堰止め湖(土砂ダム)対策に見る天気次第・降雨量次第の国の危機管理

2011-09-19 11:30:28 | Weblog

 台風12号は和歌山県、奈良県、三重県に集中的に大きな被害をもたらし、土砂崩れはいくつかの河川を堰き止めて堰止め湖(土砂ダム、ダム湖)をつくり、国は二次災害の防止に当っている。

 その防止対策を見ると、水位計と監視カメラを設置し、堰止め湖の水位を測って、その水位が土手を決壊させかねない高さにまで達するのを監視し、その高さにまで達したなら、湖水を放出する水路確保の工事を施そうという方法である。

 雨が降らなければ、自然と水位が下がっていくか、下がらなくても、決壊の危険高にまで達することはない。いわば直ちにすべての堰止め湖の水を抜く水路確保の工事に取り掛かる二次災害防止対策の危機管理というわけではなく、天気次第・雨量次第の危機管理のようだ。

 堰止め湖が一気に決壊した場合、最悪、猛烈な鉄砲水、あるいは激しい土石流の発生が予想される。

 台風12号は9月3日午前高知県東部に上陸、同夕方岡山県南部に再上陸し、翌9月4日早朝、日本海に抜けていった。速度が遅かったために台風は上陸する前から大雨を降らし、9月2日時点で和歌山県田辺市の富田川・日置川、さらに同県新宮市の熊野川を既に氾濫させている。

 9月8日、堰き止め湖が出来た日置川支流熊野川下流の和歌山県田辺市熊野地区住民はその夜から予想される雨を懸念して地区の外へ自主的に避難。

 9月8日夕、奈良県の五條市大塔(おおとう)町赤谷の土砂ダムに最も危険性が高いとして水位観測のブイの投下と下流に高感度カメラが設置された。《土砂ダム決壊恐れ「危険差し迫っている」 国交省の調査難航》MSN産経/2011.9.9 14:03)

 国交省近畿地方整備局「危険は差し迫っている。なんとか現地に入って状況を把握したい」

 中込淳国交省近畿地方整備局河川調査官「これまでにない規模の土石流が発生する可能性がある」

 一刻の猶予もならない切迫した危険な状況にあると言っている。
 
 国交省近畿地方整備局「雨への警戒が引き続き必要」

 中込淳国交省近畿地方整備局河川調査官「とにかく安全に水を抜くことだ」

 石塚忠範独立行政法人土木研究所上席研究員「土質によっても決壊の仕方が変わる。なんとか現場に入り、確度の高い情報を得たい」

 記事〈ポンプを設置して徐々に水を流したり、ダムの表面をブロックで強化したりといった方法などを含め、適切な排水方法を検討する。ただ、重機を搬入する場合、そのための道路をつくる必要があり、時間がかかる可能性がある。〉

 ポンプを設置して徐々に水を流す危機管理は雨が1週間程度は降らないか、小雨程度で済む条件が必要となる。大雨が降って周囲の山からの絞り水をプラスさせて徐々に抜いた水以上の水をもたらしたなら、ムダな努力と終わる。

 ダム表面をブロックで強化するだけの危機管理は少し強い風が吹いて湖面に波を起した場合、ブロックの根元の土を掻き出す危険性を考えなければならない。今回の大震災では頑丈な造りにした防潮堤の根本の土台部分の土が津波によって抉(えぐ)られて倒壊、決壊するという事態を招いている。

 ポンプ設置やブロック工事、重機搬入といった情報は国交省近畿地方整備局から得たものだと思うが、台風シーズンの今の時期にポンプ設置とブロック工事を持ち出すのは果たして適切だろうか。

 重機搬入の場合、搬入路を整備、時間がかかる可能性があるとしていることはヘリで吊るして搬入する選択肢は考慮外としていることになる。
 
 9月9日、平野達男防災担当相が土砂ダムに関して記者会見を行っている。マスコミによって呼び名が違うが、マスコミに従った名称を使う異にする。

 《ロボット、重機投入を準備 土砂ダム対策で防災担当相》MSN産経/2011.9.9 11:48)

 〈台風12号の紀伊半島豪雨による土砂ダムのうち、決壊すると人家に被害が及ぶ奈良、和歌山両県の計4カ所について〉

 平野防災担当大臣「国土交通省が河道閉塞を解消する技術的検討を急いでいる。遠隔ロボットや重機を投入する作業になると思うが、天候を見ながら準備を進めている」

 記事は内閣府の情報として、河道閉塞解消〈対象の土砂ダムは奈良県の3カ所と和歌山県の1カ所で、いずれも決壊した場合に10戸以上の被害が見込まれる。〉と伝えている。

 前田武志国交相も記者会見で土砂ダムについて発言している。《「できるだけ早く水抜きを」 台風12号の土砂ダム対策、前田国交相》MSN産経/2011.9.9 11:30)

 国交相は〈「土砂ダム」が決壊し鉄砲水が起きる可能性があることについて、できるだけ早期に水を抜く作業を行い、復旧に向けた対策を急ぐ方針を示した。〉と記事は説明。

 前田国交相「(土砂ダムは)いくつもあるが、形態が違う。危険度が大きいところは多少時間かかる。ヘリで上空から状況を見たが、川の本線は閉塞(へいそく)しておらず、支流の沢がふさがっている。たまった水を抜くのは非常に危険で直ちにとはいかないが、ロボットなどを活用するという話もあり、一番適切な方法でやりたい」

 平野防災担当相が言っている「遠隔ロボット」とは遠隔操作の重機のことを言うのだろう。福島第一原発の瓦礫処理に遠隔操作重機は既に投入され、活躍している。

 平野大臣が「遠隔ロボットや重機を投入する作業になると思う」と言ったことは、遠隔操作重機と共に人的操作の重機の両方を言ったのだと思う。

 堰止め湖は纏まった雨が降らず、水位が下がっていく。

 9月16日、国交省近畿地方整備局は〈決壊の恐れが特に高い奈良県五條市大塔町赤谷と和歌山県田辺市熊野(いや)の2カ所で排水路の設置やポンプによる排水などの緊急工事に着手すると発表〉、〈赤谷は同日午後から、熊野は明日にも着手予定だが、工事完了には数カ月かかる見通しという〉。《昼から大雨…排水へ緊急工事に着手 完了は数カ月》MSN産経/2011.9.16 12:07)
2011.9.16 12:07)

 記事題名で既に分かるように天気予報で大雨の予想が出たからだ。記事はこう書いている。〈いずれも夕立程度の雨で満水になるとされているダムで、決壊すれば大規模な土石流を引き起こす可能性が高いとして、優先して取り組むことにした。〉

 夕立程度の雨で満水。昼から大雨の予想。決壊防止のための排水路工事を着手すると発表。これが9月16日発表。

 この経緯を裏返すと、9月初めの大雨、河川の氾濫、土砂崩落、堰止め湖発生から9月16日まで大雨が予想されなかったために監視のみの危機管理でしのいできた。まさに天気次第・降雨量次第の国の危機管理だが、工事完了には数カ月かかる見通しだとしている。

 この台風シーズンに数ヶ月もの間、夕立程度以上の雨が降らないと確信しているわけではないだろう。確信していないはずで、だとしたら、危機管理の前提としていた天気次第・降雨量次第が崩れ去ることになって、矛盾を犯すことになる。

 記事は書いている。〈堆積土砂の上に排水路(長さ約500メートル、底幅約3メートル)を設け、必要に応じてポンプも使用しながら、水位を低下させる計画。まず、重機搬入用の道路をつくる必要があり、ショベルカーを投入し、道路を補修しながら現場を目指す。難工事となるのは必至だが、同整備局は半年以内には終えたいの考えを示した。他に決壊の恐れのある3カ所についても緊急工事の検討を進めている。〉――

 「半年以内」に夕立程度どころか、大雨も降らない保証があるのだろうか。長さ500メートルの排水路の設置工事自体は幅3メートル、長さ5~10メートルとかの既に出来上がっているコンクリート製のU字溝を重機で下流に向けてほんの少し勾配をつけて均した「堆積土砂の上に」並べていくだけだから(少しぐらい水が漏れても構わない)、人数さえ揃えれば2日かかるかかからないかだろう。所々勾配が少しぐらい逆になっても、全体の勾配が下がっていたなら、水圧で押し流していくから、丁寧な工事は必要ない。

 要は重機搬入路造成工事の方が遥かに時間はかかる。だとしたら、万が一の強い雨を予想して約半月も待たずに1日でも早く工事に取り掛かる段取りをしなかったのだろうか。

 多分、大雨が降って決壊したとしても、決壊によって被害が及ぶ下流の住民を決壊前に避難させておけば、それで良しとしているからではないか。他に理由を考えることはできない。

 だが、再び住宅地に土石流が遅った場合、避難所生活が長引き、山間部は高齢者が多いから、避難所生活で体調を崩す住民が出てくることも予想しなければならない。今回の東日本大震災の避難所ではかなりの数の被災者が体調を崩し、中にはそのことが原因で亡くなっている。

 国はそんなことはどうでもいいことで、二次災害による直接の死者さえ出さなければいいということなのだろうか。

 この工事、「毎日jp」記事によると工事方法が違っている。《土砂ダム:奈良、和歌山で厳戒続く…排水路を設置へ》毎日jp/2011年9月16日 12時19分)

 熊野(いや)ダムと赤谷の土砂ダムについて、〈排水路完成まで数カ月かかる見通し〉は同じだが、〈排水路はいずれも長さ500メートル、幅15メートルで、土砂をくりぬいて造り、内部を金属のネットと石で固めて崩れるのを防ぐ。熊野の土砂ダムについては、ポンプ排水も同時進行で進める方針で、早ければ17日にも着手する。赤谷の土砂ダムでは大雨の時にポンプ排水も行う方針だが、現場に重機やポンプを運ぶのに少なくとも3日間はかかるという。〉――

 どうもよく分からないが、「土砂をくりぬいて」と書いてあるから、水を堰き止めている土手部分の横腹をトンネル状にくりぬいて水を流すということなのだろうか。これだと相当に日数がかかる。

 専門家の意見を取り入れなければならないが、土手から二十メートル手前ぐらいまで排水路を500メートルなら500メートル先ず設置して、その先端から土手までは高さ2~3メートル程のコンクリート既製品のL字型擁壁を上から見てV字型につなげて水が外に流れないよう遮る遮壁(しゃへき)として、V字の頂点の中央部分に直径10センチ程度の穴を数箇所電動ドリルで2メートルずつ穿ち、火薬量を調整したダイナマイトを挿入して発破をかけ、小規模爆発を繰返して土手を突き崩していくという方法は不可能だろうか。

 発破をかける瞬間は導火線の長さに応じて人は離れていることができるから、万が一想定していない範囲の決壊が起きて土石流が発生しても、危険は避けることはできる。

 発破をかけて崩れた土はV字型の遮壁内に飛び散るようにすれば、除去しなくても勢いよく流れる水が押し流してくれる。

 記事による雨量の予想。〈16日昼過ぎから雷を伴った激しい雨が予想される。同日正午からの24時間雨量は、多いところで300ミリ~200ミリに達する見通し。紀伊半島では18日まで強い雨に警戒が必要で、普段よりも少ない雨量で土砂崩れや土石流が起きる恐れがあることから、気象台は大雨警報を発令する基準を暫定的に引き下げて、警戒を呼びかけている。〉――

 同じことを言うことになるが、激しい雨だという予想が促した工事発表、天気次第・降雨量次第の国の危機管理というわけである。

 奈良、和歌山両県では9月16日深夜から9月17日早朝にかけて雨が降ったが、水位は上昇したものの幸いなことに小康状態を保っているという。

 但し同じその雨のために赤谷と熊野の堰き止め湖の排水路設置工事は9月18日以降に延期。

 二次災害防止の危機管理も天気次第・降雨量次第だが、工事も天気次第・降雨量次第だというわけである。

 台風被災地では9月19日午後、台風15号の影響で激しい雨が予想されているということだが、多分被災者の後の困難や苦労は考えない危機管理となっているのだろうから、天気次第・降雨量次第になるようになるさで任せておけばいいのかもしれない。

 以下は2009年9月19日当ブログ記事――《大型災害の迅速な人命救助はたった一人の国民の命であっても疎かにしない危機管理に於ける象徴作業 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》、その他に書いたことだが、2008年6月14日午前8時43分発生のマグニチュウード7以上の岩手・宮城内陸地震では宮城県栗原市山間部の旅館「駒の湯温泉」が土石流で2階部分が1階部分を押し潰す形で倒壊させ、泥流に埋没、宿の住人と宿泊客7人が行方不明となったが、後に5人が遺体で発見され、残る2人の捜索に手間取った。

 重機搬入を可能とする寸断された道路復旧に手間取ったからである。だが、地震発生の6月14日から倒壊建物内の生き埋め状態での「生存限界」とされている72時間(3日間)を遥かに超える12日後の6月26日に福田政府は陸上自衛隊大型ヘリで中型ショベルカー(重さ4・4トン)を吊り下げて搬入、それまで手間取るだけだった手作業の救助作業と交代させている。

 重機搬入を阻んでいたという“道路寸断”は意味をなくした。意味をなくすまでに12日も要した。駒の湯旅館が倒壊したと知った時点で大型ヘリによる重機搬入を準備、行動していたとしても救命できなかったと誰が断言できるだろうか。例え救命できなかったとしても、最大限・最良の救助活動・危機管理を行うことが「国民の生命・財産」を守る責任行為となるはずだ。

 二次災害による土石流被害は被害想定地域の住民を前以て避難をさせておけば、避難の長期化による辛労や体調悪化を無視しさえすれば確かに死者を出さずに済む。それで良しとする危機管理方法もある。

 だが、それでは間に合わない最大限緊急を要する想定外のケースを想定して、最大限の緊急に対応できる最大限の危機管理の方法を確立しておくべきではないだろうか。

 東北大震災でも自衛隊ヘリを活用した支援物資の支給は行われたが、東北道や港湾等の復旧を待って本格的な支援物資の運搬を開始したという例もある。

 自衛隊ヘリの活用を以てしても避難所への食糧やガソリン・灯油等の燃料、医薬品の支援は相当に遅れた。必要とする場所ごとにヘリで吊るして直接運搬し、ホバーリング状態でその場に吊り降ろすという最短時間で済ませる方法を選択しなかったからだ。


