北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都発幕間旅情】小田原城(神奈川県小田原市)北条早雲の一大城郭は東海道新幹線小田原駅を眼下に収める

2024-01-31 20:10:13 | 旅行記
■小田原城をあゆむ
 新幹線ひかり号を降りたホームを歩んでいますとそのホームを見下ろしている純白の城郭があります。

 小田原城、もともと好きな城郭で幾度も探訪している城郭なのですけれども、COVID-19新型コロナウィルス感染症のあの2020年以降、もう五年目の2024年ですがますます親近感がわいてくるところです、こういうのもここは新幹線駅から非常に近いのだ。

 東海道新幹線、COVID-19新型コロナウィルス感染症とともに所用で首都圏に行く場合、前は別の用事も兼ねて東京駅へ直接行く事が多かったのですが、神奈川県での所用の場合は基本的に新幹線のぞみ号を利用せず、ひかり号で小田原駅から移動していました。

 新幹線の駅から小田原城は指呼の距離にあり、しかしもちろんの事それほど時間にも心にも余裕があるわけではありませんので乗り換えの時間だけでも少し散策しよう、となりますと、それはもうどうしても城郭の一部しか探訪できず、故に城へ通う事足繫く。

 城郭探訪も、城門はじめもともとここは明治維新の廃城後は天守閣も含め破却されてしまいましたが、幸いにして土塁や石垣や掘割のかなりの部分が残るとともに、城郭に観光地としての価値を見出す余裕が生まれますと次第に修復や再生が行われます。

 探訪して凄いなあと思うのは、小田原城は今も修復事業が進められているところですので初めて探訪したときには、もちろん天守閣はその威容を放っていたのですが、巨大な城郭を湛えるさまざまな櫓や城門などはまさに再生される過程、変化する様子が見れた。

 小田原城、その歴史を遡りますとそう築城年は応永24年、それは西暦でいうところの1417年に北条早雲が大森藤頼からこの一帯を奪い領有化した際の拠点として整備した城郭が、ここ小田原状の始まりと言われています。どうりで小田原駅からも近いわけです。

 伊勢宗瑞と名乗っていました後の北条早雲、室町幕府政所執事たる伊勢氏の出自で、当地では駿河館襲撃に堀越公方の家督争いと伊豆討ち入り、そして小田原城奪取と勢力を伸ばし巨大な北条家の基礎を固めた人物です。もっとも、歴史には小田原城奪取とある。

 明応地震という、1498年に発生した地震は北条氏が小田原城を最初に大改修した時代と重なりまして、これは推測も交じるのですが震災により破壊された部分を補修するとともに櫓などを増強することで城郭としての防御力を高めたのではないかと考えられます。

 平安朝末期、相模国豪族土肥氏一族であった小早川遠平の居館が、そもそもの小田原城の始まりという。そもそもの小田原城、というもったいぶった表現をしましたのは、小田原城は元々上記の北条氏が際限なく巨大化させたために主郭部分のみが城址であるゆえ。

 主郭部分、というのは、当初の小田原城というのは八幡山という、小田原城の向かい側に在ります稜線に沿って聳えていまして、現在は上司としてではなく小田原高校と。そして元々の小田原城と今の小田原城の中間に、東海道本線と新幹線が走る、小田急も。

 八幡山にも土塁などの遺構は残っているといいまして、要するにそれはもう一度や二度探訪しただけでは全容がつかめないほどに巨大な城郭であった、というのが小田原城の醍醐味といいますか、何度探訪しても飽きない場所でもあるのです。そして駅から近い。

 総構という、二の丸総堀と三の丸総堀そして総構堀という防御陣地に守られた城郭となっている小田原城、最盛期には全周で実に9kmにものぼる防御線が築かれ、その背景には武田信玄と上杉謙信、時期は異なるものの歴史に残る武将の侵攻を受けた為という。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都発幕間旅情】彦根城,きみたちはどうひこにゃんと会うか-愛される城郭を支えるものとは

2023-12-28 07:00:58 | 旅行記
■ひこにゃんの彦根城
 年末の彦根城を散策するという今回の旅行記について。彦根城は登城口にあのひこにゃんさんの登城時間なども明示されていまして参考となります。

 彦根城天守閣、国宝天守閣はここ彦根城と白鷺城こと姫路城に信州の松本城と木曽河畔の犬山城、少し前には四国宝天守と呼ばれていましたが、此処に平成の大修理にて建築時期が明確に明らかになった松江城とともに国宝五天守閣、と呼ばれるようになりました。

 三層三階天守閣、ということで実のところこの彦根城は小ぶりな城郭、という印象はあったのでして、そして確かに山頂の天守閣を間近に接しますと、それは決して重厚ではあっても巨大な天守閣ではないのです。けれども城郭を一つの施設と視た場合はどうだろう。

 西丸三階櫓、彦根城は数多くの櫓が現存していまして、この西丸三階櫓もその一つであり、そう気づかされるのですが、三重櫓、これは江戸城の富士見三層櫓と同じだ、という以前に、飾り屋根の有無で印象は違うのですが、三層というのは天守閣と同じ三層なのですね。

