《逃げ切り狙い「麻生隠し」 自民の両院議員懇談会》(asahi.com/2009年7月18日5時0分)
「私自身の所信も述べたい。逃げるつもりは全くありません」。麻生首相がこう強調していた地方選総括と総選挙への決意を語る舞台は、麻生降ろしに発展する芽を摘むため、議決権のない「懇談会」となった。しかも、所要時間は1時間程度で非公開。徹底した「麻生隠し」からは、逃げ切りを狙う首相側の意図が見え見えだ。
17日昼の自民党本部。記者会見で懇談会開催を発表した細田博之幹事長は「報道面ではご遠慮いただいて、純粋に党内の議論として好きなことをおっしゃっていただく」。
開始時刻は当初想定していた午前11時から午前11時半に。解散詔書が朗読される衆院本会議まで1時間余しかない。議員総会の開催を求めた議員からは「2、3時間は必要だ」との声があがった。
執行部内にも、麻生降ろしを恐れず、首相が総会で堂々と語るべきだとの意見もあった。しかし、総会開催を再度求める中川秀直元幹事長に細田氏は「何時間もやると、(党に)マイナスという意見の人もいる」と弁明した。
首相の言葉とは裏腹に、首相側は懇談会にも後ろ向きだったとの指摘もある。細田氏は16日、所属する町村派会長の町村信孝元官房長官からの電話に「首相が絶対に開かないと言っている。総理の固い意思だ」。与謝野財務相、石破農水相が15日、首相に総会開催を迫った際も首相は「出て行っても中川(秀直)氏らが好き勝手言うだけ。開く必要はない」とそっけなかったという。
一方、党内では反麻生感情が広がった。懇談会の開催抜きで事態を収拾できないと危機感を抱いた幹部が「派閥会長がそろって官邸に行き、首相に要求すべきだ」と主張。町村氏は16日夕、ひそかに官邸を訪ねて党内情勢を伝え、首相の「懇談会開催」の意向を確認した。
懇談会が非公開になったのも、首相側の「首相がさらしものにされる。中川前財務相のもうろう会見のように、何度も映像が流される」(首相周辺)との懸念を踏まえたためとみられているが、執行部内からも「総理がなぜ逃げるのか理解に苦しむ。クローズ(非公開)にする必要はない」(谷川秀善参院幹事長)と疑問の声があがる。
首相は17日夜、記者団から非公開の理由を問われ、「クローズになったから批判が聞こえなくなる。そんなことがあるでしょうか」と反論した。「私が決めた話ではない」と3度も繰り返し、「党で決められたことに従っているだけ」と強調した。 (以上)――
ウソつきの親分(=麻生太郎)にはウソつきの子分(=細田)がふさわしい。ウソとウソを響き合わせることで、良好な関係を築くことができる。
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こういった形式のブログは仕上げるに楽でいい。スタイル変更模索中・・・・無策中(?)
石原慎太郎東京都知事が17日の定例記者会見で、往生際悪く政権にしがみつこうとしている自民党の周章狼狽騒動を評して次のように言ったそうだ。
「非常に優れた卓抜な総理大臣をいただくと、いろいろ混乱があるみたいだ。自民党幹事長が都議会に来て陳謝するなんて、まさに『みぞうゆう(未曾有)』なこと――」(47NEWS)
東京都知事までが認める麻生の「卓抜」さなのである。
麻生べったり・腰巾着の細田幹事長が麻生の指示なしで動くはずはない。麻生が都議選を「あくまでも地方の選挙。争点は都政の諸課題で都民が判断する。国政に直接関連しない」と物事の本質を洞察する能力に関しては「卓抜な」ご託宣を下して麻生内閣の不人気は関係ないよとゴマカシたものの、都議選自民党大敗北の現実を目の当たりにするとそのゴマカシが100%効かないのは麻生の「卓抜」した頭でも理解できたらしく、都議選翌日の13日午後の政府与党連絡会で麻生首相は次のようにゴマカシを修正している。
「都議選と国政は関連しないと言ってきたが、自民党のゴタゴタが悪影響を与えたことは否定できない。大変申し訳ない。来週早々に衆院を解散し、信を問いたい。投票日は8月30日。厳しい戦いになるが、経済危機から国民生活を守るため奮闘をお願いしたい」(msn産経 )
100%のゴマカシのうち、まだ70~80%のゴマカシが残っている麻生の国政にも責任があるとする意向を受けた細田べったり幹事長の「陳謝」なのは疑う余地はない。
政府与党連絡会から3日後の16日開催の自民党都議団議員総会に出席、「国会議員が一丸となってもり立てる時期に、様々な要因が出て、悪影響と打撃を与えてしまった。心からおわびします」(asahi.com)と言って、〈惨敗の原因は党内の混乱にあったと認め謝罪した。〉(同asahi.com)と、石原慎太郎都知事が言う「都議会に来て陳謝する」「まさに『みぞうゆう(未曾有)』な」珍事を演出したのである。
麻生の謝罪がなかったなら、細田の謝罪もなかったに違いない。「都議選と国政は関連しない」が有効期限を維持し続けるからだ。
このことも由々しいゴマカシだが、100%のゴマカシのうち、まだ70~80%のゴマカシが残っていると言ったのは「自民党のゴタゴタ」は麻生太郎という日本の首相の「卓抜な」無能・人格欠如が招いた「ゴタゴタ」でもあるのだから、それを「自民党」のみの「ゴタゴタ」で一括りするのは責任転嫁とも言えるゴマカシの更なるゴマカシに過ぎないからだ。自身の指導力のなさ、イコールぶれる態度に象徴的に現れていた自身の政策的無能や物事を深刻に把えることができないヘラヘラした態度に言及してこそ、最初のゴマカシを払拭できたはずだが、ゴマカシの上にゴマカシを上塗りする責任回避で首相職を維持してきた、その連続性を構成する一つとしてあるゴマカシだから、一つでも抜いたならその連続性と共に自らの存在自体が瓦解してしまうのだろう。
ウソつきからウソを取り去ったら、何も残らないのと同じ理屈に違いない。ウソつきはウソをついているときにこそ、生きいきとする。生きい生きとする機会が奪われるのである。麻生からゴマカシを取ったなら、何も残らないに違いない。
勿論、細田幹事長の「陳謝」にしても、麻生べったりの信念からして同調した麻生抜きの自民党の混乱のみに責任転嫁する「陳謝」なのは断るまでもない。
昨17日午後5時46分からの首相官邸ぶら下がり記者会見でも我が麻生太郎はその天性・「卓抜な」ゴマカシを発揮している。「毎日jp」記事――《「首相VS記者団」両院議員懇談会非公開「私が決めたわけじゃないから」7月17日午後5時46分~》を参考にして見てみる。
《「首相VS記者団」両院議員懇談会非公開「私が決めたわけじゃないから」7月17日午後5時46分~》
◇両院議員懇談会
A:はい。
Q:よろしくお願いします。TBSです。細田幹事長は21日(火曜日)に両院議員懇談会を行うと決定しました。両院議員総会を求める声がある中、懇談会を行うとした決定について総理はどうお考えでしょうか。
A:両院議員懇談会になったっていうのは細田幹事長の方からうかがいましたが、これは党の手続きを踏まれてそうなったんだと理解をしております。いろいろご意見があると承知しておりますので、そのご意見というのをしっかり聞かしていただきたいと思っております。その上で私なりの考え方というものを申し述べたいと思っております。
いずれにしても、自由民主党の長い歴史の中で、総選挙に臨んでは一致団結して戦う、これが自由民主党の長い歴史の伝統だったと私自身はそう思っておりますんで、その意を踏まえて今回の総選挙、臨むに当たってもその先頭に立って戦い抜かねばならんと、歯を食いしばっても頑張らないかん一番大事なところだと思っております。
Q:具体的にどのようなことを訴えたいということは、今はおありでしょうか。
A:私どもは今までの経済政策というものの成果というものは少し見えてきたところではあります。しかし、まだその成果は確実に中小、小規模企業、またいわゆる失業、弱者、いろいろ表現がありますけど、そういうところまでまだ届いていないというのが私どもの認識です。従って景気最優先、これが基本です。まだまだ、全治3年と申し上げましたけれども、まだ10カ月少々という時期でまだそこらのとこまで至っていない、これが一点。
もう一点は、北朝鮮含めて我々を取り巻いております安全、または防衛、外交関係というものを考えた時に日本という国の安全保障、生活を守る、日本を守るというところが一番大事なところだと私自身はそう思っております。
Q:総理、読売新聞です。関連して懇談会では、東京都議選など地方選での連敗が続いたことについてはどのようなお言葉で総括するお考えですか。
A:どのようなご質問が出てくるか分からん上で仮定の質問だけではお答えはしようがありません。東京都議選につきましては東京都議において総括が行われたと、それは自由民主党の幹事長が出られて答えられたと聞いています。
Q:この懇談会なんですけれども、所要およそ1時間、報道陣には非公開ということで一部には麻生批判を封じる狙いがあるのではないかという指摘もありますけれども、この点についてはいかがでしょうか。
A:どのような形で対応をするか、開催をするかというのは、これは幹事長のところで仕切っておられますんで、私どもが口を挟む話ではありません。その上でいろいろなご批判もあろうとも、クローズになったから批判が聞こえなくなる、そんなことがあるでしょうか。
Q:その件についてですが、朝日新聞です。逆にクローズにすることで変な憶測が生まれるとかそういう……。
A:あり得るでしょうね。
Q:それだったらかえってオープンにした方がいいという考え方もあるかと。
A:だからいろんな考えはいただいて、私が決めたわけじゃないから。私の決めた話ではなくて党でこのような形にすると決められたのに私は従っているだけですから、今の段階でみなさん方の話をご意見としては拝聴しますけれども、私が決めた話ではありませんので、これは党できちんと仕切っていかれた結果、こういう結論になったんだ、私自身はそう理解しています。
Q:党の総裁の判断でということもあるんじゃないでしょうか。
A:私はみなさん方の意見を聞くということに逃げる気はありませんとお答え申し上げております。ずーっと同じです。同じ答えしか答えていないと思いますが。
◇マニフェスト
Q:総理、テレビ朝日です。マニフェストの話について……。
A:マニフェスト、はい。
Q:小池百合子議員がですね、自分の訴えている政策が党のマニフェストに盛り込まれないなら独自のマニフェストを作るとおっしゃっていて、こうした動きは有権者の混乱を招きかねないと思いますが、総理はどうお考えでしょうか。
A:その話、詳しくうかがっていませんので答えようがありません。(以上)――
「私どもは今までの経済政策というものの成果というものは少し見えてきたところではあります」以下云々はイタリア・ラクイラサミット開幕の7月8日(09年)の「(日本は)過去最大規模の経済対策を打ち、底割れを防いだ」とする麻生の言葉を100%ゴマカシとする発言であろう。
いさなぎ景気を超える戦後最長の好景気の恩恵を受けて大企業が次々と戦後最高益を出していながら、その恩恵が一般生活者にまで届かず、生活が豊かになったという生活実感を与えないまま個人消費が低迷した現実から学習すると、「過去最大規模の経済対策を打」ったとしても、その恩恵が「中小、小規模企業、失業、弱者」等にまで届く保証はなく、保証がないことを払拭するのではない「まだその成果は確実に中小、小規模企業、またいわゆる失業、弱者、いろいろ表現がありますけど、そういうところまでまだ届いていない」と言うことなら、「底割れを防いだ」にしても何の保証にもならないゴマカシでしかなくなる。
大体が今ある日本の社会の生活上の数々の格差が市場競争原理一辺倒の自民党政治・小泉政治がつくり出した格差であることを隠して、「日本という国の安全保障、生活を守る、日本を守るというところが一番大事なところだと私自身はそう思っております」とシラッと言えること自体が天性・「卓抜な」ゴマカシとしか言いようがない。
格差社会をつくり出した政治の反省に立ち、それを反面材料とすることでより公平な社会に向かうことができるはずなのだが、反省も総括もせずに日本という国を支えていくのは自民党政治しかないようなゴマカシを言う。
次の質問として都議選を含めた地方選での自民党敗北の総括を自民党議員を集めた公の場を想定してのことなのだろう、どのような言葉で果たすのかと聞かれて、麻生は「どのようなご質問が出てくるか分からん上で仮定の質問だけではお答えはしようがありません」と答えている。
「どのようなご質問が出てくるか」想定することもできない頭の持主らしい。自身に都合の悪い話は「仮定の質問」だとか「仮定の話」として答を逃げる。これは首相としての責任を果たさないゴマカシ、責任逃れ以外の何ものでもない。
さらに都議選の敗北については、「東京都議選につきましては東京都議において総括が行われたと、それは自由民主党の幹事長が出られて答えられたと聞いています」と、自身の総括はなしで済ますゴマカシを働かせている。
少なくとも両院議員懇談会で都議選敗北の話は出ると思いますから、そのときに話したいと思いますと答えるべきだが、そのように答えたなら、今度は最初に言った「どのようなご質問が出てくるか分からん上で仮定の質問だけではお答えはしようがありません」がゴマカシだと露見することになる。結果的にゴマカシを以って責任回避を図る人間は徹頭徹尾ゴマカシを貫くことでしか責任が維持できなくなる。ゴマカシで果たす責任はメッキが剥がれないまま維持することはできないだろう。支持率低下や悪評となって撥ね返ってくる。今の麻生についてまさに言えることである。
オープンを義務付けられ、議決権を持った両院議員総会が非公開の議決権のない両院議員懇談会となった理由を「麻生批判を封じる狙い」からではないかと問われて、会議名目の変更については「これは幹事長のところで仕切っておられますんで、私どもが口を挟む話ではありません」と、麻生の意向で動いていることを隠して平気でゴマカシている。
また非公開とすることについても、「クローズになったから批判が聞こえなくなる、そんなことがあるでしょうか」と巧妙にゴマカシている。
