■丸岡藩五万石の城郭
歴史は俺たちに何をさせようというのか!、映画戦国自衛隊のポスターに在りました台詞ですが成程丸岡城は銀幕にも出まして歴史に新しい一幕を加えました。
丸岡の地は戦国時代、織田信長家臣で北陸の虎と畏れられた猛将柴田勝家の養子柴田勝豊の所領でした。そしてこの頃に天守閣は構築されたといい、現存天守閣の中では最古の建築物で、とは長らく称されていたものなのですが。柴田勝家は賤ヶ岳の戦いで敗れる。
青山宗勝青山忠元父子、太閤秀吉の安土桃山時代にはこの二人が丸岡の地を任されるのですが慶長5年こと西暦1600年、関ヶ原の戦いで西軍側として参戦した事で改易されます。こういう意味では丸岡城の城主は頻繁に変わるのですが、江戸時代には丸岡藩が置かれた。
徳川家康の家臣で、鬼作左の名で知られた本多重次、その実子本多成重が4万石で入城しました。その後は内紛が在ったり家臣を粛清したり加増があったりなどで本多重能本多重昭と本多重益と続くのですが、本多重益は酒色に溺れて改易で飛ばされてしまうのですね。
キリシタン大名で有名な有馬晴信、その曾孫にあたる有馬清純が本多重益の追放後、幕府により越後糸魚川藩から5万石で入城します。ただ、このあたりから安定して往きまして、第2代藩主有馬一準は正徳元年こと西暦1711年に外様大名から譜代格へ格上を果たします。
藩は譜代 5万石となりまして、有馬孝純に有馬允純と有馬誉純に有馬徳純そして有馬温純と有馬道純、歴史を紡ぎ、明治維新を迎えます。一時は越前国南条郡のうち 2村と坂井郡のうち91村とを収めましたが、廃藩置県ののち暫くして福井県と統合、いまにいたります。
戦国自衛隊、丸岡といいますと戦国自衛隊を思い出します。こう説明しますと1979年の千葉真一主演の角川映画を思い出すかもしれませんが、実は城郭にあまり知識が疎かった頃、丸岡といいますと原作の戦国自衛隊で60式装甲車の操縦士が、丸岡一士だったという。
60式装甲車は車長が島田三曹といいまして、半村良の原作版とこれを忠実に劇画化した田辺節雄の作品では搭載する12.7mm機銃と相まって印象的な装備として活躍しています。映画版では短い尺で迫力を増させる為に60式装甲車は61式戦車となってしまうのですが。
伊庭三尉。戦国自衛隊の主人公なのですが、この劇画版では直接に丸岡城は出てきません、しかし、1979年の千葉真一主演の角川映画版には、しっかりと出てくるのですよね。丸岡城ではなく春日山城役での出演というかロケ、よくぞ撮影させてくれた、というほどに。
S-61ヘリコプター、航空自衛隊で昔救難用に使っていたものと同型機が陸上自衛隊機として出ているのですが、なんと丸岡城の天守閣真横にホバーリングさせてアクション、という出演となります。そんな意味で、映画愛好家の方には知られた城郭といえるのやもです。
しかし、不思議なのは戦国自衛隊です。彼らは“戦いに明け暮れた戦国時代には最新装備を手にした自衛隊でも生き残る事は出来なかった”という主題なのですが、そもそもあのタイムスリップした自衛隊の連中がソ連軍の北海道侵攻で生き残れたのか、ということ。
昭和の時代は平和、こう戦国自衛隊ではいっていましたが昭和の自衛隊を知る方というか61式戦車の時代から戦車乗員をやっていた方の話を聞きますと当時の北部方面隊なんかは開戦前夜の緊張が定期的に、という気風だったので、なにか自衛隊観が違うなあ、とね。
映画“乱”、黒澤明監督の映画を見ますとセットの城郭は階段の位置から、ああこの天守閣のモデルは丸岡城だ、と直ぐに気付くことがありまして、なるほど、このお城は名優でもあったのだなあ、ふとそんな事を思わせるものでした。やはり、城郭巡りは愉しいものだ。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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歴史は俺たちに何をさせようというのか!、映画戦国自衛隊のポスターに在りました台詞ですが成程丸岡城は銀幕にも出まして歴史に新しい一幕を加えました。