 小谷城の施設を移築したものが西丸三階櫓と考えられているのですが、そう彦根城の天守閣は大津城、周りの施設は佐和山城、そして惜しい事に現存しないのですがかつて存在した山崎三層櫓というものは長浜城の移築というもので、一つ一つは小さくとも全体では。

 天秤櫓も、天守閣に向かうあの櫓さえ、なにかこう、明石城を思い起こす規模のものといえますし、佐和口多聞櫓という山麓に広がる櫓も、現存しない大名屋敷本丸御殿をつつむ規模で広がりますので、冷静に現存する部分を見ただけでも、なんと巨大な城郭なのか。

 天守閣だけではなく、全体を見てみますと、それも現存している櫓も数多いものですから、なるほど、天守閣というものは元来その占めるところは城郭の一部にしか過ぎないというところですけれども、実際彦根城では天守閣は城の一部なのだ、と思い知るのですよ、ね。

 愛される城郭、そう、現代において横隔が生き延びるには数多の普請を自らの収入で担うほかありません、すると、資金的な面を含め、いやこれこそが中心なのか、下司な良い方では集客力、こうした面で城郭が多くの方に愛される事で支えられなければ、残れない。

 ひこにゃん。愛される城郭である筆頭には、この元祖ゆるきゃら、というべき巨星、ひこにゃんさんの果たすところが多いのではないか。ひこにゃん、今でこそ、くまもん始め多くのゆるきゃらが全国を盛り上げていますが、しかし始まりは彦根のひこにゃんさんです。

 本丸御殿を模した資料館前にこの日数回登城しました、ひこにゃん。しかし、天守閣の前にひこにゃんさん文字通り登城することもありましたし、ほかの場所に登場することもありますひこにゃんさん。本丸御殿前ですと入場料を払わずともひこにゃんを観られるのだ。

 ひこにゃんだけの集客力という訳ではないのでしょうけれども、彦根城にいけばひこにゃんに会える、というものはあまり軽視できないでしょう、実際子供たちにも大人気でした。それもひこにゃんさんが誕生したのは元祖ゆるきゃら、その人気の長さも実に長いのだ。

 北大路機関が創設された直後あたりでしょうか、ひこにゃんさんの誕生、これだけ息の長いといいますか愛され続けているひこにゃんさんの集客力というものも、彦根城が城郭界の巨人の様に君臨し続けている背景の、ひとつを担っている事は間違いないでしょう。

 ひこにゃんさん、それはキャラクターとしての人気もさることながら、さんまのまんま、随分前のテレビ番組を思い出す際の、まんまさんのような愛くるしい仕草とともに来場者、いや来城者を迎えるからこそ、この彦根城は愛され続けているのだなあ、と思うのです。

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【京都発幕間旅情】彦根城,師走は年末年始へ正月飾りと鏡もち奉じられた十二現存天守閣の彦根城天守をめぐる

2023-12-27 07:00:25 | 旅行記
■彦根城天守閣の正月飾り
 お正月の準備を終えた天守閣というものをみあげるのはこの季節ゆえの特別な情景といえるのかもしれませんよね。

 天守閣、彦根城は現存12天守閣の一つなのですが、この天守閣の美しさは一通りでは説明できません、こういうのも見る角度によって全く異なる天守閣の情景なのですね。東側から、つまり江戸というか東京の方角からみますと、ほっそりとした角の無い優しさ。

 大坂方面を睨む天守閣は、石垣が鋭く突き出ているような構造となっていまして、もう一つ重要な経路となる琵琶湖の方角へも、明らかに優しさとは真逆のものをくくりつけるように突き出しているという。ここまで計算して造形を仕上げたのかが、ちょっと興味深い。

 彦根城天守閣を一周廻るだけで、特に山頂の天守閣をぐるりとまわるのと、城郭を外堀から見上げるのとも全く異なる印象を突き付けられるものでして、城郭、建築工学などからみるだけではなく、心理的な突き付ける印象で、また見え方が変わってくるようにおもう。

 正月準備の天守閣に入りました。不思議なのですが、いまの季節は天守閣に長い通路を通るのではなくいきなり基部に入ることとなる。松本城のように耐震上の問題が在ったのか、繁忙期なので見学者をショートカットさせるつもりなのか。それ程混雑は無かったけれど。

 鏡もち、ああいうのを鏡開きというのだろうなあ、という程に大きく硬くなった後は割れそうな印象で、そして上には蜜柑なんてものを載せるのではなく多数のスルメイカとコンブの大判、基部には干し柿が、そう鏡なのでわれるという事なのか偶数分ならんでいた。

 天守閣の一階部分は、そう、一応石垣の中の急な階段の先にあるのですけれども、広々としている印象でした。そしてその先に二階部分と最上階がひろがるのですが、天守閣、江戸時代には平時の武器庫という位置づけであったようで日常生活の場ではなかった、と。

