■千百年前の菅原道真公邸宅跡
菅原道真公邸宅跡地は北野天満宮のような洛端ではなく中心部のいい所に住んでいたというお話しです。
菅大臣神社、洛陽天満宮二十五社と菅公聖蹟二十五拝の巡礼地に数えられる神社です。この社殿の由来は、かの菅原道真公邸宅跡地という。社殿は下京区仏光寺通新町西入ルという、いわばもっとも観光客で混雑しそうな京都観光と京都繁華街の中心部に位置します。
四条通から東本願寺の方角へ散策して往きますと至るという立地で、洛中中心の閑静な京長屋の住宅地にふと気づく数多ある鳥居の一つが菅大臣神社という。京都の歴史と共に境内の様相は紆余曲折を経ているのですが、しかし歴史は創建未詳ながら千年に昇るという。
北野天満宮、今出川通り沿いの壮大な神域が菅原道真公所縁社殿と云えば思い出されるものですが、あちらが嵐電沿線であるのに対しこちらは阪急沿線、四条通が近いという。そして詳細は内緒ですが、凄く喜ばれる当方手土産定番その一はこの近くで手に入れている。
菅原道真公邸宅跡というのは、境内に産湯の井戸が現在も残されており、社伝によれば承和年間の845年8月1日に菅原道真公がこの地に生誕した事は確かという。ただ上京区にも菅原是善邸跡産湯の井戸がありまして、此処を巡るのが菅公聖蹟二十五拝だったりする。
怨霊というか後ろめたい方々が不幸に遭った際に思い当たった事から天満宮として祀られました菅原道真公ですが、若いという者は勇敢で幼いとは恐れ知らずというもの、実はこの神域、何も知らない頃には単なる近道と通過したり、自転車のまま直に踏破したり、と。
菅公聖蹟二十五拝として方々に分かれているのは正一位太政大臣となった菅原道真が左遷先で亡くなったのが延喜年間の903年、菅大臣神社は慰霊の意味もあって910年頃までに邸宅跡地へ創建されたと伝わるものの、それから1100年と少し、京都は色々ありました。
入口石鳥居は幾つかあり、その神域は十字の如く不思議な立地という、いわば長屋と町屋に浮かぶ神社という印象です。故に鳥居を潜り、奥へ歩みを進めると共に、ここは参拝が許されている場所なのかとふと考える錯覚に陥るほどの、不思議な神域が奥へ続いている。
正一位太政大臣道真公邸宅は、それは広く跡地全てを神域とするには難しく、鎌倉時代には既に菅大臣神社は南北に分かれていたといい、此処を天神御所と称し北社は紅梅殿社とした。やはり応仁の乱で焼かれ、江戸時代初期に曼殊院宮良恕法親王により再建される。
東風吹かば-匂ひをこせよ-梅の花-主なしとて-春な忘れそ。これは道真公が大宰府左遷に際し、京都を離れる事を惜しみ、梅香に名残りを感じた有名な和歌ですが、北社の紅梅殿社とはこの愛称の由来の和歌であり、また、北野天満宮の梅園もこの和歌に因むともいう。
三間社流造の拝殿、正面桁行の柱間が三間あり柱が四柱となっているこの構造は平安朝末期に神明造から導き出された流造の系譜に在る事が分ります。伝わるところでは天保年間の1835年造営下鴨神社社殿を式年遷宮の際に譲り受け移築されたといい、江戸後期のもの。
幣殿が拝殿と共に広がる八棟造は明治時代の物。ここは阪急烏丸駅と地下鉄烏丸線四条駅から徒歩五分です。この二つは同じ駅というのはさておき、京都名所旧跡と云いますと千客万来百花繚乱全員混乱な印象がありますが北野天満宮とは打って変わって静かな境内だ。
八棟造の社殿と共に、静かな京の名所を紹介したのですが、しかし二十年程前は夕方には子供の活況、灯篭に昇る悪さも含めあったもの、観光客増大と共に神社では子供たちが走り回る風景も思い返すのみ、躾の行き届きもあるのかもしれませんが何か神域と生活の場が離れてしまったようで寂しいですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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菅原道真公邸宅跡地は北野天満宮のような洛端ではなく中心部のいい所に住んでいたというお話しです。