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辻元清美も菅仮免広報担当下村健一と同様に肝心なことは何かが気づかないトンチンカン

2011-09-18 11:59:08 | Weblog

 元社民党議員辻元清美が民主党に入党することになった。昨年7月に社民党を離党した時点で既に分かっていたこと。離党後無所属に所属していたが、民主党と会派を組んだのはいきなりの民主党到着は露骨過ぎることからの経由地点としての会派であり、今回の最終地点へのフライトと言うわけなのだろう。

 一つのWeb記事がある。読むと、辻元清美も親しい友達らしい元TBSキャスターの広報担当内閣審議官下村健一が「その国の人たちにその国のトップの動きがオープンになる方がいいでしょ。そう思って、来て、(各種情報を)つくっているわけですよ」(2011年5月1日朝日テレビ「サンデー・フロントライン」)と菅仮免の動向を伝えるビデオやホームページ、ツイッター、壁新聞、ラジオ、地方紙広告、在外公館への情報提供等を駆使して、問われている肝心なことが菅仮免の実体としての国家統治能力・指導力・実行能力・内閣運営能力等であり、さらに震災に関しては復旧・復興に向けた進捗であることから比較すると肝心なこととは決して言えない見せ掛け、虚像の類いでしかない好印象の有能な政治家像をつくり上げ、国民の人気を高めようと虚しい情報操作に励んだように辻元清美も肝心なことから離れて肝心でもないことで菅仮免のイメージアップにムダな抵抗を試み、尚且つ矛盾したことを言って菅仮免の無能を擁護している。

 《ザ・特集:「菅首相」なぜコケたか 同じ「市民運動出身」辻元衆院議員が語る》毎日jp/2011年9月7日 15時0分)

 〈粘りに粘ったが、ついに土俵を割って官邸を去る菅直人首相(64)。批判のしどころは多々あるにせよ、結局、何がいけなかったのか。「市民運動出身」という同じルーツを持ち、東日本大震災後は災害ボランティア担当の補佐官として支えた辻元清美衆院議員(51)に尋ねた。〉のインタビュー。
 
 辻元清美「2世でも金持ちでもない菅さんが首相になり、政治の質が少し変わった」

 どう変わったのかの言及を記事は伝えていない。2010年7月参院選敗北を菅仮免は「熟議の政治」を展開するキッカケとなる「天の配剤」だと形容しながら、「熟議の政治」を実現させるどころか、与党としての主体性を失った過剰な対野党妥協と政治混乱を生み出しただけで、結果として国民の政治不信を招き、それが内閣低支持率に反映した「天の配剤」になったに過ぎなかった。

 総理大臣j記者会見で「この大震災のときに、総理という立場にあったひとつの宿命だと受け止めておりまして」と自らの使命を「宿命」とまで意義づけたはいいが、遅滞と混乱を招いた復旧・復興対応から見ると、口で言っただけのご大層な「宿命」に過ぎなかったことを暴露させている。

 日本の政治と社会を悪化させる方向に「政治の質」を変えたということだけは確実に言える。

 〈8月26日昼、衆院議員会館。テレビ画面の中で「退陣の弁」を語り始めた菅首相に〉次のように語りかけたと言う。

 辻元清美「自分の言葉で。終わり良ければ全てよし、でっせ。

 (聞き終えてから)あっさりしてたなあ……」

 「自分の言葉」だからと言って、哲学や知性、教養、特に肝心な実行性を備えているとは限らない。辻元清美は言葉の質・中身に向ける目は持たないようだ。

 また、何を以て終わりを良しとしたのかまるきり意味不明である。多分退陣自体を「終わり」と見て、それを以て「良し」としたと思うが、退陣に至る経緯の政治上の終局場面をこそ「終わり」としなければならないはずだ。例え出だしや中間場面で見るべき「政治は結果責任」がなかったとしても、政治上の終局場面で素晴らしい「政治は結果責任」の成果を上げたなら、初めて「終わり良し」と言える。

 だが、菅仮免は序章場面も中間場面も終局場面も「全てよし」とはいかなかった。

 震災から2日後の3月13日に首相補佐官に起用されてから、これも首相補佐官の仕事なのか、〈新しいスーツづくりの採寸にも立ち会った。〉と記事は書いている。

 辻元清美「一国の総理だからヨレヨレの格好はあかん。欧米の首脳の横に立ってもひけをとらんように、と服、つくらせたんです。馬子にも衣装やから。ハハハハ。なのに昨年11月の横浜APEC(アジア太平洋経済協力会議)首脳会議で、オバマさんと一緒にいるところを見たら、ネクタイは曲がってるし、胸の当たりも盛り上がっている。メガネを入れているわけ。何してんねん、と。すぐに電話をして『高いスーツ買うてるんやから、ポケットにもの入れたらあかん!』と言ったら菅さん、『ごめん……』の一言だけ」

 要するに見栄えを良くして好感度を少しでも高めようとした。だが、肝心なことはどの外国に対しても毅然とした態度で外交に臨む政治姿勢であって、このことに比較したらネクタイが曲がっていて、服装が「ヨレヨレの格好」で「欧米の首脳の横に立って」少しぐらい「ひけ」を取ろうと、どうでもいいことではないか。

 先ずは心がけなければならない国家の統治に必要な指導力や実行能力の獲得であり、「政治は結果責任」の実現であり、被災地の復旧・復興の進展のなお一層の加速化であり、着実・厳格な外交能力だったのだから、肝心なことから離れた瑣末主義に何様となったかのように得意然と囚われていたことになる。

 何が必要なことかを見抜く目を持たない政治家というのは滑稽な倒錯でしかない。菅仮免同様、辻元清美も同じ滑稽な倒錯状態にある。

 辻元清美「私自身、自社さ政権を経験して実感したのは、『まめさ』こそが権力維持の最大の装置やということ。ある自民党の幹部は『芝居ではステージの幕が上がったときには準備が終わっているのと同様、政策も公になったときにはほとんど終わっていないと周りが混乱する』と教えてくれた。ところが菅さんは、自分で幕を上げてから『さあ始まりだ』とやるからなあ」

 自民党幹部が指摘した状況整備を以って「まめさ」がつくり出す状況であり、そのような「まめさ」を「権力維持の最大の装置」だとしているが、いくら「まめさ」があっても、政策構想力、構想した政策を実体化していく指導力、あるいは他から上がってきた政策を纏め上げていく組成能力、部下をしてリーダーを信頼させる信頼能力・求心力等々をひっくるめた国家統治能力を欠いていたなら、いくら「まめさ」を備えていても、まめったいというだけで終わる。

 だが、国家統治能力そのものを欠いていたばかりか、その「まめさ」も欠いていたことになる。何もいいところはなかった。

 辻元清美はこのことを次のように釈明している。

 辻元清美「理念や考え方を重視するあまり、そこでつながっていればいいんだ、みたいなところはありますね」

 かねがね菅仮免は「政治は結果責任」を欠いていると書いてきたが、辻元清美のこの発言はまさにこのことを証明している。「理念や考え方を重視する」以上に「政治は結果責任」を重視しないことには一国のリーダーとしての資格はないし、リーダーに相応しい責任を果すことにはならないはずだ。「政治は結果」につながらない「理念や考え方」は意味がない。

 「みたいなところはありますね」で完結させていたのでは、国民は菅仮免に何も期待するものはなくなる。実際にも殆んどの国民が期待しなくなった。

 辻元清美は自身の認識能力はこの程度だと暴露する発言ともなっていることに気づいていない。

 〈保守派を中心に「市民運動出身の政治家の限界」を指摘する声〉が相次いでいることに対する答。

 辻元清美「確かに(市民運動出身の政治家には)批判するのは上手でも、批判を受けるのは下手という特徴がある。私もそうなわけですよ。そりゃ『総理!総理!』と言ってるほうが簡単やで」

 相変わらず表層的な把え方しかできない。「批判するのは上手でも、批判を受けるのは下手」といった問題ではない。批判能力のみを自己存在証明の手段として首相に就任したことになる。首相になった以上、批判能力とは別に首相としての自己存在に必要とする統治能力、指導力、その他の能力が一本の鋼のように貫いていなければならなかったはずで、貫いていたなら、「政治は結果責任」をその時々に果すことができたろうし、「政治は結果責任」の遂行こそが自己に対する批判を抑制する最良の方法となったはずだ。

 基本はリーダーとしての統治能力や指導力、その他の能力だと気づかない。

 次に辻元清美は「統治論」を述べる。

 辻元清美「一議員なら権力のチェックをすればいい。大臣は、時の政権の政策を実行すればいい。でも、総理大臣になったら『統治』をする。統治とは考え方が違う人、相反するイデオロギーを持つ人をも守ること。そして、やりたい仕事だけでなく、やりたくないことでも妥協しつつ利害関係を調整することなんです。

 私ら市民運動から出てきた人間はね、何もないところから自分が動き回り、ものごとを形にしてきた。憲法を守るため、脱原発の理念を守るためなら命をかける。同じ志を持った仲間となら、それでいけるんです。でも、統治はそれだけではあかん。立場の違う人たちと、どう付き合うか。そこを訓練しておかないと、いざリーダーになった途端に立ち往生してしまう。菅さんも、そこに悩み続けたと思うんです」

 言っている事が矛盾だらけである。「統治」は一国のリーダーに付き物の当然の務めであり、当然の責任である。それを背負うために首相になったはずだ。対立する利害、対立する国民存在相手の「統治」なのだから、最初から困難を覚悟して首相に就任するという道理を体現していなければならなかった。

 当然、「統治とは考え方が違う人、相反するイデオロギーを持つ人をも守ること。そして、やりたい仕事だけでなく、やりたくないことでも妥協しつつ利害関係を調整することなんです」は「統治」の道理として元々存在することなのだから、言わずもがなのことだろう。

 わざわざ言うということは、所詮菅仮免には統治能力がなかったということの証明にしかならない。

 また、市民運動家だろうが一国の首相だろうが、自らが言ったことに対しては「結果責任」を負わなければならないはずだ。市民運動家には「統治」の責任は伴わないが、いくら高邁な理想を掲げたとしても、社会に実現させずに言いっ放しで終わったなら、市民運動家としての意味を失う。

 「脱原発」にしても市民運動家の言いっ放しで終わっていた「結果責任」に過ぎない。市民運動家が加速させた状況ではなく、福島の原発事故が加速させた状況であることは菅仮免内閣が2010年6月10日、2030年までのエネルギー政策の方向性を示す「エネルギー基本計画」を閣議決定、原子力発電に関しては「2030年までに14基以上の発電所を新増設する」と謳っていたことがこのことを証明している。国民も多くがこのことを受入れていた。

 もし福島事故がなかったなら、民主党政権は着々と原発を新規増設していって「脱原発」とは逆の方向を取っただろうし、市民運動家の「脱原発」の訴えを益々「結果責任」から遠ざけていったろう。市民運動家には偉そうなことは言えない「脱原発」への流れと言える。

 辻元清美「統治には2種類あると思うんですよ。一つは中曽根康弘元首相のように自らが引っ張る『強いおやじ型』。もう一つが、市民一人一人に社会に参加してもらう市民参加型です。こちらは、まず子育てやまちづくりで同じ考えを持った人が地域にいて、さらにそういう発想の地方議員が増えなければ安定しない。現実には自民党長期政権のもと、市民型統治は未成熟のまま今日まで来てしまった。菅さんの理想と首相としての行動が合致しなかったのは、そこにも原因があると思うんです」

 菅仮免の「理想と首相としての行動が合致しなかったのは」日本に於いて市民型統治が未成熟だったからではなく、菅仮免自体の政治的資質が未成熟だったからに他ならない。

 もし菅の政治的資質が成熟していたなら、未成熟な市民型統治を成熟へ向けて幾ばくかは強力に推し進めていくことができたろう。

 一国の総理大臣としての大きな権力を手に入れたのである。その権力を生かすも殺すも基本は本人の能力であるはずだ。

 記事の最後。〈8月30日、衆院本会議。辻元さんは菅首相と言葉を交わした。「お疲れ様でした。近く市民運動の仲間で一杯やろうよ」とねぎらうと、「やろうやろう」とうれしそうに答えたという。〉――

 辻元清美にしても菅仮免にしても、お目出度い限りである。


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日本の暗記教育制度から見る大震災大川小学校の悲劇

2011-09-17 12:19:20 | Weblog

 津波で70人もの子どもを一度に死なせてしまった宮城県石巻市立大川小学校の悲劇を含めて多くの児童・生徒の犠牲者を出したことを反省し、彼らを各種自然災害から救う教訓とするためにだろう、文部科学省の有識者会議が学校の防災教育の見直しを諮り、9月7日、提言の中間報告骨子を纏めたとWEB記事が伝えている。《危険予測と回避の教育を提言》NHK NEWS WEB/2011年9月7日 16時37分)
 
 学校内に子どもがいる時間帯に発生した東日本大震災は600人を超える児童・生徒と教職員の犠牲者を出したと記事は書いているが、〈生徒自らが想定された避難場所を危険と判断し、安全な場所に避難して助かった例があった一方、津波の被害が想定されていなかった学校では、避難の判断が遅れ、多数の犠牲者が出た〉ことを参考に、〈学校では年齢に応じて日頃から避難の心構えを指導し、想定を超える災害に直面しても、子どもが自ら危険を予測し、回避する能力を高める防災教育が重要〉だと報告書は指摘しているという。

 さらに、〈災害時の子どもの引き渡しについては、保護者との間でルールを決め、場合によっては子どもを引き渡さず、保護者と共に学校にとどめる対応も必要〉だと提言しているという。学校の判断を優先させる可能性の指摘であろう。

 記事は会議の座長の発言を伝えている。

 渡邉正樹東京学芸大学教授子どもには、自分で考え、避難する力を身に着けてほしい。この報告を参考に学校で取り組みを進めてほしい」

 何のことはない。「子どもが自ら危険を予測し、回避する能力を高める防災教育」の必要性にしても、座長の「子どもには、自分で考え、避難する力を身に着けてほしい」の言葉も、『総合学習』がテーマとした能力を身につけよと言っているに過ぎない。