 一階部分は金網の先に彦根市街が見えました。けれども、この天守閣は一階部分が広いだけで二階部分からは急激に狭くなるという。もっとも、天守閣が大きくなったのは近世、中世の天守閣は望楼の役割が在った為に、中の容積は近世の天守閣よりも狭かったという。

 現存天守閣を視た上で復元天守閣をみますと、思い切って大坂城のようにエレベータと歴史資料館としているものはべつとして、いま、名古屋城が木造天守閣を再建しようとしている現状で問題となっているバリアフリー確保の問題、これは絶対両立しえないよなあ。

 バリアフリーのためにエレベータを、というのはちょっと、考証通りの再建には無理だろうというもので、今は無き安土城や豊臣秀吉時代の大坂城ならばエレベータを有していたともいわれるものの、車いすのまま乗れるエレベータは有得ないだろう、と思うのですね。

 潜水艦や戦車がバリアフリーでないように、城郭を再現する際にバリアフリーを求めるのは不可能でしょう、それは愛宕神社の本宮までリフトを通せとか、金毘羅山にエレベータを設置しろ、というのに等しいもので。ただ、ハンディある人に閉ざすべきとは思わない。

 強力といいますか、金毘羅山はつい最近まで籠で上まで人力で運んでもらう有料サービスがあったといいまして、例えば正確に再現したとしても、ウインチで本人だけ上に階段を運ぶことは出来るのかな、と思うのです。もちろん上る際には本人の努力も必要だけれど。

 今回の登城、実は天守閣まで登る予定はなかったのでかなりのカメラ機材をカメラバッグに収めていた為、重く見動きは大変でした、けれどもそのために天守閣の階段を上るのも降りるのも一苦労でしたけれども、努力が有れば何とかなるということを少し示せました。

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【京都発幕間旅情】彦根城,日本の近世城郭その築城哲学の独特さが反映される現代ニッポンの価値観と気風

2023-12-26 07:00:52 | 旅行記
■日本の城郭をゆく
 軍事施設というよりは行政施設というべきであり且つ階級社会が固定化された時代の移行という意味での日本の城郭は、日本の色々な部分を顕在化させている。

 彦根城の天守閣は、築城を急ぐべく廃城となった大津城天守閣を移築したといい、この大津城天守閣は京極高次によるものとなっていました。ただ、江戸城よりも高くならないよう三層天守とした複合式望楼型となっていて、城郭はここに通じる配置となっています。

 城郭、日本の近世城郭ほど考えさせられる、そして個人的に惹かれるものはなかなかありません。それは精神的なものと言いますか価値観と言いますか、思う以上に日本的だとおもう、影響を及ぼしている。こう思うのは無駄な縄張り、築城哲学の独特さなのですね。

 敵をここに誘導して、ここで分散させて、ここで銃眼からねらい、消耗させた上でここにてきが到達するには。こうした城郭様式となっています、もちろんこれは現代だからわかる視座であり、当時は城郭の構造は当然機密ではあったのですが、主導する前提で成る。

 軽歩兵主体の攻撃には城郭は強いのだろう、しかし砲兵は、工兵は、まったく対策が無い、となる。いや、明治維新後の西南戦争では軽歩兵主体の攻撃が熊本城にまったく通用しなかったことを考えますと、軍事研究が数百年停滞した結果をみるようなのだけれども。

 我はかくする、敵をかくせしむる。クラウゼヴィッツでしたかジョミニでしたか。相手の出方をこちらが主導して想定しているというのは日本の近世城郭の特色といえまして、これは逆に大坂夏の陣で城が砲兵により手痛く損耗を強いられた戦訓が活かされていない。

 近世城郭が実戦にさらされた事例は、大坂城と熊本城、でしょうか。中世の分岐点と言えば桃山城は含まれ、ただ、小田原城となると中世城郭に含めるべきなのでしょうけれども、砲兵が発達して以降となると、あとは、城趾が戦場となった原城を含めるべきかどうか。

 野砲、というものが誕生したのは1630年代、グスタフアドルフの兵制改革に際してです。日本の歴史学者は軍事学の知識が致命的にない方が戦史を研究するため、関ヶ原の戦いに東軍がイギリスから供与された野砲を使ったという一種のトンデモ説が最近あるようで。

 真珠湾攻撃で空母ではなく日本本土から爆撃機が出発したと勘違いする識者もいるようですので、野砲くらい勘違いする方がNHKなどで歴史番組を構成していても不思議ではないのかもしれませんが、野砲が日本に伝わったのは関ヶ原の、もっとあとになってからです。

 近世城郭は、この野砲というエポックメイキングな装備、この脅威に対して対策をとれぬまま数百年を果たしていまして、いわば、使えないものであっても使えるものだと信じる一部の方々と、使えないものであることを調べないために知らない大半の層が支えていた。

 威容といいますか、しかし見た目は美しいではないですか。その見た目の美しさとともに、のちのちには厳しい運命が待っているのでしょうが、一部の方は気づきつつなにもできず、多くの方は、これこそ最強とおもいこみつつ、時を空費している数百年にわたっても、だ。

