絶され、衆議員予算委員会での補正予算委員会に欠席、与党単独での質疑・採決となり、補正予算案は2日(07年2月)夜の衆院本会議で与党単独で可決、衆院通過となった。
対する民主党・社民党・国民新党の野党は愛知県知事選の応援に名古屋市に駆けつけ、柳沢発言の女性蔑視、柳沢擁護の安倍首相の姿勢を批判。その効果の程は?
新聞に「演説には約1千人の聴衆が集まったが、名古屋市の女性(60)『県政とは関係ない』。別の女性(43)も『女性蔑視と知事選に何の関係があるか分からない』と首をかしげた」(『4日愛知知事選・北九州市長選 厚労相問題の行方左右 「2勝で辞任」狙う野党』(07.2.2.『朝日』朝刊)と出ていたが、2人の女性は元々自民支持か公明支持なのだろう。
その理由は、柳沢発言が女性蔑視や人権問題、あるいはそこに国家管理思想が隠されていて政治家としての資質に欠ける、特に女性の出産に関わる少子化問題を取り扱う厚労相の役目にふさわしくないから見逃すことのできない問題であるといったこととは別に、野党支持なら、与党の失点となるどのようなことでも与党を追いつめるキッカケとするだろうから、野党支持者にとっては別の意味で見逃すことのできない絶好のチャンスとしなければならないからだ。逆に与党支持者は絶好のチャンスとしてはならない言動に終始する。それは当然の対応だろう。
だが、「県知事戦とは関係ない」とするのは与党支持者だから相手にしないでは、元々自民支持の方が多いのだから、その状況に何も手をつけないことになる。民主党以下にとっては県知事選の行方が参院選の帰趨にも影響する。
民主党以下は「県知事戦とは関係ない」とする有権者の対応を想定し、そのことに対する、大袈裟に言うなら、理論武装を行い、例え野党支持に取り込むことはできなくても、少なくとも「関係ない」とする考えを心得違いだと改めさせるといった危機管理の試みを応援演説の中で試したのだろうか。
そういった一歩一歩の積み重ねが支持率を与党との差を縮小させ、安定した高い数値に持っていく道となるのではないだろうか。
例えば、「柳沢発言は中央の問題であって、地方の問題ではない、県知事選とは関係ないとする有権者もいるかもしれない。しかしこれは違う。すべてに通じる人間としての資質の問題です。古い感覚、古い女性観を持った程度の低い人間が閣僚、大臣をしている。それを許すことは、閣僚、大臣が許されるのだから、一般の国会議員なら、なおさら許される、県知事、県会議員なら、なお許される。市長、市会議員ならなお許される。町長、村長、あるいは町会議員、村会議員ならなお許されるということになって、日本特有の、なあなあの無責任の世界、馴れ合いの世界の蔓延を黙認することになる。そもそも安倍首相の柳沢擁護自体が『女性は産む機械』とする古い女性観を擁護することにもなるもので、無責任で、一種の馴れ合いを生じせしめる性格の対応なのです。このような無責任な馴れ合いを地方自治の世界でも許せるというのですか。決して県知事選とは関係ない事柄ではない。県知事であろうと県会議員であろうと、すべての人間に通じさせなければならない問題であって、決して県知事選と関係ない事柄ではないのです」
柳沢厚労相が問題発言した後のマスコミの街頭インタビューで殆どの男性・女性が許せない文脈で批判していた。これは野党にとって有利な情勢であったろう。利用しない手はない。民主党の小沢一郎にしても、特に女性である社民党の福島党首は自らマイクを握って街頭に出て、街頭インタビューをするパフォーマンスをなぜ演じなかったのだろうか。他の党員に家庭用のデジタルビデを持たせてその模様を撮影させる。その街頭インタビュー光景をマスコミが追いかけ、テレビで報道し、新聞に書く。民主党も社民党も、自らの街頭インタビューの様子を自らのHPで発表する。こういったことも世論喚起の有効な方法とならないだろうか。
これは他のケースでも利用できると思う。選挙応援で選挙カーの上から一方的に喋る。選挙カーから降りて、よろしくお願いしますと言い、頑張ってくださいと大体決まりきった言葉を交わして、有権者と握手してまわる。テレビ・新聞がその場面を報道する。そういったことだけではなく街頭インタビューを通して、何か要望を尋ねたりすることで言葉を交わす。好感を与える機会となるのではないだろうか。
1月25日(07年)の『朝日』朝刊『愛国心「ある」が78% 本社世論調査』なる記事に「国民の8割が自分に愛国心が『ある』と思い、そのうち9割は先の戦争で日本がアジア諸国におこなった侵略や植民地支配を『反省する必要がある』と考えていることが、朝日新聞社の世論調査(面接)で分かった」と出ていた。