記者等の傍聴者が直に耳にし、直に目にする、あるいはテレビの映像を通して国民が言葉と表情を直に把えることが拒否されて、出席者に対する質問をつぎはぎして成り立たせた間接情報はどれ程の正確さを備えるだろうか。反麻生派は麻生自身及び麻生派に都合の悪い反麻生情報のみを流すだろうし、親麻生派は自己に都合よく、反麻生派に都合の悪い情報――いわば麻生に対する批判を抑えた情報を流すだろうから、そのどちらもが間接情報である限り、意図せずに相殺、もしくは増幅されてどこまで事実なのか情報操作された不明確な情報だけが伝わることになる。
国民の誰の目にも批判を限りなく「聞こえなく」させるために両院議員総会から両院議員懇談会に会議名目を変えたと分かっているにも関わらず、「クローズになったから批判が聞こえなくなる、そんなことがあるでしょうか」と平気で言うことができるのは天性・「卓抜な」ゴマカシ人間だからこそできる芸当だろう。
朝日新聞の記者から、「逆にクローズにすることで変な憶測が生まれるとかそういう……」と追求されると、「ありうるでしょうね」と答ながら、「私が決めたわけじゃないから。私の決めた話ではなくて党でこのような形にすると決められたのに私は従っているだけですから」と麻生の意向を受けた細田の落としどころであることを隠して、ゴマカシたことを言う。「これは党できちんと仕切っていかれた結果、こういう結論になったんだ、私自身はそう理解しています」とさらにゴマカシの上塗りをする。
両院議員総会開催に署名した議員に電話等をして確認を取った結果、利用された、署名していないなどと言う議員が出て、開催要件の3分の1に当る128人に満たないことになったと言っているが、細田幹事長が麻生腰巾着・麻生べったりと言うだけで、ただでさえその中立性が信用できないだけではなく、署名確認の過程でそんなふうでは選挙応援はできない、公認は難しくなるかもしれないといったそれとない恫喝が行われた可能性も否定できとなれば、「私が決めたわけじゃない」がどれ程信用されると言うのだろうか。信用どころか、逆のゴマカシにしか聞こえないだろう。
麻生の指示を受けて細田たちの協力で「決めた」両院議員懇談会なのは誰も疑わない事実であろう。麻生自身が望んでいない形に幹事長等の党執行部が持っていくはずはないからだ。麻生のホンネの希望からしたら、懇談会も拒否したかったろうが、拒否した場合、却って収拾がつかなくなるのは目に見えていたから、仕方なく懇談会開催で妥協したといったところなのだろう。
内情が既に露見しているにも関わらずゴマカシたことを言って責任逃れをするから、信頼を失っていく。
両院議員総会を両院議員懇談会に名目を変えたことと会議を非公開としたことは「党の総裁の判断」が関わってしたことではないかと内情が誰の目にも露見している意味合いで質問を受けると、言い逃れ・責任逃れがゴマカシを出発点としているから、直接的には答えずに、「私はみなさん方の意見を聞くということに逃げる気はありませんとお答え申し上げております。ずーっと同じです。同じ答えしか答えていないと思いますが」と議決権の有無、公開・非公開といった会議に於ける重要な要素となる形式を抜きにして、“逃げずに意見を聞きます”といった会議に臨む姿勢だけを言う天性・「卓抜な」次なるゴマカシを働かせている。
直接的な答で応じないで、同じことを言っても意味のないことに気づかない。
「小池百合子議員がですね、自分の訴えている政策が党のマニフェストに盛り込まれないなら独自のマニフェストを作るとおっしゃっていて、こうした動きは有権者の混乱を招きかねないと思いますが、総理はどうお考えでしょうか」と言う質問に対しても、「その話、詳しくうかがっていませんので答えようがありません」と、知らないことだから答えようがないと例の如くにゴマカシている。
内容はどうであれ、マニフェストは党全体の政策を示すものなのだから、党の政策と異なる個人プレー的な政策の宣伝は許すわけにはいかないと答えるべきであろう。個人的マニフェストを一人でも許したなら、党全体の政策という原則を壊すことになるばかりか、他の議員も個人的マニフェストを掲げることを許さないわけにはいかなくなり、党所属という原則にも反することになる。もし個人的な政策・個人的なマニフェストで選挙を行うなら、自民党籍を離れて、無所属で選挙してもらうしかないと答えるのが原則に則ったまともは答のはずだが、そう答えることもできない「卓抜な」才能の持主である。
また、小池百合子が独自のマニフェストを作ると言い出すこと自体が麻生が総理・総裁としての求心力を失っている証拠以外の何ものでもない。こういった動きだけではなく、麻生降しにしても政策的にも人心掌握面でもリーダーシップを失っている状況を前提とした議員たちの反乱であろう。
自己に都合の悪いことはゴマカシの上塗りで責任逃れしているから、国民の支持離れと併行して党所属議員の麻生離れも起きることになる。
都議選敗北の責任を取るとして一旦は進退伺いを出していたが、留任が決まった自民党東京都連会長の石原伸晃幹事長代理が都連主催の緊急会合で麻生降しといった「党内の混乱がなければ、議席を獲得できた方が大勢いるのは間違いない。痛恨の極みだ」(日刊スポーツ)と述べたということだが、「麻生降ろし」なる「党内の混乱」は既に触れたように麻生の指導力のなさ、人格のなさが招いた不始末であって、責任の行き着く先はすべて麻生太郎という、石原慎太郎の言う「非常に優れた卓抜な首相」に求めるべきを、麻生抜きに党内の混乱だけを言い立てる。
客観的に物事を判断できないこの程度の政治家が自民党の将来の総裁候補と言われている。そのとき政権を握っていたなら、総理候補ということになるのだから、日本の将来は麻生で輝いた上にもますます光り輝くことになるだろう。
頭の中の思考回路を器質的な欠陥としているのか、子どもの頃から使う習慣がなかったためにサビついて機能しなくなっているか、そのどちらかなのだろう。
昨16日の6時近くの官邸でのぶら下がり記者会見での遣り取り。
《 「首相VS記者団」 両院議員総会「逃げるとかそういうつもりはまったくありません」7月16日午後5時58分~》(毎日jp/2009年7月16日)
A:はい。
◇両院議員総会を巡る動き
Q:日本テレビです。よろしくお願いします。まずは両院議員総会開催を巡る動きについてです。午後になって署名を撤回する動きが出てきていますけれども、総理はこの状況をどう受け止められますか。
A:両院議員総会の開催については、これは幹事長、また両院議員会長、いわゆる執行部に、党の執行部にご一任してあるというのは、私のなに、官邸がどうのこうのという話ではありません。
Q:ただ、混乱しているように受け止められるかと思いますけれども。
A:あの、いろいろ解散を巡っていろいろな話がある。知らないわけじゃありませんけど、それに対応、つきましては幹事長に一任してあるところです。
Q:両院議員総会もしくは、総理が出席しての緊急集会を開く必要性についてはどうお考えでしょうか。
A:あの、両院議員総会とか、いろんな形があろうと思いますが、今お話がいろいろ出てきておりますんで、私としてはそういった場が設定されるんであれば、その場に私自身も出席をさせていただいて、話を聞かしていただき、かつ私自身の所信も、なに、考え方なりも述べたいと思っておりますんで、そういう場を設けていただけるなら、ぜひ出席をさせていただきたいと思っておりますんで、この種の話から、話を聞く気がないとか、逃げるとかそういうつもりはまったくありません。
◇与謝野氏、鳩山氏の退陣要求
Q:総理、毎日新聞です。
A:はい。
Q:今日の午後に、与謝野大臣と鳩山邦夫前総務大臣が会談されて、その中で、麻生総裁のもとでは次期衆院選を戦えないということで一致したということです。これについての受け止めをお願いします。
A:あの、お二人の気持ちとして、そういうお気持ちをお持ちの方もいらっしゃるんだと存じます。
◇与謝野氏の対応について
Q:両院議員総会の話に戻るんですけれども、その政権を総理と二人三脚で支えてきた与謝野さんが署名をしていますけれども、これについてはいかがでしょうか。
A:与謝野先生が何?
Q:与謝野さんがその署名をしているわけですけども、これについて総理としてはどのように思われますか。
A:あの、与謝野先生の危機感の表れだと理解してます。
Q:そして、きのう与謝野大臣と石破大臣と会われた際に、総理の退陣を求める発言もあったということですけれども、総理はそれをどのように受け止められたんでしょうか。
A:あの、昨日その質問をいただいたと思いますが、その時にもお答えしたと記憶してます。個別会談の内容について、私のほうから話をすることはありません。
◇解散の閣僚署名について
Q:総理、共同通信です。この、今後ですね、解散詔書に署名をしないという閣僚が出てきた場合のご対応というのは、どのようになりますでしょうか?
A:あの、仮定の質問っていうのはこういう際よく聞かれるところですけれども、仮定の質問にお答えすることはありません。
両院議員総会の開催は、官邸がどうのこうのという話ではありません。――
そう、官邸が開催を決める問題ではありません。「幹事長、また両院議員会長、いわゆる執行部に、党の執行部にご一任して」あります。勿論、開催した場合、麻生総理大臣退陣要求が出たら、例え否決されたとしても、麻生太郎の立場を失いますし、可決されたなら、それこそ大問題ですから、是が非でも開催阻止に向けて“一任”ということで、開催要件に従った“一任”と言うわけではありません。開催要件を満たしているということなら、切り崩してでも開催要件をなし崩しにする方向に持っていけという“一任”です。
両院議員総会開催の目的は、地方選挙総括派も加わっていたと言うが、初期的には麻生では選挙は戦えないということからの総裁選の前倒しを要求することに置いていたはずである。当然、支持率の問題だけではなく、麻生太郎の総理大臣としての資質や人間性も議論の対象となる。それを開催するかしないかの文脈でのみ把えて、「官邸がどうのこうのという話ではありません」と開催決定に「官邸」を無関係の場所に置いて他人事のように言える言葉のセンスはさすが麻生太郎ならではの独占物と言える。
“一任”がすんなりと一任で済まず、開催するかしないかで紛糾している状況に関して「混乱しているように受け止められるか」と聞かれると、「いろいろ解散を巡っていろいろな話がある」と「いろいろな話」でいとも軽々と済ましている。
「話」自体に何ら形容詞をつけない「いろいろな話」とは、さして問題となる話ではないということでなければならない。「いろいろ難しい話がある」、「いろいろ困った話がある」、「いろいろ厄介な話がある」とは言っていない。
だが両院議員総会を開催要求する側からすると、「解散を巡っていろいろな話がある」を厳密に解釈すると、麻生総理大臣のままの解散で党内の意見が一致していない、いわば自民党議員の相当数が総選挙を指揮する総理・総裁としての資格を麻生太郎にはもはや認めていないというところに置いているということであって、そのように見られている総理・総裁としてはまともな感覚を持ち合わせていたなら、自身も深く関わっている深刻に受け止めなければならない状況なのだが、「知らないわけじゃありませんけど、それに対応、つきましては幹事長に一任してあるところです」と自身とは距離を置いた重大ではない問題としている。
まともな感覚の総理・総裁なら、いわば十分にKYな(空気の読める)人間なら、自分から両院議員総会の開催を求めて、例えその局面で紛糾する場面が生じたとしても、自己を批判の俎上に曝し、進退を議員の総意に委ねたなら、潔さと責任感だけは残る。
だが、自分自身の進退・資質が問題となっているのに、そのことを議論する場の設定を他人に「一任」して自身を距離を置いた場所に置いたのでは、如何せん、潔さも責任感もクスリにもできないだろう。逆に狡猾さだけが浮き上がってくる。
そのくせ両院議員総会、あるいはそれに準じた議論の場が設定されたなら、出席して、「この種の話から、話を聞く気がないとか、逃げるとかそういうつもりはまったくありません」とさも正々堂々としたところを見せている。
口先だけのことだから、正々堂々と言えたのだろう。
正々堂々がホンモノなら、「幹事長に一任」ではなく、「話を聞く気がないとか、逃げるとかそういうつもりはまったくありません」と初めから宣言して、自らのリーダーシップで都議選、その他の地方選の敗北の責任をも含めて総括を受ける場を設定すべく率先して動いたに違いない。
だが、そうしなかった。支持率低下にしても地方選敗北にしても最終的には自身の責任に収束すべき問題であるにも関わらず、あくまでも「幹事長に一任」の立場を取り続けて自分は動こうとしない。
都議選前だから言えた「国政と地方の選挙は違う」という言葉も、都議選敗北という結果が麻生不人気・自民党政治不人気の影響を受けた敗北である事実から逃れることができずにメッキが剥がれたにも関わらず、その事実にも目をつぶって、責任逃れに終始し、足元が揺らぎに揺らいでいてそういった状況ではないのに一致団結して総選挙を戦おうとか、政権を任せられるの自民党しかいないとか誤魔化しを働く。
与謝野大臣と鳩山邦夫前総務大臣が会談して、「麻生総裁のもとでは次期衆院選を戦えないということで一致したということです」、「これについての受け止めをお願いします」と質問されて、「そういうお気持ちをお持ちの方もいらっしゃるんだと存じます」とこれまた自分から距離を置いた他人事の答となっている。
二人とも麻生が総理大臣として任命し、一人は財務大臣という重要な立場で現職閣僚に現在もとどまり、一人は罷免した元閣僚である。その二人が一致して「麻生総裁のもとでは次期衆院選を戦えない」という気持を持っている。閣内から反乱者が出たということでもあって、「そういうお気持ちをお持ちの方もいらっしゃるんだと存じます」といった軽い問題ではないはずだが、頭の思考回路を通して言葉を咀嚼する能力を欠いているから、幸いにも「そういうお気持ちを」云々で済ませることができる。
与謝野の両院議員総会開催に向けた署名に関しては「与謝野先生の危機感の表れだと理解してます」と答えている。