 日本的だ、といいうるのは、城郭を、もうなんでもいいのかもしれませんがたとえば平和憲法に置き換えてみましょうか、まったく重なるものじゃあないですか。しかし、体裁はととのっていたので、体裁さえ整えば事を荒立てないように前例踏襲主義でやってゆく。

 幕末動乱に際しては正に象徴しているようだ、といいますか、城郭は、特に彦根城は築城の意図を活かせていません。まさに日本的だと思うけれども、危機管理の面からは余りに場当たり主義でもある。いやだからこそ、治において乱を忘れる、気風が愛おしいのです。

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【京都発幕間旅情】彦根城,佐和口多聞櫓から始まる金亀山の城郭登城路は防御重視の天下普請城郭の入り口

2023-12-25 07:00:45 | 旅行記
■正月飾りの彦根城探訪記
 彦根城を探訪しますと既に城郭は正月飾りを並べ年末年始の師走風情を醸していました。

 滋賀へ彦根へ。年末という事で彦根城へ行って参りました。京都が高校生駅伝で混雑しているとともに最近の高校生駅伝が支援の第7普通科連隊参加が少ないから、というわけではないのですけれども。若干雪景色を期待したものの素晴らしい快晴に恵まれている。

 佐和口多聞櫓という、彦根駅から彦根城に向かいますと掘割の向こうに、ここから城郭への山は広がるのですが、入り口に当るところに大きな櫓がありまして、その向こうに複合式望楼型 三重三階天守閣がみえてくるという、これからの登城の気分を盛り上げてくれる。

 琵琶湖畔の彦根城、散策には最適だ、大名屋敷こそ残念な事に廃藩置県後に廃城となった際の混乱で失われてしまったけれども、天守閣と複数の櫓が健在であり、なによりも石垣と掘割が巡らせる情景は、そうどれだけ歩きまわても飽きる事はない、美しい城郭なのだ。

 東海道線彦根駅、新快速が停車すると共に駅舎には化粧煉瓦が施され、そして近江鉄道と日日本旅客鉄道の駅舎を一歩街へ歩み進めますと、迎えるのは井伊直政の騎馬像そのひと。そう、ここは井伊さんの彦根、というべきなのでしょうか、街とお城が愛されていて。

 城郭は駅から、福山城と三原城のようなお城が駅の真横のつもりでアーケードを進んでいますと案外歩く、しかし、アーケードのその先に天守閣が見えまして、もう少しでお城なのだなあ、と思うと意外に近いのかもしれません。しかし城内は活気にあふれている。

 連郭式平山城の彦根城は井伊直継が西暦1622年、元和8年に築城した城郭なのですけれども、城内が活気にあふれているというのは、観光客が多い、ひこにゃんがいる、いくつか理由があるのですけれども、もう一つ、城郭に高校や大学が置かれているということも。

 現在もつかわれている城郭、といいますと持射浮かべるのは皇居、そしてこのほかにも静岡県庁が置かれる駿府城や福井県警本部の置かれる福井城というもの、新幹線駅として使われているような三原城のその一つなのでしょうが、学校が置かれている城郭が彦根で。

 金亀山、彦根城の天守閣はこの山頂にあります。けれども山頂と仰々しい表現は言うものの、高低差は50mくらいといい、まあ要するに京都駅ビルの大階段ほどの高低差も無いわけです、ただしながら石階段を上ってゆく先、妙に高い様にも思えてくるのは不思議だ。

 城郭は、井伊直政、彦根藩初代藩主が関ヶ原の戦いにおいて勲功を挙げ、しかし西軍島津義弘の撤退戦に際して正面突破を受けた、烏頭坂の戦いで井伊直政は重傷を負い、この勲功が関ヶ原に近い彦根の地、近江は湖南地方を中心に所領として徳川家康から与えられる。

 上り難い城郭は防御を念頭に置いた、これは何しろ江戸時代があれ程に長く安定した時代が続くとは思われていませんでしたから、先ずは江戸の防御を、その為には東海道と北陸道の結節点に位置する彦根は戦略的に重要であるとして、頑強な城郭を造営することに。

 天下普請という、幕府直轄の築城となりました彦根城は、要するに安易な城郭では困るとの幕府の決意とともに造営されたわけですから、この石階段が上り難いのも仕方がないのだよなあ、と納得し、こうして天秤櫓がみえるところまでのぼってきましたわけです。

 天秤櫓、井伊年譜という歴史書によればこの櫓は今は無き、再建天守閣はあるけれども、長浜城から移築されたものといいまして、本丸南腰曲輪を防衛しています。二層二階の櫓は廊下橋という有事の際には落とされて障害を構成する構造で、その先に天守閣がある。

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【京都発幕間旅情】丸岡城(福井-坂井)天守閣と城下町の意味と意義は過疎化に抗う郷土愛を育む