 既に広く知られているが、総合学習(正確には「総合的な学習の時間」?)がテーマとした能力とは、文部科学省のHPに書いているが、「変化の激しい社会に対応して、自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てることなどを狙いとする」ものであって、そのような資質・能力は、「思考力・判断力・表現力等が求められる『知識基盤社会』の時代に於いてますます重要な役割を果たすものである」と高らかに謳っている。

 基本は解決を必要とする問題を他人に頼らずに自分で学び、自分で考えて、どうすべきか自分で判断し、自らのその判断に従って行動する、あるいは自らのその判断に従って決定するということであり、そういった自己決定性の要請である。

 文部科学省の有識者会議でも学校の新たな防災教育として『総合学習』がテーマとしていた能力である自己決定性の涵養を求めたということであろう。

 だが、ここに矛盾がある。文科省は『総合学習』に敗れ、撤退し、暗記式詰め込み教育に再上陸したのである。

 敗北した原因は文科省と教師、親にある。2009年11月30日当ブログ記事――《NHKクローズアップ現代/「言語力」(1)-『ニッポン情報解読』by手代木恕之》、その他の記事に何十回となく書いてきたが、『総合学習は』は2000年から段階的に導入された。それ以前に文部省(当時)が発表した段階で授業が学校の自由裁量に任されるのは画期的なことだと持て囃されたものの、自由裁量に反して「何を教えていいのか、示して欲しい」と校長会などから文部省に要望が相次いだため、文部省が「体力増進」、「地域の自然や文化に親しむ」等を例示すると、各学校の実践が殆んどこの枠内に収まる右へ倣えの画一化が全国的に起こった。

 要するに学校・教師自体が第三者に頼らずに何を教えたらいいのか、「自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する」自己決定性の能力を持ちあわていなかった。考える力がなかった。

 学校・教師だけではない。『総合学習』と従来からの詰め込み教育の反省からの『ゆとりの時間』の導入で学力と言われる、単に暗記知識を試すだけのテストの点数となって現れる成績が外国と比較して下がったと親たちも騒ぎ出し、詰め込み式の暗記教育への回帰を求めた。

 暗記教育とは常々権威主義教育の言い替えに過ぎないと言っているが、上に位置する教師が下に位置する生徒を教科書と教科書付属の参考書で得た自らの知識を絶対として生徒の知識として無条件に従わせて(=なぞらせて)暗記させ、下の位置にいる生徒は上の教師の教える知識を絶対とし、教え込む教師の知識をそのままに従って(=なぞって)自らの知識として暗記する構造の教育のことを言う。

 暗記教育と権威主義が同じ構造を取っているのは権威主義の思考様式・行動様式が日本人の思考様式・行動様式となっているからに他ならない。

 簡単に暗記教育・権威主義教育を説明すると、教師が生徒に答を出してやる教育である。一見テストで考えさせているように見えるが、暗記の引出しからうまく取り出して答に当てはめていけばほぼ解決がつく構造となっている。ときには設問自体が捻ってあったとしても、暗記の応用の範囲で片がつく。

 逆に『総合学習』とは教師が生徒に答を考えさせる教育のことをい言う。生徒自身が答を考えることによって、そのような習慣が身についたとき「自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する」自己決定性の能力が備わっていくことにつながっていく。

 だが、教師・学校は自ら考える能力を持ち合わせていなかったために文部省に『総合学習』の進め方の答を出して貰い、教師・学校は文部省が出してくれた答にそのまま従って(=なぞって)、それを生徒に対する答とした。

 ここには自発性・主体性の構造は一切なく、従属性の構造しか見ることができない。養うべきは自発性・主体性としてある自己決定性であると言うのに。

 当然、どの段階に於いても考えるプロセスを見い出すことは不可能となる。それぞれが暗記教育・権威主義教育の構造を血とし、肉として、そこから逃れられないでいたからである。

 『総合学習』をもしよりよい形で定着させることができていたなら、生徒は答を自分から考えることによって、自己思考性が備わり、考えた答と答を結びつけて発展させたり、応用したりする発展型・応用型の自己決定性へと自ずと進み、自分から知識を拡大させていく。すべてとは言わないが、その殆んどが自分の力による自己思考性であり、自己決定性と言える。
 
 この自己思考性・自己決定性が育み、拡大させた知識は答が一つと決まっているテストの解答とは自ずと性格を異にする。自分で見い出した答は十人十色であっても当然だからだ。

 『総合学習』が根づき、花開くまで辛抱強く待てずに従来の暗記教育が求める画一的な答しか出さない学力が下がったからと世間の親や教育関係者が大騒ぎし出し、反乱を起して暗記教育に回帰させた。

 にも関わらず、防災教育に於いて「子どもが自ら危険を予測し、回避する能力を高める防災教育」が必要だ、「子どもには、自分で考え、避難する力を身に着けてほしい」と矛盾したことを求める。

 上記NHK記事が〈津波の被害が想定されていなかった学校では、避難の判断が遅れ、多数の犠牲者が出た〉と書いていた学校とは大川小学校のはずだが、防災教育が『総合学習』がテーマとした能力である自己決定性を求めている以上、気づいているかどうか分からないが、その背景に暗記教育を対立項としていなければならないはずだ。

 学校でせっせと暗記教育を施していながら、防災教育のみ『総合学習』式に自己決定性を求めたとしても、『総合学習』自体が失敗したように失敗する可能性が高い。

 暗記教育を対立項としなければならないのは大川小学校の悲劇がまさに暗記教育の行動様式・権威主義の行動様式によってもたらされたからで、対立項としていなければ、どのような教訓ともならない。

 9月14日木曜日午後7時半からNHKクローズアップ現代「巨大津波が小学校を襲った~石巻・大川小学校の6か月間~」がこのことを教えてくれる。

 放送題名の「6か月間」というは子どもが助かった家庭と子どもを死なせてしまった家庭との間にわだかまりが生じ、それを乗り越えて、同じ悲劇を起してはならない、この問題をウヤムヤにしたら、第二の大川小学校が出る、この子たちの死を無駄にして欲しくないと手を携えて原因究明に乗り出す親たちの今日までの月日を指している。

 ここでは子ども避難のために教師が取った行動様式が暗記教育の行動様式であり、権威主義の行動様式であるということだけを取上げる。

 津波が襲う前の大川小学校は、多分体育館なのだろう、円形の大型の建物を抱くようにして半円形を描いた鉄筋コンクリート製の2階建ての素晴らしい建物だが、避難のための教師の自己決定性がまるきり機能しなかったことに反した立派な建物はハコモノでしかなかったことを示している。

 中身の教育が生きて、建物は初めてハコモノであることを脱することができる。
 
 被害を受けた後の校舎は映像で見る限り、円形の太い柱と壁は残っているものの廃墟そのものの姿を曝している。

 先ず大川小学校は北上川の傍に位置し、海から5キロ程内陸に位置しているという。因みに津波は北上川を海岸線から10キロ以上遡ったという。

 だが、大川小学校一帯は過去に一度も津波に襲われた経験がなく、石巻市のハザードマップの浸水域の対象外であった。そのため大川小学校は津波襲来を想定せず、津波に備えた避難のマニュアルを作成していなかったばかりか、大川小学校自体が緊急時の避難場所に指定されていて、地域の住民も津波が来るという意識はなかったとしている。

 津波が大川小学校に到達するのは地震発生から50分後。

●3月11日午後2時46分、地震発生。石巻市を震度6強の激しい揺れが襲う。

 子どもたちは直ちに校庭に避難。避難場所となっていたために保護者やお年寄りまで次々と駆けつける。

 5年生の男子(当時)「子どもたちが引き取られる前に先生たちが名前を書いてから行ってくださいって言って、何人かの保護者が『そんなこと書いていられない』って言って、子どもたちを無理やり連れて行って――」

 全員が筆記道具を持っているわけではないだろう。一つを使いまわしていたら、相当に時間がかかる。ここに学校の規則を絶対として、それに杓子定規に従おうとする権威主義の行動様式を窺うことができる。

 6年生女子(当時)(校庭に出たとき、10メートルの大津波が来るというラジオのような音声をいいたという)「津波がその高さでこっちまで来るかもしれないって、津波が来たらどこへ逃げればいいって全然分かんなかったんで、だからずっと恐怖、こわーいことばっかりですね」

●津波到達27分前――3時10分頃。

 川の異変に気づいていた保護者がいる。1年生の孫を迎えに学校とは対岸の道路を車を走らせて、学校に向かっていた40~50代の女性。川の水位が異常に下がっているのを目撃。

 女性「日頃より半分ぐらいはなかったですね。底に水は見えたんですけども、でも異常に水がないので、あ、これは大変だ、津波が来るなーと」

●津波到達12分前――3時25分頃。

 学校の前を通った市の広報車が「津波が海岸の松林を越えてきたので、高台に避難してください」と警告して走り去る。

 大川小学校のマニュアルは「第一次避難場所」となっていたのに対して「火災・津波・土砂くずれ・ガス爆発同で校庭が危険なとき」の「第二次避難場所」として【近隣の空き地・公園等】と記されているのみ。

 子どもたちをどこへ避難させればいいのか、教師や住民たちが急遽2カ所を検討。一箇所は校庭から歩いて1分程の裏山。子どもたちはシイタケ栽培の実習等で登っていた。

 もう一箇所は学校から3分程の橋や堤防と同じ高さの交差点で三角地帯と呼ばれている場所。先程登場した5年生の男子。
 
 5年生男子「どこに逃げるとか、山さ逃げよう、いや、お年寄りがいるから、三角地帯だとか、山に逃げた方がいいとか言ったり。お年より逃げにくいから、やっぱ三角地帯だとか言って、物凄く不安で、やっぱ、おいは(俺は)山に逃げればいいのになあーって」

 その場にいた教師と大人たちの何人かは市の広報車が「津波が海岸の松林を越えてきたので、高台に避難してください」と警告した言葉と地震の揺れの大きさを考え併せて共に頭に記憶して的確な解釈を施し、的確に判断して的確に解決することができずに、津波が襲うはずはないと過去の経験に半ば囚われていた。

 多分、市の広報車が「高台に避難してください」と知らせて走っていったから、市を上に置いた権威主義の行動様式から一応それに従おうといった軽い気持でいたのかもしれない。

●津波到達7分前――3時30分頃。

 その時間、4年生の娘を学校から引き取って車で三角地帯近辺を走らせていた母親が堤防を越えて川の水が溢れているのを目撃。

 母親「ああ、ヤバイ。もう多分だめだと思いましたね。あの、ちょうど信号のところですね、。三角地帯の。とにかく水がザブザブ入っていたのが見えたので、(学校の隣の)間垣(地区)の方に」

 市の報告書では学校の避難開始時間は3時25分、津波到達の12分前とされている。

 だが、NHKは新たな証言を得たとしている。

 小野寺絢さん、職場にいた彼女に代って妹が3人の子どもを避難。家を出たとき、妹が携帯電話で確認した時刻は3時35分。(津波到達の2分前)学校の前を通ったとき、まだ避難は始まっていなかったと言っているという。

 結局学校が判断した結論は山ではなく、三角地帯。津波避難の常識である高台、もう一つの判断場所である裏山ではなかった。津波が川を遡上するという認識がなかった。あくまでも過去の経験を絶対として、津波は来ないとしていた。来たとしても過去の経験を優先して、それに従う形でたいしたことはないと権威主義の思考様式・行動様式に則って判断していたに違いない。

 高台である裏山を判断しなかったことの切迫性の欠如がこのことを証明している。

 大川小学校全校児童108人のうち70人が亡くなり、現在も4人の行方が分からない。当時学校にいた教師も11人うち10人が亡くなったり、行方が分からないでいるという。

 今回の震災を機に文部科学省が設置した防災教育に関する会議の委員で、長年防災教育に携わっている兵庫県舞子高校教諭諏訪清二氏を紹介したあと。

 森本健成キャスター「諏訪さん、ちょうど半年となる(9月)11日に大川小学校を訪ねられたということですが、今回の悲劇をどう受け止められていますか」

 諏訪清二「大川小学校の祭壇のある場所に立って周りをずっと見回すとね、例えば、なぜこの山に逃げなかったかな、っていうようなことを考えたりはするんですけども、一番考えているのは、結局これは日本の防災教育の限界だろうということなんですね。

 つまり、津波が来ないという想定があって、その想定に従って、マニュアルを作って、そのとおりに動けばいいとして、そのとおりに動いた結果が、これだけの悲劇になってしまった。

 それから(「それ以後」ということか)、私は、その、防災教育の限界っていうのを強く感じましたね」

 一度作成したマニュアルを絶対として、自分で判断せずに判断をマニアルが決めてあることに預ける。マニュアルに決めてあるとおりに従おうとする。この思考構造からマニュアル人間、横並び人間が派生している。

 すべて『総合学習』が求めていた「自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する」自己決定の行動を取ることができず、教えられたことを教えられたとおり暗記し、暗記した知識を暗記した知識なりに行動に当てはめていく暗記教育の行動様式、権威主義の行動様式を選択した。

 当然、諏訪氏が言っている「防災教育の限界」とは暗記教育の限界、権威主義教育の限界でなければならない。

 この限界を断ち切るためには時間はかかるだろうし、暗記式の知識を当てはめていくだけのテストの評価でしかない学力は下がるだろうが、自分で考えて自ら答を見出していくことで他人のものではない、自分のものとなる知識を培い、拡大していく能力の養成を目的とした『総合学習』教育に再回帰すべきではないだろうか。

 モノづくりの才能は長けているが、独創性に欠けると言われている日本人の資質も暗記教育を得手としていて、『総合学習』を苦手としていることから起こっている現象であろう。暗記教育は他人から教えられた知識を土台にそれら知識の暗記の積み重ねを構造としているように、モノづくりも既にあるモノを土台に暗記した知識をあれこれ当てはめて改良の積み重ねを行うことを構造として獲得可能な技術である。純粋に自身の考えを基にして発展させる技術とは言えない。

 最後に書き忘れの追加。6月4日、遺族の求めに応じて開催した石巻市の説明会。

 男性保護者「大川小学校?日本全国で(学校)管理下に於いて70何人も死んでいる。たった一校で、その原因を知りたいです」

 石巻市長「それは自然災害に於ける宿命だと思います」

 男性保護者「宿命?」――

 番組はここまでしか伝えていない。

 市長の発言は原因究明に蓋をするものだが、ここにも権威主義意識が働いている。自然災害に対してどう判断すべきだったか、他の判断はなかったか、あの判断しかなかったのか、人間の判断の可能性――いわば自己決定性を検証するのではなく、逆に人間の判断の可能性・自己決定性を遮断して、自然災害を人間が打ち克つことができない絶対的現象に位置づけ、無条件に従おうとする権威主義の姿勢である。


