■平家物語から喫茶養生記まで
世界史を知らねば国際というものを理解できませんが教養としての日本の歴史もまた趣き深い。そんな歴史を寺院拝観は深く出会う事が出来る。
最近はコロナ対策という部分が、ゆとりというもの、安寧というもの、こうした部分を覆い隠しているように見えます。こうした中で歴史を顧みますと、こう、御茶でゆったりする事で前途が啓けた事例というものがありますので、なにか化かされたようでおもしろい。
建仁寺は禅寺であると共に美術の寺院であり、そして歴史的建造物の寺院でもあるのです。俵屋宗達の名画風神雷神図を筆頭に、双龍図、勇壮な龍神が天井がとして覆う様な畏敬の迫力は、百聞一見、というべきものなのですが、建物についてもみても実に趣き深い。
平家物語、アニメーションが京都アニメーションの山田尚子監督により描かれ高く評価されていますが、平重盛の館門も当院に移築され現存、楼門の宝陀門は宇多野鳴滝の妙光寺で河原院より大鐘楼も移築など、歴史と共に移築を受け紡がれる程の大きな尊崇を集める。
京都にはなぜここまで禅寺が多いのか、と禅の世界にあこがれを抱いて散策される方の恍惚とした表情で話題を振られると、しかし現実を教えても良いのかな、迷ってしまう事があります。そもそも禅宗は日本に入り始めたのは鎌倉時代ですが、当時最新の宗派でした。
禅寺が日本において勢力を広めてゆきましたのは平安時代にはあり得ない背景があります、勿論巨大な影響力はあったのですが、天台宗の比叡山延暦寺、平安時代には巨大と云うよりも絶対的影響力がありまして、恐らく平安朝の頃に洛中には禅宗は拒絶されたでしょう。
平安朝の頃と鎌倉時代の御世には大きな違いはと云いますと、国家行政の中枢が朝廷と貴族から武家政治の時代へと転換した事に在ります。武家政治といいましても実力が無ければ淘汰されますし、なにより700年も武家政治が続くとは当時考えられていなかった訳で。
武家により保護されたという事は禅宗を広めた大きな背景といえるのですが、この部分は後述するとしまして、武家と禅宗は歴史的な出会いを重ねています。それが一杯のお茶からといいましたらば、多くの方は石田光成と豊臣秀吉を思い浮かべるのかもしれませんが。
人一期を保つには命を守るを賢となす・その一期を保つに源は養生にあり・その養生の術を示すに五臓を安んずべし・これ妙術なり。栄西が記した喫茶養生記に記されています。この栄西という人は日本に初めて中国から最新仏教である禅宗を持ち込んだ僧侶なのだが。
御茶と源頼朝との出会いは、健保年間の西暦1214年2月4日、将軍源頼朝が物凄い二日酔いに苦しんでいまして、余程の深酒を重ねたとみられるのですが、ここに栄西が通りかかりまして、急遽に寺から日本に入ったばかりの茶、茶葉を取り寄せ、良薬と称して勧めた。
平安朝の頃にも日本に茶葉は輸入されていまして、例えば嵯峨天皇は飲茶を親しんだ天皇として知られていますが、栄西は茶葉が高貴な人の特別な飲み物というものではなく中国において万人の嗜みとして普及している様子を見た後での日本にお茶の普及を図ります。
源頼朝、鎌倉幕府開府の初代将軍となりましたが、御茶という文化には接する機会は無く栄西に薦められて口にしますと、しばらくして胃の腑の痛みと頭痛が収まったといい、その際に、茶の徳、その中でも養生の大切さを説いた自らの巻物を栄西は頼朝へ献上した。
吾妻鏡という歴史書にこの顛末が記されています。喫茶養生記、栄西の茶への姿勢は一冊に纏められているのですが、御茶さえ飲めばという安易なものではなく、不快な時は茶とともに心の臓を整えて、これが養生に繋がるとして生活習慣の転換を唱えているのですね。
栄西は源頼朝や北条政子といった時の権力者の帰依を受ける事となるのですが、その先に鎌倉の地で北条政子の援助で正治2年こと1200年に寿福寺を開山します、そして二年後に京の地にて建仁寺を開くのですが、禅宗が大きく影響を及ぼす背景に、御茶が在りました。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
