■C-130H輸送機
C-130H輸送機、この航空機は小牧基地の看板航空機と云って過言ではありません。

C-130H輸送機、ロッキード社が開発した戦術輸送機の世界標準機として世界に知られる機体ですが、四発輸送機は遠目には非常に大型の機体と云え、機体規模はボーイング737と同程度なのですが、四発機の迫力と輸送機故の太い胴体、コックピットの空輸任務を想定した配置などが機体をその存在感という意味で大きくみせているのかもしれません、アメリカのロッキード社製、頑丈な航空機です。

小牧基地といえばC-130,というのは名古屋空港との関係が大きいといえるかもしれません、今日、名古屋や東海地方の空の玄関口と云えば愛知県常滑市、知多半島から伊勢湾に突き出た海上空港である中部国際空港ですが2004年の中部国際空港開港までは、小牧基地に隣接する名古屋空港が空の玄関口でした。新幹線のぞみ号増発により一時間半で結ばれ路線はなくなりましたが、かつては名古屋羽田路線もあったという。

名古屋空港から全国へ向け離陸へ、若しくは全国から着陸しターミナルビルへ向けて誘導路や滑走路を進む旅客機の窓からは並ぶ最大十数機のC-130Hが存在感を放っていたという。そして旅客機に搭乗した乗客以外にも見送りの人々、名古屋の見送り文化は凄いといいますが、方々は展望デッキから旅客機を見送り、その背景にC-130が並んでいた訳です。

名古屋空港展望デッキ、零戦まで置かれていたという見送りの展望台からはボーイング747の国際線旅客機やDC-10にボーイング737とボーイング767の日航全日空に日本エアシステムから短距離旅客機中日本航空まで飛び回るという大時代、美しい旅客機の離着陸写真の背景に自衛隊のC-130が並んでいる写真が航空愛好家に数億枚単位で撮られているのですから、小牧基地の看板航空機、となったわけです。

今日では県営名古屋空港となり、国際線は全て中部国際空港に移管されているのですが、小牧基地航空祭では名古屋市内から地下鉄を名鉄線に乗り換えるだけで小牧基地へすぐに足を運ぶことができるもので、便利な印象があります。ただ、小牧基地と名古屋空港は滑走路の反対側にありまして、名古屋空港、というと名古屋駅から高速バス、名古屋駅からの所要時間は特急での中部国際空港と同程度で、又は犬山線から路線バス、少々遠い印象があるのですよね。

1984年第1輸送航空隊はC-130H輸送機を運用する部隊として改編されます。これは1972年に沖縄県がアメリカから日本本土へ復帰し、C-1輸送機の航続距離では不十分となったことを受け航続距離を大きくした輸送機が必要となった為です。C-1は8tまで搭載可能ですし、短距離離着陸能力がC-46は勿論当時世界で運用されていたC-130と比較しても非常に高い。

新幹線の様にC-1輸送機は巡航速度が大きく迅速な展開、一日での輸送飛行回数を多くとれるというものです。しかし、沖縄返還で航続距離の不足が問題視され、沖縄返還がもう少し早く目処が立っていたならば、C-1輸送機はもう少し大きな航続距離を付与されたとのことですが、C-1輸送機の本格設計が開始されたのは1965年、要求仕様は1964年に画定しています。

沖縄は勿論小笠原諸島が返還されたのも1968年、これを見込めというのは少々無理があったといえるでしょう。C-130輸送機は航空自衛隊輸送機としては導入当時充分な輸送能力を持っており、そして第1輸送航空隊も1989年に輸送航空団から航空支援集団隷下へ改編を受け、上級司令部が改編されました。輸送航空団という呼称は輸送機がまだ美保基地にしか配備されていなかった時代の名残り。

輸送航空団は元々隷下に第1輸送航空隊、第2輸送航空隊、第3輸送航空隊、と三個輸送航空隊を置いていたのですが、航空救難団と輸送航空団に保安管制気象団を統合し航空支援集団を新編した訳です。司令部は府中基地に置かれ、航空保安管制群、飛行管理隊、飛行情報隊、航空気象群、飛行点検隊、航空機動衛生隊第1輸送航空隊、第2輸送航空隊、第3輸送航空隊 、特別航空輸送隊等を隷下にもつ。