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菅仮免の日本再生のカンフルとならなかったKAN-FULL BLOG

2011-09-16 10:43:37 | Weblog

 野田首相が菅仮免の官邸ブログ「KAN-FULL BLOG」に取って代わって官邸ブログ「官邸かわら版」を開始した。9月14日(2011年)の2回目だか3回目だか興味はないが、「初めての所信表明を終えて」の冒頭は次のような一文となっている。

 〈昨日(13日)、国会で、初めての所信表明演説を行いました。テレビでは衆議院での演説しか放送されませんでしたが、参議院でも行い、計2回の演説をそれぞれ約35分ずつ、やり終えました。
 
 演説で申し上げたとおり、野田政権が取り組むべき課題は、明らかです。東日本大震災と世界的経済危機という「二つの危機の克服」。そして、「誇りと希望ある日本の再生」。一言で言えば、「国家の信用」の回復です。あとは「実行」により、全力で「結果」につなげます。〉――

 東日本大震災という一つの「危機」さえ、その迅速性に関して「克服」が覚束ないのに世界的経済危機という「危機の克服」にまで手を広げてやってのけようとは「ドジョウの取り得」を武器に「泥臭く」政権担当を目指す首相としてはなかなか見上げた志と言える。「ドジョウの大志」といったところか。

 大体が日本の経済に関してはアメリカ経済頼り、中国経済頼りの他力本願国家経営となっている。外需が制す国家経済である。当然後先で言うと、世界経済危機の克服を待って日本経済危機の克服があることになる。世界頼みを待つしかないのではないのか。

 円高から円安への「克服」にしても、アメリカの景気回復を待ってこそのプロセスとなるはずである。「あとは『実行』により、全力で『結果』につなげます」と国民に公約しているのだから、期待して待つが、先ずは己の実力を知って、そこから出発しないことには実力以上の目標の克服も、実力以上の力の発揮も期待はできない。

 実力を知らずに闘った場合、戦略上の錯誤が生じて、却って実力以下の力しか発揮できないことが往々にしてある。二兎追う者は一兎も得ずという。「東日本大震災」の「危機の克服」にのみ的を絞って「日本の再生」に挑戦した方が力も目標も集中できて達成の確率は高くなるように思えるが。

 菅仮免の「KAN-FULL BLOG」は自分の苗字の「菅」の音である「カン」と沈滞した日本に活力を注入して「日本再生」につなげる意味のカンフル剤の「カンフル」をかけて「KAN-FULL BLOG」としたはずだ。

 だが、菅仮免の存在もその政策もカンフル剤足り得なかった。野田首相の存在とその政策が二の舞とならないことだけを祈りたい。

 当然、「KAN-FULL BLOG」の命名自体が見掛け倒し、カンバン倒れだったことになる。

 菅仮免の経済成長論はご存知のようにいつも「一に雇用、二に雇用、三に雇用」で始まった。2010年9月1日の小沢氏を対抗馬とした民主党代表選でも繰返した。

 菅仮免「私は先ずやるべきことは一に雇用、二に雇用、三に雇用だと考えております。つまり仕事がないということは人間の尊厳に関わることでありまして、仕事があることによって尊厳が保たれ、そして安心な生活になってまいります。

 この雇用を生み出せば、経済の成長につながります。また働く人は税金を払っていただいて、財政の再建にもつがなります。介護や保育の分野で働けば、社会保障の充実にもつながるわけであります」――

 モノが売れて、企業が利益を上げなければ新たな雇用は生まれないはずだが、雇用を先に持ってきたのは民主党が2009年マニフェストで「介護報酬7%引き上げ」、「介護ヘルパー給与月額4万円引上げ」を公約としたことから始まっているのだろうが、菅仮免が介護や保育、医療等の分野を成長分野と看做して、特に介護の分野をターゲットにして税金を投入して政府の力で待遇の改善を図り、そこに雇用を生み出して、雇用が生まれれば税金が生み出され、経済成長にもつながって、さらに税収も生じて財政再建にも役立つというサイクルを頭に描いていたからに他ならない。

 菅仮免は介護や保育、医療等の成長分野をターゲットにして日本経済を再生させる、あるいは日本を再生させるカンフル剤と看做したわけである。

 「介護や保育の分野で働けば、社会保障の充実にもつながるわけであります」と簡単そうに言っているが、社会保障分野は常に税金を投入しなければならない分野であって、消費税を増税しなければ追いつかない状況にまで追いつめられている。事はそう簡単にいくはずはないが、簡単にいくかのように言うところが合理的判断能力の点で問題となるが、本人は最後まで気づかなかった。

 鳩山政権発足が2009年9月16日。遡る4ヶ月前の2009年4月に麻生政権下で、民主党の政策に対抗する必要もあったに違いない、介護報酬の3%引き上げと2011年度末期限で対介護事業者宛の介護職員(常勤換算)1人当たり月額平均1.5万円交付目的の「介護職員処遇改善交付金」制度をスタートさせている。

 2009年度から2011年度末までの3年間で総額4千億円の税金投入。但しHP《厚生労働省:介護事業所の皆さまへ「介護職員処遇改善交付金の活用を!!」》には次のような記載がある。

 〈本交付金を積極的にご活用いただくとともに、賃上げについては、あくまで事業者の皆さんのご判断となりますが、できる限り毎月の給料に上乗せする形で支払っていただけますよう、ご検討をお願いいたします。〉

 要するにそうはなっていないことからの「ご検討をお願い」と言うわけである。このことは制度が発足する前からマスコミが取上げていた。経営が苦しいところが多いから、右から左へとスムーズに流通させずに、経営資金への転用が多く見られるのではないかと。

 中には経営が苦しくなくても、経営資金に転用したと見せかけて懐した事業者もいたに違いない。

 民主党のマニフェストは「介護報酬7%引き上げ」、「介護ヘルパー給与月額4万円引上げ」となっている。2012年度からの改定となるが、財源不足と大震災復興が優先となるから、子ども手当や高速道無料化が証明しているように額面どおりの実現は覚束ないが、財源不足を消費税増税に頼るとしても、「税と社会保障の一体改革案」は消費税引き上げが原案の「2015年度までに10%へ段階的」が「2010年代半ば」と時期が曖昧になったことからすると、2012年度の改定には間に合わない可能性が生じる。

 間に合ったとして、民主党のマニフェストどおりに「介護ヘルパー給与月額4万円引上げ」を実現させたとしても、介護職員の現在の平均月収は「月額平均1.5万円交付」を経ても約21万円強ということで、これにさらに民主党公約の「月額4万円」を加算しても、平均月収は25万円。

 対して全産業の平均月収は約33万円ということである。依然として8万円の差がある。

 結果次のような現象が生じるだろう。

 《介護施設半数「人手不足」 離職率3年ぶり悪化 昨年度》asahi.com/2011年8月24日1時5分)  

 昨年10月1日時点の状況について厚生労働省所管の財団法人「介護労働安定センター」が調査。8月23日公表の2010年度の介護労働実態調査。全国の約1万7千事業所とそこで働く約5万1千人を抽出、約7300事業所、約2万人から回答。
 
 「職員が不足している」介護事業所――50.3%(前年度+3.5ポイント)

 「1年間の離職率」――17.8%(3年ぶりの悪化)

 〈ここ数年は政府が介護職員の処遇改善に力を入れた効果で改善傾向にあったが、〉と記事は解説している。

 介護労働安定センター「景気の回復に伴い、介護よりも待遇がいい他の仕事へ転職する傾向が再び強まっているのではないか」――

 この言葉を裏返すと、不況が多くの非正規労働者や正規労働者をも含めてその労働を奪い、行き場もなく、有効求人倍率の高い、いわば給料が安くて、あるいは待遇が悪くてなり手の少ない、人手不足の介護関係に待遇改善も言われていることもあって流れていったという状況が先ず存在していたことが浮かんでくる。

 だが、景気の回復が逆の現象を引き起こすことになった。

 要するに介護分野の待遇改善に税金を投入するにしても、その待遇改善が全産業の平均月収を超える金額になるまで税金を投入するという条件を満たさないない限り、景気次第の不安定な雇用であり続けることになる。

 当然、菅仮免が掲げて機会あるごとに言っていた、介護や保育等に雇用を生み出して、雇用が生まれれば税金が生み出され、経済成長にもつながって、さらに税収も生じて財政再建にも役立つとするサイクルを経済成長の主要な一つのアイデアとしたことは絵に描いた餅に過ぎないと言うことになる。

 自動車産業や電気産業のように裾野が広く、生産が生産を生む循環・拡大型の産業と言うわけではなく、単に社会の少子高齢化が要請している、このことを逆説するなら、人口分布に於ける壮年以下の空洞化を招いている、しかも税金の投入がなければ成り立たない準完結型の産業(裾野の広がりをさして持たないゆえに介護のみで完結するに近い産業)であることを考えもせずにバカの一つ覚えのように介護産業を「日本再生の」カンフル剤とすべく、「一に雇用、二に雇用、三に雇用」の雇用創出の分野の主たる一つとしていた。

 やること成すことのすべてに亘ってカンバン倒れ、見掛け倒しだったが、「KAN-FULL BLOG」の命名がこのことの象徴となっていたということではないだろうか。


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菅直人はその原発事故初期対応から見て、実際に一国のリーダーだったのだろうか

2011-09-15 10:44:51 | Weblog

 9月11日の夜だったか、9月12日に入ってからだったか忘れたが、菅仮免がNHKのインタビューを受けて、福島原発事故直後のベントの遅れと3月15日の東電が撤退を申し入れた入れないのゴタゴタがあった騒動、さらに脱原発姿勢に転じた理由、事故の性格を最後に総括している様子をNHKテレビが放送しているのを見て、この男は実際に一国のリーダーだったのかと改めて疑問が湧いた。

 インタビュー自体は9月11日に受けている。

 NHKのWeb記事を参照にする。《菅前首相 原発事故を語る》NHK NEWS WEB/2011年9月12日 5時24分)

 先ず、〈原発事故の初動対応で原子炉格納容器の内部圧力を下げる「ベント」と呼ばれる作業が遅れたことが、深刻な事態を招いたと指摘されていることについて〉――

 菅仮免「ベントについては、関係者全員が一致してやるべきだと判断しながら、実行が遅れた。その理由が必ずしも当時はっきりしなかったし、現在もはっきりしていない。

 一つは技術的に放射線量が高いとか、暗いとか、いろいろな資材が足りないとかで作業ができなかったことは十分あり得る。もう一つは、当時東京電力の最高責任者の2人が事故が発生した11日の段階で本店におらず、そういうことが影響したのかもしれない」

 福島第一原発現場職員が直接ベント作業に携わっていたのである。どこに不具合があったか、どこに障害があったか、直接知り得なかったということはあるまい。操作している機械の故障箇所、あるいは故障原因が分からなくても、機械自体の故障は分かるはずである。

 一国の首相として、原子力災害対策本部長として、ベント遅れの原因を究明する能力がなかったことを暴露している。

 既にブログで取上げているが、9月5日の読売新聞のインタビューではベントの遅れについて次のように発言している。

 菅前仮免「(格納容器内の蒸気を放出する)ベントをするよう指示を出しても、実行されず、理由もはっきりしない。説明を求めても伝言ゲームのようで、誰の意見なのか分からなかった」

 そのブログにはこう書いた。〈人心を掌握することができなかったに過ぎない。いわば東電を掌握できなかった。〉――

 菅仮免の責任意識の中には一国のリーダーとして、さらに原子力災害対策本部本部長として職責を与っている以上、原因がはっきりしないということは許されないことだという認識がない。東電が隠しているか、誤魔化している、あるいは菅仮免側が明らかになると都合が悪い状況が起きることから理由・原因の類いを明らかにする気がないか、何れかだと疑わざるを得ない。

 「ベントについては、関係者全員が一致してやるべきだと判断」していた。だが、実施は遅れに遅れた。NHK記事が〈「ベント」と呼ばれる作業が遅れたことが、深刻な事態を招いたと指摘されている〉と書いているように遅れたことが事故拡大を招いた懸念は払拭できない。

 何度も同じようなことをブログに書いてきて、繰返しになるが、当時の政府対応の経緯を時系列で再度振り返ってみる。

●3月11日午後22時――原子力安全・保安院、「福島第1(原発)2号機の今後のプラント状況の評価結
 果」
を官邸災害本部事務局に提出。

 次のような経緯を踏むと予測している。

 3月11日20時30分――原子炉隔離時冷却系(RCIC)中枢機能喪失。
      21時50分――燃料上部から3メートルの水位。今後さらに下がっていく。
      22時50分――炉心が露出する。

 3月12日0時50分――炉心溶融の危険性。
     5時20分――核燃料全溶融。最悪爆発の危険性。

 原子力安全・保安院の「評価結果」は2号機のものだが、1号機がより危険な状態にあると判断して、1号機から対応することにしている。以下1号機を対象とした動き。

1.3月12日午前1時30分頃――海江田経産相、東電に対してベント指示。

 (海江田氏、1時間おきに電話でベント開始を催促する。自身が国会答弁で明らかにしている。)

2.3月12日午前6時14分――菅仮免、官邸からヘリで視察に出発
3.3月12日午前6時50分――海江田経産相、東電に対してベント指示から法的拘束力のあるベント命
  令に切り替える。

4.3月12日午前7時11分――菅仮免、福島第一原発に到着
5.3月12日午前8時04分――菅仮免、福島原発視察を切り上げ、三陸機上視察に出発
6.3月12日午前9時04分――1号機でベント準備着手
7.3月12日午前10時17分――1号機でベント開始
8.3月12日午前10時47分――菅仮免、首相官邸に戻る

 何と3月12日午前1時30分頃のベント指示から7時間34分後に東電はベント準備に着手。その1時間13分後にやっとベント開始に漕ぎつけている。ベント指示からベント開始まで8時間47分も経過している。