2023-11-01 20:00:11 | 旅行記
■現存十二天守閣の一つ
 丸岡城は今回の探訪が初めてではないのですがお城まつりの準備の最中という活況のなかの丸岡城というのは初めてで新鮮でした。

 城郭、これは現代では一つのランドマークにしか過ぎないといわれるものですが、考えれば一国一城令が江戸時代に出されましてかなりの城郭が戦国時代の終わりと共に破却されていて、そして廃藩置県により天守閣の有無を問わず大半の城郭が破却されています。

 廃藩置県とともに破却された城郭は大半が転売され、天守閣と櫓も建材として転用されてゆきまして、残る僅かな天守閣も西南戦争で破壊されたほか、太平洋戦争における本土空襲により破壊されたものも多数あります、そして現存十二天守閣、となってしまった。

 象徴的意味合いのみの城郭、役目を終えた城郭、歴史学の知的好奇心の対象、オシロというものを冷ややかな視点で見ますと確かに、これは市民生活に絶対不可欠なものだ、というようなものではないのでしょうけれども、しかし象徴的な意味合いは重要だと思う。

 郷土愛、現実的な視点からは、人間なんて仕事があればどこでも生きていけるものさ、と冷淡さに切り捨てられてしまうのかもしれませんが、特に人口減少という時代、都市部集中という雇用と社会基盤整備の偏重を背景に考えれば地方過疎化はどんどん進んでいる。

 過疎化というものに一定の防波堤を求めるとするならば、それは郷土愛、いや直江兼続てきな“愛”の文字が直接的直情的煽情的過ぎるというならば、ふるさとっていいよねえ、的な情感や郷愁という、数値化が難しい視座、価値基準というのは重要であるのでは、と。

 歴史、というものも加味できるかもしれませんが、現代社会というものは巨大になりすぎまして、特にWebという通信技術の発展はグローバルな視点を単なる一個人の価値基準にも浸食させるようになり、要するに分ったようでわかっていないことが増えた構図だ。

 自我自存性、アイディンティティといってもいいか、自分が何者かという事は考えるのは簡単ですし不安ならば身分証や名刺を見てもよい、のだけれどもこれを体系立てて振り返るには、結局自分の育った風土とその風土を育んだ歴史や信仰の中にしか、と気づく。

 城郭は、歴史といわれてもそんなものは近代城郭が成立して以降の遺構ですので、中世までさえ遡ることは出来ませんが、憲政秩序や法体系を考えれば、ひとつ前の時代の遺構であるわけですし、それ以上遡ろうにも想像力というものにも限界があるのではないか。

 日本国憲法は第九十三回帝国議会において大日本国憲法を改正し生まれたものですし、刑法も民法も明治時代のもので、GHQ占領下にも刑法や民法までは改正しなかった、その制度はローマ法とフランス民法を下敷きにしたとはいえ、上のものはわが国のもの。

 ひとつ前の時代というのはそういう意味であり、江戸時代の城郭というのは想像できる昔の強度というものを彷彿させる一つの視点なのかなと考える。すると、ふるさとっていいなあという視座、自分はこの世界のなにものなのだろうという視座、に応え得るかな。

 過疎化に対する視座は、戻って来よう、という情感を惹起させるかという要諦の上に成り立つと考えます。いや、それならば別の選択肢があるではないか、と思われる方も多いでしょうけれども、やはり見た目というものは重要です、城郭は宗教的にも中立ですし。

 現存十二天守閣の一つである丸岡城、これはもちとん強度への思いを育むものなのですが、例えば架空は別として過去に存在した城郭の遺構へ、文化財を破壊しない範疇で櫓や城門などを再現、再建する試みは、実は今の時代だからこそ意義があると思うのです。

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【京都発幕間旅情】丸岡城(福井-坂井)丸岡古城まつり準備と小松基地航空祭と中部方面隊創設記念伊丹駐屯地祭

2023-10-26 07:00:50 | 旅行記
■丸岡古城まつり前夜
 74式戦車を選ぶことにはなるのですが、五万石パレードが丸岡で行われる日に伊丹では第3戦車大隊に第10戦車大隊と第13戦車中隊と第14戦車中隊のマークが揃う事に、

 福井藩の福井城支城であった丸岡城ですが、福井藩がお家騒動で二分され徳川家康が調停の乗り出す“福井騒動”が起こりますと、城主であった本多成重は、福井藩が減封となることとなり、この為に丸岡城の一帯を丸岡藩として独立することとなりました。

 本多成重の丸岡藩は元禄年間に数えて四代目の本多重益、お家騒動が起こりまして改易となります。そして当地には有馬清純、越後国糸魚川藩の有馬家が五万石で入場することとなり、ここから幕末まで、有馬家の丸岡藩としてようやくこの北陸の地は安定期を迎える。

 有馬清純、安土桃山時代には有馬晴信がキリシタン大名として有名ですが江戸時代には日向国延岡藩五万三千石の藩主でした、けれども農民逃亡が相次ぎ改易となり越後国糸魚川藩五万石へ、それが丸岡藩へ、1691年と1695年と相次ぐ引越しを経て当地へ。