C-130輸送機は、貨物量を調整すれば海外派遣へも十分対応できる能力を持ちます、これは1992年に自衛隊が国際平和協力法に基づく国際連合平和維持活動へ参加する時代となり、重要性が認識されることとなりました。最大で20tまでの装備を搭載可能で、世界の空輸可能な装備品は基本的にC-130に搭載できるか出来ないか、を指針としている一種の基準航空機です。

C-130、海外派遣へ対応できるとしましたが、1992年の自衛隊カンボジア派遣は、当時自衛隊を海外派遣する事は国連の平和維持活動であっても侵略行為に当たるという今日的に意味不明な理屈がまかり通る時代で、数百人の人道支援部隊を派遣する事でも太平洋戦争のインドシナ進駐に重なるという言いがかり的な反対運動に曝されました、初のPKO海外派遣ということですべてが手さぐりであったようです。

しかし、内戦がようやく終結したカンボジアを最初から立て直すとの国連の大きな試みへの参画と自衛隊の貢献は大きく評価されています。国際貢献への日本の参画、自衛隊の海外での貢献は一国平和主義の自国さえ平和であれば世界中紛争地となっても、紛争地を含め家電や自動車を輸出してのんびり過ごせばいいとの視点、と海外からは一般論として見られていました。

カンボジアへのPKO派遣は、文民警察官が戦闘により殉職する痛ましい事件も発生しましたが、自衛隊の支援活動を通じて、日本も世界平和の維持と創造へ貢献する姿勢への転換が、日本も国際社会の一員として第二次世界大戦から漸く復帰できたとの意味にもあたり、今日では自衛隊の主要任務となり、その活動は南スーダンをはじめ世界中を舞台に展開し、今に至る。

この小牧基地へは輸送機部隊として第401飛行隊と第404飛行隊が展開しており、第401飛行隊はC-130H輸送機とKC-130H空中給油輸送機を運用しており、第404飛行隊は KC-767J空中給油輸送機を運用しています。第404飛行隊は航空自衛隊初の空中給油機部隊として2008年に創設されました。ボーイング767を原型機としており、航続距離も非常に大きい事から自衛隊の空輸能力も新時代となった、という印象で迎えたものです。
北大路機関:はるな くらま
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
C-130H輸送機、この航空機は小牧基地の看板航空機と云って過言ではありません。

C-130H輸送機、ロッキード社が開発した戦術輸送機の世界標準機として世界に知られる機体ですが、四発輸送機は遠目には非常に大型の機体と云え、機体規模はボーイング737と同程度なのですが、四発機の迫力と輸送機故の太い胴体、コックピットの空輸任務を想定した配置などが機体をその存在感という意味で大きくみせているのかもしれません、アメリカのロッキード社製、頑丈な航空機です。

小牧基地といえばC-130,というのは名古屋空港との関係が大きいといえるかもしれません、今日、名古屋や東海地方の空の玄関口と云えば愛知県常滑市、知多半島から伊勢湾に突き出た海上空港である中部国際空港ですが2004年の中部国際空港開港までは、小牧基地に隣接する名古屋空港が空の玄関口でした。新幹線のぞみ号増発により一時間半で結ばれ路線はなくなりましたが、かつては名古屋羽田路線もあったという。

名古屋空港から全国へ向け離陸へ、若しくは全国から着陸しターミナルビルへ向けて誘導路や滑走路を進む旅客機の窓からは並ぶ最大十数機のC-130Hが存在感を放っていたという。そして旅客機に搭乗した乗客以外にも見送りの人々、名古屋の見送り文化は凄いといいますが、方々は展望デッキから旅客機を見送り、その背景にC-130が並んでいた訳です。

名古屋空港展望デッキ、零戦まで置かれていたという見送りの展望台からはボーイング747の国際線旅客機やDC-10にボーイング737とボーイング767の日航全日空に日本エアシステムから短距離旅客機中日本航空まで飛び回るという大時代、美しい旅客機の離着陸写真の背景に自衛隊のC-130が並んでいる写真が航空愛好家に数億枚単位で撮られているのですから、小牧基地の看板航空機、となったわけです。