 東電がなかなか実施しないからと、ベント指示から法的拘束力のあるベント命令に切り替えるにしても、5時間20分もかかった。

 ベントが手間取っていた時間帯に菅仮免の福島第一原発視察が挟まっている。ベント実施は放射能放出を伴うことから、菅仮免に被曝させられないと視察の間はベントを控えたのではないかとの疑惑が浮上している。

 疑惑の根拠の一つが菅仮免が視察を放射能防護服を厳重に身に纏ってではなく、その当時四六時中着用していた薄青色の防災服のまま出かけていて、国会でも取上げられた。

 菅仮免はベント遅れを「その理由が必ずしも当時はっきりしなかったし、現在もはっきりしていない」と言っているが、海江田経産相が1時間おきに催促するとき、なぜ遅れているのかその理由を尋ねもせず、東電も遅れている理由を何ら説明しなかったのだろうか。

 常識的には考えられないことである。ソバ屋だって、出前の遅れを催促すれば、何らかの理由を言うだろう。

 菅仮免は3月11日午後9時23分、第一原発半径3キロ圏内避難、3~10キロ圏内屋内退避の指示を出している。目的は勿論、放射能被曝回避である。翌3月12日5時44分に避難指示を半径3キロ圏内から半径10キロ圏内に拡大させている。第一原発から10キロまで放射能物質飛散の危険性の告知でもある。

 にも関わらず、自身は30分後の午前6時14分に官邸を自衛隊ヘリで飛び立ち、7時11分に原発に到着、放射能防護服ではなく防災服で視察を行った。放射能物資の飛散など関係ないかのような光景である。

 菅仮免は自身は「原子力に強い」とその知識を誇った。内閣参与に原子力専門家を複数抱え、原子力安全委員会、原子力安全・保安院といった原子力関係の政府機関からアドバイスを受ける立場にある。「ベントについては、関係者全員が一致してやるべきだと判断していながら」と言っているようにベント実施の緊急性は承知していた。

 自身も認めていたその緊急性に反してなぜ遅れているのか、遅れている時点でその理由を問い質し、明らかにする立場にありながら、NHKのインタビューでは「その理由が必ずしも当時はっきりしなかったし、現在もはっきりしていない」と言い、読売のインタビューでは「説明を求めても伝言ゲームのようで、誰の意見なのか分からなかった」と自身の立場を蔑ろにしたことを言っている。

 まさに一国のリーダーだったのだろうかと疑いたくなる、立場上の責任意識が全然伝わってこない発言としか言いようがない。

 NHKのインタビュー記事は次に東電の依然藪の中となっている“撤退”騒動に触れている。

 菅仮免(清水東電社長を官邸に呼び出して)「『撤退したいのか』と聞くと、清水社長は、言葉を濁して、はっきりしたことは言わなかった。撤退したいという言い方もしないし、撤退しないで頑張るんだとも言わなかった。私からは、『撤退は考えられない』と強く申し上げた」

 撤退という選択肢はないことは9月11日(2011年)当ブログ記事――《菅仮免の3月15日東電本社乗り込みはリーダーとして最低の指導性 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に書いたが、菅仮免の上の発言は撤退する、しないいずれに決めるにしても、「私からは、『撤退は考えられない』と強く申し上げた」ところで終わっていて、結論を出すまでの手続きを踏んでいない。
 
 このこともリーダーとしての資質を疑わせる態度となっている。何れか結論を出さなければならない議論の場で、「強く申し上げた」だけで終わらせることはできないはずだ。立場上、何れかの結論を得るところまで行き着かなければならない責任を有していた。

 勿論、相手がその場では決めかねて、考える時間が欲しい、あるいは他と相談したいといった理由で結論が先延ばしされるケースも往々にしてあるだろうが、だとしたら、「私からは、『撤退は考えられない』と強く申し上げたところ、相手は考える時間が欲しいと言うことだった」と結論に至らなかった理由を述べ、結論を得るという自らの責任を果たすことができなかった正当な理由を説明しなければならなかったはずだ。

 だが、相手の主張が優って結論は撤退ということになったとも、あるいはこれこれの理由で結論は先延ばしされたとも言わず、「私からは、『撤退は考えられない』と強く申し上げた」で終わらせている合理的判断能力とその責任意識は一国のリーダーの能力としてはお粗末過ぎる。

 清水社長との話し合いの約1時間後に東電本社に乗り込んで、「撤退なんてあり得ない!」と怒鳴ったのは「私からは、『撤退は考えられない』と強く申し上げた」だけで終わらせていたことの証拠としかならない。

 撤退についての話し合いの場で清水社長が「撤退の意志に変わりはありません」と自身の結論のみで話し合いが打ち切られた、あるいは「時間が欲しい」と先延ばしされたということなら、インタビューその他でそのことへの言及があって然るべきである。そのような言及もなしに東電に乗り込んだのから、「私からは、『撤退は考えられない』と強く申し上げた」だけで終わらせていた以外の理由は考えられない。

 相手をその場で説得させるだけの指導力もない、合理的判断能力も持ち合わせていない。一国のリーダーだったのだろうかと疑わせる最たる事例であろう。

 菅仮免は3月12日福島第一原発視察について何度か同じ内容の国会答弁している。

 菅仮免「現場の状況把握は極めて重要だと考えた。第一原発で指揮をとっている人の話を聞いたことは、その後の判断に役だった」

 事故継続中で現場でそのときのみ情報を得た(話を聞いた)だけでは収まらない、刻々と状況が変化していく未知の進展を抱えている中で、「その後の判断に役だった」とは意思疎通(=情報の疎通)を継続的に図ることができたことを言う。継続的な意思疎通(=情報の疎通)でなければ、「その後の判断」に役立たないことになる。

 だが、撤退問題だけではなく、報告の遅れや報告の欠落等の問題が政府と東電の間だけではなく、政府と原子力安全・保安院との間でも生じ、意思疎通(=情報の疎通)を十分に図ることができていたとは言えない。当然、その場その場の判断に微妙に影響を与えたはずだ。

 にも関わらず、視察が「その後の判断に役だった」と言っている。強弁としか言えないこの合理的判断能力の欠落が撤退騒動にも発揮されることとなって、「私からは、『撤退は考えられない』と強く申し上げた」だけで終わらせることができた半端な責任遂行となって現れたに違いない。

 次に脱原発姿勢に転じた理由について発言している。

 事故直後に政府は最悪の事態を想定したシミュレーションを行ったという。

 菅仮免「最悪のシミュレーションまで行けば、首都圏を含めて何千万という単位で人が住めなくなる状況が出てくる。日本という国が、少なくとも今のような形では成り立たなくなる。そういう大きな危険性を避けるためにはどうしたらいいかと考えた末の私の結論が、原発依存そのものから脱却していくことだった」

 この発言も初期的対応と大きく矛盾している。

 事故直後に最悪の事態を想定した。原子力安全・保安院も核燃料全溶融と最悪のケースとして格納容器の爆発の危険性を予測していた。冷却装置が停止し、格納容器の内部の圧力が設計上の使用圧力を大きく超えたことから格納容器の破裂を防ぐために緊急に内部のガスを外部に放出するベント作業を必要とした。

 最悪の事態を想定しつつ先ずは取り掛かるべきことはベントを早急に成功させ、格納容器の爆発の危険性を取り除き、シュミレーションした最悪の事態の回避を図ることだったはずだ。

 だが、そのベントが遅れに遅れ、遅れた理由が今以て分からないなどと言っている。

 矛盾はこればかりではない。事故直後のシュミレーションで「最悪のシミュレーションまで行けば、首都圏を含めて何千万という単位で人が住めなくなる状況が出てくる。日本という国が、少なくとも今のような形では成り立たなくなる」と想定しておきながら、最初の避難指示が3月11日午後9時23分の第一原発半径3キロ圏内避難、3~10キロ圏内屋内退避の小規模になぜとどまったのだろうか。

 また原子力安全・保安院が3月12日5時20分の時点で「核燃料全溶融。最悪爆発の危険性」と予測した「福島第1(原発)2号機の今後のプラント状況の評価結果」を首相官邸に持参したのは3月11日午後10時で避難指示を出したのがこの27分前だから、間に合わなかったとすることができたとしても、避難指示を半径3キロ圏内から半径10キロ圏内に拡大させたのは翌3月12日5時44分であって、原子力安全・保安院が「福島第1(原発)2号機の今後のプラント状況の評価結果」を首相官邸に持参した3月11日午後10時から遅れること7時間44分後である。

 2号機の最悪予測としての爆発が3月12日5時20分。この時間からも24分遅れて避難範囲を半径10キロ圏内に拡大させている。

 取り敢えずは近隣住民の生命の保全だったはずだが、避難指示がシュミレーションや予測から見て、決して緊急な対応となっていない矛盾がどうしても浮かんでくる。

 菅仮免はインタビューの最後に事故の性格を総括している。

 菅仮免「原発に対する事前の備えが全く十分でなかったことが、いろいろな対応の遅れや問題が生じた最大の原因だと思う。直接の原因は地震と津波だが、備えが不十分という意味では、私を含めて政治の責任、人災だったと思う」――

 この発言は上記ブログ記事に書いたが、読売のインタビューでは次のようになっている。 

 菅前仮免「事故前から色んな意見があったのに、しっかりした備えをしなかったという意味で人災だ」
 
 上記ブログ記事の繰返しとなるが、要するに原子力安全委員会が全電源喪失という事態を想定していなかったこと、複数の研究者が貞観地震並みの巨大地震と巨大津波襲来の可能性を警告していながら、その警告に対する備えをしてこなかったことを言うはずだが、備え以後の問題として、事故発生後、ベントの遅れ一つとっても、果たして政府として事故に的確に対応できたのかどうか、そういったことに向ける視線も反省もなく、備えの不十分・不徹底のみに人災の罪を着せている。

 尤も震災対応は常々「内閣としてやらなければならないことをやってきた」と自負、復旧・復興の遅れ、瓦礫処理の遅れ、被災者救済の遅れに目を向けずにいられる責任意識の持主だから、備えのみに責任をかぶせる人災説も無理はないかもしれない。

 だとしても、実際に一国のリーダーだったのだろうかという疑問は逆になお一層募ることになる。


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野田首相の代表選演説の二匹目のドジョウを狙いつつ並べ立てた所信表明演説の約束事の数々

2011-09-14 11:20:39 | Weblog

 昨日(2011年9月13日)、野田首相が衆院本会議で所信表明演説に臨んだ。所信表明演説とはその内容の殆んどが約束事の羅列である。あれをします、これもしますと羅列する約束事が多い程、これまでの政治が約束事を果たしてこなかったことの裏返し証明となる。

 勿論、新たに生じた問題があり、その解決に向けた約束事も含まれるが、約束事が果されるとは限らないこれまでの事例から見て、新たに生じた問題の解決のための約束事も果されると約束できない約束事と疑ってかかる必要がある。

 政治の約束事のこういった構造を見ると、政治の約束事は多くは約束事で終わる宿命にあると言える。

 演説そのものは首相官邸HP「第178回国会に於ける野田内閣総理大臣所信表明演説」を参考にした。
  
 先ず理解しやすいように項目だけを並べてみる。

 一 はじめに

 二 東日本大震災からの復旧・復興

 (復旧・復興の加速)

 (原発事故の収束と福島再生に向けた取組)

 三 世界的な経済危機への対応

 (エネルギー政策の再構築)

 (大胆な円高・空洞化対策の実施)

 (経済成長と財政健全化の両立)

 四 希望と誇りある日本に向けて

 (分厚い中間層の復活と社会保障改革)

 (政治・行政の信頼回復)

 五 新たな時代の呼び掛けに応える外交・安全保障 

 (我が国を取り巻く世界情勢と安全保障環境の変化)

 (日米同盟の深化・発展)

 (近隣諸国との二国間関係の強化)

 (多極化する世界とのつながり)

 六 むすびに(以上)

 「一 はじめに」「六 むすびに」以外は特別なことを言っているわけではなく、野田首相以前の政治家をも含めた従来どおりの発言の繰返しだから、項目を並べただけで趣旨の大体は理解できるはずである。従来どおりの発言の繰返しということはその殆んどがこれまで果たすことができなかった約束事の改めての羅列に過ぎないことになる。

 最初に 「一 はじめに」を見てみる。

 野田首相「第178回国会の開会に当たり、東日本大震災、そしてその後も相次いだ集中豪雨や台風の災害によって亡くなられた方々の御冥福をお祈りします。また、被害に遭われ、不自由な暮らしを余儀なくされている被災者の方々に、改めてお見舞いを申し上げます。

 この度、私は、内閣総理大臣に任命されました。政治に求められるのは、いつの世も、『正心誠意』の四文字があるのみです。意を誠にして、心を正す。私は、国民の皆様の声に耳を傾けながら、自らの心を正し、政治家としての良心に忠実に、大震災がもたらした国難に立ち向かう重責を全力で果たしていく決意です。まずは、連立与党である国民新党始め、各党、各会派、そして国民の皆様の御理解と御協力を切にお願い申し上げます」――

 決意表明である。決意の約束とも言うことができる。「私は、国民の皆様の声に耳を傾けながら、自らの心を正し、政治家としての良心に忠実に、大震災がもたらした国難に立ち向かう重責を全力で果たしていく決意です」と約束した。

 政治の約束事が多くは約束事で終わる宿命にある構造となっていることからすると、この決意の約束事も結果を見るまでは眉に唾していた方がいい。

 決意表明――決意の約束事が取り敢えずは眉唾としなければならない象徴的な理由が「三 世界的な経済危機への対応」の項目の中で取上げている(大胆な円高・空洞化対策の実施)の約束事だが、首相は財務省時代、為替介入も含めて効果的な対策を打ち出すことができなかったにも関わらず再度約束事として持ち出している。

 約束事としなければならなかったから約束事としたのだろうが、有効な対策を見出すことができなかった経緯を無視して、「まずは、予備費や第三次補正予算を活用し、思い切って立地補助金を拡充するなどの緊急経済対策を実施します。さらに、円高メリットを活用して、日本企業による海外企業の買収や資源権益の獲得を支援します」と約束事を並べ立てている。