 日向国延岡藩から色々あって丸岡藩へ、急に寒い場所になって大変だろうなあ、とちょっと考えてしまうのですが二代目藩主有馬一準の時代に、それまで外様大名という扱いであった有馬家でしたが、丸岡藩は外様大名から譜代大名となり、領地経営には成功した、と。

 丸岡古城まつり。わたしがこの城郭を探訪しましたのは、まさにこの週末に祭事が執り行われるという祭りの準備の最中というちょっと騒々しさの中に好奇心がわくような、舞台裏を舞台の組み立てが覆い隠す直前を眺めることができました。飲食店も大忙しで。

 十月の最初の週末、土曜日と日曜日に執り行われる丸岡古城まつり、そうかならば是非本番を、とこう意気込みたいところなのですが、肝心の丸岡古城まつりはもう一つの大きなお祭りであります小松基地航空祭がお隣、その前日展開に探訪したという背景があり。

 小松基地航空祭、2023年はブルーインパルス飛行展示が行われないのですけれども、福井県坂井市のこの城郭から、そうブルーインパルスであれば飛行展示の一部も望見できるのかなあ、と思ったりします。そしてお祭りは土曜日と日曜日におこなわれるというが。

 中部方面隊創設記念伊丹駐屯地祭、今年は土曜日に小松基地航空祭と日曜日に痛み駐屯地祭という日程で、昔はこれくらいどうとでもなかった、帯広駐屯地祭の翌日に南恵庭駐屯地祭に行ったり、豊川駐屯地祭と浜松基地航空祭を掛け持ちしたりしていましたけど。

 古城まつりをゆったり見ていられないのは残念だなあ、と思いつつ、ちょっと時期が悪かったよねえ、何しろ今年は、過去に無いほど平日の小松基地にイタリア空軍だ、オーストラリア空軍だと出かけ、伊丹では方面隊最後の74式戦車へのお別れの行事になるゆえ。

 五万石パレード、祭事は先ず武者装束に扮した市民による観閲行進、じゃない、歴史パレードを行い、人形山車や子供大名などなど楽しそうな行列がこの丸岡城の城郭を構成する縄張りとともに城山の周りをぐるり巡る。一周は長くもなく短くもないちょうどよさ。

 総踊り、からくり人形山車巡行、丸岡古城まつりでは様々な催しが行われます。そしてこの日も前夜祭ということで、広場では野外映画館が予定されているといい、キッチンカーなどがビールやお酒の準備を進めていました、ちょっと気にはなりましたが、時間が、ね。

 野外映画館、航空祭と日程が重なっているのが惜しいなあと思いつつ準備の様子という活気の中で近くのカフェーにてドライカレーを頂きました、なにしろ金曜日なのですから。城郭、それは大きくなくとも、存在感だけで街の団結を生むのだなあ、と感心しました。

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【京都発幕間旅情】丸岡城(福井-坂井)霞ヶ城は丸岡藩藩庁になった現存十二天守閣独立式望楼型二重三階構造

2023-10-25 20:20:50 | 旅行記
■福井は霞ヶ城探訪記
 天守閣を維持できている城郭というものは何か風情というだけではない特別なものを湛えている印象があるのですが、街の人たちが大事にしている故でしょうか。

 霞ヶ城、福井県坂井市丸岡町霞には柴田勝豊が天正時代に造営した城郭があった。この城郭は戦国時代の後には江戸時代に丸岡藩の藩庁となり城郭は維持され、今日にも天守閣が往時の情景を残している。そんな城郭へ暑さが漸く凪を迎えた頃合いに探訪しました。

 丸岡藩の藩庁が置かれたことから丸岡城として知られる城郭は、戦国時代に城を護る大蛇が霞を吐いて敵から城郭を隠して守ったという逸話から霞ヶ城ともいわれていまして、白山神社はじめこのあたりは蛇にまつわる伝承が多いなあと考えさせられるところです。

 現存十二天守閣、日本には数多城郭が造営されましたが天守閣という象徴的建造物を冠するようになったのが安土桃山時代以降、そしてその後の江戸時代という太平の時代を迎えるにあたりまして城郭は行政施設となり、数は限られるものの威容を誇るように。

 天守閣は多数造営されるものの、明治時代の廃藩置県と西南戦争など動乱と、そしてしばらくの安定期を経て太平洋戦争における本土空襲などにより大半が破壊されてしまい、残ったものがわずかに全国で12のみ、丸岡城はその数少ない現存十二天守閣のひとつ。

 永平寺から直通バスがあるのか。福井県にて前々から曹洞宗総本山の永平寺を拝観したいと願いつつ、時間や交通手段や予定などで中々果たせなかったところを漸く実現しましたが、驚いたのは福井駅から直通バスが運行されていたことです。勿論乗りますよ。