常々言っていることだが、人間は一般的には愛国心を基準に行動しているのではなく、自己を基準として行動している。それはただ単に一般的な社会生活に於いて愛国心を基準に行動する機会が皆無に近く、自己を基準に行動する機会に圧倒的に支配されているからに過ぎない。
但し人間は自己利害の生きものであることを本質性としていることから、国家を基準に行動しようとも、自己を基準に行動しようとも、自己利害性を反映させる。自己を前面の押し出す場合に於いても、国家を前面に押し出す場合に於いても、自己利害を基準とする。「愛国心」表現にしても、自己利害表現の一つに過ぎない。
国家を前面に押し出す「愛国心」表現が自己利害を基準とする以上、自己利害表現が妥当な性格を備えていて初めて「愛国心」表現も妥当性を獲ち取ることが可能となる。優越民族意識からの偏狭且つ独善的な「愛国心」表現は、本質のところで優劣の価値観を自己利害の基準の一つとしていて、その反映から生じた自縄自縛であろう。自国の優越性だけを信じ、他の民族を劣るとし排斥したり、経済力を笠に着て自国の国益追求のみを優先し、他国の利益を不当に排したりの独善的「愛国心」は優劣の価値観にのみ立った自己利害表現以外の何ものでもない。
そういった独善的で偏狭な「愛国心」から免れるためには、人間が自己利害の生きものであっても、同時に社会の生きものであり、社会の一員たる務めとして、自己利害は社会の規範・社会のルールの範囲内にその主張をとどめなけれがばならないことを弁えて、そのような姿勢を基本とした存在性を揺るぎないものとしていく以外に方法はないのではないだろうか。
例えば自己利害は社会のルールとしての基本的人権や男女平等・男女同権といった社会的権利、各種の条例や法律、あるいは公徳といった守るべき社会的規範等の規制を受けている。これらの規制を踏み外さない、自制した自己利害表現を自己の社会的姿としたとき、そこからは優劣の価値観を自己利害の基準とする姿勢は生まれようがなく、それは「愛国心」表現に対しても当初から優劣の価値観を排した独善性とは無縁の自制された形で反映されるていくだろうからである。
別の言葉で言い換えるなら、社会のルールに従った社会的姿(=自己利害表現)が愛国心表現へと谺していくことで、愛国心は偏狭性や独善性に陥ることから免れるということではないだろうか。
と言うことは、あくまでも社会のルールに従った自己利害表現、そのような社会的姿を人間は基本としなければならないと言える。
大体に於いて、社会のルールをその社会に生きる人間の基本的な生き方としなければならない規範に反して、逆にそれを踏み外した自己利害行為を自らの社会的姿とした場合、そのような社会的姿は「愛国心」行為にも反映されるだろうから、「愛国心」を口にする資格もないだろう。
このことを朝日新聞の世論調査に当てはめて考えるとしたら、「国民の8割が自分に愛国心が『ある』と思」っている、その「愛国心」が偏狭さや独善性に陥らない妥当な性格を維持するためには、「国民の8割」が優劣の価値観を判断基準としないことと、諸々の社会的ルールに従った自制した自己利害表現を自己の社会的姿としていなければならないことになる。
「自分に愛国心が『ある』」とする「国民の8割」が優劣の価値観を自己利害の基準とせず、諸々の社会的ルールを忠実に守る上記社会的姿を取っているするなら、「国民の8割」に対応した日本の社会の「8割」の場面で優劣の価値観から生じる男女差別や障害者差別、さらには何らかの人種差別は存在しない社会であり、企業の粉飾決算やリコール隠し、保険金の不払いや消費者金融の利子の取り過ぎ、建設業界の談合、あるいは政治家や役人の犯罪・不祥事、あるいは殺人や強盗、公金横領、飲酒運転殺人等の各種犯罪といった日本社会の不正は無縁の状況でなければならない。
だがどう贔屓目に見ても、政治の社会でも官僚・役人の社会でも、企業社会に於いても、あるいは一般社会に於いても、いずれの社会であってもその「8割」方の場面が不正・犯罪にまみれ、残る2割方のみが被害を免れているとしか見えない。
と言うことは、「国民の8割が自分に愛国心が『ある』と思」っていたとしても、その「愛国心」は偏狭で独善性に陥りやすい性格の「愛国心」かマヤカシの「愛国心」ではないかという疑いが生じる。前者に関しては北朝鮮が日本列島越しに太平洋に向けてミサイルを発射したときの朝鮮学校生徒に対する嫌がらせや、05年の中国の反日デモに対する過剰な嫌中感情に既に見てきている。