 野田首相は続いて大震災を取上げる。少々長くなるが、全文取上げてみる。

 野田首相「この国難のただ中を生きる私たちが、決して、忘れてはならないものがあります。それは、大震災の絶望の中で示された日本人の気高き精神です。南三陸町の防災職員として、住民に高台への避難を呼び掛け続けた遠藤未希さん。防災庁舎の無線機から流れる彼女の声に、勇気づけられ、救われた命が数多くありました。恐怖に声を震わせながらも、最後まで呼び掛けをやめなかった彼女は、津波に飲まれ、帰らぬ人となりました。生きておられれば、今月、結婚式を迎えるはずでした。被災地の至るところで、自らの命さえ顧みず、使命感を貫き、他者をいたわる人間同士の深い絆がありました。彼女たちが身をもって示した、危機の中で『公』に尽くす覚悟。そして、互いに助け合いながら、寡黙に困難を耐えた数多くの被災者の方々。日本人として生きていく『誇り』と明日への『希望』が、ここに見出せるのではないでしょうか。

 忘れてはならないものがあります。それは、原発事故や被災者支援の最前線で格闘する人々の姿です。先週、私は、原子力災害対策本部長として、福島第一原発の敷地内に入りました。2千人を超える方々が、マスクと防護服に身を包み、被曝と熱中症の危険にさらされながら、事故収束のために黙々と作業を続けています。そして大震災や豪雨の被災地では、自らが被災者の立場にありながらも、人命救助や復旧、除染活動の先頭に立ち、住民に向き合い続ける自治体職員の方々がいます。御家族を亡くされた痛みを抱きながら、豪雨対策の陣頭指揮を執り続ける那智勝浦町の寺本真一町長も、その一人です。

 今この瞬間にも、原発事故や災害との戦いは、続いています。様々な現場での献身的な作業の積み重ねによって、日本の『今』と『未来』は支えられています。私たちは、激励と感謝の念とともに、こうした人々にもっと思いを致す必要があるのではないでしょうか。

 忘れてはならないものがあります。それは、被災者、とりわけ福島の方々の抱く故郷への思いです。多くの被災地が復興に向けた歩みを始める中、依然として先行きが見えず、見えない放射線の不安と格闘している原発周辺地域の方々の思いを、福島の高校生たちが教えてくれています。

 『福島に生まれて、福島で育って、福島で働く。福島で結婚して、福島で子どもを産んで、福島で子どもを育てる。福島で孫を見て、福島でひ孫を見て、福島で最期を過ごす。それが私の夢なのです』

 これは、先月、福島で開催された全国高校総合文化祭で、福島の高校生たちが演じた創作劇の中の言葉です。悲しみや怒り、不安やいらだち、諦めや無力感といった感情を乗り越えて、明日に向かって一歩を踏み出す力強さがあふれています。こうした若い情熱の中に、被災地と福島の復興を確信できるのではないでしょうか。

 今般、被災者の心情に配慮を欠いた不適切な言動によって辞任した閣僚が出たことは、誠に残念でなりません。失われた信頼を取り戻すためにも、内閣が一丸となって、原発事故の収束と被災者支援に邁進することを改めてお誓いいたします。

 大震災後も、世界は歩みを止めていません。そして、日本への視線も日に日に厳しく変化しています。日本人の気高い精神を賞賛する声は、この国の『政治』に向けられる厳しい見方にかき消されつつあります。『政治が指導力を発揮せず、物事を先送りする』ことを『日本化する』と表現して、やゆする海外の論調があります。これまで積み上げてきた『国家の信用』が今、危機にひんしています。

 私たちは、厳しい現実を受け止めなければなりません。そして、克服しなければなりません。目の前の危機を乗り越え、国民の生活を守り、希望と誇りある日本を再生するために、今こそ、行政府も、立法府も、それぞれの役割を果たすべき時です」――

 自然災害や原発事故に立ち向かった、あるいは現に立ち向かい続ける、その殆んどが無名である人々を取上げて、その「勇気」、「献身」を褒め称え、彼らを「激励と感謝の念とともに、こうした人々にもっと思いを致す必要がある」、政治も彼らに「思いを致」し、彼らの「勇気」と「献身」を見習って、「目の前の危機を乗り越え、国民の生活を守り、希望と誇りある日本を再生するために、今こそ、行政府も、立法府も、それぞれの役割を果たすべき時です」と新たな決意を約束事としている。

 大震災に立ち向かって献身的な行動を取った人々、今なお取り続けている人々を取上げたのは代表選立候補演説の二匹目のドジョウを狙った演出だったに違いない。

 野田氏が財務相の立場で民主党代表選に立候補、8月29日の最終演説に先立ってかつての日本新党の細川護煕元首相から電話があり、「つまらない演説でした。これでは決選投票で勝てませんよ。財務相の演説みたいでは決選投票で勝てない。もっと人間性が出るようなことを言わないと心を打たない」(MSN産経)と忠告を受けて演説内容を、25年間雨の日も毎朝駅に辻立ちしたこと、街宣車が壊れるとハンドマイクを肩にかけて徒歩で政策を訴えたこと、落選したときはあれこれの後悔で百八つの煩悩に苦しめられたこと、逆に落選中は子どもに触れることができたことなど、相田みつをの「どじょう」の詩まで持ち出して自身の人柄、人間性が出る身近な事柄を演説の題材にして好評を得た成功体験が仕向けた自然災害に立ち向かう無名の人々の人柄、人間性の演出だとの見立てである。

 この見方を邪(よこしま)に過ぎる、ケチのつけ過ぎと批判する向きもあるかもしれないが、先ずは野田首相が「一 はじめに」で言っていることの殆んどすべてが日本の政治の姿勢となっていないことに反して映し出した無名の人々の「勇気」、「献身」といった美徳に関わるエピソードだということである。

 もし日本の政治がそういった美徳を備えていて、政治自身が「日本の『今』と『未来』」を支えるに足る信頼を獲ち得ていたなら、今後の政治課題(解決しなければならない政治問題)を述べる所信表明演説の冒頭に特別に持ち出すエピソードとはなり得なかったはずだ。

 だが、無名の人々の美徳を持ち出して代表選の「ドジョウ」演説のように感動を与え、その感動を「目の前の危機を乗り越え、国民の生活を守り、希望と誇りある日本を再生するために、今こそ、行政府も、立法府も、それぞれの役割を果たすべき時です」と日本の政治の原動力足らしめようとした。

 政治が「勇気」を持って難題に立ち向かわず、「献身的」とはなっていない象徴的出来事が野田首相が「被災者の心情に配慮を欠いた不適切な言動によって辞任した閣僚が出たことは、誠に残念でなりません」と触れている鉢呂前経産相の発言と行動であろう。

 「勇気」を持って難題に立ち向かおうとしていたなら、「死の町」などといった形容はしなかったろう。「必ず生きた町に戻すぞ」といった強い決意を持ったはずだ。

 あるいは管仮免の復旧・復興の遅れ、不徹底とその責任に真剣に立ち向かわずに、「内閣としてやるべきことやってきた」と言い募って現場の実態から目を背け続けた、「勇気」や「献身」に真っ向から反する姿勢に象徴的に現れている日本の政治であろう。

 日本の政治が自己保身ばかり働かせて困難な課題に「勇気」を持って立ち向かわず、そういう状況にあるから、当然国民に対して献身的姿勢を示すはずはなく、奇麗事を並べ立てることを以って献身的姿勢に見せかけているからこそ、野田首相にしても改めてのように「政治に求められるのは、いつの世も、『正心誠意』の四文字があるのみです。意を誠にして、心を正す。私は、国民の皆様の声に耳を傾けながら、自らの心を正し、政治家としての良心に忠実に、大震災がもたらした国難に立ち向かう重責を全力で果たしていく決意です」を約束事としなければならなかったはずだ。

 では、「六 むすびに」の部分。

 野田首相「政治とは、相反する利害や価値観を調整しながら、粘り強く現実的な解決策を導き出す営みです。議会制民主主義の要諦は、対話と理解を丁寧に重ねた合意形成にあります。

 私たちは既に前政権の下で、対話の積み重ねによって、解決策を見出してきました。ねじれ国会の制約は、議論を通じて合意を目指すという、立法府が本来あるべき姿に立ち返る好機でもあります。

 ここにお集まりの、国民を代表する国会議員の皆様。そして、国民の皆様。改めて申し上げます。

 この歴史的な国難から日本を再生していくため、この国の持てる力の全てを結集しようではありませんか。閣僚は一丸となって職責を果たす。官僚は専門家として持てる力を最大限に発揮する。与野党は、徹底的な議論と対話によって懸命に一致点を見出す。政府も企業も個人も、全ての国民が心を合わせて、力を合わせて、この危機に立ち向かおうではありませんか。

 私は、この内閣の先頭に立ち、一人ひとりの国民の声に、心の叫びに、真摯に耳を澄まします。『正心誠意』、行動します。ただ国民のためを思い、目の前の危機の克服と宿年の課題の解決のために、愚直に一歩一歩、粘り強く、全力で取り組んでいく覚悟です。

 皆様の御理解と御協力を改めてお願いして、私の所信の表明といたします」――

 以上の約束事が的確に実行に移され、日本の国力回復と国民生活の向上が果されることを望むが、内政、外交等の政治課題ではこれまで多くの人間が言ってきたことをほぼなぞる通り一遍の言及で終わっている。

 日米関係の深化・発展にしてもそうだが、以下続けての発言だが、如何に通り一遍か理解できるように段落に分けてみた。

 「普天間飛行場の移設問題については、日米合意を踏まえつつ、普天間飛行場の固定化を回避し沖縄の負担軽減を図るべく、沖縄の皆様に誠実に説明し理解を求めながら、全力で取り組みます。また、沖縄の振興についても、積極的に取り組みます」

 「日中関係では、来年の国交正常化40周年を見据えて、幅広い分野で具体的な協力を推進し、中国が国際社会の責任ある一員として、より一層の透明性を持って適切な役割を果たすよう求めながら、戦略的互恵関係を深めます」

 「日韓関係については、未来志向の新たな100年に向けて、一層の関係強化を図ります」

 「北朝鮮との関係では、関係国と連携しつつ、日朝平壌宣言に基づき、拉致、核、ミサイルといった諸懸案の包括的な解決を図り、不幸な過去を清算して、国交正常化を追求します」

 「拉致問題については、我が国の主権に関わる重大な問題であり、国の責任において、全ての拉致被害者の一刻も早い帰国に向けて全力を尽くします」

 「日露関係については、最大の懸案である北方領土問題を解決すべく精力的に取り組むとともに、アジア太平洋地域のパートナーとしてふさわしい関係の構築に努めます」

 各問題とも大事な政治課題であるはずだが、要するに端折って済ませている。

 「正心誠意」とは言えない通り一遍の中身のない端折り方だが、「私は、この内閣の先頭に立ち、一人ひとりの国民の声に、心の叫びに、真摯に耳を澄まします。『正心誠意』、行動します。ただ国民のためを思い、目の前の危機の克服と宿年の課題の解決のために、愚直に一歩一歩、粘り強く、全力で取り組んでいく覚悟です」と、「正心誠意」を結びでも約束事としている。

 この約束事の実効性は果たしてどう推移していくのだろうか。


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前原誠司の鉢呂発言「魔が刺した」のメチャクチャな論理思考とその判断能力

2011-09-13 09:40:59 | Weblog

 鉢呂前経産相が9月8日(2011年)福島原発事故被災地視察翌日の閣議後の記者会見での、「残念ながら、周辺町村の市街地は、人っ子ひとりいない、まさに死の町という形だった」の発言とマスコミ記者との非公式懇談での「放射能をつけたぞ」のおふざけが批判を受け、9月2日野田内閣発足時の経産相就任から僅か9日目の9月11日にスピード辞任したが、その問題で民主党の前原誠司政調会長が見事なまでの贔屓の引き倒しの擁護を行っている。

 《首相の任命責任否定=前原氏》時事ドットコム/2011/09/11-21:25)

 北九州市内で記者団に語った発言だそうだ。

 前原誠司「鉢呂先生は人格・見識素晴らしい方だ。今回の発言は魔が差したとしか言えない。言葉自体は言語道断で被災者に誠に申し訳ないが、代議士としては立派な方だ。

 (野田佳彦首相の)任命責任には当たらない」

 「死の町」と「放射能をつけたぞ」の「言葉自体は言語道断」だが、「人格・見識素晴らしい方」で、「代議士としては立派な方」と最大限に持ち上げている。

 だが、前原誠司の発言自体を裏返すと、「人格・見識素晴らしい方」で、「代議士としては立派な方」が「死の町」だと表現したり、非公式の懇談の場では、「放射能をつけたぞ」とおふざけするのは何も問題はないということになる。

 「死の町」と言うとき、無人状態から来る蘇生不可能のイメージと、無人状態で蘇生不可能ゆえの放置のイメージを併せ持たせた言葉となる。放置していないということになれば、そこに人間の存在を認めることになり、「死の町」という形容は当たらないことにもなるし、蘇生も不可能ではなくなる。

 9月10日(2011年)当ブログ記事――《鉢呂経産相の福島原発事故被災地視察で受けた深刻度 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》で、「残念ながら、周辺町村の市街地は、人っ子ひとりいない、まさに死のまちという形だった」の発言のあとに、〈少なくも、「1日も早く住民の帰宅を果すことで死の町を生きた町に戻したい」と“前進”のプロセスの文脈で発言すべきだったろう。〉と書いたように蘇生のイメージを添えるべきだったはずだ。

 だが、「生きた町に蘇らせる」という蘇生のイメージを付け加えるだけのセンス、合理的判断能力を見せることができなかった。このことだけでも閣僚としての資格を失う。

 但し「死の町」の言葉に引き続いて、「私からも勿論だが、野田首相から、『福島の再生なくして、日本の元気な再生はない』と。これを第一の柱に、野田内閣としてやっていくということを、至るところでお話をした」と、「再生」という言葉を使って蘇生のイメージを持たせているが、「死の町」の具体性に直接的な関連付けを行った、その蘇生として持ち出した「福島の再生なくして、日本の元気な再生はない」とすることは到底できない。

 いわば「死の町」を直接的・具体的に払拭し、その町自体の蘇生を強く訴える文脈とはなっていない「福島の再生」、「日本の元気な再生」の言葉に過ぎない。「再生」のイメージを脳裏に深く刻み込んでいたなら、例え「死の町」という言葉を用いたとしても、現在と将来の時制を厳格に区別して、明日につながる「死の町」ではないこと、明日の蘇生が誰にでも伝わる言葉を発信したろう。