 福井駅から永平寺まで、えちぜん鉄道でその先はタクシーか徒歩か、バスは多分あるのだろうけれども、と難渋していましたらば直通特急バスがあり、有難いと拝観実現したのですが、それと同じくらい驚いたのは本数は少ないものの丸岡城へバス路線が有ったこと。

 独立式望楼型二重三階構造を有する天守閣が、しっかりと存在感を放っていまして、そうこの城郭を見上げるのは前回の小松基地航空祭前日以来という。丸岡城国宝化推進室を坂井市が設置したのが十年前の2013年、さてさてそのための史学の学術研究がすすむ。

 柴田勝家、北陸の虎と呼ばれた武将の甥である柴田勝豊が天正4年こと1576年に当地に城郭を拓いたのが最初という。緊要地形というよりも丸岡は北国街道を監視する適地にあり、城郭は地域防御拠点ではなく戦略交通網全般へのプレゼンスを発揮する役割に。

 織田信長が本能寺で討たれ、その後継者を探す清須会議が清須城にて開かれますと、柴田勝家は湖北の長浜城をその勢力圏に収めることとなり、柴田勝豊は長浜城主となり丸岡城を後にすることとなり、柴田勝家は城代として安井家清を配し、城郭を維持しました。

 北ノ庄城、福井駅の近くにある遺構なのですが、柴田勝家は賤ケ岳の戦いで豊臣秀吉に敗れますとこの北ノ庄城で最後の防衛を試みるものの叶わず討たれ、豊臣秀吉は丹羽長秀の所領に加賀国江沼と能美二郡としてここ丸岡を加えます、石高は60万石となった。

 丹羽長秀、実は織田信長の最後から数年を経て、このひとは積寸白という、要するに寄生虫にやられて亡くなるのですが、兵站畑と工兵畑で非常に有能とされ織田信長に重用されたものの、野戦の華々しい戦果にばかり注目される戦国史では目立たないのが寂しい。

 徳川家康は丹羽長秀の死後十数年を経て勃発した関ケ原の戦いにて、西軍に与した丹羽家家臣青山宗勝を当時の丸岡城主から改易し家康は次男結城秀康を入城させ本多成重、松平忠直、福井藩の城郭として位置づけられてゆきますが、一国一城令の時代となります。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都発幕間旅情】名古屋城(愛知県名古屋市),ロシアウクライナ戦争におけるウクライナ文化財被害を憂う

2023-09-06 20:23:15 | 旅行記
■軍事目標は住民と文化
 軍事目標は住民と文化、国際公序や強行規範の範疇から外れた目的達成手段としての軍事行動は度々こうした非常識がまかり通る。

 ウクライナの視点に戻る。名古屋からウクライナは遠いが。2022年2月にロシア軍がウクライナ国内のナチス勢力を一掃するという名目で侵攻したさいには、21世紀にとんでもない理由を突きつけて侵攻するものだ、と19世紀的視点に驚かされました。

 ロシア系住民保護を名目に侵攻したのですが、ロシア大統領府はロシア系住民の定義をロシア語話者と定義しましたので、それじゃあ京都外語でロシア語専攻の子もロシア人なのか、と耳を疑ったものの、ロシアの定義ではそうなってしまうらしい。

 侵攻する側の言い分なんてものはまじめに受け止めるよりも、まず、相手に侵攻させない選択肢を防衛力により突きつけなければ、結果的に住民は浄化され文化財は破壊されるのだ、と思った。日本の相手は話が通じるアメリカだったのが僥倖なのか、と思わせるのだ。

 戦うしかないのだよなあ。日本の順番がいつなのかはまだ余地があるのですが、ロシアの視点からウクライナをみれば、ウクライナという国家は元々無く、ロシアのウクライナ地方を敵対勢力のウクライナ人が不法占拠している、という構図で理解している。

 文化財というか、住んでいる住民の価値観を守るためには戦い他ないという、第二次世界大戦後日本がみようとしてこなかった現実をこうも毎日報道で突きつけられますと。占領されても同化政策を受け入れねば、ブチャのように住民が浄化されてしまうから。

 戦災と城郭、廃藩置県が行われた時点で城郭は破却されていますので、この時点で役割は終えていたのでしょうが江戸時代の城郭は軍事施設と言うよりは行政施設の意味合いが大きく、実際問題示威的な建物ではあったものの縄張りは意匠的なものとなっている。

 空襲でこれを根本から、いや櫓部分は無事でしたから天守閣を狙い澄ましたように破壊したことは逆に誤爆であったことを指し示すのですが、返す返すも残念なことです。かりに櫓だけ破壊されていれば、天守が残っていたら、いま考えるのは空しいことですが。

 文化財の破壊、降参とか非武装平和都市宣言をおこなえば、という甘えがありましたが、空襲に対して無防備都市宣言をおこなって免れた事例はあったでしょうか、いや戦後日本の都市は無防備都市宣言をした都市を含め空襲されていない、と反論はあるでしょうが。

 地上戦であれば、占領されるまえに撤退し、市街地を巻き込まないように占領する側に無傷でわたす、という事例は幾つもあります、パリもパレルモも、ローマもこれにあたるところでしょうか。しかしこれは後退する側が追撃を受けないという互恵に基づく。