後者に関しては、例え優劣の価値観からではなく、その多くが即物的な損得の自己利害から発した不正・不祥事・犯罪であっても、そのような社会のルールに反した自己利害表現が国家を前面に出す「愛国心」表現に反映されないはずはなく、妥当性を持つとは到底思えない。すべてが「愛国心」に反する行為なのだから、不正・不祥事・犯罪を横行させておいて、「愛国心」もクソもないだろうということである。
俺は関係ないという人間が大勢いるだろうが、官僚等が予算を誤魔化したり、企業に接待を迫ったりして飲んだり食ったりするコジキ行為は彼らの専売特許としてあるものではなく、学校の卒業式や運動会の後、慰労会だ反省会だと称してPTAや学校の予算で飲み食いする、あるいは自治会でも似たような口実を設けて自分の懐を痛めない飲み食いをすることにつながった日本の社会全体に亘る慣習であって、そのような慣習を出発点として政治家・官僚の不正・犯罪があるのである。関係ないと言えるは人間は少ないだろうし、それは「愛国心」に関わる意識にも影響しているはずである。
つまり、「国民の8割が自分に愛国心が『ある』」としても、当てにはならない「愛国心」ではないかということである。
「国民の8割が自分に愛国心が『ある』と思い、そのうち9割は先の戦争で日本がアジア諸国におこなった侵略や植民地支配を『反省する必要がある』と考えている」ということだが、そのような「愛国心」と「反省」の「8割」に対するその「9割」という構図からも「愛国心」表現の実態を考えてみる。
〝反省〟なる心的営為は省察能力が可能とする。省察能力とは、自らを省みて、是非を考える能力をいう。「自らを省みて」の「自ら」とは自分自身のみではなく、自分の家族であったり、日本の社会であったり、日本という国そのものであったりするだろう。それらを対象として、それぞれの有り様を省察することによって、是非の判断が生じ、是非の結論に至る。
いわば〝反省〟とは戦前の日本の戦争のみを対象とした省察に限定されるわけではなく、すべての場面に亘って等しく機能させてこそ、その省察能力は過不足のない力を発揮し、「反省」の判断内容により多くの妥当性を与えることになる。
例えば、日本の戦争は反省する。しかし自分が家庭で夫の立場で妻に暴力を働いて何ら自省心が働かないというのでは、日本の戦争に対する省察(=反省の判断内容)は正当なものかどうかあやふやとなる。侵略戦争と家庭内暴力の違いは国家という集団か個人か、主体の違いのみであって、本質部分をなす人権意識や社会意識、倫理意識、暴力意識に関して言えば通底するということもある。
だが、一般論としても、日本の社会が不正・犯罪に覆われている事実から鑑みて、特に社会的責任をより多く背負っている政治家・官僚の不正・犯罪の跡を絶たない横行から見て、日本人の多くが「反省」の発動要素である自らを省みて、是非を考える省察能力の著しい欠如を見ないわけには行かない。
いわば社会のルールを無視した自己利害行動に走っている人間が数多く占めることによって現在の姿となっている日本の今を省みて、その是非を考え、あるべき姿に持っていく力を総体として抱えていないにも関わらず、「愛国心」だ、「反省」だと言っても、俄かには信じがたい。「愛国心」を言い、「反省」を口にすることで〝善〟を演じることができる可能性におんぶした口先だけの「愛国心が『ある』」であり、「『反省する必要がある』」ということもあり得る。
それを下司の勘繰りだというなら、特に政治家・官僚は自らの即物的な自己利害行為を社会のルールの範囲内に改め、醜悪さが満ちはびこった自らの世界・自らの社会を浄化してから、下司の勘繰りとすべきだろう。
社会のルールに従った自己利害表現を社会的な基本姿勢とし、それをカガミとして国を考える「愛国心」と対峙したとき、「愛国心」に関わるどのような自己利害表現も口先だけであることから、あるいは眉唾や奇麗事であることから免れることができるのではないだろうか。
基本はあくまでも社会のルールに従った自己利害表現であり、そのような姿を自らの社会的姿とするということだろう。
そうでない以上、同じ日付け(07.1.25)の別記事『日本に生まれて「よかった」9割』に書いてある、学校で愛国心を教えるべきだが「50%」だとか、「愛国心がある人や保守的な立場の人が日本の戦争責任をきちんと受け止めている姿が透けて見える」とか、世論調査から窺うことのできる態様は現れた数字どおりには受け止めることはできない。記事の中の「愛国心はあるが、中身などをあれこれ考えているわけではない――。そんな実態が見えてくる」という解説自体がそのことを証明している。