世界史を知らねば国際というものを理解できませんが教養としての日本の歴史もまた趣き深い。そんな歴史を寺院拝観は深く出会う事が出来る。
最近はコロナ対策という部分が、ゆとりというもの、安寧というもの、こうした部分を覆い隠しているように見えます。こうした中で歴史を顧みますと、こう、御茶でゆったりする事で前途が啓けた事例というものがありますので、なにか化かされたようでおもしろい。
建仁寺は禅寺であると共に美術の寺院であり、そして歴史的建造物の寺院でもあるのです。俵屋宗達の名画風神雷神図を筆頭に、双龍図、勇壮な龍神が天井がとして覆う様な畏敬の迫力は、百聞一見、というべきものなのですが、建物についてもみても実に趣き深い。
平家物語、アニメーションが京都アニメーションの山田尚子監督により描かれ高く評価されていますが、平重盛の館門も当院に移築され現存、楼門の宝陀門は宇多野鳴滝の妙光寺で河原院より大鐘楼も移築など、歴史と共に移築を受け紡がれる程の大きな尊崇を集める。
京都にはなぜここまで禅寺が多いのか、と禅の世界にあこがれを抱いて散策される方の恍惚とした表情で話題を振られると、しかし現実を教えても良いのかな、迷ってしまう事があります。そもそも禅宗は日本に入り始めたのは鎌倉時代ですが、当時最新の宗派でした。
禅寺が日本において勢力を広めてゆきましたのは平安時代にはあり得ない背景があります、勿論巨大な影響力はあったのですが、天台宗の比叡山延暦寺、平安時代には巨大と云うよりも絶対的影響力がありまして、恐らく平安朝の頃に洛中には禅宗は拒絶されたでしょう。
平安朝の頃と鎌倉時代の御世には大きな違いはと云いますと、国家行政の中枢が朝廷と貴族から武家政治の時代へと転換した事に在ります。武家政治といいましても実力が無ければ淘汰されますし、なにより700年も武家政治が続くとは当時考えられていなかった訳で。
武家により保護されたという事は禅宗を広めた大きな背景といえるのですが、この部分は後述するとしまして、武家と禅宗は歴史的な出会いを重ねています。それが一杯のお茶からといいましたらば、多くの方は石田光成と豊臣秀吉を思い浮かべるのかもしれませんが。
人一期を保つには命を守るを賢となす・その一期を保つに源は養生にあり・その養生の術を示すに五臓を安んずべし・これ妙術なり。栄西が記した喫茶養生記に記されています。この栄西という人は日本に初めて中国から最新仏教である禅宗を持ち込んだ僧侶なのだが。
御茶と源頼朝との出会いは、健保年間の西暦1214年2月4日、将軍源頼朝が物凄い二日酔いに苦しんでいまして、余程の深酒を重ねたとみられるのですが、ここに栄西が通りかかりまして、急遽に寺から日本に入ったばかりの茶、茶葉を取り寄せ、良薬と称して勧めた。
平安朝の頃にも日本に茶葉は輸入されていまして、例えば嵯峨天皇は飲茶を親しんだ天皇として知られていますが、栄西は茶葉が高貴な人の特別な飲み物というものではなく中国において万人の嗜みとして普及している様子を見た後での日本にお茶の普及を図ります。
源頼朝、鎌倉幕府開府の初代将軍となりましたが、御茶という文化には接する機会は無く栄西に薦められて口にしますと、しばらくして胃の腑の痛みと頭痛が収まったといい、その際に、茶の徳、その中でも養生の大切さを説いた自らの巻物を栄西は頼朝へ献上した。
吾妻鏡という歴史書にこの顛末が記されています。喫茶養生記、栄西の茶への姿勢は一冊に纏められているのですが、御茶さえ飲めばという安易なものではなく、不快な時は茶とともに心の臓を整えて、これが養生に繋がるとして生活習慣の転換を唱えているのですね。
栄西は源頼朝や北条政子といった時の権力者の帰依を受ける事となるのですが、その先に鎌倉の地で北条政子の援助で正治2年こと1200年に寿福寺を開山します、そして二年後に京の地にて建仁寺を開くのですが、禅宗が大きく影響を及ぼす背景に、御茶が在りました。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)