記者は「どのような危機感の表れ」なのか問い質すべきだったろう。「麻生総裁のもとでは次期衆院選を戦えない」という「危機感」なのは探るまでもないことだが、もし麻生が答えなかったなら、記者の方から、与謝野大臣と鳩山邦夫前総務大臣が会談して「麻生総裁のもとでは次期衆院選を戦えないということで一致したということです」から、その「危機感」だと思います。その結果、「総理の退陣を求める発言」に至ったということでしょうからと教えて、このような「危機感」を向けられた当事者としてどう受け止めているかを問い質すべきだったろう。
そうしていたなら、「個別会談の内容について、私のほうから話をすることはありません」などと答えることができただろうか。
我が日本の麻生太郎は共同通信の記者から「解散詔書に署名をしないという閣僚が出てきた場合の対応」を問われて、「仮定の質問にお答えすることはありません」と正々堂々と答えているが、もし北朝鮮が日本を攻撃することになったら、どう対応するか問われても、「仮定の質問にお答えすることはありません」と答えるのだろうか。
6月18日(09年)の「asahi.com」記事――《北朝鮮の戦争相手は日本 米専門家が推測》が「金正日(キム・ジョンイル)総書記が健康悪化で日常執務を減らす中で」金総書記が02年の小泉首相(当時)との首脳会談で拉致を認めて謝罪したことに「憤慨」している「海外経験のない国粋主義的な若手将校らが影響力を強めてい」て、北朝鮮が戦争を始める場合、反日感情から攻撃対象は韓国ではなく日本の可能性があるとする米国の北朝鮮専門家のセリグ・ハリソン国際政策センター・アジア計画部長の分析を伝えている。
分析の中の「日本と紛争になった場合の北朝鮮の能力を非現実的に評価して他の将校らの懸念を呼んでいる」としている指摘は戦前の日本の軍若手将校に通じる自軍戦闘能力に対する危険な過大評価ではないだろうか。
「仮定」にも色々ある。可能性・危険性の高い「仮定」、限りなく低い「仮定」。但し危機管理の思想から言うと、どのようなな「仮定」であっても、「仮定」が事実となる場合を想定してそのことに対処する有効な方法を模索することが必要不可欠となり、「仮定」のままで置かない。
現実に「署名をしないという閣僚が出てきた」場合、「仮定の質問にお答えすることはありません」とした麻生はその言葉の軽さ・中身のなさが露見して、笑い者になるだろう。
今日17日の「asahi.com」記事――《自民両院総会見送りへ 21日、議決権ない懇話会》は予断を許さないものの、両院議員総会が見送られる公算が強くなったことを伝えているが、その中で、〈中川氏らが進めた両院議員総会開催を求める署名に応じた与謝野氏は16日、「署名が集まった以上、きちんと開催するのは民主的手続きを誇る自由民主党がやらないといけない」と述べ、首相が総会で地方選敗北を総括しなければ、解散書類に署名しない可能性を重ねて示唆した。 〉と与謝野の動向を伝えている。
さらに、〈与謝野氏は15日、首相と官邸で会った際、自らの進退を懸ける覚悟で、総選挙の厳しい情勢と都議選総括の必要性を伝えた、とされる。ただ与謝野氏に近い議員によると、首相は真剣に受け止めず、与謝野氏は失望感を深めたという。このため政府・与党内では、与謝野氏が辞任しかねないと懸念する声もある。 〉としている。
この「asahi.com」記事が伝える与謝野財務大臣と前述ぶら下がり記者会見で見せている麻生と、両者の姿はかなり色合いが違って見えることが分かる。与謝野の深刻さに対して麻生の軽さが際立つ。その軽さは一議員なら許されもするが、内閣を率いる総理大臣が見せている軽さなのだから、驚き以外の何ものでもない。
言葉が軽いから、人間も軽いというだけではなく、総理・総裁という地位まで軽くしてしまっている。
だからこそ、支持率も低迷する。
最後に自民党混乱の一因となっていた宮崎県知事東国原の衆院選出馬要請問題、要請に対する総裁候補要求等がすべてご破算となって、出馬取り止めで一件落着した。
東国原がこれからでも遅くはないと立候補したとしても、行く先々で面白がってか人生の記念にするために人は集まるだろう。小泉元首相みたいに選挙権のない女子高生まで集めるかもしれない。
だが、マスコミがこぞって出馬要請を大騒ぎして取り上げ、本人も「私が行く党は負けません。負けさせるようなことはしません」と自信たっぷりに保証したが、マスコミの過剰報道と本人の過剰なまでの自信に反して世論調査では出馬に反対の意見が大勢を占めた。
この現象は定額給付金が世論調査では政策として大多数が否定しながら、受けるとしたのは70~80%も占めたのと重なる出来事と言えないだろうか。
東国原は人は集めるだろうが、世論調査で出馬反対とした意思表示どおりに票にはつながらない。
それとも喉元通れば暑さ忘れるか、東国原の人気を他の自民党議員にもおすそ分けすることになることにも気づかずにか、自民党に投票する人間が無暗やたらと増えるのだろうか。
7月14日の首相官邸でのぶら下がり記者会見で麻生首相は貨物検査法案に関して次のように述べている。
「北朝鮮の貨物に関するこの法律というものが、これは日本の隣の国が、核実験を2回行って、日本に到達できるミサイルを何回となく発射する、こういった状況に関して、世界中がこれに対して国連で決議1874出してやっている最中。日本が、一番影響受ける日本、その日本が、それに対応できないというようなのでは、これは国際社会に対していかがなものかと、私は強くそう思っていますんで、その意味では、この法案というのは、遮二無二、通していただきたいなと、私自身は率直にそう思っております。従って、これが審議できないというような状況が、参議院でつくられるというのはいかがなものか、私自身は率直にその点では甚だ不満です」(asahi.com)
いくら日本が対応できるようにするための法案だと言っても、国連安全保障理事会自体が北朝鮮の今年4月の人工衛星打上げ名目の長距離弾道ミサイル発射に対して拘束力を有した「決議」を目指しながら、中ロの反対に遭って拘束力を持たない「議長声明」にソフトランディングさせられ、その「議長声明」にしても5月25日の2回目となる北朝鮮の核実験を阻止する力を持たず、核実験に対する追加制裁にしても中国の対話を通じた冷静な対応、強い制裁には反対という庇い立てによって検査のための武力行使を認める条項を含まない北朝鮮出入り船舶を検査可能とする安全保障理事会決議案1874号を決定したものの、それ自体も7月4日の短距離と見られる弾道ミサイル7発の断続的発射を阻止することができなかった経緯を抱えていることを忘れてはならない。
弾道ミサイル7発の発射に対しては安保理は「決議」「議長声明」「報道声明」「議長談話」のうち、最も拘束力も非難色も弱い、非難と懸念を表明するだけの「議長談話」にとどまった。
いわば北朝鮮の国際社会への挑発とも言える度重なる違反に対して対北朝鮮圧力をトーンダウンさせたのである。国際社会の圧力とその圧力に対する北朝鮮の無視という経緯は国連安全保障理事会自体が北朝鮮のミサイル発射や核実験を阻止するに足る権威と力と危機管理を有効十全に果たすこともができない非力な状況にあることを示している。
そのような状況下での安保理「決議案1874号」に対応させた船舶検査を法律上可能とする日本の「貨物検査特措法案」なのだが、
1.対象船舶が(国連が禁輸物資と指定する)北朝鮮特定貨物を積載していると
認めるに足りる相当な理由がある場合
2.公海上、領海を問わず船長の承諾を必要とする
3.特に公海上では船舶の所属する国(旗国)の同意が必要(asahi.com)
という要件自体も安保理の不十分な対北朝鮮圧力に対応した相手に抜け道を与える内容となっている。
いわば法案をつくって国会を通し、法律として成立しました、今後疑わしい船舶に対してはこの法律を適用して参りますと宣言しただけの形式で終わる可能性は否定できない。
また国連指定禁輸物資を陸路中国やロシアに運び込み、中ロの港から他国籍の船舶に積み込んでミャンマーやイランに運搬する抜け道も不可能ではないはずだ。既にその手を使っているかもしれない。
安保理対応の非力性と関連し合ったこのようにも万全とは程遠い不備を抱えた日本の「貨物検査特措法案」であるにも関わらず、
与党賛成多数で衆院を通過させはしたが14日の参院本会議に提出の麻生首相に対する問責決議案が野党賛成多数で成立、それを以て野党は一切の国会審議に応じない構えを見せたために廃案に追い込まれる可能性が出来、河村建夫官房長官は15日午前の記者会見で「国際協調の中で進める大事な法案だ。民主党は政権担当能力を言うのであれば正面から考えるべきだ」(日経ネット)と民主党の態度を批判。
大体が「国際協調」自体が中ロの北朝鮮寄りの態度でつぎはぎだらけ、抜け穴だらけの「協調」となっている大分怪しい状況を引きずっているのである。その現実を直視せずに「国際協調の中で進める大事な法案だ」とさも大層な宿命を抱えているが如き過剰包装して「世間担当能力」まで持ち出すとは恐れ入る。
麻生も上記ぶら下がり記者会見で、「この法案というのは、遮二無二、通していただきたいなと、私自身は率直にそう思っております。従って、これが審議できないというような状況が、参議院でつくられるというのはいかがなものか、私自身は率直にその点では甚だ不満です」と言っているが、 「遮二無二、通」さなければならない程に必要不可欠、効力を持つ法案だと頭から信じているのだろうか。
拉致問題に関して小泉時代から「圧力と対話」を言い続けて、ものの見事、相手には通じないまま今日に至っている状況と対応する「遮二無二」が同じく相手には通じない今後とも同じく推移する状況とは言えないだろうか。
にも関わらず、15日付の「時事ドットコム」記事によると、自民党の鈴木政二参院国対委員長が15日、民主党の簗瀬進参院国対委員長と国会内で会い、14日に衆院を通過した北朝鮮関係船舶の貨物検査を可能にする特別措置法案について「政局から切り離して速やかに参院で審議し、成立させてほしい」と求めたという。
簗瀬氏は首相問責決議を可決したことを理由に拒否、 鈴木氏は江田五月参院議長にも同様の申し入れをしたが、議長は「民主党に伝える」とメッセンジャーボーイを務めることだけを約束したようだ。
同記事はこのことに関する民主党の岡田克也幹事長の声を伝えている。
「民主党が後ろ向きだと印象付けようというジェスチャーにすぎない。誠に遺憾だ」
北朝鮮に対する日本、その他の国の禁輸措置が対中貿易がそれを補っているのと同じく、「貨物検査特措法案」自体にしても可決・成立を見たとしても、「ジェスチャー」のまま終わる恐れ大であることを棚に上げた麻生内閣の民主党批判の「ジェスチャーにすぎない」といったところではないか。
一方で北朝鮮国内では三男正雲に向けたと見られる金正日独裁権力の親子継承が着々進められているという。金正日独裁権力の親子継承とは現在でもそうである周辺国に危険な国家体制・独裁権力体制の継承を同時に意味する。
金正日独裁権力・先軍政治を支えることで権力の蜜の味を味わっている軍上層部・党上層部は金正日体制の終焉で蜜の味を失うことに耐えられないだろう。失わない唯一絶対の方策は現在の権力構造の絶対維持であり、そのために三男正雲を金正日の望みどおりにその後継者として祭り上げて、その存在・名前を通して自分たちの権力を遂行、蜜の味を守ろうとするに違いない。反対派がいたなら、粛清する。
その権力闘争に誰が勝利するかは不明だが、誰を祭り上げようとも、現在金正日独裁体制を支持することで最も権力を強く握っている者の内の誰かに展開が有利に働くことは確実であろう。
明治期、薩長明治政府、そして昭和に入り、軍部が天皇を権力遂行のロボット・傀儡としたように金正日死後、金正雲を、あるいは他の兄弟の可能性もあるが、傀儡・ロボットとして、権力遂行の正統性を担うに違いない。
明治維新時まだ16歳間近だった明治天皇が薩長にとってコントロールしやすい年齢だったように、金正日がすい臓がんの疑いがあり、そう長生きしそうもないことを考えると、26歳の正雲は権力を操る側にとっては自分たちに都合のいい権力色に染めやすい年齢であろう。
勿論、年齢を重ねるうちに自身で権力を持とうとするだろうが、蜜の味を確保するために独裁権力の維持を図った勢力に勝つには相当な権謀術数を必要とするに違いない。無難な道は傀儡・ロボットに甘んじることだろう。
そしてそのような権力内容を抱えた北朝鮮の独裁体制は周辺国に及ぼす危険性に於いて変わりなく推移する。
7月13日付の「asahi.com」記事――《金正日総書記に重病説、北朝鮮の体制めぐるシナリオ》が〈北朝鮮の今後の展開として想定されるシナリオ〉として4つのパターンを予想している。
1.<円滑な体制移行>
2.<体制移行が混乱した場合>
3.<軍部の権力掌握>
4.<国家崩壊>
どのパターンであっても、金正日独裁体制の恩恵を受けて権力の蜜の味を味わっていた軍部や党上層部を無視することはできないことは確実である。軍部その他を無視して権力の親子継承は不可能だということである。いわば民主制への移行を想定することは100%ないと言える。軍部を無視した場合、記事が触れているように軍部によるクーデターの可能性が高まり、依然として危険な独裁体制は存続することになる。例え以後ミサイルを発射しなくても、核実験を二度と行わないとしても、秘密裏に開発を進めれば済むことで、国際社会にとっては危険な国であり続ける。
北朝鮮国内で国際社会にとって危険な国であり続ける独裁権力の親子継承が着々と進んでいるにも関わらず、このことに関しては国際社会は何ら手を打っていない。手を打とうともしない。
独裁権力の親子継承を傍観したままミサイル発射や核実験に対して国連安保理の決定に基づいた、これまで効果を上げてこなかった制裁に拘るのが賢明な方法なのか、考えてみる必要があるのではないだろうか。
参考引用――
《金正日総書記に重病説、北朝鮮の体制めぐるシナリオ》
[シンガポール 13日 ロイター] 韓国の聯合通信TVニュース(YTN)は13日、中国および韓国の情報機関関係者からの情報として、北朝鮮の金正日総書記はすい臓がんを患っており、生命にかかわる可能性があると報じた。