 経産大臣としての役目上、その場にいて、発言しただけだったのではないのか。

 前原誠司が「人格・見識素晴らしい方だ」とか、「代議士としては立派な方」だといった理由で鉢呂前経産相の発言やおふざけを免罪できるのは、その発言、おふざけを「魔が差した」ことだとしているからだろう。

 殊更断るまでもなく、「魔が差した」という認識には免罪意識を伴っている。

 だが、一人や二人相手の「魔が差した」発言・おふざけなら、「魔が差した」を理由に免罪することができるとしても(許せない場合もあるが)、原発事故によって避難した福島の住民は、8月22日付「asahi.com」記事によると、県内も含めた全避難者数は6万4367人(8月22日現在)、9月9日付「毎日jp」によると、〈福島県の12市町村で自治体外での生活を強いられている住民が8月末時点で計10万1931人〉にのぼっていて、一人や二人相手の「魔が差した」発言・おふざけではない。

 また「死の町」のイメージからただでさえ風評被害を受けている福島県内・県外の各分野の生産者になお一層のダメージを与えない保証があるというのだろうか。「死の町?それ程にも酷いのか」と改めて思い知らされたとき、放射性物質の飛散がもたらした「死の町」である以上、次ぎの思いとして飛散の悪質さに結びつけない保証はできないし、結びつけた場合、福島県産ばかりか、近県産の食品やその他への忌避感をなお一層掻き立てないと誰が断言できるだろうか。

 だが、前原誠司は「魔が差した」では済まない各方面に与えるに違いない悪影響を認識することもせずに「今回の発言は魔が差したとしか言えない」と免罪している。
 
 この程度の論理思考と判断能力しか持ち合わせていない。

 野田首相の任命責任はないと言っているが、首相自身が大臣に任命し、内閣発足僅か8日目の9月10日夜に辞表を受理したのである。例え国会対策上の辞表受理であったとしても、受理したと言うことは鉢呂経産相の発言・振舞いを過ちだと判定したことになる。

 発言・おふざけは間違っていません。でも、辞表は受理したでは矛盾することになる。

 それがタテマエ上であっても、誤った発言・おふざけだと判定したことになるからこそ、自分も「福島県民の心を傷つけ、深くお詫びいたします」と鉢呂経産相に代って謝罪したはずだ。

 首相自身が謝罪という経緯を踏むことになった以上、そのような人物を閣僚に用いた任命責任は避けることはできないはずだ。

 もし首相が任命責任を逃れることができたとしたら、それは前原誠司のようなメチャクチャな論理思考・判断能力に助けられた、あるいは仲間意識からの贔屓の引き倒しが助けた任命責任回避としか言いようがない。


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菅仮免の仮設住宅お盆までの無計画性が自治体の無計画なノルマ化を呼び込んだ

2011-09-12 11:50:05 | Weblog

 昨9月11日が東日本大震災発生から半年。近親者を亡くし、家も仕事も失った被災者は身体のどこかが虚(うつ)ろな感じに襲われたり、あるいは一瞬身体が身体でなくなって虚ろそのものと化すような無の感覚を依然として引きずることになっているのではないだろうか。近親者を失った場合、ここにもそこにもどこにもいない、目に見えないということが手応えも何もない、あるいは距離感も重量感もない無力感となって襲ってくる。

 いるはずなのにいないという感覚はどうすることもできないもどかしさばかり募らせるに違いない。

 9月10日土曜日夜放送NHK総合テレビ「東日本大震災『 追いつめられる被災者』」は震災の犠牲者が最も多い自治体である宮城県石巻市の仮設住宅問題をテーマの一つとしていたが、被災地全体の仮設住宅入居率が83%にとどまっていると伝えていた。

 菅仮免が4月26日の衆院予算委の国会答弁で「遅くともお盆のころまでには希望者全員が入れるよう全力を尽くす」と公約した8月お盆から1カ月が迫ると言うのに「希望者全員」どころか、未達成が17%。

 だが、その83%もすべて満足を与える入居ではないところを問題点としている。

 また他のWeb記事が入居できないで依然として不自由な避難所暮らしを強いられている被災者が現在も約6800人にのぼると伝えているが、石巻市の場合は100世帯近くが行き場もなく、仮設住宅にも入れない被災者が存在するという。

 これは最初から避難所にも入れずに仮設住宅の抽選からも洩れて、建物の形は残っているが、津波で階下が全く使えなくなって全壊、あるいは半壊と認定された自宅2階等で暮らす被災者の存在だと番組で取上げていた。

 そのような一人として1、2階が使えなくなった3階に一人住む中高年女性がトイレが使えないからと地盤沈下で水をかぶった道路を長靴を履いて近くの病院にまで出かけて用を足す、飲用水は近くのビルでペットボトルに何本も入れて持ちやすいようにそれらをバケツ2個に纏め入れて両手に下げて自宅にまで戻る、食事は市の配給所からプラスチックの容器に入った弁当の配給を受けて家に持ち帰り食事とする、あるいは依然として電気が通っていないためにランタンの灯り一つで夜を過ごす孤独な生活を紹介していた。

 彼女の言葉。「仮設住宅は当らない。避難所はもう一杯だから入れないと言われ、自宅3階、無事だった3階に済んでいる」

 要するに石巻市内だけではないはずだが、震災半年が経過しても、政治の恩恵から依然として落ちこぼれている多くの困窮者が存在するということであろう。石巻市では食糧配給所を115箇所設けていて、7500人以上が頼っているという。

 番組はこのように政治が満足に機能していない状況に言及している。

 辻村NHK仙台放送局デスク「避難所から仮設住宅へというの流れから多くの人たちがこぼれ落ちてしまっています。石巻市は人口が16万人程でして、三陸の沿岸では大きな都市です。その都市の中心部ですね、住宅密集地、ここは広い範囲で津波に襲われました。このため避難所自体の確保もままなりませんで、ようやく住民が避難所に辿り着きましたら、そこでもう溢れ返っているという状況だったんです。

 そのため避難所に食べ物や生活必需品を取りに行って、被災して全壊している家に帰って生活すると、こういう状態が半年続いています」

 鎌田靖キャスター「住宅と言うと、なぜ仮説に入ることができないんですか。菅総理大臣はお盆までは希望者全員仮設住宅に入所していただくというふうに言ってましたけど、これどうなってるんでしょうか」

 辻村NHK仙台放送局デスク「菅さんのこの発言がですね、アダ(仇)になっていると私は感じています」

 鎌田靖キャスター「アダになっていると」

 鎌田靖キャスター「ハイ、被災した希望者の方に見合うだけの数の仮設住宅を造ろうと、まあ、建設の戸数に拘った。これによって、郊外の割と交通の便の悪い所で多くの仮設住宅が建てられた。

 しかし被災者の方の実態というのはですね、津波で車を失っていたりだとか、あるいは高齢の被災者が多かったりして、なかなかそういうところには入れない。結果として、そうした仮設住宅は定員割れの状態になっています。

 また、そういう所にバスを走らせればいいんですけども、このバスも7月までは自治体の予算になっていたんです。そのためバスを出すことについては二の足を踏んでいたというふうに感じます。

 また、こうしたこまめな対応ができるだけの職員の数、応援の職員の数も含めて、その数がいなかったということもこの背景にあると思います」

 この遣り取りの前に番組は石巻市が国が求めた8月お盆までに戸数を間に合わせようと7300戸の建設を進めてきたこと、その内の2000戸は市の中心部に土地を確保できず、公共機関の殆んどない、近所にスーパーも病院も学校もない山間部に建設されたため、山間部の仮設住宅への入居が進まない一方、市中心部に希望者が集中、抽選洩れの被災者が多く出ていると紹介している。

 以上の経緯から窺うことができる情景は菅仮免が4月26日の国会で「8月お盆まで希望者仮設住宅全員入居」の公約を建設の進捗状況を誰に尋ねたわけでもなく、計画性も先の見通しも根拠もなくぶち上げ、その公約を実行可能性など問題とせずに単に期限内の戸数達成を目標に国土交通省の尻を叩いたのだろう、国土交通省は自治体の尻を叩き、期限内の建設戸数達成がノルマ化していった様子である。

 いわば年齢とか車の所有の有無といった被災者の個々の状況に応じた生活環境の利便性は無視された。「被災者に寄り添った」ということなのだろう。

 番組は交通の便が悪い、生活維持に欠かすことができないスーパーも病院もない、学校も歩いて行ける距離にはないとの解説付きで山間部の仮設住宅に住む入居者の声を伝えている。

 60代見当の女性(掃き出しの窓から外に向かって)「うちは車があるからいいですけど、車のないお宅いらっしゃると思いますね。わざわざタクシーで買い物行ったりしている状態なんですよ。買い物、タクシーなんですよ」

 女性の背後の部屋の中に若い男性の姿が映っている。息子なのだろう、車を運転して買い物やその他の用を足しているに違いない。
 
 40~50代見当の男性「車があるっていうのが条件ですね、ここの仮設入るには。あれば、町民バスみたいな、それ、出るのかでないのか、まだ決まっていないと言う。

 町民バス出ますよってこと、はっきりすれば、入居希望者はもっと増えると思う」

 バス運行について石巻市の担当者が答えている。

 石森誠石巻市総合政策課主幹「(バスの話を持ったのは)6月末とか7月とか8月っていう形なんですけど、仮設住宅の建設戸数とか、計画が具体的にまだ立っていなかったので、(バス会社との)そういった相談と言うのは遅れた形になると思うんですけども」

 NHK記者「有事、非常時ですので、一気に物事、進められない要因としてどういった部分があるんですか」

 石森主幹「石巻市内に関しては、そのオー、財源的な問題と、各既定路線との調整とかですね、まあ、許認可なんですけども、早急にやりたいと思いますので、ご理解をお願いしたいと思います」

 震災半年経過して、また山間部の仮設住宅に入居した被災者に不便な生活を強いていながら、あるいは車を持たず、高齢等が理由となって市中心部の仮設に入りたいと思いながら抽選洩れして依然として避難所に多くの被災者が不自由な暮らしを続けている状況にありながら、「早急にやりたい」と言う。

 この遅れ、遅さは国の対策の遅れ、遅さに対応した遅れ、遅さであろう。何よりの原因は生活環境の利便性と両立させない期限内の建設戸数達成のみをノルマ化させた無計画性にあるのは確実だ。

 根拠もなく「お盆まで」を言い、生活の利便性の根拠付けもないままに仮設住宅建設を国の政策として進めていった。脱原発発言にも見ることができる、一国のリーダーの計画性はこの程度だった。

 平野復興担当大臣が登場する。興味ある発言のみを拾ってみる。

 平野復興担当大臣「先程、菅さんの発言がアダになったという発言もございましたけども、仮設住宅を、とにかく建設を急げと、いうことで県に色々と督励したことはあります。

 この仮設住宅の建設をしないことには先ずは行く場所がないということであります。それから、あの、今の、今、様々ビデオが流されましたけども、今政治の方はですね、これから造った仮設住宅の住環境、これからこれが大きなテーマになってくるだろうと、いうことで、チームを立ち上げて、様々検討を始めています。

 その中で例えば、家の中では西日が入って大変だとか、玄関が狭くて大変だとか、そういった小さな要望も何とか応えられないか。

 あと、先程問題になっていましたけども、いわゆる買い物難民、というような、まあ、あまりいい言葉じゃございませんけども、こういった方々の買い物はどうすればいいのか。例えば、バスを運行させる。あるいは移動コンビニといったものを提供するとかですね。

 そういったことの様々な検討を始めて、検討を始めるだけではなくて、今のビデオを見ましてですね、早くやらないかんなと、いう印象を強く持ちました」

 住環境改善のためにチームを立ち上げて検討を開始した段階だと言っている。しかもビデオを見て、「早くやらないかんなと、いう印象を強く持ちました」とビデオを見て気づかされる、その認識の遅さ、鈍感さにも気づかずに言っている。

 すべて無計画な政策しか打ち立てることができない認識能力、鈍感さの結末としてある遅滞状況であろう。

 「仮設住宅の建設をしないことには先ずは行く場所がない」から、建設を急がせたと言っているが、だが、生活環境の利便性と両立させない、期限内戸数達成のみをノルマ化させた建設であったために結果として仮設住宅を「行き場」とさせずに避難所を引き続いての「行き場所」とさせた、あるいは全壊・半壊の水道が出ない、電気が来ていない場所もあるといった自宅を「行き場」とさせ、自宅難民化させた無計画性を無視し、反省する視点を欠いている。

 これは「被災者に寄り添う」と言いながら、実態は国という上から目線に立っていることからの無反省であろう。

 辻村NHK仙台放送局デスク「平野さん、今バスのお話が出ましたけども、7月から国土交通省はバスに対して補助を出すことにしていますけども、この金額が年間3500万円にとどまっています。どの自治体も一律ということになっています。3500万円というのは1日1台のバスを出すのがやっとでして」

 平野復興担当大臣「そうですね」

 辻村NHK仙台放送局デスク「それについてどうですか」

 平野復興担当大臣「これはですね、広い意味での被災者生活支援ということになると思います。あの、この補助体系のあり方も、あの、きちっと検討対象にして、ええ、自治体が困らないような答をしっかり出して実施したいと思います」

 7月からバス運行にやっと補助金をつけた。だが、必要・不必要の地域事情も考慮せずに一律の金額となっている。しかも1日1台のバス運行がやっとの金額というすべてに亘って不満足な制度だということも菅前政権の無計画性、認識程度を物語って余りある。

 繰返しになるが、4月26日の衆院予算委の国会答弁。 

 菅仮免首相「遅くともお盆のころまでには希望者全員が入れるよう全力を尽くす」

 4月28日閣議後記者会見。

 大畠国交相「お盆までに完成できるめどがついていれば、私から申し上げている。特に津波の被害を受けた自治体では用地の確保が難しい。5月末までに3万戸を完成させるめどはついている。できるだけお盆までに仮設住宅に入れるよう、県や地元自治体とも急ぎ調整を始めた」

 菅の無計画性が現れた一つの場面に過ぎない。勿論認識程度に対応した無計画性であるのは断るまでもない。


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菅仮免の3月15日東電本社乗り込みはリーダーとして最低の指導性

