■丸岡城天守閣探訪
丸岡城天守閣は現存天守閣と云う事で急な階段を上り下りで探検のようにて実に愉快です。

丸岡城、城郭は遠めに見える小城という印象とは百聞一見にという印象も、それも一見には写真が含まれず実際昇って眺めてみる重要性を云う事を改めて示してくれます。広々としているのです。もっともこの日は観光の方も少なく、広さに余裕が在った為でしょう。

霞ヶ城の名でも親しまれる城郭は、考えてみますと周りの静かな佇まい、住宅街に学校という立地から小さく見えるものですので、霞といいますか、霧の中にふと浮いているような気象の日に朝日と共に眺めてみますと、案外居城の様な印象を受けるのかもしれません。

独立式望楼型二重三階の天守閣、天守閣の最上階は四間と広々としていまして、これは安土桃山時代の天守閣、現存しない織田信長の安土城や豊臣秀吉の大坂城と比較してみましても、最上階は安土城も大坂城も三間四方といい、実は丸岡城の方が広いという事実が。

最古の天守閣ではないという福井県教育委員会福井城郭研究所年報研究紀要が2019年に発表されていますが、見た目が古い事もあり日本最古の現存天守閣であると信じられていたのですが、最古という割には、その時代の天守閣と比較し最上階の広さは一つ論点でした。

織田信長の安土城や豊臣秀吉の大坂城、実は天守閣の最上層を広く採るという設計は慶長時代後期のものであり、当初考えられた1576年造営の柴田勝豊建造による天守閣という検証に疑義を示す一つの根拠ともなっていたようです。一方、見た目という視点は重要です。

大入母屋の二重三階という天守閣、現存天守閣の常として階段の角度は剣岳よりも急角度ですのでカメラバックを肩掛けしての登城、文字通りの上るのは若干バックの蓋を確認してしまいますが、不思議と中は広々としており、落ち着いて城下などを眺めても愉しい。

大入母屋様式、見た目は重要だと記しましたが、その見た目と云うのは大きな御堂に天守上層を増築した様な大入母屋方式の建築様式というもので、これは古い天守閣の一つの建築様式でもあったとのこと。そして丸岡城天守には、大黒柱にあたる通柱もありません。

天守台が広々としていることから一階平面部に冗長性を持たせて設計され、ここに天守台を被せるような腰屋根方式となっています。ここは犬山城天守閣と似ているのですが、犬山城天守閣は腰屋根方式部分を後年建築した一方、丸岡城は一体建築されたとされている。

層塔型天守閣。現在の姫路城や再建された大阪城や名古屋城は高層建築の様な一体式の方式を採っていまして、これを層塔型天守閣といいます。この共通点は天守閣の広さなのですが、織田信長の安土城や豊臣秀吉の大坂城は天守閣に関する考え方の違いが見て取れる。

安土城や大坂城は天守閣は戦闘の為の城塞ではなく政治中枢と権力誇示のためのものであり、城主は天下人、天下人は眺望を独占するというかたちから多数の賓客を接遇する為の施設ではなかったのですね。対して層塔型天守閣は展望台ではなく、有事の備えでした。

層塔型天守閣は有事の際の最後の防衛拠点であり、兵器倉庫など実用性を考えたものでした。すると、既に天下安泰を原則として造営された安土城や大坂城は、万一の備えたる層塔型天守閣に淘汰された。江戸城も明暦の大火以降再建されなかったのも安泰故でしたね。

城郭、面白いのはこの現存天守閣である丸岡城も、正確な築城年度が判明したのは2019年という点でして、日本にはまだまだ不思議やなぞはあるのですが、天守閣の建造年度さえ研究の余地があるという事は、何か日本も広いものだと浪漫さえも感じてしまうのですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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丸岡城天守閣は現存天守閣と云う事で急な階段を上り下りで探検のようにて実に愉快です。

丸岡城、城郭は遠めに見える小城という印象とは百聞一見にという印象も、それも一見には写真が含まれず実際昇って眺めてみる重要性を云う事を改めて示してくれます。広々としているのです。もっともこの日は観光の方も少なく、広さに余裕が在った為でしょう。

霞ヶ城の名でも親しまれる城郭は、考えてみますと周りの静かな佇まい、住宅街に学校という立地から小さく見えるものですので、霞といいますか、霧の中にふと浮いているような気象の日に朝日と共に眺めてみますと、案外居城の様な印象を受けるのかもしれません。

独立式望楼型二重三階の天守閣、天守閣の最上階は四間と広々としていまして、これは安土桃山時代の天守閣、現存しない織田信長の安土城や豊臣秀吉の大坂城と比較してみましても、最上階は安土城も大坂城も三間四方といい、実は丸岡城の方が広いという事実が。

最古の天守閣ではないという福井県教育委員会福井城郭研究所年報研究紀要が2019年に発表されていますが、見た目が古い事もあり日本最古の現存天守閣であると信じられていたのですが、最古という割には、その時代の天守閣と比較し最上階の広さは一つ論点でした。

織田信長の安土城や豊臣秀吉の大坂城、実は天守閣の最上層を広く採るという設計は慶長時代後期のものであり、当初考えられた1576年造営の柴田勝豊建造による天守閣という検証に疑義を示す一つの根拠ともなっていたようです。一方、見た目という視点は重要です。

大入母屋の二重三階という天守閣、現存天守閣の常として階段の角度は剣岳よりも急角度ですのでカメラバックを肩掛けしての登城、文字通りの上るのは若干バックの蓋を確認してしまいますが、不思議と中は広々としており、落ち着いて城下などを眺めても愉しい。

大入母屋様式、見た目は重要だと記しましたが、その見た目と云うのは大きな御堂に天守上層を増築した様な大入母屋方式の建築様式というもので、これは古い天守閣の一つの建築様式でもあったとのこと。そして丸岡城天守には、大黒柱にあたる通柱もありません。

天守台が広々としていることから一階平面部に冗長性を持たせて設計され、ここに天守台を被せるような腰屋根方式となっています。ここは犬山城天守閣と似ているのですが、犬山城天守閣は腰屋根方式部分を後年建築した一方、丸岡城は一体建築されたとされている。

層塔型天守閣。現在の姫路城や再建された大阪城や名古屋城は高層建築の様な一体式の方式を採っていまして、これを層塔型天守閣といいます。この共通点は天守閣の広さなのですが、織田信長の安土城や豊臣秀吉の大坂城は天守閣に関する考え方の違いが見て取れる。

安土城や大坂城は天守閣は戦闘の為の城塞ではなく政治中枢と権力誇示のためのものであり、城主は天下人、天下人は眺望を独占するというかたちから多数の賓客を接遇する為の施設ではなかったのですね。対して層塔型天守閣は展望台ではなく、有事の備えでした。

層塔型天守閣は有事の際の最後の防衛拠点であり、兵器倉庫など実用性を考えたものでした。すると、既に天下安泰を原則として造営された安土城や大坂城は、万一の備えたる層塔型天守閣に淘汰された。江戸城も明暦の大火以降再建されなかったのも安泰故でしたね。

城郭、面白いのはこの現存天守閣である丸岡城も、正確な築城年度が判明したのは2019年という点でして、日本にはまだまだ不思議やなぞはあるのですが、天守閣の建造年度さえ研究の余地があるという事は、何か日本も広いものだと浪漫さえも感じてしまうのですね。
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