現在67歳の金総書記は前年8月に脳卒中で倒れたとみられており、後継に三男の金正雲氏を選んだことを示す動きがみられるなか、体制移行に伴う混乱の発生などを危ぶむ見方も出ている。
以下は、北朝鮮の今後の展開として想定されるシナリオ。
<円滑な体制移行>
金総書記が比較的健康な状態を保ち、長く生き延びるほど、三男の正雲氏への権力移行がスムーズに行われる可能性が高まる。正雲氏が15年や20年の年月を権力固めに費やすことができれば、独裁国家体制を存続させる公算も大きくなる。
また正雲氏は、金総書記の義弟である張成沢氏を後ろ盾に持つとされている。金総書記は4月、張氏を国防委員に昇進させており、多くのアナリストはこれについて、張氏をキングメーカーに据え、権力移譲体制を構築することが狙いだと分析している。
このシナリオ下では、金融市場は北朝鮮の動向を注視するが、ネガティブにもポジティブにも大きな反応は示さない見通し。各国政府は正雲氏の意向が明確になるのを見守ろうとし、北朝鮮の対外政策にもほとんど変更はない見通し。
<体制移行が混乱した場合>
金総書記が早期に死亡したり、総書記の職務を全うできない状況に陥った場合、体制移行が複雑化する可能性がある。このシナリオが現実となれば、正雲氏が総書記を継承する準備が整うまで、北朝鮮では張氏とともに正雲氏を中心とした集団指導体制が展開される見通し。
正雲氏の若さと経験不足に加え、北朝鮮の人々はほとんど正雲氏の存在を知らないことから、正雲氏が早期に権力を継承する可能性は低い。そのため北朝鮮幹部が権力体制の移行を指揮するという責務を担い、体制の存続が唯一の共通目的となる。
金総書記が突然死亡した場合、北アジアの金融市場は下落し、各国政府は後継者の動向を注視する見通し。その場合、北朝鮮は国内の支持を確立するため、対外的には強硬姿勢を強める可能性がある。
<軍部の権力掌握>
金総書記が突然死亡した場合、軍部がクーデターを起こす可能性もある。北朝鮮による最近の核実験やミサイル発射、戦争を引き起こすとの警告はすべて、軍部が多大な発言力を有していることを示している。
ニューヨークに本部を構える外交問題評議会(CFR)は1月、「北朝鮮の急な状況変化に備える」と題したリポートで、「確認されていないものの、過去には暗殺未遂事件や軍の粛清強化があったとされる報道がある。また、言うまでもなく金総書記が国内各地を訪問する際に自身のセキュリティー確保に腐心している点を踏まえれば、軍主導のクーデターが起こってもおかしくはない」との見方を示している。
軍部が最近の同国の強硬姿勢を後押ししているとみられており、クーデターが実際に起これば、金融市場にとっては弱材料となる公算がある。
<国家崩壊>
経済の崩壊もしくは権力危機が長期化した場合、北朝鮮の国家崩壊を引き起こす恐れがある。現実に崩壊すれば国境近くの数百万人の北朝鮮の人々が、韓国や中国へと流れ込む可能性がある。そうなれば、韓国にとっては経済に多大な打撃を受けるとともに、社会的な大変動を引き起こす公算がある。
このシナリオは可能性が低いとの見方がアナリストの間でも大勢だが、CFRはリポートで、北朝鮮経済は1990年代のマイナス成長から一度も回復しておらず、常に食料不足問題にさいなまれており、国家としてはぜい弱だと指摘。
その上で過去には底堅さも示したが、国家存続が危ぶまれる状況まで同国を取り巻く圧力が高まる恐れもあるとした。
韓国の推計によると、北朝鮮を吸収するには1兆ドルもしくはそれ以上のコストを要する。
北朝鮮が崩壊した場合、吸収合併にまつわる混乱やコストの大きさに加え、特に残った軍部の動向や核プログラムの管理体制について不透明感が高まれば、韓国金融市場は急落する可能性がある。
我が日本の麻生総理大臣が昨13日夜、官邸で記者団に次のように大本営発表したそうだ。
「来週早々に衆議院を解散し、8月30日に総選挙を実施する旨を与党幹部に伝えた」(《首相 歯を食いしばってでも》NHK/09年7月13日 22時28分 )
この言葉だけ見ると、「来週早々」を「然るべき」解散の時期とし、投開票は「8月30日」が「然るべき」日だと「自分で決め」て「与党幹部」に伝達したように見えるが、実際は都議選敗北の日から2日後の14日解散を自分では「然るべき」日と決めていたと一部マスコミが伝えている。
だとすると、いつも麻生が口癖としていた、「解散につきましては、毎回同じことをお答えするようで恐縮ですけれども、解散につきましては、しかるべき時期に、私の方で判断をさせていただきます」 を守らず、ぶれさせたことになる。
いわば結果としてウソをついたことになる。まあ、麻生のウソは珍しくもないから、たくさんあるうちの一つに過ぎないと見れば、どうってこともない。
7月14日付「中国新聞」インターネット記事――《「一拍置けば危うい」 首相、当初は14日解散に固執》の題名が既に示しているように「14日」を「しかるべき」解散の日としていた。
記事をベースに想像を交えて解説すると、解散・総選挙に限っては単に先延ばしに逃げてはいたが、「しかるべき時期」とすることに関しては頑固なまでに決してぶれないところを見せていた我が麻生太郎は13日午前の官邸執務室にヒステリー症の細田幹事長と高血圧症を疑わせる大島理森国対委員長と呼びつけたのだろう、顔を突き合わせていた。
麻生太郎いわく。
「衆院解散まで一拍置いたら、中川や武部を抑えられず、危うくなるじゃないか。解散は14日以外にない。譲れない線だ。大根のように降ろされてしまったなら、解散を自分で判断する目を失ってしまう。解散の先送りはもはや許されない状況だ」
散々解散を先送りしたことは棚に上げて、焦りさえ見せて強硬に14日解散を主張する。
しかし細田・大森の二人は14日解散が党の大勢意見ならおとなしく従うが、そうでないから、14日解散にさせまいと食い下がり、二人して共々訴える。
「明日解散したら、都議選で負けたイメージのまま選挙戦に入ることになります。都議選で民主党に1票を投じた勢い殺ぐ冷却期間、と同時に我が方の負けてカッカしている頭を冷やす冷却期間が必要です。せめて1週間待ってください。選挙協力上必要な存在だから、仕方なく与党に加えている公明党も8月末以降の選挙を望んでいます。彼らの協力なくして、自民党は総選挙を満足に戦うことはできない情けない政党に成り下がっているのです。都議選で23人の候補者全員を当選させた公明党・創価学会の組織票なしで衆院選を戦えるはずがないのです」
「麻生降ろしに走る議員がいれば、衆院選で公認しなければいいじゃないですか。決然とした気持ちでなければ駄目です。これまでぶれることのなかった解散の『しかるべき時期』です。最後にほんの少しぶれていただいて、決然とした気持で8月末以降の投開票に持っていってください」
「ここで14日解散にこだわれば、総理を支えてきた執行部はもとより派閥幹部、公明党さえもが麻生降ろしの隊列に加わりかねません。与党側との事前合意で来週以降の解散を既成事実化させれば、反麻生勢力も腰砕けとなるはずです」
そこで我が日本の麻生太郎は決然とした態度で決断する。
「よし、麻生降しを防げる保証があるというなら、解散を1週間先送りしよう」
――と、自分では解散の「しかるべき時期」を14日としていた決断を簡単にぶれさせて、「1週間先送り」をぶれることなく決断したというわけである。
「480人を失職させる解散の決断は重いことだよな」
小選挙区300・比例代表選挙区180、衆議院定数480人のうち、野党の殆どは早期解散を強く望んでいる。政権交代を果たすも果たさないも解散・総選挙を唯一の機会としなければならないからだ。野党にとってその絶好の機会が今ということなら、失職への心配は与党議員の方がより強いはずだが、野党議員まで含めて「480人を失職させる解散の決断は重いことだよな」とする。例の如く物事を合理的に判断する能力がないことからの、トンチンカンな発言なのだろう。
このトンチンカンさはぶれる・ぶれないよりも重要な資質の欠陥であるが、麻生自身、知らぬが仏で全然気づかない。
記事の結論は次のようになっている。
〈麻生が衆院解散を21日の週とすることで、与党側と折り合った。都議選での過半数割れを受けて、倒閣の火の手が上がる前に、先手を打った格好だ。ただ民主党が掲げる「政権交代」に対抗する旗印は見いだせていない。有権者には「脱自民」の逆風が吹き荒れており、麻生自民党は勝算なき夏決戦へ突っ込むことになる。(敬称略)〉・・・・
「asahi.com」記事――《首相、週内解散構想から一転 公明への配慮も》(2009年7月14日5時14分)はこの辺の経緯を次のように解説している。
〈「麻生降ろし」封じのため、早く解散を既成事実化させる必要がある。一方で、連立を組む公明党への配慮は欠かせない――。1週間後の解散を事前予告するという異例の表明は、ふたつの条件を満たす「窮余の策」だった。〉と解説している。
我が日本の麻生太郎は都議選を「あくまでも地方の選挙。争点は都政の諸課題で都民が判断する。国政に直接関連しない。」(中日新聞)と位置づけ、都議選の結果如何に関わらず、いわば国政は国政、「首相として日本の政治に責任がある。国民、日本を守るため、責任を果たすことに変わりはない」(同中日新聞)と引き続いて政権担当していくことを宣言している。
自分が言ったことに責任を持つなら、都議選が自民党にとって歴史的敗北であろうとなかろうと、あるいは最悪の事態であろうと、そのことを受けて解散に踏み切る理由は麻生にはないはずだ。「国政に直接関連しない」を忠実に守る責任があったはずである。
だが、都議選2日後の14日解散を自分では「しかるべき時期」とした。
いくら麻生太郎名宰相が都議選を「あくまでも地方選挙。・・・・国政に直接関連しない」と言っても、あるいは引き続いて国政を担当していく、本人からしたらぶれない姿勢を見せたとしても、都議選の大敗北でこれまでも党内に渦巻いていた「麻生では総選挙は戦えない」とする動きがより悪い方向、より激しい方向にぶれていくことは麻生の単細胞な目にもはっきりと見えていたはずである。
いわば麻生降しの動きが活発となる。この活発化はぶれない麻生にしても相当に神経をぶれにぶれさせる不愉快な予測事態に違いない。この予測事態は予測で終わらず、必然事態となる可能性が限りなく高い。
じゃあ、表紙を麻生から他の誰かに変えさせて総選挙を戦おうとする動きに先手を打って、麻生降しの陰湿な大陰謀をこっちから潰してやる。「解散につきましては、しかるべき時期に、私の方で判断をさせていただきますと言ってきたんだ。表紙を変えられたんじゃあ、私の方で判断が有名無実化してしまう。他の誰かの方で判断することになるじゃないか。福田では総選挙は戦えない、麻生の話は面白い。麻生こそが選挙の顔だと言って総理・総裁に押しておきながら、何だ、今になって麻生降しだと?」
都議選の無残な敗北を受けて活発となるのは目に見えている麻生降しの動きを封じ込めるためには都議選敗北から間を置かない早い時期を「しかるべき時期」としなければならない。それくらいの計算はできる日本の麻生太郎である。
それが都議選からたった2日後の14日ということなのだろう。
いわば麻生降しを策している党内勢力に向けた麻生降しをできなくする「当てつけ解散」だった。
“当てつけ”だからこそ、全体の局面を全体的に見る目を欠いて、麻生を支えてきた党内最大派閥、その他の大勢意見となっている解散・総選挙先延ばし論を麻生らしく考えもなく無視することができた。
麻生の方は単細胞に無視できても、その無視を党の方は無視できない。細田・大森が党内大勢意見を代表して、14日解散に反対、「8月末以降の選挙」を主張、麻生にしても大勢意見に逆らって最大派閥その他を敵にまわした場合、以後の政権担当も覚束なく、そうなれば「しかるべき時期に私の方で判断」も怪しくなりかねない。
解散決定の最終局面で、14日「当てつけ解散」がぶれて、1ヶ月以上の間を置くことになった。こういった結末ではなかったのか。
麻生太郎は「私の方の」「判断」をぶれされて、党内大勢意見に従った解散のシナリオを決めた後、ぶれさせたことなどオクビにも出さずに次のような勇ましいことを口にしている。
「どの党が国民生活を守り、日本を守るかが争点だ。民主党は政権交代を主張しているが、現実的な政策も財源も示しておらず、国民不在の党利党略だ」(上記NHK)
「政府・与党は、景気対策の一点に全力をあげてきた。経済危機から国民の生活を守ることが政治の責任であり、ここで手を緩めることはできない。経済対策は、責任ある政党のもとで実施しなければならず、民主党には任せられない」(同上記NHK)
政権を担当するのは自民党でなければならないとするのは、絶対なるものは存在しないという真理を無視して、自民党を絶対とする独裁意識・権威主義意志の現れ以外の何ものでもない。決して自民党は絶対ではない。今の矛盾だらけ、格差ばかりがのさばっているこの社会を見れば、簡単に証明できる。愚かしいばかりではないか。
一方の自民党は改選前の48議席から38議席に10議席減らし、1議席積み増した連立与党の公明党23議席と併せても麻生首相が勝敗ラインとしていた過半数64議席を維持できない大敗を喫した。
民主党が今回新人候補24人を擁立、そのうち22人が当選、告示3日前に立候補を決めた女性候補までが当選したといった出来事は前回小泉郵政選挙のときとほぼ似たことが今度は都議選で民主党に起きたということであろう。
麻生首相が劣勢が伝えられる中、事前に都議選自民党候補の全事務所に駆けつけ、後押ししたシーンを多くのマスコミが国民に伝えたが、何の役にも立たなかったこと、立候補者応援時、街頭でマイクを握って「政権交代は手段であって、目的ではありません。政権交代が景気後退につながる」といった文脈で民主党を激しく批判していたことが都議選の結果を前にすると、今となっては虚しい麻生の姿に見える。
自民党敗因・民主党勝因は何だったのか。私自身が解説するまでもなく、麻生首相の政治的無能、人間的軽さ、自民党政治の限界露呈、いわば政権担当能力の喪失が国民をして自民党ノーの拒絶反応を醸し出し、それが都議選に影響した、大方の見方としてある今回の結果であろう。