今日では県営名古屋空港となり、国際線は全て中部国際空港に移管されているのですが、小牧基地航空祭では名古屋市内から地下鉄を名鉄線に乗り換えるだけで小牧基地へすぐに足を運ぶことができるもので、便利な印象があります。ただ、小牧基地と名古屋空港は滑走路の反対側にありまして、名古屋空港、というと名古屋駅から高速バス、名古屋駅からの所要時間は特急での中部国際空港と同程度で、又は犬山線から路線バス、少々遠い印象があるのですよね。

1984年第1輸送航空隊はC-130H輸送機を運用する部隊として改編されます。これは1972年に沖縄県がアメリカから日本本土へ復帰し、C-1輸送機の航続距離では不十分となったことを受け航続距離を大きくした輸送機が必要となった為です。C-1は8tまで搭載可能ですし、短距離離着陸能力がC-46は勿論当時世界で運用されていたC-130と比較しても非常に高い。

新幹線の様にC-1輸送機は巡航速度が大きく迅速な展開、一日での輸送飛行回数を多くとれるというものです。しかし、沖縄返還で航続距離の不足が問題視され、沖縄返還がもう少し早く目処が立っていたならば、C-1輸送機はもう少し大きな航続距離を付与されたとのことですが、C-1輸送機の本格設計が開始されたのは1965年、要求仕様は1964年に画定しています。

沖縄は勿論小笠原諸島が返還されたのも1968年、これを見込めというのは少々無理があったといえるでしょう。C-130輸送機は航空自衛隊輸送機としては導入当時充分な輸送能力を持っており、そして第1輸送航空隊も1989年に輸送航空団から航空支援集団隷下へ改編を受け、上級司令部が改編されました。輸送航空団という呼称は輸送機がまだ美保基地にしか配備されていなかった時代の名残り。

輸送航空団は元々隷下に第1輸送航空隊、第2輸送航空隊、第3輸送航空隊、と三個輸送航空隊を置いていたのですが、航空救難団と輸送航空団に保安管制気象団を統合し航空支援集団を新編した訳です。司令部は府中基地に置かれ、航空保安管制群、飛行管理隊、飛行情報隊、航空気象群、飛行点検隊、航空機動衛生隊第1輸送航空隊、第2輸送航空隊、第3輸送航空隊 、特別航空輸送隊等を隷下にもつ。

C-130輸送機は、貨物量を調整すれば海外派遣へも十分対応できる能力を持ちます、これは1992年に自衛隊が国際平和協力法に基づく国際連合平和維持活動へ参加する時代となり、重要性が認識されることとなりました。最大で20tまでの装備を搭載可能で、世界の空輸可能な装備品は基本的にC-130に搭載できるか出来ないか、を指針としている一種の基準航空機です。

C-130、海外派遣へ対応できるとしましたが、1992年の自衛隊カンボジア派遣は、当時自衛隊を海外派遣する事は国連の平和維持活動であっても侵略行為に当たるという今日的に意味不明な理屈がまかり通る時代で、数百人の人道支援部隊を派遣する事でも太平洋戦争のインドシナ進駐に重なるという言いがかり的な反対運動に曝されました、初のPKO海外派遣ということですべてが手さぐりであったようです。

しかし、内戦がようやく終結したカンボジアを最初から立て直すとの国連の大きな試みへの参画と自衛隊の貢献は大きく評価されています。国際貢献への日本の参画、自衛隊の海外での貢献は一国平和主義の自国さえ平和であれば世界中紛争地となっても、紛争地を含め家電や自動車を輸出してのんびり過ごせばいいとの視点、と海外からは一般論として見られていました。

カンボジアへのPKO派遣は、文民警察官が戦闘により殉職する痛ましい事件も発生しましたが、自衛隊の支援活動を通じて、日本も世界平和の維持と創造へ貢献する姿勢への転換が、日本も国際社会の一員として第二次世界大戦から漸く復帰できたとの意味にもあたり、今日では自衛隊の主要任務となり、その活動は南スーダンをはじめ世界中を舞台に展開し、今に至る。

この小牧基地へは輸送機部隊として第401飛行隊と第404飛行隊が展開しており、第401飛行隊はC-130H輸送機とKC-130H空中給油輸送機を運用しており、第404飛行隊は KC-767J空中給油輸送機を運用しています。第404飛行隊は航空自衛隊初の空中給油機部隊として2008年に創設されました。ボーイング767を原型機としており、航続距離も非常に大きい事から自衛隊の空輸能力も新時代となった、という印象で迎えたものです。
北大路機関:はるな くらま
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