■はるな、北関東榛名神社散策記
はるな、北関東群馬県の巨大火山と神社を巡る散策記、京都幕間旅情くらま特集に続き京都発幕間旅情として、はるな、を巡った情景を紹介しましょう。

京都発幕間旅情、京都を大阪から寝台特急サンライズ瀬戸出雲、若しくは新幹線のぞみ号にて東京へ足を運び、東海道本線高崎線直通上野東京ラインを高崎、高崎からバスにてさらに一時間ほど、若しくは上越新幹線を安中榛名まで進み徒歩で山道を半日ほど、群馬県群馬三山の一つ、榛名山に位置する古の県社が、榛名神社です。

戦艦榛名、護衛艦はるな、と日本海軍史に燦然と輝く艦名由来となった榛名山、榛名神社にはかの戦国武将武田信玄公が戦勝祈願へ籠め矢を射った矢立杉が60mに迫る威容を誇り、この地の歴史の豊かさを今に伝えます、高崎市に位置する榛名山は長野県軽井沢に接し、関東管領上杉氏が守護を司ると共に武田信玄と上杉謙信が覇を競った地の一つ。

榛名山の山道は険しく冬季には積雪により車道が閉鎖される事もある北関東山間部有数の一つ。上野国、これは“こうずけのくに”と読み、常陸国と下総国に接する令制国で、六世紀の綏靖天皇治世下、先帝神武天皇の東征に際し皇城守護を名乗り出た可美真手命父子が神籬を立ての神事を行った2600年前の神事が、ここ榛名の地へ神社が創建された所以という。

上野国十二社の一つとして歴史を重ねましたが、巌山僧坊遺跡という修験道の聖地としての歴史を経て、東叡山輪王寺宮榛名山巌殿寺と榛名山満行宮との神仏習合を体現する寺社仏閣が広まります、そして明治時代神仏分離を経て、かつての榛名神社へ復号しました。

神社は本社幣殿拝殿複合社殿という春日造本社と入母屋造拝殿を幣殿で結ぶ権現造の社と、国祖社額殿という勝軍地蔵と阿弥陀仏を安置する本地堂で神楽拝観所を転じた社、と、複合社殿が特色となっています。難工事とはこういう立地での工事を云うのか、という現代の視点でも考えさせられるわけですから、はるか昔にこの地へ、社殿建立にも難儀が垣間見える立地故のものなのでしょう。

春日造とは切妻造に範を採った上で優美を正面に誇るべく大社造屋根を三角形の切妻造破風正面とする構造として、これを身舎という円柱と向拝柱を角柱と組み合わせ間社春日造とし、板壁を配した上で高床構造を以て通気を意識した、春日大社に代表される様式です。落石防止の天蓋回廊の先へ社殿を造営したわけですね。

東叡山輪王寺宮榛名山巌殿寺と榛名山満行宮の時代の社殿、享保年間や文化年間という江戸時代後期の建物が並んでいます、伊香保温泉と榛名山を越えれば草津へ通じる湯治の街道が広がり、中山道高崎宿は中山道第四の活況、この地への参詣ですが街道と共に進むのでしたらばそこから上る訳ですので、難しくは無かった。

御姿岩洞窟に御神体を祀る構造となっていまして、神社の神楽殿は板張三方吹放構造で明和年間の、双龍門は入母屋造銅板葺き四脚門で安政年間の、随神門は入母屋造瓦棒銅板葺八脚門で弘化年間の建立、となっていまして、これらは、国の重要文化財となっています。

祭神は火の神火産霊神、土の神埴山姫神を祀ると共に、建立の後後世に入り水分神高靇神と闇靇神と大山祇神と大物主神と木花開耶姫神とを合わせ祀る神社です。火産霊神を祀る神社故に巨大火山榛名山の過去の巨大噴火群と、非常に大きなかかわりを持つのでしょう。

火産霊神、かぐつち、と読みまして古事記の火之夜藝速男神や火之炫毘古神と火之迦具土神を示す総称、日本書紀には軻遇突智とかぐつちそのものの名となり、火産霊と表記されています。イザナギとイザナミが結ばれ生まれた神とされますが、曰く生まれた事が災い。

かぐつち、生まれた事でイザナミは火に焼かれ死にイザナギの怒りを招き神剣天之尾羽張により切り殺されましたが、飛び散った鮮血は、石折神、根折神、石筒之男神、甕速日神、樋速日神、建御雷之男神、闇淤加美神、闇御津羽神、の神々を生んだと古事記は伝える。火の神火産霊神を切り殺した鮮血が飛び散って新しい神々を生む描写は、日本列島が大陸外縁弧状列島として火山噴火の中で生まれ育った国土の始りを思わせるもので、その様子は恰も今世紀にも噴火により島を広げた小笠原の西之島噴火を思い出させる情景ですね。
北大路機関:はるな くらま
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
はるな、北関東群馬県の巨大火山と神社を巡る散策記、京都幕間旅情くらま特集に続き京都発幕間旅情として、はるな、を巡った情景を紹介しましょう。