この大方の見方と麻生首相がラクイラサミット閉幕後の日本時間10日夜の内外記者会見で都議選に関して「あくまでも地方の選挙。争点は都政の諸課題で都民が判断する。国政に直接関連しない。首相として日本政治に責任がある。国民、日本を守るため、責任を果たすことに変わりない」(中日新聞)と言っていることは異なる状況を示すことになるが、多くはそうは見ていない。
いわば麻生首相の言うとおりに「国政に直接関連しない」、「あくまでも地方の選挙」で片付けることができる一地方の問題ではないと見ている。麻生の主張は合理的な判断を欠いているというわけである。
自民党の石原伸晃も大方の見方に反して都議選開票中にテレビで次のように言っていた。
「自民党が混乱しているといったイメージを有権者に与えてしまった」(NHK)
「東国原さんの話が自民党には人がいないのかと、批判を受け、都議選が国政レベルの批判の対象とされてしまった。自民党が一体となっていなかったことが影響した」(フジテレビ)
次は政治評論家の三宅久之。
「都議選は国の形に関係ない。それをごちゃごちゃにしている」(同フジテレビ)
二人とも国政と都議選は違うと麻生と同様のことを言っている。いわば東京都の有権者は国政と都議選を混同する過ちを犯したと。
果たしてそうだろうか。
国政に関する内閣支持率・政党支持率、次の首相に誰がふさわしいかの各マスメディアの世論調査に表された有権者の意識はこれ以上の麻生政権の継続、いわばこれ以上の自公による政権担当はご免だという意思表示であり、その拒絶反応が民主党に自民党政治の反面教師を求めるプロセスを踏ましめた民主党優勢の数値結果であろう。民主党の政策自体も、その多くが自民党政策を反面教師として成り立たせている。反面材料としている。反面政策としていると言ってもいい。
現在国民全体がそのような政治意識を全国規模としている。全国規模としている以上、例え東京が日本の首都であり、日本という国に対して最上位の下位社会に重要な立場で位置していると言っても、日本の国の一部であることに変わりはなく、全国規模としている国民全体の総体的政治意識に直近の都議選が飲み込まれる影響を受けるのは当然の流れであろう。
影響を何ら受けないとするには東京都が出資している新銀行東京の都民にツケがまわる経営欠陥、築地市場移転を巡る移転先用地からの国の環境基準を大きく上回る有害物質の検出問題、オリンピック誘致に関わる財政問題、それが今都民が最も必要としている政策なのかという問題、石原知事が都政に親族や友人を重用する過去の公私混同疑惑、常識を超えた高額な海外視察費用、その他都政全体にこういった瑕疵が殆どなく、都民が国政からの恩恵とは異なって、全体的に都政の恩恵をよりよく受けている場合に限る。
だが、実際は国政と同様に数々の問題・瑕疵を抱えていて、国政と同列視されていた。同じように共有していた都有権者の意識が都議選にそのまま反映したということであろう。
逆説するなら、それ程までにも国政に対する東京都民を含めた有権者全体の拒絶反応が強く、都有権者が全体有権者を代表する形で都議選に自民ノー・民主党イエスの意思表示を示したということであろう。
ということなら、都議選が衆議院選挙の前哨戦との位置づけは間違いで、衆議院選挙に向けて既に世論調査の形で示していた国民の政治意識・審判が都議選にそのままスライドして示されたのであって、いや、既に千葉市長選や静岡県知事選にスライドしていて、都議選は何番目かの波及かもしれないが、前哨戦ではなく、あくまでも中間結末と把えるべきではないだろうか。
都議選はいわば総選挙に向けた千葉県知事選や静岡県知事選とは桁の違う最大の中間投票であった。
勿論、世論調査で示した国民の政治意識・審判の最終結末は総選挙で見せることになる民意でなければならない。これが逆転しない保証はない。
麻生首相では総選挙は戦えないとする自民党内の麻生降しの動きに対して、麻生を総理・総裁に選んだ責任があるはずだ、その責任はどうするのかという議論が自公内部で行われているが、総理・総裁の資質の問題は党という組織だけの問題ではなく、国民にも影響する国全体に関係する問題である以上、麻生を総理大臣に投票した自民党及び公明党全議員の任命責任は麻生政権共々潔く国民の審判を受けるべき対象としてあるものであり、受ける姿勢を持つことが公平な責任論というものであろう。
その姿勢・視点を欠いたジタバタした麻生降しの動きとそれに反対する麻生総理・総裁任命責任論は政治の党組織による私物化に当り、無責任と言わざるを得ない。麻生政権のみならず、自民党及び公明党という政党自体が自らの統治能力を失い、混乱に陥っている証拠であろう。
アメリカの過剰消費が世界経済を押し上げた
我が日本の麻生太郎首相が7月8日(09年)から3日間開催のイタリア・ラクイラサミット開幕の初日、そのスタートの昼食会で、多分例の自信たっぷりなにこやかな態度でだろう、自らが主導した日本の景気対策について次のように大見得を切ったらしい。
「過去最大規模の経済対策を打ち、底割れを防いだ」(《ラクイラサミット開幕 各国首脳、経済問題や地球温暖化対策についての討議を開始》FNN/09/07/09 06:11)
景気の「底割れを防いだ」とそれを成果として世界的会議で披露するのは、日本の経済・景気はもう安心だ、心配はないという保証がなければならない。以後の不安要素を抱えていながら、「底割れを防いだ」と自らの成果とするのは、不安要素が現実の景気維持の阻害要件となったとき、成果を差引き計算、あるいは逆転を生じせしめる可能性も出てくるから、言っていることと現実が矛盾することになる。
いわば我が麻生太郎は日本の100年に一度の金融危機・経済危機からの回復の救世主役を演じてくれたのである。有難いことではないか
同記事は討議を兼ねたこの昼食会で世界経済について再確認する次のような首脳宣言が採択されたと伝えている。
「安定化を示す兆候があるが、状況は依然として不確実、・・・・金融の安定のために必要な、あらゆる必要な措置を講じる」
景気の「底割れを防いだ」と安心を保証したのは日本のみで、日本を除いた世界は依然として厳しい「不確実」な状況にある。不安定要素を抱えている。
いわば「首脳宣言」と麻生の「底割れを防いだ」とする主張とは相矛盾する状況にあるが、さすが「この100年に一度からの経済危機から、世界の中で日本が最初に脱出する」と宣言しただけのことはある我が麻生太郎の宣言に則った「過去最大規模の経済対策」を迷わずに果敢に打ち、大いなる成果を上げて国民の不安を取り除いた。国民の救世主となったということなのだろう。
その政治的カン、政治的創造性が優れているからに他ならない。日本の名宰相、吉田茂の血を引いていて、その血は60年以上の歴史があるんだ。ポッと出のオバマなんか目じゃないと内心自慢したかどうか。
このようにも現実世界に確固とした形で安心を実現させた具体的成果を勲章として、勲章とする成果がなければ誰であろうと見せることはできない、サミットの討議の場でのあの意識的につくっているにこやかな満面のスマイルで得意然と披露したたっぷりの自信を以ってすれば、明12日の都議選の勝敗に何の不安もなく、解散の時効がまもなく切れる衆議院の選挙でも腕を組んで見守るだけで与党勝利、政権維持の約束が自動的に果たされる予定調和のはずだが、ところが総理・総裁の顔写真を載せるのが従来の慣習であった総選挙用政権公約配布冊子の表紙に我が麻生太郎首相自身の指示で「若い人が抵抗なく電車で読めるように」と自らの顔写真を使わないよう公約策定チームに指示したと7月9日付の「asahi.com」に出ていた。
選挙の顔であるはずの総理・総裁である我が麻生太郎の国民の不安を取り除いて心を癒してくれるあの自信たっぷりなにこやかなスマイル顔を隠す。これはサミットで披露した日本の景気の「底割れを防いだ」とする安心成果を、あるいは自らのその政治的才能に裏打ちされた自信を自ら裏切るというだけではなく、国民の信頼と安心をも裏切る国民に対する背信行為ではないだろうか。
大体が表紙が一国の政治を統括する麻生の顔写真では「若い人」が電車の中で読むには抵抗があると言うことは何を意味するのだろか。自身の経済政策・景気対策を自慢するのなら、逆に若い人であろうとなかろうと、老若男女すべてが、あるいは場所は「電車の中」であろうとどこであろうと、レストランでの食事中であろうと、公衆便所の中でトイレに腰掛けて用を足しているとき誰も見ていなくても、麻生の顔写真の公約冊子を競って読んで、俺は、私は、僕は麻生太郎、この人を支持しているんだと、それぞれが自慢げにそれとなく見せびらかす状況になければならならないはずだが、首相自らが自身の政策を自慢していながら、逆の状況――表紙が麻生太郎の顔写真では読むのに「若い人が抵抗」を持つと不人気を予想している。
記事は〈「首相で選挙は戦えない」という党内の声にも配慮したようだ。〉としているが、それが事実としたら、若い人が読むのに抵抗があるという事実と併せて考えると、麻生首相の「底割れを防いだ」として、以後の不安要素を払拭した成果自慢は架空のものとなる。
事実雇用状況は「5月の有効求人倍率は過去最低。完全失業率は4カ月連続で悪化、過去最悪の5.5%に近づいている」(asahi.com)といった極度な不安材料を日本経済は抱えたままだし、これらの雇用状況が改善されないことには個人消費の回復は望めず、景気の先行き不透明感を拭うまでにはいかないに違いない。
省エネ家電やエコカーといった一部需要が上がったといっても、「政策効果による需要の先食いの可能性もあり、手放しでは喜べない」(ロイター)と、一時的状況改善である可能性を言っている。
要するに買い換えるだけの経済的余裕を持った富裕層、あるいは比較富裕層のみに限った需要であろう。しかもエコポイントによる商品との交換が低所得層には無縁のカネがカネを生む状況をつくり出している。
いわば麻生は経済的余裕ある層の力となったとは確実に言える成果を上げた。
だが、非正規社員が全就業者数の2人1人といった偏った雇用状況やリストラされた非正規雇用者及び正規雇用者の再就職の問題が解決されない限り、個人消費の底堅い回復は見込めないだろうから、「底割れを防いだ」と自慢して景気維持の阻害要素がさも存在しないかのように振舞うのは見え透いたおためごかしとしか言いようがない。
このことは5月に流行した新型インフルエンザの影響があったとはしているが、大手3社百貨店の3~5月期の売上げ大幅減益とか、コンビニエンスストア大手5社が減益・減収・赤字、あるいは総合スーパーの5月までの売上げが6カ月連続でマイナスといった文字・言葉が躍っている状況が証明している麻生のおためごかしであろう。
生活防衛のために勤務者が食堂やコンビ弁当で摂っていた昼食を手作り弁当に替えたといった買い控え傾向、月に何回か外食していた回数を減らす家庭の増加等の生活感覚からは程遠い麻生の景気観と言える。
麻生政治がおためごかしであることの動かない証拠が内閣支持率に具体的数値として表れているということではないのか。
我が麻生太郎はサミットで日本の素晴らしい、目を見張る程の景気対策とその成果を紹介した上で、「短期は大胆、中期は責任という原則の下に、財政健全化の取り組みを進めると同時に、危機克服後の出口戦略の議論を深める必要がある」(asahi.com)と、景気対策でバラ撒きにバラ撒いた財政の後始末の重要性を説き、なお且つ「中長期かつ持続的成長のためには、世界的な不均衡の是正が必要だ。・・・・具体的には米国は過剰消費の抑制、中国などの新興国は内需主導型経済への転換が必要である」と進言したそうだ。
確かに財政再建はどこの国も避けて通ることはできない必要不可欠な政策であり、そうであるからこそ、どこの国の政策遂行者にしても誰の指摘を待つまでもなく分かりきったことで、そういった事情も弁えずに我が日本の麻生太郎が誰もが分かりきっていることを指摘した。
日本以外の先進国の中には、分かりきったことである上に、先進国の中で最悪の財政赤字を抱えている日本に言われたくないと思った指導者がいなかったと言えるだろうか。麻生は人に言う前に先ずは自分の頭のハエを追う必要があったのである。
また、米国の「過剰消費の抑制」の必要性を説いているが、米国の「過剰消費」によって、それが理想的な傾向ではなくても、世界の国々がそれぞれ経済発展させてきた否定し難い側面を無視する説法であろう。中国にしても日本その他から部品を輸入し、それらを自らの安価な人件費を武器として安価な製品に組み立て、米国の「過剰消費」を当て込んでアメリカに輸出、自国の経済発展の助けとしてきた。
このことは発展途上国についても言えることで、米国の「過剰消費」あってのそれぞれの国の経済発展でもあったはずで、それなりの恩恵を受けてきた。
日本のバブル期、バブル経済の恩恵を受けて濡れ手に粟の成金が銀座等の高級クラブで一晩に100万とか200万パッと使う客が出現したそうだが、そういったカネ離れのいい使いっぷりが米国の「過剰消費」に当り、そのお陰で経済的に潤った高級クラブやホステスが日本や中国といった外需型構造国家であり、高級クラブに高級ウイスキーや高級ブランデーを納入して順次潤っていった業者が発展途上国に相当する位置にいたはずである。
また「中国などの新興国は内需主導型経済への転換」の必要性を説いたそうだが、外交だけではなく、経済に於いてもアメリカにおんぶに抱っこで経済を潤わせてきた日本の外需型主導型経済からの「内需主導型経済への転換」を抜きに中国のみに求めたのだろうか。
麻生のやるべきことは、少なくとも計画立てることは、日本の経済構造を外需型から内需型に転換してから、中国やインドにも求める「内需主導型経済への転換」とすべきだったろう。
だが日本は世界経済第2位の地位を獲得しながら、他国の消費に助けを求める外需主導型経済に甘んじる発展途上国の姿を取り続けて、経済大国の責任を十分に果たしてきたとは言えない。
そのくせ、アメリカに対して「過剰消費の抑制」を言い、中国に対して「内需主導型経済への転換」を求める。
