■紅葉の玄宮園を探訪
寒さ一際染み入る師走ではありますが紅葉はまだまだ鮮やかな近江の彦根城を巡りました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/26/09bf1778f2747f19b3055fe3aaf8e290.jpg)
彦根城、日本には様々な城郭があるのですけれども、結局ここは好きなのだろうなあと考える程に探訪しています。天守閣が好きと云う訳ではなく、城郭とともに湖畔に広がる城下町と街の気風が好きなのかもしれません。そしてちょっと遠いのが旅気分を感じます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/69/44c745612adc46e551f22ad2bb9ab1c8.jpg)
紅葉の玄宮園、天守閣と紅葉という構図を考えていたのですが、大坂城は桜の名所ということもあり一種早々と葉を落としている印象がありますし、福知山城は角度的に大名庭園が無い、姫路城は混雑しているだろうし岡山城の有名なかの後楽園は行きたいが少し遠い。
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天守閣と紅葉を構図に収めるならば二条城と水口城は天守閣についてはご承知の通りですし、天守閣が美しい丸岡城は師走の季節には少し寒そう、丸亀城は暖かそうだけれども距離がありますし、ここはひとつ彦根城の玄宮園に焦点を当ててみよう、こう考えたわけで。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/62/7b8ac819983edcaeaaa69ff6d2c14811.jpg)
逆光は紅葉を豊かにする、これは逆光ですと本来は青空は白黒に陰影のみを強調し鮮やかな色も白けるという写真としては悪手と成り得るものなのですが、例えば水面の乱反射や夕陽などは逆光でなければ映えないもので、そして紅葉も逆光が映えさせる情景だと思う。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/30/371ef0ca396154d96ecd5eaaa2989228.jpg)
井伊直継が造営した連郭式平山城、徳川四天王こと猛将として徳川家康を支えた井伊直政が関ヶ原の戦いにて重傷を負い、そのまま関ヶ原に近い彦根を中心とした近江一国を所領とし防衛するべく造営された城郭で、井伊直政の子井伊直継が居城として造営した城郭だ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/46/89535b4c66c647a73eb5e8f16159697e.jpg)
井伊直政は戦傷癒えず早世してしまいますか、その遺臣である家老木俣守勝が将軍徳川家康と談判した上で造営された城郭、複合式望楼型三重三階地下一階の天守閣は慶長9年こと西暦1604年築の時代のまま、威容を誇っています。登っても美しいが、見上げても。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/0a/4ab1a2df814f3d2e33d41344420d9f1d.jpg)
天下普請という、この城郭の造営には幕府が直接関与しました、その築城には公儀御奉行3名が取り仕切り、そして尾張藩と越前藩を筆頭に7か国12大名が、近江國の大津城や佐和山城などを破却し、天守閣等城郭資材を流用するかたちにて造営した城郭となっています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/ed/3062ca4a6256174b3eae8510066c2b7b.jpg)
玄宮園、ここはその大名庭園です。ただ流石に幕府の天下普請で造営された絢爛豪華な藩主の遊興施設、という訳ではなく天下普請から半世紀と少しを経ましたころ、江戸時代初期は延宝6年、西暦1678年に彦根藩4代藩主井伊直興が造営した庭園となっています。
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彦根城の歴史を見ますと、西国大名への抑えの要衝という街道沿いの城塞として造営されたのですが、落ち着いてその歴史を懐古しますと江戸時代は本当に安定期であり、もっとも政治体制は今風に言えば世襲制軍事独裁政権ではあったのですが、政情は安定していた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/46/89535b4c66c647a73eb5e8f16159697e.jpg)
木俣守勝を輩出した木俣家は江戸時代一貫して彦根藩の要職として1万石という、いわば大名格の家禄を俸給として得ていましたが結局自らの陣屋を持つ事は無く、職務の大半を西之丸三重櫓に執務の場を定めて城に詰めていたという、実質藩庁となっていたのですね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/10/baea81171b7c8260a9f210ab4026fb0a.jpg)
大名庭園というものは、一部ではこれは個人の所管としてですが築城や城郭の幕府許可なき修繕さえもを禁じられた大名たちの一種築城といいますか、建設力と築城工兵能力の捌け口のような構図での造営という印象があるのですが、天下普請たる彦根城は別の印象が。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/f4/7750cdc92e99d4b078996eef63b737cf.jpg)