菅大臣神社、洛陽天満宮二十五社と菅公聖蹟二十五拝の巡礼地に数えられる神社です。この社殿の由来は、かの菅原道真公邸宅跡地という。社殿は下京区仏光寺通新町西入ルという、いわばもっとも観光客で混雑しそうな京都観光と京都繁華街の中心部に位置します。
四条通から東本願寺の方角へ散策して往きますと至るという立地で、洛中中心の閑静な京長屋の住宅地にふと気づく数多ある鳥居の一つが菅大臣神社という。京都の歴史と共に境内の様相は紆余曲折を経ているのですが、しかし歴史は創建未詳ながら千年に昇るという。
北野天満宮、今出川通り沿いの壮大な神域が菅原道真公所縁社殿と云えば思い出されるものですが、あちらが嵐電沿線であるのに対しこちらは阪急沿線、四条通が近いという。そして詳細は内緒ですが、凄く喜ばれる当方手土産定番その一はこの近くで手に入れている。
菅原道真公邸宅跡というのは、境内に産湯の井戸が現在も残されており、社伝によれば承和年間の845年8月1日に菅原道真公がこの地に生誕した事は確かという。ただ上京区にも菅原是善邸跡産湯の井戸がありまして、此処を巡るのが菅公聖蹟二十五拝だったりする。
怨霊というか後ろめたい方々が不幸に遭った際に思い当たった事から天満宮として祀られました菅原道真公ですが、若いという者は勇敢で幼いとは恐れ知らずというもの、実はこの神域、何も知らない頃には単なる近道と通過したり、自転車のまま直に踏破したり、と。
菅公聖蹟二十五拝として方々に分かれているのは正一位太政大臣となった菅原道真が左遷先で亡くなったのが延喜年間の903年、菅大臣神社は慰霊の意味もあって910年頃までに邸宅跡地へ創建されたと伝わるものの、それから1100年と少し、京都は色々ありました。
入口石鳥居は幾つかあり、その神域は十字の如く不思議な立地という、いわば長屋と町屋に浮かぶ神社という印象です。故に鳥居を潜り、奥へ歩みを進めると共に、ここは参拝が許されている場所なのかとふと考える錯覚に陥るほどの、不思議な神域が奥へ続いている。
正一位太政大臣道真公邸宅は、それは広く跡地全てを神域とするには難しく、鎌倉時代には既に菅大臣神社は南北に分かれていたといい、此処を天神御所と称し北社は紅梅殿社とした。やはり応仁の乱で焼かれ、江戸時代初期に曼殊院宮良恕法親王により再建される。
東風吹かば-匂ひをこせよ-梅の花-主なしとて-春な忘れそ。これは道真公が大宰府左遷に際し、京都を離れる事を惜しみ、梅香に名残りを感じた有名な和歌ですが、北社の紅梅殿社とはこの愛称の由来の和歌であり、また、北野天満宮の梅園もこの和歌に因むともいう。
三間社流造の拝殿、正面桁行の柱間が三間あり柱が四柱となっているこの構造は平安朝末期に神明造から導き出された流造の系譜に在る事が分ります。伝わるところでは天保年間の1835年造営下鴨神社社殿を式年遷宮の際に譲り受け移築されたといい、江戸後期のもの。
幣殿が拝殿と共に広がる八棟造は明治時代の物。ここは阪急烏丸駅と地下鉄烏丸線四条駅から徒歩五分です。この二つは同じ駅というのはさておき、京都名所旧跡と云いますと千客万来百花繚乱全員混乱な印象がありますが北野天満宮とは打って変わって静かな境内だ。
八棟造の社殿と共に、静かな京の名所を紹介したのですが、しかし二十年程前は夕方には子供の活況、灯篭に昇る悪さも含めあったもの、観光客増大と共に神社では子供たちが走り回る風景も思い返すのみ、躾の行き届きもあるのかもしれませんが何か神域と生活の場が離れてしまったようで寂しいですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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