合理的に物事を把える能力、政治的創造性に関わる合理的客観性を欠いているからこそ振舞うことができた、我が日本の麻生太郎のサミットでの言動であろう。
日本人性の反映としてある国と地方の関係
橋下、東国原両知事の成果なのか、「麻生おろし」程頻繁ではないが、最近「地方分権」なる言葉が盛んに飛び交っている。「地方分権」でパソコン内を検索していたら、「地方分権」に関するいくつかの自作記事が出てきた。適当に拾って読み返してみたうちの約2年前の2006年8月4日付記事「日本人性の反映としてある国と地方の関係」と昨年の208年1月18日記事「中央官僚と知事との間の権威主義的上下関係」が最近の言葉で言うと、“自分的には”決して古い内容とはなっていないように思えた。
“自分的には”とは“他人的には”古臭くなっていると見るかどうかは分からないということにもなるが、また妥当な内容かどうかも不明ではあるが、「地方分権」が政権の座から滑り落ちたくなくてワラにも縋る思いで東国原知事の人気に頼ろうとしている自民党一部幹部の右往左往と両タレント知事のバカの一つ覚え的連呼、それを伝えるマスコミ報道で始まった最近の問題というわけではなく、東国原が宮崎県知事に就任したのが2007年1月23日、それ以前から引きずっていて満足に解決も見ないまま推移してきた古くて新しい問題であること、そして日本に於ける地方分権制度の未確立は中央集権制、あるいは中央集権政治に深く関わっていることを改めて知って貰うためにも再掲載してみることにした。
昨8日の「時事ドットコム」記事が橋下大阪府知事が「国と地方は奴隷関係。(奴隷側に)公民権を。・・・・(地方自治体に)拒否権とか議決権を制度として与えてほしい」と述べて、国からの自律(自立)した主体的地位確立とその保証を訴え、〈分権のため参院に自治体首長枠を設ける案も表明〉したと伝えているが、「国と地方は奴隷関係」が実感として持っている関係性なのか、「地方分権」を訴える中で、インパクトを与える意味で少々過激な表現を使ったのか分からないが、国と地方が上下関係にあることは事実中の事実となっている姿なのは改めて断るまでもあるまい。
これは戦前から受け継いでいる中央集権体質が制約している国と地方の上下関係であり、この反映を受けて自民党という組織及び自民党政治が中央に位置した政権党として上に立ち、地方が下に従うことから生じた国柄であろうが、基本的には何よりも物事のすべてを上下の区分けで人間を価値づけ、その価値観に従って人間行動を律している権威主義の行動性が影響して、社会全体を支配していることから起きている国と地方の関係であろう。
《日本の「中央集権制」を過去記事から改めて見る(1)》として、「日本人性の反映としてある国と地方の関係」を、《日本の「中央集権制」を過去記事から改めて見る(2)》として、「中央官僚と知事との間の権威主義的上下関係」を再掲載してみることにした。
「日本人性の反映としてある国と地方の関係」の記事中参考引用した「朝日新聞」の記事「地方分権描けぬ道筋」の見出し自体が自民党政治の地方分権に無能力の証明となっている。
日本人性の反映としてある国と地方の関係(Weblog/2006-08-04 04:57:26)
日本人がつくる人間関係に関わる体系すべては日本人性に影響を受ける。日本人性から出た制度、組織、慣習を形作る。何事も日本人性の反映を受けて成立・維持していくのだから、それはごく当然な因果性であろう。国と地方の関係に於いても、日本人性がつくり出した力学下にある。
このことの理解に役立つ新聞記事がある。
「地方分権描けぬ道筋」(06.7.21.『朝日』朝刊)
「地方分権で、国と地方の役割を見直す『新分権一括法』の制定が焦点となってきた」という出だしとなっている。新法の必要性では内閣・与党とも認識が一致しているが、その道筋が描けないでいるという内容の記事である。ここにきて小泉構造改革も迷走状態に入ったようだ。
「小泉政権が進めた三位一体改革は、補助金削減や税源委譲などのカネの配分見直しが柱だったが、国と地方の役割分担から改めて問い直す」(同記事)こととなったというから、「小泉政権が進めた三位一体改革」は最初から満足な内容を伴っていなかったと言うことだろう。
あれほど三位一体、三位一体と大騒ぎしていながらである。「カネの配分見直しが柱だった」と言っても、財政再建の必要上、国の負担を何兆円ぐらいは減らしたい、地方への財源移譲は何兆円に抑えたいといった、国により都合のいい差引計算で単に数字を弾き出しただけのことだから、〝見直し〟は次なる予定調和として宿命的に抱えていたということなのだろう。構造改革、構造改革とさももっともらしげに言い募ってはいたが、数字上の操作か職務配分上、あるいは配置上の機械的な操作・改変程度で終わっている改革ばかりではないか。
特殊法人や独立行政法人の整理統廃合にしても公務員改革にしても、いくつのものをいくつにするかといった差引計算、あるいは現在の数字をどのくらい減らすかといった最初に数字ありきで、組織・制度に於ける人事的な機能性の改善抜きでは本質的な問題解決にはつながらない。
人事的な機能性の中で最も問題としなければならない事柄は日本の官僚が特に血とし肉としている日本人の権威主義性がもたらし制度化している縦割りと縄張りの問題であろう。それが手つかずのままでは諸外国と比較してただでさえ低い公務員の生産性(無能ぶり)は低いままで推移し、改革が改革の体裁を成さないことになる。統廃合や人数削減で従来以上に生産性を上げなければならないところを、逆に組織改変や人数が減ったからと縦割り・縄張りが今までどおりに機能しないより悪い方向に病変して、その混乱によって逆に生産性がなお一層落ちる恐れなしで、改革が組織・制度の表面をいじっただけのこととなり、より始末の悪い結果をもたらすことになりかねない。
改革が数字を弾き出すか、職務に対する機械的な操作・改変程度で終始するといったことも日本人性に深く関係している。上は下を従わせ、下は上に従う権威主義の力関係・人間関係に阻害要件となることから欠如させている創造性のなさが、そういった機械的操作に向かわせているのだろう。
記事は国と地方の関係について次のように伝えている。「現在の分権一括法は、国と地方の関係を『上下・主従』から『対等・協力』に変え、機関委任事務を廃止した。ただ、地方全体の仕事の7割に相当する部分が国の関与が残り、役割見直しは不十分とされてきた」
カネの配分だけではなく、国の役割を主体に地方の役割をも一括して見直すべく取りかかろうとしているのが「新分権一括法」と言うことらしいが、「現在の分権一括方は、国と地方の関係を『上下・主従』から『対等・協力』に変え、機関委任事務を廃止した」と記事が解説している国と地方の関係内容と、「地方全体の仕事の7割に相当する部分が国の関与が残」っている関係内容とは相矛盾する成立過程となっている。「国の関与が残」っている以上、「国と地方の関係を『上下・主従』から『対等・協力』に変え」たとは言い難いからである。
そもそもからして21世紀の自由・平等の民主主義の時代に自由・平等の民主主義に真っ向から反して「国と地方の関係」が「上下・主従」の権威主義的関係にあること自体、日本人が権威主義性を如何に歴史・伝統・文化としてきたか、「国と地方の関係」がそのような日本人性の反映の一つの姿であることを否応もなしに証明している。
そのようにも歴史・伝統・文化としてきた「国と地方」の「上下・主従」の権威主義的関係である、地方との間に「7割」も「国の関与」を残していて、「対等・協力」の関係に移行するわけがない。
例え「関与」がゼロとなったとしても、「対等・協力」の関係は成立しないだろう。権威主義性は日本人が血としている行動様式である。一朝一夕には消えてなくなるものではない。自分たちの情けない血を自覚して、余程意識的に行動しないことには中央の政治家・役人にペコペコ頭を下げる民族的に刷り込まれた習慣はそう簡単には改まらない。
国の関与が「7割」からゼロになり、地方が完全独立を獲ち取って完璧に別個に仕事をすることになったとしても、いわば地方の役人が中央の役人と顔を合わすことがなくなったとしても、県が今度は一番上の地位を獲得することによって、その権威主義性を強め、これまでの国と地方の「上下・主従」の権威主義的な人間関係に取って代わる形で、県と各市町村との従来からあった「上下・主従」の権威主義的な人間関係にさらに上乗せされる可能性無きにしも非ずである。
また国会議員が自身や秘書、あるいは系列の県会議員を通して地元選挙区の県の政策や事業に介入する政治家と県との権威主義的な支配・被支配の関係は国の関与とは別個の場所でも行われていたことであって、そういった権威主義的関係をも排除しないことには、いくら「新分権一括法」だと法律をこね回したとしても、改革の底から水漏れが生じない保証はない。
役人の天下りにしても、権威主義が助けている制度・慣習であろう。一旦手に入れた上下関係の有効期限が変化せずに持続するからこそ、天下りは成立する。在職中の内外に対する上下関係が離職後失効して対等性を招じ入れる類のものなら、天下りは成り立たない。離職後、特に在職中の内に対する上下関係が際立って力を持ち、その関係で有効期限が長く持続するものなら、再就職先で天下りとしての価値が高まる。
また天下りは中央の役人の特許ではなく、地方の役人の特許ともなっている生業(なりわい)であって、権威主義性が網の目のように日本社会を覆っていることの証明でもあろう。
天下りに顕著な形で見ることができるように、権威主義的な人間関係が機会の不平等をつくる大きな要因となっている。上に位置する力の強い者が下を従わせる特権を利用して、より有利な機会を手に入れ、下の者の機会を奪う。機会獲得の不平等は当然のこととして、利益配分の不平等をもたらし、そのことが格差をつくり出していく。よく言われる国と地方の格差も、国と地方が権威主義的に「上下・主従」の関係にある同じ構図からの利益配分の不平等がもたらした格差であろう。
そういったことに手をつけずに、手をつける頭もないからだろうが、安倍晋三は日本を「勝ち組」「負け組」に固定化しない再チャレンジ可能な社会にしていくと勇ましく大見得を切って、5月22日(06年)に第二の人生として農業を目指すサラリーマン退職者などとの意見交換を行ったそうだが、一応の功なり名を遂げ、それなりの生活資金を蓄えた、いわば「勝ち組」に入れてもいい人間相手により確かに「勝ち組」に位置づけていこうとする〝再チャレンジ〟支援であって、譬えれば天下りに新たな利益を与えるべく手を貸すようなもので、「勝ち組」「負け組」を固定化しないという趣旨に反することをして、その矛盾に気づかずに得意顔となっている。所詮「再チャレンジ」は奇麗事の政策で終わる宿命にあるのだろう。
日本人は上に立つとふんぞり返りたくなり、下に位置すると上に対してペコペコ頭を下げて取り入ろうとする人種である。そのような上下関係を改めることからすべての改革は手をつけるべきではないだろうか。真に対等の関係となったとき、言いたいことを言うことが可能となり、そこから政策にしても制度づくりに関しても、創造的な発想が生まれてくる。
日本の「中央集権制」を過去記事から改めて見る(2)
《中央官僚と知事との間の権威主義的上下関係》に続く
中央官僚と知事との間の権威主義的上下関係」(Weblog / 2008-01-18 06:21:20)
08年1月16日の『朝日』朝刊に次のような記事が出ていた。
≪毎週上京してカネ無心 乞食丸出しのよう 官僚への知事の姿勢 道州制懇座長チクリ≫
<道州制のあり方などを検討する政府の道州制ビジョン懇談会の江口克彦座長(PHP総合研究所社長)は15日、名古屋市で開いた道州制シンポジウムで「愛知県知事は毎週のように東京に行っているだろう。官僚にカネください、カネくださいともらいに行っている。差別用語かもしれないが、乞食丸出しのような格好で行かなければならない」と発言した。
江口氏はこの直前に「地方分権という言葉を使うべきではない。嫌な言葉だ。どうして『地方』なのか。みんな『中心』だと思えばいい。自主独立の気概が生まれてこない」と述べ、地域主権型の道州制を目指す考えを強調した。
中央官僚が知事よりも偉いかのような関係のあり方を批判するつもりだったようだが、逆に知事から反発を招きそうだ。>・・・・・
上記記事は相変わらず日本は国が地方を支配する中央集権型の国家となっていて、「地域主権型」といった名前はどうであれ、国と地方が対等の関係とはなっていないことを示唆している。国と地方がもし対等であったなら、地方側の実現させたい政策が国の補助金を必要とする場合、その計画を具体的に述べた文書を国に送り、担当者のプレゼンテーションを参考材料に加えて国が審査を行えば済むはずだが、県知事がわざわざ東京にまで出かけ、中央官僚に会って直に頭を下げるところに対等ではない、自らをお願いする下の立場に置いた上下関係が浮かび上がってくる。
地方が中央の有力な官僚に天下りを求めるのも、企業の官僚活用と同様に天下った元官僚の勤めていた省庁への影響力・顔を期待してのことだと言うが、そのことの可能性も元官僚とかつての職場の在籍者との権威主義的な上下関係の確たる存在を条件として成り立つ期待値であろう。
いわば天下り官僚が省内で持っていた上下関係(=権威主義性)の地方対中央の磁場への置き換えに過ぎず、権威主義を纏った中央対地方の関係であることに変わりはない。
中央省庁が自治体をコントロールする強力な武器となっている「補助金制度」がある限り、中央と地方の「上下・主従」の関係は変わらないという意見があるが、「補助金制度」が日本人の権威主義的上下関係を慣習化させたわけではない。民族性としている日本人の権威主義性が人間関係を上下に規定していて、そこから中央を上に置き、地方を下に置く現在の「補助金制度」を発生させたに過ぎない。日本人の上が下を従わせ、下が上に従う権威主義の行動様式は中央対地方の関係にのみ存在するわけではなく、すべての人間関係に亘って存在する関係式だからである。
