■今敢えて問う"専守防衛"
専守防衛を逸脱とか専守防衛を超える、この論調は日本の防衛政策で頻出する表現ですが、隣国と以外戦わないし装備する武器は全て隣国に向く政策は果たして平和的なのでしょうか。

専守防衛というもののあり方を、今まで日本は専守防衛が平和憲法と合致した防衛政策であるとともに、専守防衛は国土が敵に蹂躙されて始めて発動されるものであるから、沖縄戦やサイパン戦に樺太の戦いのように非戦闘員として同胞が確実に巻き込まれるものの、周辺国を刺激しないために唯一平和的な受容れるべき犠牲と許容を考えてきたものでした。

専守防衛、しかし、国民が戦闘に巻き込まれることは良しとしましょう、という論理の始発点からなにか間違っているような気がするのですが、結局一定以上は周辺国と友好関係を構築できないという点で、実はそろそろ見直さなければならない段階にきているのではないでしょうか、専守防衛、隣国と以外は戦争しない、来たらやる、という前提でもある。

反撃能力という単語、そもそも迎撃も反撃も防衛行動で線引きする必要はあるのか、との疑問符もつけたくなるのですが、日本が専守防衛ということは中国か北朝鮮かロシアと以外戦争しない、という前提であり、しかも政府が自衛隊へ装備させる射程の大きなミサイルは、軍事目標に対してのみ使用するものの、その目標は周辺国そのものという実情です。

防衛協力と多国間演習を十分おこなえる、つまり集団的自衛権の問題をもう少し先、日本は政界の平和のステイクホルダーなのだから、長射程ミサイルは日本国内だけで使うものではなく、必要ならば国連安保理の正当性などどともに世界の現状を維持するために投入しうる、転換したほうが、このミサイルは中国攻撃専用、とするより整合性はとれないか。

専守防衛は、攻めてきた相手には確実に思い知らせるという選択肢です。他方で憲法では防衛力としての陸海空軍を禁止するという、いわば国際法上の無主地のような扱いを公言して、平和憲法という名の下で周辺国に日本への軍事行動を誘うが如きの明文を示し、その憲法を転換する手間と現実の間隙を担うように防衛力を整備している、現状がある。

国際公共財という視点ではありませんが、もっと自衛隊をグローバルな視点で運用することにより、例えば専守防衛を掲げる限り、日本は中国と軍事演習を踏み込んで行えません、島嶼部防衛演習を日中で実施した場合、仮設敵はどこを想定するのかで確実に摩擦を生じさせる、しかし、国際平和維持活動での共同警備訓練ならば問題は生じないよう思うのだ。

専守防衛ではなく、思い切って世界の和の中に入ることこそが、実は平和を維持するための一つの方法論ではないか、こう考えるのです。改めてこの視点を提示する背景には、日本の平和主義は世界で評価されている、と進歩的な方に指摘されることは過去数多あるのですが、どのように評価されているかのいわば事業評価を全くみることがないためです。

武器を輸出しないことは日本の平和主義の、こう言われるところですが、結果は装備品の量産効果が低下し防衛費を圧迫するとともに、実際の運用に試されることがないために改良の頻度がどうしても低くなる、そして運用費用は予備部品の問題から高くなり防衛費を押さえる限りでは稼働率が現実の防衛力を簒奪してゆく、世界での評価と見合わない。

平和主義の事業評価という視点で考える必要があるのかもしれない。平和主義を評価しようにも居ないだけの日本を評価することはできず、なにをやっているのだろうと言う不信感と、国際平和を維持する努力を行わず平和という配当だけ不当に享受しているとの疑念が生じているだけではないかと危惧するのですが、この点の議論は全くありません。

専守防衛を捨てれば戦争になる、こういう意見も聞くには聞くのですが、まさかいま自衛隊が上海に敵前上陸できるほど中国軍は弱体ではありません、第二次ロシア革命が起こったとしても自衛隊でシベリア出兵を行うという選択肢は検討さえされないでしょう。もちろん真珠湾を日本の空母がおそうことはなく、もはやSFか異次元、歴史映画の世界です。

