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【京都幕間旅情】下御霊神社-節分,貞観5年こと西暦863年に御霊信仰とともに造営

2025-02-05 20:00:30 | 写真
■節分
節分ですよ節分だ。

節分という事で、下御霊神社へ参拝してまいりました。今年は節分が日曜日と重なりましたので、ちょっと混雑が凄いぞという話もあり、避けて三日に参拝しましたのですが。ここも御霊信仰とつながる歴史ある神社となっています。

桓武天皇の御世におきまして全国各地で疫病が流行したという、それは御霊の祟りであるとして、清和天皇の時代、貞観5年こと西暦863年、祇園祭の原型となります平安京の神泉苑で御霊会が催されています。神泉苑、二条城の隣に在るところ。

この御霊会が当社および上御霊神社の創祀であるとされています。この下御霊神社はのちのち京都御所の産土神として崇敬されることになりまして、今日に至ります。一日を経た節分神事の印象はまさに祭りの後という感じではあるのですけれども。

中京区寺町通丸太町下る下御霊前町、下御霊神社はこの寺町通に位置しているのですが、もともとは愛宕郡出雲郷の出雲路にある下出雲寺御霊堂に祀られていたといいます。この時代、北には上出雲寺御霊堂と呼ばれていた上御霊神社があり、今の通り。

応仁の乱勃発の地が上御霊神社ですのでやはりというかまあそうなるね的な結果となり、後に新町出水に移され、その後、天正18年こと西暦1590年、豊臣秀吉の都市整備にともない寺町通が整備されることとなりまして現在地に遷座したという。

西園寺実氏の別荘常盤井殿があった場所です。もっとも火災にはこののちも見舞われていまして、いまの社殿は天明8年こと西暦1788年、あの天明の大火で旧社殿が焼失したことをうけ、仮皇居の内侍所仮殿を寛政3年こと西暦1791年に移建し今に至ります

吉備聖霊として吉備真備、崇道天皇として桓武天皇の皇太子であり政争に散った早良親王、伊予親王というやはり桓武天皇の皇子、藤原大夫人という伊予親王の母である藤原吉子、藤大夫こと藤原広嗣、橘大夫こと橘逸勢、文大夫こと文屋宮田麻呂といった方々と。

火雷天神こと菅原道真が祀られています。下御霊神社の祭神は歴史上、政争に巻き込まれて亡くなった方々を祀る社殿とされていまして、いわば、政争の中に巻き込まれる事となり、憤死した偉人たちの慰霊碑、となっているわけですね。

御霊信仰と節分の追儺神事の重なりがあるものですから、まあ京都の神社では数多追儺式を行っているのですけれども、ここ下御霊神社においても執り行われている節分神事というものです。昔は日にちをずらして追儺式を行った神社も多かったようですが。

5月1日が神幸祭となっている神社でして、それが令和天皇即位式と重なることから、令和時代の祭典という、こうした位置づけを持つようにもあっているようですが。ここは文字通り寺町通のあります社殿ですが、いわゆるアーケード街の寺町通りではない。

寺町通といえば新京極通と並行しているゆえに観光客と修学旅行生、という印象があるのですけれども、不思議とこう、大きな寺社があります寺町通も、アーケードの無い場所にあってはそれほど観光客が集まることもなく、不思議な静寂があるのですが。

京都観光に日本の歴史を学ぶのであればこう、寺町通を御所の方へ歩んでみるもの好いのではないかな、と思うところですが。やはり京都というものを感じ入るほどに過ごすには、もうちょっとゆっくりしていってほしいよなあ、と思うところですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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