役人の世界だけの関係式ではなく、地方政治家と国会議員の間にも働いている関係力学であり、警察社会をも動かしている構造式であり、企業社会でも本社と支店、あるいは元請会社と下請会社の関係を規定づけ、一つ組織であっても、上司対部下の関係を制約づけている上下性でもあるからである。
1996年を14年も遡る1982年に会計検査院が愛知県警本部の立入り検査を行い、カラ出張で捻出した裏ガネの使途が記載されている裏帳簿類を摘発したものの、不正経理を証拠立てるまでに至らず、1996年に内部告発を受けたかして再度立入り検査が行われたが、朝日新聞社が14年前の裏帳簿のコピーなど同県警の過去の内部文書を入手したとして、1996年の8月26日の記事で次のように伝えている(一部引用)。
≪カラ出張で裏ガネ1000万円 会計検査院 愛知県警の裏帳簿、82年に入手≫
<関係者の話や帳簿類によると、総務部では当時、各課でカラ出張を行い、その旅費をプールする方法で裏金を捻出。裏金に回したのは、旅費予算の8割にものぼり総務、会計、広報など5課があった総務部全体では、裏金の総額が年間、1千万円を超えていた。
裏金の多くは「課費」として課の支出に充てるが、さらにこの「課費」の一部を総務部長ら幹部の私的な経費などを賄う「部費」と「部長経費」に上納する二重構造になっていた。
幹部優先
裏帳簿を見ると、使途で最も多いのは、せんべつやお祝い、香典などの慶弔費で、額の差はあるものの一般職員も対象になっている。が、階級社会の警察だけに、裏金の使途も幹部に厚く、下に薄い。
(中略)
つけ届け
本部長や部長への中元、歳暮は慣例になっていて、毎年、機械的に費用が裏金から出ている。70年代半ば、部長が本部長に贈る歳暮、中元の代金は1回21200円。部長と部長夫人には、各課で合同で贈り、一つの課で6000円ずつ出し合っている。
幹部への気遣いは贈り物だけにとどまらない。「本部長令嬢結婚祝分担金」として計55000円が部長経費から。また、「本部長実兄方葬儀に伴う経費」で60100円が使われた。
つけ届けは、警察庁をはじめ全国の警察幹部も対象だ。警察庁や他県幹部が愛知県を訪ねると、みやげを持たせる。人によってはホテル代や運賃まで裏ガネで払っている。「名駅通過、おみやげ 二千円」の記載がある。これは、名古屋駅を通過しただけの管区警察局長に、課員が駅にかけつけて、みやげ品を渡したのだという。(後略)>
下線で表記した箇所が日本人の人間関係が権威主義的上下関係で成り立っていることを証明している。特に「『名駅通過、おみやげ 二千円』の記載」部分は権威主義的上下関係が最も露骨に現れている場面であろう。
管区警察局とは警察庁の地方機関ではあるが、東北・関東・中部・近畿・中国・四国・九州の7地域の警察本部の上部組織として各地域警察を監督する立場にある組織である。そこのトップである局長が単に電車に乗って通過するだけなのに「二千円」の「おみやげ」を持って、多分使いっ走りの下っ端なのだろう、課員が駆けつけて失礼がないように卑屈にペコペコと頭を下げて手渡し、電車が見えなくなるまで深々と頭を下げるか敬礼するかした直立不動の姿勢でプラットフォームから見送る。そのようなシーンがいやでも目に浮かんでくる。
自分たちを下の者に置いていなければできない上の者に対する過剰な敬いではないだろうか。
受取る方も当然のように受取ることができるものだが、自分を上の位置に置いているからこそできる下の者からの貢物行為であり、そのことによって自分を上の者・偉い人間だと確認してもいるのだろう。
ここで問題なのはただ単に電車で通過するだけのことがその通過時間と共に下部組織に情報として伝わる組織の機能性である。上下関係を演ずるだけの儀式の情報交換に関しては遺漏のない組織の機能性とは何を物語るのだろうか。
上の者に対しては常に相手が上の者であり、当方が下の者であると分かる敬いと卑下の相互関係が相手に対して失礼にならない人間関係となっているからこそ、上下関係を証明する情報交換能力が自然と発達することとなった日本人の権威主義性と言うことなのだろう。この情報交換能力の優秀性は上下関係を証明する儀式を疎かにしては上の者に対して失礼であるし、不興を買った場合、下の者の立場が危うくなるといった態度と相互的発達関係にあるのは断るまでもない。
とすると、例えば教育政策で文科省は自分で課題を見つけて自分で解決する能力を植えつける教育が機能しなかった理由を、そのことを目指した「ゆとり教育」の趣旨をうまく伝えることができなかったからだとしているが、制度として機能させ得るかどうかはひとえに情報(=政策)をつくり出し、出力する側の創造性と情報(=政策)を入力し、それを実行する側の創造性との連携プレーにかかっているように、各種政策を機能的・実際的に社会制度化するための創造性を喚起する情報交換能力に不足があるのは権威主義的な上下の人間関係に費やす情報交換能力の突出・優秀さ(=プラス)を受けたマイナスとしてある情報伝達能力の欠如と言えるかもしれない。何しろ日本人の上下の人間関係維持に浪費される情報伝達や創造力にしても、そのエネルギーは金銭的エネルギーに劣らず膨大な量となるだろうから、社会の発展に向けた肝心の情報伝達には手が回らないのも無理はない。
例え「地域主権型の道州制」を目指そうとも、「自主独立の気概」を心掛けようとも、補助金制度の解消に成功しようとも、権威主義的な上下の人間関係をDNAとしていることから逃れらることができなければ、中央と地方の上下関係・主従関係はどこかに残ることになるに違いない。
戦前の日本の軍隊は天皇の軍隊であり、官僚は天皇の官僚であった。戦前に於いても支配層はお上意識を持ち、一般国民を下に置く権威付けで以て相互の人間存在の証明としていた。それぞれが発揮する能力の内容ではなく、能力の権威付けを上下の人間関係で計った。
そのような権威主義的な上下関係の存在様式を戦後も引きずって、中央と地方の関係に最も象徴される権威主義に縛られた「上下・主従」の人間関係が日本社会全体にはびこり状態となっている。知事が中央の「官僚にカネください、カネくださいともらいに行」く場面は日本に於ける「上下・主従」の人間関係の単なる一つの姿に過ぎない。
日本が真に自立(自律)し、他力(=他国)に依存しない自力的発展を望むには人間関係を上下で律する権威主義のメカニズムから抜け出て、個人個人が自立(自律)することから始めなければならないだろう。個人の自立(自律)があって、初めて社会の自立(自律)があり、国の自立(自律)へとつながっていく。
それにしても上に立つ者の卑しいコジキ行為となっている金銭授受・物品授受(歳暮・中元、その他)であることか。中央省庁官僚の汚職の反省から生まれた「国家公務員倫理法」が施行されたのは1999年。内容は国家公務員が利害関係者からの借受けを含むカネの授受や各種接待、贈与の機会を得ることを禁じているが、防衛省の守屋次官の金銭授受・接待やその他の者の類似例が「国家公務員倫理法」が権威主義的な上下関係の打破に無力であることを物語っている。天下りに約束する多額の給与と多額のボーナス、多額の退職金もある意味、「国家公務員倫理法」が禁止している「カネの授受・接待」に当たらないことはあるまい。
7月5日の日曜日、フジテレビの『新報道2001』で東国原を中継出演させて、民主党代表代行菅直人と自民党小池百合子の生出演を交えて、地方分権、その他を論じていた。地方分権のコーナーのみを取り上げて、議論の内容を見てみることにした。
司会者は須田哲夫と吉田恵。コメンテーターと言うのか、黒岩祐治が務めていた。
最初に黒岩祐治から鳩山由紀夫民主党代表の政治献金問題を聞かれて、菅直人が鳩山個人の資金を秘書が個人献金がさもたくさんあるかのように見せかけるためにしたことで、私個人はその説明に納得していると発言すると、小池が「野党ボケの話だなと聞いておりましたけども」、「小沢前代表に対して説明責任が足りないと言ってらっしゃった方にしては説明が足りない、これで総理の目はなくなったのではないか」、対して菅が小池のことを「細川政権では細川の側近で、佐川急便問題であのときは大変だった、それ忘れて、今の瞬間だけのことを言う、自由党にもいて、与党になったら、与党ボケしたのではないか」と遣り返す。
小池「問題は何をやるかです」
菅「それはそうですよ」
小池「自民党を変えるという、東国原さんと私ね、気持一緒なんですね。やはり日本を変えるっていうのは、自民党を変えるって言うこと、これにつながる。そういうことです」
政権を変えることによって日本を変えることは可能だが、それがいい方向への変化かどうかは分からないが、日本を変えたからといって、だからと言って直ちに自民党が変わる保証はないはずである。自民党の変化不全によって今の日本があるのだから。
アメリカの戦後経済発展が日本を豊かにし、その豊かさの陰に隠れて社会の矛盾が目立たなかっただけの話で、経済発展が止まって以降、元々あった矛盾があからさまな姿を現すようになった。自民党政治が放置し、放置することで増殖した数々の社会的な矛盾なのである。
地方分権も自民党政治に放置されてきた矛盾の一つなのは言うまでもない。
菅「それで日本新党に入ったのですか?」
小池「そうですよ」
ここで司会陣が割って入る。小池の「日本を変えるっていうのは、自民党を変えるって言うこと」は東国原が日本を変える、自民党を変えると盛んに言っていることを取り上げたのだろうが、さすが政界遊泳術の巧みな小池らしい持ち上げであると同時に、東国原の考えに自己を同列に置く巧妙な自己宣伝となっている。
次に講演の模様なのだろう、古賀誠から衆院選出馬要請を受けたときの様子を壇上から説明する東国原を映し出す。
東国原「(地方分権)これを実行させなきゃいけないので、その責任者にしてくれと。責任者は大臣じゃありません。大臣ぐらいじゃできない。最高責任者にしてくれ。『何ですか?』と古賀さんがおっしゃった。(笑い)
総理・総裁ですと言ったら、古賀さんが・・・・(目を丸くし、口をあんぐりとあけて呆気に取られて固まった表情を数秒つくる)、あの悪人が男の古賀さんが(自分の顔に両手を持っていき、そういった顔だというようなしぐさを見せる)天子のような顔になってるんだから(瞼を頻りに瞬かせ、口元に優しげな笑みを洩らして天使の顔をつくる)」・・・・
ギャグに変えてしまうのだから、地方分権の必要性を口では言う程に深刻には把えていないらしい。少なくとも笑いを取る余裕はある。
そこへ自民党の小池百合子が街頭で支持者と握手して歩いているところをマイクを向けるシーンが挿入される。
小池「うまいと思いますね。自分の政策を、あそこでボーンと出すわけですからね。そしてこういうあのー、節目のときっていうのは、そういう政策がコロッと実現できたりもする、その一番いい潮目を読んで、いるっていうのは、センスがあると思いますね」
その人気にあやかろうとしているのだろう、東国原共鳴者を演じている。これを無節操と見るか見ないかである。東国原は「地方分権」とは言っている。「9知事連合のマニフェスト」とも言っている。だが、その中身、地方分権の中身――いわば小池が「政策」だとしている中身についての直接・具体的な言及はない。
須田アナの二つの出馬条件であった一つのマニフェストに関して、前向きに検討するという返事を自民党から貰ったが、もう一つの総裁選候補にという条件に対して何か返事があったのかの問いに対して、
東国原「えー、それに関してはありません」
黒岩「総裁選に出馬できる環境をとの意味があったり、一つよく分からない」
東国原「二つあると思うんですね。僕があのー、総裁選の前倒して総裁選に出るときは、総理・総裁を代えなきゃいけないですねー。で、総選挙があって、もし、仮ですよ、私が自民党さんから出馬して、当選したと。国会議員である、要件がありますね。それと推薦人20人。えー、集めるという今の要件がありますねえ。それを確約してくれと。あー、確保してくれるかという、ですね」
黒岩の次の問いかけから判断すると、一つは総選挙前に総裁選を行って、東国原自身が国会議員の身分を持たないまま出馬する。だから、黒岩は「規定を変えると言うこと?」と問わなければならなかった。
もう一つは総選挙が先で、当選して自民党国会議員という条件を確保することになったなら、総裁選出馬条件である推薦人20人の確保を確約してくれと要求した。どちらにしても、自分が言っている総裁候補にしてくれと言うことよりも、限りなく総裁にしてくれと言っていることに近いある意味虫のいい要求である。世襲議員よりも苦労しないで総裁の階段に辿り着こうとしているのだから。
黒岩「じゃあ、今すぐに総裁選ぶ、その規定を変えると言うこと?それなかなか難しいですよね?」
東国原「難しいですよね。社則みたいなもんで、ですからー、ですから、あの、総選挙を、の前に総裁を行わなければ、ですね、あれを出る可能性はありますですよね」
黒岩「二つの選択肢をおっしゃった後の方?国会議員になってから、この総裁になる。こちらの方が条件としては可能性あるっていうことですよね」
東国原「そうですね。それから総裁出れますよね。それもう一つ、僕はあの注文していたのがですはね、これは表に出ていないですけども、総裁選の形を、もう、お変えになったらどうですかってたらね、あの、党員全員に会員費を払ってですね、党員全員に党員費が払っている全百数万人いらっしゃいますね。あの方々のゼンイーン(全員)を選挙にしたらどうですかと。それで推薦人20人とかを、ちょっと、あのー、ハードルを下げて10人とか、それぐらいにして、開かれた選挙を国民のみなさんに開く、開かれた選挙にされてはどうですかってことを、あの申し上げました」
ハードルを下げて推薦人を10人にして、国会議員の身分があるなしに関係なしに党員費を払っている党員全員に総裁選出馬の資格を与える。討論会を開くことでそれぞれの政策の中身を知ることができるだろうが、一地方自治体の指揮官を選ぶのではなく、また国会議員という兵隊を選ぶのでもなく、国内にとどまらず、国際間にまで及ぶ複雑多岐な利害調整の任を負う一国の指揮官を選ぶ以上、それ相応のリーダーシップまで見極めなければならない。リーダーシップは多種多様な経験や試練から生まれる能力であろう。ボーイスカウトでよりよくリーダーシップを発揮し得たとしても、一国の総理大臣としてよりよくリーダーシップを発揮できる保証とはならない。