非武装論は如何か、こう反論があるのかもしれません。非武装であればせんそうはおきないだろうということです、しかし、非武装でも攻められるときは攻められる、重要なのは地政学的要件や政治的にその地域を占領するか、その国を勢力圏内に収める必要性が有れば、始まる。抑止力というものは暴力的な発動に対抗手段で歯止めを掛けているという状況です。

非武装でも侵攻された例は多いといいますか、非武装ですと第三者に確保される前に確保しようという、逆に戦争を誘発する結果となる。その地域に傀儡政権が撃ちたてられ、民主主義が権威主義に切り替われば、最早刻印の価値観は占領者が画定するという状況になるだけです。即ち、専守防衛を国民の手で選べる状況こそが民主主義の現状なのですね。

世界の一員として摩擦を起こさず生きてゆくにはどうするべきなのか、こうした視点が必要だとおもいます。そして世界では専制主義の台頭がありますが、例えば戦わず降伏すれば戦争せず済むという論理は、ロシア軍が占領地において徴兵をおおこなっている実状を見れば、日本人として戦争にいかずとも外国軍に入ることを強制されるという現実がある。

平和を傍観するという、これが日本の平和主義として定着しているものなのですが、平和を共有するべく平和を維持する努力に参画する、こうした視点に切り替えなければ、安易な言葉遊びともいえる専守防衛に固執することは、逆に周辺国との摩擦を増やす危惧があります。ただ、これをどうするかを決めるのも国民の責務、それが国民主権というものだ。

教条的平和主義、専守防衛が結果的に戦争に直通していることを知って傍観するという選択肢を日本国民が主権者として選ぶならば、これは致し方ないのですが、"そのとき"まで情勢悪化を放置して、取り返しの付かないところで現実に直面した際、こんなはずではなかった、と後悔することだけは回避しなければなりません、平和は単純ではないのです。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
専守防衛を逸脱とか専守防衛を超える、この論調は日本の防衛政策で頻出する表現ですが、隣国と以外戦わないし装備する武器は全て隣国に向く政策は果たして平和的なのでしょうか。

専守防衛というもののあり方を、今まで日本は専守防衛が平和憲法と合致した防衛政策であるとともに、専守防衛は国土が敵に蹂躙されて始めて発動されるものであるから、沖縄戦やサイパン戦に樺太の戦いのように非戦闘員として同胞が確実に巻き込まれるものの、周辺国を刺激しないために唯一平和的な受容れるべき犠牲と許容を考えてきたものでした。

専守防衛、しかし、国民が戦闘に巻き込まれることは良しとしましょう、という論理の始発点からなにか間違っているような気がするのですが、結局一定以上は周辺国と友好関係を構築できないという点で、実はそろそろ見直さなければならない段階にきているのではないでしょうか、専守防衛、隣国と以外は戦争しない、来たらやる、という前提でもある。

反撃能力という単語、そもそも迎撃も反撃も防衛行動で線引きする必要はあるのか、との疑問符もつけたくなるのですが、日本が専守防衛ということは中国か北朝鮮かロシアと以外戦争しない、という前提であり、しかも政府が自衛隊へ装備させる射程の大きなミサイルは、軍事目標に対してのみ使用するものの、その目標は周辺国そのものという実情です。

防衛協力と多国間演習を十分おこなえる、つまり集団的自衛権の問題をもう少し先、日本は政界の平和のステイクホルダーなのだから、長射程ミサイルは日本国内だけで使うものではなく、必要ならば国連安保理の正当性などどともに世界の現状を維持するために投入しうる、転換したほうが、このミサイルは中国攻撃専用、とするより整合性はとれないか。