 無防備都市宣言は防備していた側が撤収する際に行い、そして占領する側も占領の際にインフラを活用する視座から受け入れるものですので、特に航空攻撃に際しては、第二次世界大戦の頃は都市部への無差別爆撃が国際法上禁止されていないことから、行われた。

 文化の破壊は、軍事行動の目的は一つの地いきの併合、攻める側に言わせれば取り返すだけという事になるのでしょうし、歴史的に我が領土とか、我が国に軍事脅威を与えたので併合する、というような主張の前では、相手のアイディンティティを破壊する意味となる。

 お前たちは最初からいなかったのだよ、というような行動、若しくは、あなたたちが消えれば平和になる、という言い分からの平和も求める行為を執られた場合は、まだ人類は武器をとって戦うという選択肢以外見つけていない事を、しょうしょう寂しく思うのですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都発幕間旅情】名古屋城(愛知県名古屋市),戦後間もなく80年というなか名古屋城は未だ戦災復興の最中

2023-09-06 20:00:16 | 旅行記
■復興なった本丸御殿
 本丸御殿を巡るのも本当に久しぶりでしたね。二条城と名古屋城以外の本丸御殿は明治維新後破壊されてしまい名古屋城本丸御殿は空襲で全焼した後に平成末期に漸く復興した。

 名古屋城、戦災に巻き込まれた天守閣ということで記憶する城郭です。ここには名古屋大空襲の日まで国宝天守閣、江戸時代に造営されたままの城郭が残っていましたが、名古屋駅を狙った空襲、焼夷弾が大きくはずれ天守閣に命中、紅蓮の炎に消えました。

 名古屋城は戦災復興の最中です。天守閣は復元天守というよりも戦災からの復興天守なのですから、それそのものに意味があると思うのですが、その復興計画は幅広い。天守閣の木造復元の整備、これとともに櫓の修復が計画されている。東北隅櫓の復元整備へ。

 城郭再整備は本丸表一之門と本丸東一之門と本丸東ニ之門と二之丸の門という、要するにかつての城郭の中々天守閣にたどり着けないという本丸縄張りの再建が続いて行われる。そして本丸に加えて、二の丸についても大規模な修理が行われる計画があります。

 二の丸大手ニの門渡櫓の復元、馬出の復元、本丸多聞櫓の復元、二之丸庭園の保存整備と二之丸御殿及び向屋敷の復元整備、大手門と東門、埋御門と二之丸の櫓の復元整備、展示収蔵施設の整備、御園御門に清水御門及び東御門の復元整備、石垣補修、などなど。

 東海道線というわかりやすい目標がありながら、名古屋城に命中するとは大きく外したものだなあと下手加減を恨むものの、はずれていれば姫路城のような勇壮な天守閣があったのだ、と考えると空しくなるところで、しかし歴とした文化財が一つ、失われた。

 2020年代の視座からは、毎日のようにウクライナの文化財、古い教会や19世紀以前の歴史的建造物が、ロシア軍巡航ミサイルや自爆型無人機、弾道ミサイルにより攻撃されているという報道に接する。爆撃機による絨毯爆撃こそ行われていないけれども。

 絨毯爆撃がウクライナにおいて行われないのは、ウクライナ軍の防空砲兵部隊がS-300にペトリオットと広域防空ミサイルにより全力で爆撃機を抑えているためで、決して数の多くないTu-95やTu-160といった爆撃機をロシア軍が投入を躊躇しているためといえる。

 文化財。戦争には関係ない、とおもえるところですが、第二次大戦中は絨毯爆撃の域内にあったため、という一種巻き込まれるかたちで破壊されている一方、現代は、命中精度がゴミといわれるものでも、誘導弾であるのだからある程度の命中精度は有しています。

 平和、というものを考えると、文化財は狙われうるのだよなあ、と嘆息してしまう。ウクライナで教会や歴史的建造物が狙われるのは、単に狙う側の無能なのかもしれないが、アイディンティティを破壊することで戦争継続の意志を挫こうとしているのではないか。

 戦争って、どうやったら防げるのだろう。こういう素朴な疑問ほど答えるのは難しいのです。重力ってなぜあるのだろうとか、宇宙ってどうやってではなく何故できたのだろう、という視座とおなじように、素朴な疑問ほど実は回答を見いだしにくい。

 攻められる側にも問題があるのだ、という視点は昔日本の非武装平和を説く方かたから主張された、大学生で別にこの人は子供ではないのだけれども、なるほどでは日中戦争は攻められた中国にも責任があったんですね、と返すと、なにもいえなくなる。

 一回ならば誤爆かもしれない、ミサイル防衛においてこちらは子供ではなく国会議員の方が主張した、しかも国会の場で、だ。そんな視座がありましたが、それならば真珠湾攻撃も一回だけなので誤爆だと受け入れなかった側の責任を問えるのか、と問いたくなります。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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