丸岡の地は戦国時代、織田信長家臣で北陸の虎と畏れられた猛将柴田勝家の養子柴田勝豊の所領でした。そしてこの頃に天守閣は構築されたといい、現存天守閣の中では最古の建築物で、とは長らく称されていたものなのですが。柴田勝家は賤ヶ岳の戦いで敗れる。
青山宗勝青山忠元父子、太閤秀吉の安土桃山時代にはこの二人が丸岡の地を任されるのですが慶長5年こと西暦1600年、関ヶ原の戦いで西軍側として参戦した事で改易されます。こういう意味では丸岡城の城主は頻繁に変わるのですが、江戸時代には丸岡藩が置かれた。
徳川家康の家臣で、鬼作左の名で知られた本多重次、その実子本多成重が4万石で入城しました。その後は内紛が在ったり家臣を粛清したり加増があったりなどで本多重能本多重昭と本多重益と続くのですが、本多重益は酒色に溺れて改易で飛ばされてしまうのですね。
キリシタン大名で有名な有馬晴信、その曾孫にあたる有馬清純が本多重益の追放後、幕府により越後糸魚川藩から5万石で入城します。ただ、このあたりから安定して往きまして、第2代藩主有馬一準は正徳元年こと西暦1711年に外様大名から譜代格へ格上を果たします。
藩は譜代 5万石となりまして、有馬孝純に有馬允純と有馬誉純に有馬徳純そして有馬温純と有馬道純、歴史を紡ぎ、明治維新を迎えます。一時は越前国南条郡のうち 2村と坂井郡のうち91村とを収めましたが、廃藩置県ののち暫くして福井県と統合、いまにいたります。
戦国自衛隊、丸岡といいますと戦国自衛隊を思い出します。こう説明しますと1979年の千葉真一主演の角川映画を思い出すかもしれませんが、実は城郭にあまり知識が疎かった頃、丸岡といいますと原作の戦国自衛隊で60式装甲車の操縦士が、丸岡一士だったという。
60式装甲車は車長が島田三曹といいまして、半村良の原作版とこれを忠実に劇画化した田辺節雄の作品では搭載する12.7mm機銃と相まって印象的な装備として活躍しています。映画版では短い尺で迫力を増させる為に60式装甲車は61式戦車となってしまうのですが。
伊庭三尉。戦国自衛隊の主人公なのですが、この劇画版では直接に丸岡城は出てきません、しかし、1979年の千葉真一主演の角川映画版には、しっかりと出てくるのですよね。丸岡城ではなく春日山城役での出演というかロケ、よくぞ撮影させてくれた、というほどに。
S-61ヘリコプター、航空自衛隊で昔救難用に使っていたものと同型機が陸上自衛隊機として出ているのですが、なんと丸岡城の天守閣真横にホバーリングさせてアクション、という出演となります。そんな意味で、映画愛好家の方には知られた城郭といえるのやもです。
しかし、不思議なのは戦国自衛隊です。彼らは“戦いに明け暮れた戦国時代には最新装備を手にした自衛隊でも生き残る事は出来なかった”という主題なのですが、そもそもあのタイムスリップした自衛隊の連中がソ連軍の北海道侵攻で生き残れたのか、ということ。
昭和の時代は平和、こう戦国自衛隊ではいっていましたが昭和の自衛隊を知る方というか61式戦車の時代から戦車乗員をやっていた方の話を聞きますと当時の北部方面隊なんかは開戦前夜の緊張が定期的に、という気風だったので、なにか自衛隊観が違うなあ、とね。
映画“乱”、黒澤明監督の映画を見ますとセットの城郭は階段の位置から、ああこの天守閣のモデルは丸岡城だ、と直ぐに気付くことがありまして、なるほど、このお城は名優でもあったのだなあ、ふとそんな事を思わせるものでした。やはり、城郭巡りは愉しいものだ。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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