専守防衛は、攻めてきた相手には確実に思い知らせるという選択肢です。他方で憲法では防衛力としての陸海空軍を禁止するという、いわば国際法上の無主地のような扱いを公言して、平和憲法という名の下で周辺国に日本への軍事行動を誘うが如きの明文を示し、その憲法を転換する手間と現実の間隙を担うように防衛力を整備している、現状がある。

国際公共財という視点ではありませんが、もっと自衛隊をグローバルな視点で運用することにより、例えば専守防衛を掲げる限り、日本は中国と軍事演習を踏み込んで行えません、島嶼部防衛演習を日中で実施した場合、仮設敵はどこを想定するのかで確実に摩擦を生じさせる、しかし、国際平和維持活動での共同警備訓練ならば問題は生じないよう思うのだ。

専守防衛ではなく、思い切って世界の和の中に入ることこそが、実は平和を維持するための一つの方法論ではないか、こう考えるのです。改めてこの視点を提示する背景には、日本の平和主義は世界で評価されている、と進歩的な方に指摘されることは過去数多あるのですが、どのように評価されているかのいわば事業評価を全くみることがないためです。

武器を輸出しないことは日本の平和主義の、こう言われるところですが、結果は装備品の量産効果が低下し防衛費を圧迫するとともに、実際の運用に試されることがないために改良の頻度がどうしても低くなる、そして運用費用は予備部品の問題から高くなり防衛費を押さえる限りでは稼働率が現実の防衛力を簒奪してゆく、世界での評価と見合わない。

平和主義の事業評価という視点で考える必要があるのかもしれない。平和主義を評価しようにも居ないだけの日本を評価することはできず、なにをやっているのだろうと言う不信感と、国際平和を維持する努力を行わず平和という配当だけ不当に享受しているとの疑念が生じているだけではないかと危惧するのですが、この点の議論は全くありません。

専守防衛を捨てれば戦争になる、こういう意見も聞くには聞くのですが、まさかいま自衛隊が上海に敵前上陸できるほど中国軍は弱体ではありません、第二次ロシア革命が起こったとしても自衛隊でシベリア出兵を行うという選択肢は検討さえされないでしょう。もちろん真珠湾を日本の空母がおそうことはなく、もはやSFか異次元、歴史映画の世界です。

非武装論は如何か、こう反論があるのかもしれません。非武装であればせんそうはおきないだろうということです、しかし、非武装でも攻められるときは攻められる、重要なのは地政学的要件や政治的にその地域を占領するか、その国を勢力圏内に収める必要性が有れば、始まる。抑止力というものは暴力的な発動に対抗手段で歯止めを掛けているという状況です。

非武装でも侵攻された例は多いといいますか、非武装ですと第三者に確保される前に確保しようという、逆に戦争を誘発する結果となる。その地域に傀儡政権が撃ちたてられ、民主主義が権威主義に切り替われば、最早刻印の価値観は占領者が画定するという状況になるだけです。即ち、専守防衛を国民の手で選べる状況こそが民主主義の現状なのですね。

世界の一員として摩擦を起こさず生きてゆくにはどうするべきなのか、こうした視点が必要だとおもいます。そして世界では専制主義の台頭がありますが、例えば戦わず降伏すれば戦争せず済むという論理は、ロシア軍が占領地において徴兵をおおこなっている実状を見れば、日本人として戦争にいかずとも外国軍に入ることを強制されるという現実がある。

平和を傍観するという、これが日本の平和主義として定着しているものなのですが、平和を共有するべく平和を維持する努力に参画する、こうした視点に切り替えなければ、安易な言葉遊びともいえる専守防衛に固執することは、逆に周辺国との摩擦を増やす危惧があります。ただ、これをどうするかを決めるのも国民の責務、それが国民主権というものだ。

教条的平和主義、専守防衛が結果的に戦争に直通していることを知って傍観するという選択肢を日本国民が主権者として選ぶならば、これは致し方ないのですが、"そのとき"まで情勢悪化を放置して、取り返しの付かないところで現実に直面した際、こんなはずではなかった、と後悔することだけは回避しなければなりません、平和は単純ではないのです。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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