東国原の提案は一見過激な改革に見えるが、総裁の椅子要求が逆風が吹いている窮状下の自民党の足元を見ただけのことで、それと同じく合理性を備えているとは言い難い。
東国原のこの論理を合理性を備えた正当性あるものとするなら、25歳以上とか30歳以上とかの被選挙権のハードルを下げて、供託金も取らず、党員費ではなく税金を払っている国民のすべてを国会議員として立候補する資格を与えて、それを以て「開かれた選挙にされてはどうですか」という論理も成り立つことになる。
東国原の今ある県知事としての人気を自分でつくり上げたと過信しているようだが、テレビがつくり上げた人気であろう。宮崎のセールスマンを自負しているようだが、テレビが追っかけ騒ぐことによって宣伝効果を生じせしめているマンゴーその他の宮崎特産品の東国原共々売り出したセールス効果に過ぎないはずだ。言ってみればテレビが勝手に番組制作してくれているテレビショッピングみたいなものであろう。
黒岩「それもすぐにはできないということですよね」
東国原「そうですよ。党則を変えなきゃいけないですね」
黒岩は先ずは実現可能性を問うべきを、実現可能性の上に立って、将来的可能性とし、東国原も同じ文脈で答えている。
黒岩「時間がかかりますね、そうすると。やっぱり、東国原さんの話を聞いていると、先ずは国政に出ると、国会議員になると、先ず総裁になるための条件だと、こういうことですよね」
東国原「第一ハードルですよね。第二ハードルが20人の推薦人が集まるということですよね」
黒岩「だとすると、国会議員になる?と言うことは、その、ま、総裁選出馬の条件、環境を整えるということの、何かじゃあ、何か約束、口約束みたいなものが、あれば、大丈夫だと言うことですか?」
東「まあ、あの、口約束でもあり、ありますし、一筆でも書いていただければ」
小池(笑う)「それじゃあ、どうしたことを書けばいいんでしょう?」
東「環境を整えますとか」
黒「ホーホー、ホー、つまり、国会議員20人の推薦、例えばじゃあ、ええー、古賀さんが東国原さんに口説いたと。古賀さんが分かった、東国原君が国会議員になったら、僕は20人必ず集めてあげるから。そういう話を約束してくれたらば、これが条件が整ったとわけとするんですね?」
東「まあ、ぶっちゃけそうですね」
小池「言うだけでいいんですか、古賀さんが」
黒岩「そういうことなんですか」
東「でも、約束を守っていただかないとですね。それは約束ですから」
少なくとも、古賀を信用できない存在、約束を破りかねない存在と看做している。信用していないにも関わらず、総理の椅子を求めたとき、古賀は天使の顔となったと矛盾した印象を語っている。
黒岩「ハー、ハー。そういうことは、もう、東国原さん、国政に出ると宣言したようなもんですか?」
東「いや、違いますよ。ですから、二つの条件が揃わないと、先ずマニフェストを、100%飲んでいただかないと。それを実行するため、責任あると。ここですよ。マニフェストなんですよ。地方分権なんですよ。全国知事会が纏めた、あの9項目をすべて載せてくれないと」
7月3日の「J-CAST」記事が次のように伝えている。
〈 知事は09年7月2日の記者会見で、自民党に突き付けた「次期総裁候補にする」と、「全国知事会マニフェストを自民党の公約に完全導入する」について、記者からどれくらい自民党は前向きなのかと問われた。
マニフェストについては
「どこまで前向きかはわかりませんよ。(自民党の)許容範囲というものがあるでしょうから、100%とはいいませんけど、90%、80%以上はないと(国政への転身はない)」
と答えた。それまでマニフェストは、一字一句たがわず自民党のパーティーマニフェストに盛り込むことを条件にしていただけに、記者の間に驚きが広がった。〉と、〈出馬条件下げたのは「バーゲンセール」か「手打ち」か〉と揶揄している。
同じ日の「毎日jp」記事も、〈これまで「一言一句漏らさず」としていた条件を自ら引き下げた形で、「国政転身ありきの安売りか」と冷めた見方も出ている。〉と批判している。
宮崎のセールスマンだから、「バーゲンセール」も「手打ち」も「安売り」もするだろうが、人気を下げる要因となりかねないマスコミ扱いの危険因子に関しては敏感に自己保身が働くからだろうか、最初の「100%」条件にハードルを戻している。
黒岩「それは可能性高いでしょ」
東「これはですよ、100%載せてくれるかどうか、ちょっと分からないですよ。まだ(自民党の)マニフェストの作成が進んでおりませんですね」
黒岩「東国原さんの人気をやっぱり何としても借りたいからすれば、自民党からすれば、それは低いハードルじゃないじゃないですかね」
黒岩はマニフェストに入れる入れないかのみ形式を問い、内容を問わない。内容価値を問わない。
東「人気ないですよ。そんなに言われる程」
黒岩「小池さんはどうですか。東国原さん、自民党の候補に出るって感じですよね」
小池「私はね、東国原さんが偉いと思うのは、マンゴーを売っていたのがですね、政策をガーンと売り出しているということで、まさに、あの、これからマニフェストをですね、しっかり、つまり、党としての商品、こういうものをですよーということをですね、国民のみなさんにお示しをしな、け、ければならない、ここの中に入れろと、ということ。これは私はもうとてもいいタイミングでですね、おっしゃってるし、まあ、やっぱりね、地方分権というのは、今しなければ、日本と言う国がですね、これから、まあ、色んな試練もあるんでしょう。文明そのものも正面に立っているわけですから。
だから、国がやるべきことっていうのは、やっぱり国防、外交それから、まあ、財政とか、金融、それから世界的な、国際的なインフラを整える。あとは北海道と沖縄と同じようにですね、霞ヶ関が動かそうというのは、土台無理なんだろうと、思うんですね。だから、私はあの、あの、東国原さんが身体を張って、それをするっていうのは評価しますね、ええ」
しかし、「霞ヶ関が動かそうというのは、土台無理なんだろうと思う」ことを自民党の協力を得て、やり続けていた。小池はその仲間の一人に位置していた。
「地方分権というのは、今しなければ、日本と言う国がですね」どうなると言いたかったのか、述べずじまいで、「これから、まあ、色んな試練もあるんでしょう。文明そのものも正面に立っているわけですから」と意味不明の結論で終えている。
大体が「地方分権というのは、今しなければ、日本と言う国がですね」と言う資格は自民党議員の誰一人として持ってはいない。地方分権の必要性は見るべき地方分権制度の実現を怠ってきた自民党政治に対するアンチテーゼであり、改革要求として存在している問題だからだからである。
小沢一郎前民主党代表は自らが発表した「政策とオピニオン」で「1.分権国家の樹立」に関して次のように述べている。
〈 明治以来の中央集権制度を抜本的に改め、「地方分権国家」を樹立する。中央政府は、外交、防衛、危機管理、治安、基礎的社会保障、基礎的教育、食料自給、食品安全、エネルギー確保、通貨、国家的大規模プロジェクトなどに限定し、その他の行政はすべて地方自治体が行う制度に改める。
また、中央からの個別補助金は全廃し、すべて自主財源として地方自治体に一括交付する。それにより、真の地方自治を実現し、さらに中央・地方とも人件費と補助金にかかわる経費を大幅に削減して、財政の健全化にも資する。(中略)
3.基礎的自治体の整備
「分権国家」を担う母体として、全国の市町村を300程度の基礎的自治体に集約する。都道府県は将来的に地方自治体から外し、最終的には国と基礎的自治体による二層制を目指す。〉云々――
要するに「明治以来の中央集権制」を踏襲した自民党政治が、踏襲したゆえに中央集権制と相反する価値制度として存在する地方分権への転換はカエルが空を飛ぶようなあり得ない自己実現性となって立ちはだかり、現在も続いている地方分権の未だ見ない実現であり、そのことを反面教師とした政策提起としてある現在の地方分権意識の高まりであり、言ってみれば、地方分権とは未だ尾を引いている中央集権制からの解き放ちそのものを言うはずである。
ということは、「明治以来の中央集権制」を踏襲し、中央集権制をどっぷりと体質化した自民党政治に求めて解決する地方分権ではないことになる。だからこそ、現在も地方分権を叫ばなければならない状況下に閉じ込められているということだろう。
それを小池百合子は狡猾にも自民党の責任を棚に上げて、霞ヶ関にのみ責任を負わせようとしている。「国がやるべきことっていうのは」と言いながら、自民党政治はそのような国の形に持っていくことに何一つ貢献できないまま現在に至っている。
吉田恵アナ「不思議な疑問に思ってることあるんですけどねえ、元々、霞ヶ関の解体や地方分権、っていうふうに、まあ、今の政治を根本、抜本的に変えようとしていたのは、民主党であって、東国原さんの、その考え方と、非常に民主党の方が近いように思うのですが、なぜ自民党なんですか?」
吉田の「今の政治を根本、抜本的に変えようとしていたのは、民主党であって」という認識は自民党が中央集権体質を抱えた党だから、思い巡らさなければならない当然の考え方であろう。東国原にはその認識がない。
東「まあ、そうですね。あのー、僕らは、僕らの就任してからの国と地方のですね、この制度ですね、国から縛られていると、ですね。非常にキュークツ(窮屈)感を持っていました。で、いつかは、この今のままじゃあ、あの、国の形を、あれ、あの、変えないと、あの、国全体の地方の疲弊や衰微・衰退は、ああー、止まらないと思ったんですね。
で、どの時点で、じゃあ、分権というものを突きつけるかと、つまりこの分権と言うものは霞ヶ関の大きさを3分の2から半分ぐらいに規模縮小するということですからね。で、分権、なぜ分権かと言うとですね、地方の財政を預かる身から、ちょっと、ちょっとだけ言わせていただきますけれども、あと、3~4年で地方はですね、予算を組めなくなる自治体が多くなるんですよ。これ、あの、夕張みたいにですね、あの、倒産する、じゃない、破綻する、財政破綻する自治体が、もう目の前に、何十自治体というですね、あるんです。
で、これはですね、財政なんていうのは、地方も一生懸命財政カットをしましてですね、行財政に取り組んできました。でも、それでは限界なんですよ。財政的にですね。国から財政とか権限を、あるいは人間を、十分に移譲していただいて、そして、地方で決められることは地方で決める。
先程小池さんがおっしゃったように、医療・福祉・保険とかですね、住民サービスとか、そういったもの地方で、地方実情に合った、ですね、意識変革をして貰いたい」
東国原の「国から縛られている」という認識にしても、自民党が中央集権制度を採っている政権党である以上、正しい認識と言えるが、地方分権を阻んでいる主要因が自民党が自らの統治システムとしているそのような中央集権制度そのものであり、敵はそういった中央集権制に立った自民党そのものであるという認識は持てずにいる。お笑い系の人気はあっても、自らの認識を合理的に働かす力はないらしい。
吉田アナの、東国原の地方分権論が民主党の考え方と近いが、「なぜ自民党なんですか?」という問いに答えていないなと思っていたら、黒岩がそのことを問い質した。
黒岩「それが、それは分かる。十分に分かる。それがなぜ民主党じゃなくて、自民党なんですか」
東「ハハイ、これから説明します。で、それで、県の知事会で活動してきました。来ましたですね。民主党さんは最初、300自治体とおっしゃってたんです。今ちょっと変えられたかどうか分かりませんけれども、その300自治体はあり得ないです。国と300自治、基礎地方自治体の理想というのは、宮崎で言ったら、3分割っていうことなんですから、30万人規模のですね、その政令指定都市の権限を与えるっていうのは、これはもうー、ちょっと現実無理かなあと。合併、市町村合併で今1800になっているんです。300、300が1800になったんですよ。この合併――だけで、大変だった。地方ですね」
黒岩「民主党が今出ている地方分権案が、やっぱりこれは納得できない」
東「最初、それだったんですよ」
黒岩「基礎自治体、これ300ぐらいになった」
東「それがちょっと変わってきてるんですよ。ずうっとこらえていたんで、こらえたんで、これはいかんだろうなと、思っていた矢先に、自民党さんの方からお話を戴いたので、これはチャンスだと、じゃあ、全国知事会がずうっと10年間言い続けてきた分権の形?これを飲んでくれと」
「全国知事会がずうっと10年間言い続けてきた」ことの裏を返せば、自民党政治では10年経過しても実現できなかった地方分権であることを意味しているが、東国原には理解する能力を持ち合わせていないらしい。
このことは橋下大阪府知事やその他の知事・市長が地方分権政策に限って即座に自民党支持を表明しないことでも証明できる東国原の無能性であろう。
また「自民党さんの方からお話を戴いた」と言っているが、東国原はこれまでも「民主党ではなく、なぜ自民党なのか」の問いに、「最初にオファーがあったのは自民党だから」とか、「最初に話があったのは自民党である」とか、接触の後先を決定要因としていたが、6月28日の「毎日jp」記事によると、〈最初に自民党への接近を図ったのは、実は東国原氏だった。〉と内情を暴露している。
記事によると、古賀との宮崎県庁での会談で立ち会った、親交のあった町村派の伊達忠一参院議員に今年の1月に「自民党を応援したい」と申し出て、4月には〈伊達氏の仲介で、東国原氏と森喜朗元首相、町村信孝前官房長官らとの会談が都内で極秘に行われ、国政転出の可能性も話し合われた。〉としている。
フィクサーの森が動いていたとなると、自民党政権放棄の危機感に全身見舞われていることだろうから、相当に真実味のある情報に思える。東国原自体が自民党と同じ中央集権型の体質をしていることからの同類相呼ぶの自民党選択だと疑えないことはない。
「日本は中央集権国家」の認識なき東国原の地方分権論/そのウソと矛盾(2)に続く