2011-09-11 10:58:04 | Weblog

 菅前仮免が3月11日震災発生の4日後の3月15日早朝に東電本社に乗り込んだ理由が東電が原発事故を前にして事故収束作業から撤退させてくれと申し出たのを止めさせるためだとなっているが、東電側は全面撤退の申し出を否定、どちらが事実か藪の中となっていたが、枝野詭弁家前官房長官が菅が言っている事実を事実とする証明を9月7日の読売新聞のインタビューで行っている。

 《前首相の東電乗り込み、危急存亡の理由が》YOMIURI ONLINE/2011年9月8日11時01分)

 枝野が3月15日未明、東電の当時の清水正孝社長と電話で話す。

 枝野「全面撤退のことだと(政府側の)全員が共有している。そういう言い方だった」

 清水社長は先ず当時の海江田経産相に撤退を申し出たが拒否され、枝野に電話した。枝野らが同原発の吉田昌郎所長や経済産業省原子力安全・保安院など関係機関に見解を求めたところ、吉田所長は「まだ頑張れる」と述べるなど、いずれも撤退は不要との見方を示した。

 菅仮免が清水社長を首相官邸に呼んで問い質すと、清水社長は今後の対応について明言しなかった。このため菅仮免は直後に東電本店に乗り込み「撤退などあり得ない」と幹部らに迫った。それが経緯だと。

 枝野「菅内閣への評価はいろいろあり得るが、あの瞬間はあの人が首相で良かった」――

 この経緯に疑問がある。

 もし清水社長が全面撤退を申し出たとしたら、非常に無責任となる。先ず各原子炉が撤退して放置できる状況にあったのかである。経産省原子力安全・保安院が3月11日午後22時に首相官邸に持ち込んだ、「福島第1(原発)2号機の今後のプラント状況の評価結果」は時系列で次のような危険性を予測している。

 3月11日20時30分――原子炉隔離時冷却系(RCIC)中枢機能喪失。
      21時50分――燃料上部から3メートルの水位。今後さらに下がっていく。
      22時50分――炉心が露出する。

 3月12日 0時50分――炉心溶融の危険性。
       5時20分――核燃料全溶融。最悪爆発の危険性。

 3月12日朝の時点で「最悪爆発の危険性」を予測している。3月15日の時点まで原子炉自体の爆発は起きていなかったが、もし撤退して原子炉の冷却等、必要な措置を放棄した場合、爆発の過程に進まない保証は誰も請合うことはできなかったはずであり、またこういった予測推移に対する情報は東電も共有していたはずである。

 いわば東電にしても撤退はあり得なかったとしなければならない。

 2号機よりも1号機の方が危険が切迫しているからということで1号機のベントから行うことになったが、1号機にしても同じ危険な状態にあったはずだ。

 それでも撤退すると言うなら、事故をそのまま放置することは自動車事故等で重傷を負った怪我人をその場に放置するに等しいことで、それを避けるためには東電は事故収束チームのピンチヒッターを用意する責任を有することになる。

 だが、ピンチヒッターを用意できたとしても、福島第一原発の原子炉を運転・操作してきたのは福島第一原発の現場の職員である。原子炉自体の型式、あるいはそ他の付属器機の型式、さらに設置方法や設置場所が違えば、それらの運転・操作の手順に微妙な差異が生じる。

 いわば慣れの問題が生じて、他の誰が事故収束の作業に当っても、緊急を要することに反する様々な手違い、遅れといった障害を考慮しなければならなくなる。現場慣れした現職員が最適という条件は譲ることはできないはずだ。

 次ぎの疑問は枝野が現場の吉田所長に電話して見解を求めたところ、吉田所長は「まだ頑張れる」と請合い、原子力安全・保安院も撤退は不要との見方を示したことである。もし清水社長が事実撤退の意志でいたとしたら、上層部と現場の意思、さらに監督機関の原子力安全・保安院との意思の不統一と言うことだけで済まない。清水社長は慶應義塾大学経済学部の卒業で横浜火力発電所の勤務経験や福島第二原発の総務担当の経験があるものの、原子力発電の専門家でも何でもない。いわば専門的な判断を下すことができない門外漢であり、現場の上層、及び現場経験があり、原子力発電の専門家とも言える会社上層と東電を監督する立場にある原子力・保安院等の意見に従うべき立場にある。

 当然、福島第一原発の現場で指揮を取っていた、東京工業大学工学部卒業、同大大学院で原子核工学を専攻し、原子力の専門家の立場から現場を最も知り得る吉田所長が「まだ頑張れる」と請合ったということは吉田所長と原子力安全・保安院の意見を抜きにその他の社内的、あるいは社外的な専門的な立場の人間によって撤退が決められたことになって、不自然である。

 少なくとも現場をも含めた東電上層部が一致して決定した、吉田所長の「まだ頑張れる」が証明する清水社長の撤退の選択肢ということではなかった。

 考え得ることは清水社長が怯えてしまって、流行語で言うと、ビビッてしまって、一人で決めた撤退ではなかったかとう可能性であるが、だとしても、吉田所長の「まだ頑張れる」の情報、原子力安全・保安院の撤退は不要との見方、さらに原子力安全・保安院が3月11日午後22時に首相官邸に持ち込んだ「福島第1(原発)2号機の今後のプラント状況の評価結果」、その他原子力安全委員会や原子力が専門の総理補佐官からも撤退はあり得ないとする情報を得ていただろうから、それらの情報を根拠に撤退はあり得ない選択肢だとなぜその場で説得できなかったのだろう。

 原子炉及び格納容器が爆発した場合、爆発まで行かなくても亀裂が生じて放射性物質が大量に漏洩した場合の危険状況を挙げてその場で説得すべきだったろう。

 だが、その場で説得ができなかった。清水社長は今後の対応について明言しなかった。そのため菅仮免は直後に東電本店に乗り込み「撤退などあり得ない」と怒鳴り込んだ。

 要するにその場で説得できるだけの言葉も意志力も指導性も持っていなかった。リーダーとしては最低の資質だと言わざるを得ない。

 菅仮免が東電本社に乗り込んで撤退はあり得ないことを納得させたとなっているが、撤退が清水社長一人の怯えからきた独断であって、吉田所長を始め、他の上層部、及び原子力安全・保安院には撤退の選択肢が元々なかったとすると、清水社長だけではなく、誰もが決定できない撤退であるのだから、お節介な無駄足、パフォーマンスで終わったことになる。

 いずれにしても東電の社長が誰であろうと、撤退という選択肢はなかった。あったの原子炉の安定という選択肢のみであったはずだ。原子炉が爆発しようが何しようが、東電は最後まで踏みとどまる責任を有していた。

 当然、誰が首相であっても、撤退を許すという選択肢もなかった。にも関わらず、東電本社乗り込みという一手間を付け加えなければならなかった。そのような一手間、無駄足を無視して、枝野詭弁家は「あの瞬間はあの人が首相で良かった」と身贔屓の買い被りで安っぽい持ち上げを行う。合理的判断能力など持ち合わせていないからだろう。


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鉢呂経産相の福島原発事故被災地視察で受けた深刻度

2011-09-10 10:01:54 | Weblog

 鉢呂経産相の福島原発事故被災地9月8日視察翌日の閣議後の記者会見「死の町」発言が批判を受けている。《鉢呂経産相発言の詳細》asahi.com/2011年9月9日18時16分)

 鉢呂経産相「昨日、野田佳彦首相と一緒に(視察した)東京電力福島第一原子力発電所事故の福島県の現場は、まだ高濃度で汚染されていた。事務管理棟の作業をしている2千数百人がちょうど昼休みだったので話をした。除染のモデル実証地区になっている伊達市、集落や学校を訪れ、また佐藤(雄平)知事、除染地域に指定されている14の市町村長と会ってきた。

 大変厳しい状況が続いている。福島の汚染が、私ども経産省の原点ととらえ、そこから出発すべきだ。

 事故現場の作業員や管理している人たちは予想以上に前向きで、明るく活力を持って取り組んでいる。3月、4月に入った人もいたが、雲泥の差だと話していた。残念ながら、周辺町村の市街地は、人っ子ひとりいない、まさに死のまちという形だった。私からももちろんだが、野田首相から、『福島の再生なくして、日本の元気な再生はない』と。これを第一の柱に、野田内閣としてやっていくということを、至るところでお話をした。

 除染対策について、伊達市と南相馬市も先進的に取り組んでいる。大変困難ななかだが、14市町村の首長が、除染をしていくと前向きの形もでてきている。首長を先頭に、私も、住民のみなさんが前向きに取り組むことで、困難な事態を改善に結びつけることができると話した。政府は全面的にバックアップしたい、とも話した」

 記事は同時に陳謝発言も伝えいている。

 〈●鉢呂経産相が「死のまち」発言を撤回、陳謝した9日午後の記者会見での詳細は、以下の通り。

 鉢呂経産相「本日午前の記者会見での私の発言は、表現が十分でなかった。反省をしている。全体の私の思いは、みなさんにも理解いただけると思うが、表現自体、大変被災地のみなさんに誤解を与える表現であったと真摯(しんし)に反省し、この表現を撤回させていただき、深く陳謝を申し上げる。大変申し訳なく思う。
 記者「被災地にどういう思いを与えると考えて、陳謝したのか」

 鉢呂経産相私の率直な、昨日、まちを訪ねたかたちが、ああいう表現につながった。軽率だった。午前中も話したが、あのような事態を私自身の原点にして、経産行政を再びあのまちに、いま被災をされているみなさんが戻ってこられるように、除染対策などを強力に進めていくと、こういうことを申し上げたかったわけで、そういま反省しながら、陳謝をしている。

 記者「撤回にあたって政府や党から指示や相談は」

 鉢呂経産相「まったくない」

 記者「自身の判断か」

 鉢呂経産相「はい」 〉――

 陳謝発言はどうせ正当化のこじつけに後付けで捻り出したものに過ぎないから、殆んど意味はない。

 「大変厳しい状況が続いている」と、簡単には除染が進まない放射能の汚染状況とそのことが制約することになっている帰宅困難な状況も含めてだろう、深刻に受け止めている。

 まさか残留放射線量の数値が高いことだけを以って「大変厳しい状況が続いている」と言ったわけではあるまい。最初の記者会見発言では「帰宅」に関する言葉は使っていないが、頭の中に常に住民の帰宅を最終目的として入れていなければならないはずだ。帰宅を果すまでの住民の不安、困窮等々も思い遣らなければならない。

 続けて「福島の汚染が、私ども経産省の原点ととらえ、そこから出発すべきだ」と言っている。

 現在も福島第一原発から放射性物質の放出は止まっていないと伝えられているが、現場では完全シャッタウトに向けて懸命な努力を傾けているし、菅仮免が8月27日に福島県を訪れて佐藤県知事と会談、「原発事故で放射線量が非常に強い地域は、除染の取り組みを講じても、長期間にわたって住民の帰還や居住が困難になる地域が生じてしまう可能性は否定できない」とは言っているが、強い地域以外は如何に的確、効果的、迅速に除染を果すか、その実施に取り掛かる段階にきている。

 このことは放射能避難住民も強く望んでいるプロセスのはずである。

 にも関わらず、「福島の汚染が、私ども経産省の原点ととらえ、そこから出発すべきだ」「汚染」からの「出発」を今以て言うのは経産相の意識自体が前進していないことを示しているのではないだろうか。

 「出発」ではなく、次の段階、さらにその先の段階への“前進”が求められているのであり、その求めに応じる姿勢が必要だと言うことである。

 簡単には帰ることはできないと別の土地での生活を選択した住民も多く存在するが、放射能放出の完全シャッタウトと健康に影響しない範囲で生活可能な十分な除染への“前進”のプロセス終了を待ち望んで帰宅を果そうと多くの住民が待ち構えている。

 また10年、20年は帰れないだろうと諦めて他処の土地を止むを得ず選択した住民にしても、10年、20年先には住んでいた場所が元の状態に“前進”することを希望していない住民が果たして存在するだろうか。元の状態に“前進”したなら、一度帰ってみようと思い描いていない住民が。

 当然、経産省をも含めて政府が以後重点的に取り組むべきは、繰返しになるが、「福島の汚染が、私ども経産省の原点ととらえ」、そこからの「出発」といったことではなく、放射能放出の完全シャッタウトと可能な限りの除染、そして帰宅という“前進”のプロセスでなければならないし、全身、そのような心構えを持していなければならなかったはずだ。

 政治家が頻繁に使う言葉で譬えると、殆んどが口先だけだろうが、「前向き」の心構えということになる。

 それを「残念ながら、周辺町村の市街地は、人っ子ひとりいない、まさに死のまちという形だった」と、“前進”のプロセスに冷水(れいすい)を浴びせるような、「前向き」でも何でもない後ろ向きなことを平然と口にする。

 少なくも、「1日も早く住民の帰宅を果すことで死の町を生きた町に戻したい」と“前進”のプロセスの文脈で発言すべきだったろう。

 このように“前進”のプロセスの文脈で把えた発言ができなかったのは「大変厳しい状況が続いている」の発言が被災地の状況を、除染や帰宅困難な問題も含めて深刻に受け止めたものでも何でもないニセモノの印象に過ぎなかったからだろう。

 このことは第1原発の視察を終えた8日夜のおふざけが証明している。《鉢呂経産相:「放射能つけた」発言 辞任やむなしの声も》毎日jp/2011年9月10日 時59分)

 報道陣の一人に近寄って防災服をすりつける仕草をし、「放射能をつけたぞ」という趣旨の発言をしたという。

 子どもたちがイジメの趣旨からではなく、ふざけ合う“バイキンごっご”そのものである。誰かを追いかけていってタッチすると、その子にバイキンが移り、移された子が別の誰かを追いかけていってタッチしてバイキンを移し合う、「バイキンを移したぞ」、「わぁっー、バイキンを移されたー」と叫んで面白がる遊びである。

 福島から他処の土地に移っていった住民のその理由が子どもの放射能汚染を恐れてのことである。全住民の内部被曝の検査も行われている。放射能汚染被災地を視察し、「大変厳しい状況が続いている」と深刻な状況であることを訴えた。

 その訴えの舌の根も乾かないうちに“一人放射能ごっご”に興じた。住民のことを配慮しない「人っ子ひとりいない、まさに死のまちという形だった」の発言と言い、「大変厳しい状況が続いている」はまさしく口先だけのニセモノの深刻度だったことを証明して余りある。

 当然、閣僚の資格はない。


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