■林城の戦いと大坂冬の陣
歴史は現代史を考えるうえでの一助となる事が多い。
松本城と小笠原氏の歴史、現代史から見ますとディアスボラという訳では無いのでしょうけれども熱意があれば多少世代を超えることはあるのかもしれませんが、仮に戦火でうまれ故郷を追われたとしても帰ることができるということなのでしょうか。
武田信玄に故郷を追われた小笠原貞慶、林城の戦いでの敗走を経て塩尻峠の戦いの敗北により小笠原氏は信濃から潰走を強いられることとなりますが、先ず上杉氏を頼り越後に、上杉謙信と武田信玄は永禄4年こと1561年より川中島の戦いで激突します。
上杉謙信は、しかし川中島の戦いでは勝利を得るには至らず一進一退、このことから実父小笠原長時ともども京都に逃れることとなりまして、三好氏の庇護下に入ります、三好三人衆として形骸化しつつあるとはいえ室町幕府に大きな影響を及ぼしていたゆえ。
六条合戦として三好三人衆が足利将軍家に刃を向け、その三年前の永禄の変では室町第13代将軍足利義輝を討ったように第15代将軍足利義昭を討ち取ろうとしたところ、室町幕府の要請を受け上洛する織田信長が加わり、三好三人衆は決定的な敗北を被る。
三好氏に呼応して参陣した小笠原氏も小笠原信定戦死という厳しい状況となり、しかしこの結果として生き残った小笠原氏は織田氏はいかとなり、元亀4年こと1573年には織田氏の武田氏や上杉氏との交渉を一任されるまでとなり、所領に筑摩郡を任される。
甲州征伐として長篠の戦を経た織田信長の対武田攻勢がはじまると深志城を後の有楽こと織田長益が陥落させ、これを機に旧領回復を目指すのですがこの時はかなわず、ただこの歳に本能寺の変が起きたため、徳川家康に接近、実父小笠原長時が悲願を果たす。
深志城を松本城と改名しましたのはこの時といいまして、旧武田領の本能寺の変を受けての騒擾を天正壬午の乱としてまとめられるのですが、ただ逆に小笠原貞慶はこのとき小笠原長時が徳川家康との宥和を期して人質に出されます。しかし、結果的にこれが。
石川数正が家康人質となった小笠原長時を預かるのですが、この日とは徳川を裏切り豊臣方に出奔した事でも知られ、天正18年こと1590年に小田原城落城と共に北条氏が滅亡すると徳川家康の関東移封となります、すると石川数正が松本城城主になってしまう。
松本城二転三転というところなのかもしれませんが、ただ、この際に石川数正は松本城の大規模拡張を行い、難工事である掘割や石垣の築城を担う。もっともこの時造営されたのは連結式望楼型天守閣であり現存していません、が基礎固めを果たした構図だ。
江戸時代に入りますと石川氏の当主石川康長が大久保長安事件により改易となりまして、ここに遂に念願の、というべきでしょうか、小笠原長時の松本城入りが叶うのです。関ケ原の戦いでの宇都宮城防衛を評価された故ですが、その後大坂冬の陣で没する。
小笠原氏は、この大坂冬の陣で小笠原秀政は実子小笠原忠脩ともども討ち死にしますが、次男小笠原忠真が家督を受け継ぎ、なにしろ激戦の果ての家督であるため家康の評価は高く、先ず播磨三木明石10万石加増、続いて豊前小倉15万石移封となる。
宮本武蔵が仕えたことでも有名な小笠原忠真は、時間こそかかりましたが信濃帰還を果たしたのちに九州の大藩を任され小倉城主となります。とれは鎮西探題といわれるような幕府の九州監視という役割でもあり、時間をかけ帰還、そして拡大を実現しました。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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歴史は現代史を考えるうえでの一助となる事が多い。
松本城と小笠原氏の歴史、現代史から見ますとディアスボラという訳では無いのでしょうけれども熱意があれば多少世代を超えることはあるのかもしれませんが、仮に戦火でうまれ故郷を追われたとしても帰ることができるということなのでしょうか。
武田信玄に故郷を追われた小笠原貞慶、林城の戦いでの敗走を経て塩尻峠の戦いの敗北により小笠原氏は信濃から潰走を強いられることとなりますが、先ず上杉氏を頼り越後に、上杉謙信と武田信玄は永禄4年こと1561年より川中島の戦いで激突します。
上杉謙信は、しかし川中島の戦いでは勝利を得るには至らず一進一退、このことから実父小笠原長時ともども京都に逃れることとなりまして、三好氏の庇護下に入ります、三好三人衆として形骸化しつつあるとはいえ室町幕府に大きな影響を及ぼしていたゆえ。
六条合戦として三好三人衆が足利将軍家に刃を向け、その三年前の永禄の変では室町第13代将軍足利義輝を討ったように第15代将軍足利義昭を討ち取ろうとしたところ、室町幕府の要請を受け上洛する織田信長が加わり、三好三人衆は決定的な敗北を被る。
三好氏に呼応して参陣した小笠原氏も小笠原信定戦死という厳しい状況となり、しかしこの結果として生き残った小笠原氏は織田氏はいかとなり、元亀4年こと1573年には織田氏の武田氏や上杉氏との交渉を一任されるまでとなり、所領に筑摩郡を任される。
甲州征伐として長篠の戦を経た織田信長の対武田攻勢がはじまると深志城を後の有楽こと織田長益が陥落させ、これを機に旧領回復を目指すのですがこの時はかなわず、ただこの歳に本能寺の変が起きたため、徳川家康に接近、実父小笠原長時が悲願を果たす。
深志城を松本城と改名しましたのはこの時といいまして、旧武田領の本能寺の変を受けての騒擾を天正壬午の乱としてまとめられるのですが、ただ逆に小笠原貞慶はこのとき小笠原長時が徳川家康との宥和を期して人質に出されます。しかし、結果的にこれが。
石川数正が家康人質となった小笠原長時を預かるのですが、この日とは徳川を裏切り豊臣方に出奔した事でも知られ、天正18年こと1590年に小田原城落城と共に北条氏が滅亡すると徳川家康の関東移封となります、すると石川数正が松本城城主になってしまう。
松本城二転三転というところなのかもしれませんが、ただ、この際に石川数正は松本城の大規模拡張を行い、難工事である掘割や石垣の築城を担う。もっともこの時造営されたのは連結式望楼型天守閣であり現存していません、が基礎固めを果たした構図だ。
江戸時代に入りますと石川氏の当主石川康長が大久保長安事件により改易となりまして、ここに遂に念願の、というべきでしょうか、小笠原長時の松本城入りが叶うのです。関ケ原の戦いでの宇都宮城防衛を評価された故ですが、その後大坂冬の陣で没する。
小笠原氏は、この大坂冬の陣で小笠原秀政は実子小笠原忠脩ともども討ち死にしますが、次男小笠原忠真が家督を受け継ぎ、なにしろ激戦の果ての家督であるため家康の評価は高く、先ず播磨三木明石10万石加増、続いて豊前小倉15万石移封となる。
宮本武蔵が仕えたことでも有名な小笠原忠真は、時間こそかかりましたが信濃帰還を果たしたのちに九州の大藩を任され小倉城主となります。とれは鎮西探題といわれるような幕府の九州監視という役割でもあり、時間をかけ帰還、そして拡大を実現しました。
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