参勤交代の際に剥き出しの防衛拠点の前を通る事はなにか敵意のようなものを剥き出す匕首のような印象を与えるものですが、安定期の江戸時代に西国大名へ安定期の気風を示す事による、若干間接的過ぎるきらいはありますが、緊張緩和を示した印象を受けるのです。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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寒さ一際染み入る師走ではありますが紅葉はまだまだ鮮やかな近江の彦根城を巡りました。
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彦根城、日本には様々な城郭があるのですけれども、結局ここは好きなのだろうなあと考える程に探訪しています。天守閣が好きと云う訳ではなく、城郭とともに湖畔に広がる城下町と街の気風が好きなのかもしれません。そしてちょっと遠いのが旅気分を感じます。
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紅葉の玄宮園、天守閣と紅葉という構図を考えていたのですが、大坂城は桜の名所ということもあり一種早々と葉を落としている印象がありますし、福知山城は角度的に大名庭園が無い、姫路城は混雑しているだろうし岡山城の有名なかの後楽園は行きたいが少し遠い。
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天守閣と紅葉を構図に収めるならば二条城と水口城は天守閣についてはご承知の通りですし、天守閣が美しい丸岡城は師走の季節には少し寒そう、丸亀城は暖かそうだけれども距離がありますし、ここはひとつ彦根城の玄宮園に焦点を当ててみよう、こう考えたわけで。
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逆光は紅葉を豊かにする、これは逆光ですと本来は青空は白黒に陰影のみを強調し鮮やかな色も白けるという写真としては悪手と成り得るものなのですが、例えば水面の乱反射や夕陽などは逆光でなければ映えないもので、そして紅葉も逆光が映えさせる情景だと思う。
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井伊直継が造営した連郭式平山城、徳川四天王こと猛将として徳川家康を支えた井伊直政が関ヶ原の戦いにて重傷を負い、そのまま関ヶ原に近い彦根を中心とした近江一国を所領とし防衛するべく造営された城郭で、井伊直政の子井伊直継が居城として造営した城郭だ。
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井伊直政は戦傷癒えず早世してしまいますか、その遺臣である家老木俣守勝が将軍徳川家康と談判した上で造営された城郭、複合式望楼型三重三階地下一階の天守閣は慶長9年こと西暦1604年築の時代のまま、威容を誇っています。登っても美しいが、見上げても。
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天下普請という、この城郭の造営には幕府が直接関与しました、その築城には公儀御奉行3名が取り仕切り、そして尾張藩と越前藩を筆頭に7か国12大名が、近江國の大津城や佐和山城などを破却し、天守閣等城郭資材を流用するかたちにて造営した城郭となっています。
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玄宮園、ここはその大名庭園です。ただ流石に幕府の天下普請で造営された絢爛豪華な藩主の遊興施設、という訳ではなく天下普請から半世紀と少しを経ましたころ、江戸時代初期は延宝6年、西暦1678年に彦根藩4代藩主井伊直興が造営した庭園となっています。
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彦根城の歴史を見ますと、西国大名への抑えの要衝という街道沿いの城塞として造営されたのですが、落ち着いてその歴史を懐古しますと江戸時代は本当に安定期であり、もっとも政治体制は今風に言えば世襲制軍事独裁政権ではあったのですが、政情は安定していた。
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木俣守勝を輩出した木俣家は江戸時代一貫して彦根藩の要職として1万石という、いわば大名格の家禄を俸給として得ていましたが結局自らの陣屋を持つ事は無く、職務の大半を西之丸三重櫓に執務の場を定めて城に詰めていたという、実質藩庁となっていたのですね。
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大名庭園というものは、一部ではこれは個人の所管としてですが築城や城郭の幕府許可なき修繕さえもを禁じられた大名たちの一種築城といいますか、建設力と築城工兵能力の捌け口のような構図での造営という印象があるのですが、天下普請たる彦根城は別の印象が。
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参勤交代の際に剥き出しの防衛拠点の前を通る事はなにか敵意のようなものを剥き出す匕首のような印象を与えるものですが、安定期の江戸時代に西国大名へ安定期の気風を示す事による、若干間接的過ぎるきらいはありますが、緊張緩和を示した印象を受けるのです。
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