京都発幕間旅情、京都を大阪から寝台特急サンライズ瀬戸出雲、若しくは新幹線のぞみ号にて東京へ足を運び、東海道本線高崎線直通上野東京ラインを高崎、高崎からバスにてさらに一時間ほど、若しくは上越新幹線を安中榛名まで進み徒歩で山道を半日ほど、群馬県群馬三山の一つ、榛名山に位置する古の県社が、榛名神社です。

戦艦榛名、護衛艦はるな、と日本海軍史に燦然と輝く艦名由来となった榛名山、榛名神社にはかの戦国武将武田信玄公が戦勝祈願へ籠め矢を射った矢立杉が60mに迫る威容を誇り、この地の歴史の豊かさを今に伝えます、高崎市に位置する榛名山は長野県軽井沢に接し、関東管領上杉氏が守護を司ると共に武田信玄と上杉謙信が覇を競った地の一つ。

榛名山の山道は険しく冬季には積雪により車道が閉鎖される事もある北関東山間部有数の一つ。上野国、これは“こうずけのくに”と読み、常陸国と下総国に接する令制国で、六世紀の綏靖天皇治世下、先帝神武天皇の東征に際し皇城守護を名乗り出た可美真手命父子が神籬を立ての神事を行った2600年前の神事が、ここ榛名の地へ神社が創建された所以という。

上野国十二社の一つとして歴史を重ねましたが、巌山僧坊遺跡という修験道の聖地としての歴史を経て、東叡山輪王寺宮榛名山巌殿寺と榛名山満行宮との神仏習合を体現する寺社仏閣が広まります、そして明治時代神仏分離を経て、かつての榛名神社へ復号しました。

神社は本社幣殿拝殿複合社殿という春日造本社と入母屋造拝殿を幣殿で結ぶ権現造の社と、国祖社額殿という勝軍地蔵と阿弥陀仏を安置する本地堂で神楽拝観所を転じた社、と、複合社殿が特色となっています。難工事とはこういう立地での工事を云うのか、という現代の視点でも考えさせられるわけですから、はるか昔にこの地へ、社殿建立にも難儀が垣間見える立地故のものなのでしょう。

春日造とは切妻造に範を採った上で優美を正面に誇るべく大社造屋根を三角形の切妻造破風正面とする構造として、これを身舎という円柱と向拝柱を角柱と組み合わせ間社春日造とし、板壁を配した上で高床構造を以て通気を意識した、春日大社に代表される様式です。落石防止の天蓋回廊の先へ社殿を造営したわけですね。

東叡山輪王寺宮榛名山巌殿寺と榛名山満行宮の時代の社殿、享保年間や文化年間という江戸時代後期の建物が並んでいます、伊香保温泉と榛名山を越えれば草津へ通じる湯治の街道が広がり、中山道高崎宿は中山道第四の活況、この地への参詣ですが街道と共に進むのでしたらばそこから上る訳ですので、難しくは無かった。

御姿岩洞窟に御神体を祀る構造となっていまして、神社の神楽殿は板張三方吹放構造で明和年間の、双龍門は入母屋造銅板葺き四脚門で安政年間の、随神門は入母屋造瓦棒銅板葺八脚門で弘化年間の建立、となっていまして、これらは、国の重要文化財となっています。

祭神は火の神火産霊神、土の神埴山姫神を祀ると共に、建立の後後世に入り水分神高靇神と闇靇神と大山祇神と大物主神と木花開耶姫神とを合わせ祀る神社です。火産霊神を祀る神社故に巨大火山榛名山の過去の巨大噴火群と、非常に大きなかかわりを持つのでしょう。

火産霊神、かぐつち、と読みまして古事記の火之夜藝速男神や火之炫毘古神と火之迦具土神を示す総称、日本書紀には軻遇突智とかぐつちそのものの名となり、火産霊と表記されています。イザナギとイザナミが結ばれ生まれた神とされますが、曰く生まれた事が災い。

かぐつち、生まれた事でイザナミは火に焼かれ死にイザナギの怒りを招き神剣天之尾羽張により切り殺されましたが、飛び散った鮮血は、石折神、根折神、石筒之男神、甕速日神、樋速日神、建御雷之男神、闇淤加美神、闇御津羽神、の神々を生んだと古事記は伝える。火の神火産霊神を切り殺した鮮血が飛び散って新しい神々を生む描写は、日本列島が大陸外縁弧状列島として火山噴火の中で生まれ育った国土の始りを思わせるもので、その様子は恰も今世紀にも噴火により島を広げた小笠原の西之島噴火を思い出させる情景ですね。
北大路機関:はるな くらま
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