北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

装軌装甲共通車両(89式装甲戦闘車後継)装備実験隊が試験【1】近接戦闘車開発中止から十年

2020-01-21 20:05:33 | 先端軍事テクノロジー
■二〇一四より三菱重工が開発
 共通車両、89式装甲戦闘車等の砲塔を継承する新型装甲車の設計が2014年から進んでいるようですが、この車輛の評価試験が本格化しているようです。

 東富士演習場にて陸上自衛隊装備実験隊の新型装甲車両が目撃され始めています。富士総合火力演習でのタクシー乗り場付近から撮影されたものと思われる写真、車体部分については、89式装甲戦闘車試作車を流用したのではないかと思われる点もあるのですが、自衛隊が装軌式装甲車に関してまだ維持の方針を示している証左ともいえまして、朗報です。

 装備実験隊の新型装甲車両、うわさは聞いていたのですが実物が製造され動いているというお話は、今年に入りましてこちらへの書き込みで知りました次第です。Webではかなり話題になっていたようなのですが、勉強不足と云いますか年末年始の多忙があり、そんな中で新年写真を撮影している最中に装備実験隊の新型装甲車両が目撃されていたのですね。

 装備実験隊の新型装甲車両。いつもお世話になっているこの分野に詳しい方に、凄いなあ、と聞きますと、返ってきたのは恐らく撮影していますよ、というお話でした。疑問符とともに調べてみますと、確かにあった。2019年富士学校創設記念富士駐屯地祭にて式典会場に隣接する装備実験隊地区、立ち入り禁止地区の一番手前にカバーと共に並んでいるのですね。

 富士のあの車輌だったのかな。さて89式装甲戦闘車。35mm機関砲と79式対舟艇対戦車誘導弾を搭載し戦闘重量26tと比較的強力な防御力を有し、90式戦車に随伴可能という機動力を有していました。しかし生産数が限られ、製造された車両も老朽化が進んでおり、延命改修を行うか新型車両を導入するのか、予算不足の陸上自衛隊に在って自然消滅を避けるべく議論が必要な時機でした。

 装備実験隊の新型車両、89式装甲戦闘車の特色であった車体側面のガンポートが装甲に覆われ、乗車戦闘よりも機動打撃力を重視した設計となっていました。89式装甲戦闘車は乗車戦闘を意識し、普通科隊員が車内から車体周辺を射撃できるよう銃眼が設置されています。乗車戦闘、1970年代に各戦争を想定し下車せず戦闘を行うために必須となっています。

 装備実験隊の新型装甲車両は、銃眼が装甲でおおわれているのですが、この銃眼はまず揺れる車内からはほぼ命中精度が期待できず、更に重機関銃の大口径銃弾が命中した際には破砕され貫徹する恐れがあるとして防御脆弱部分という指摘があり、世界の装甲戦闘車では一部を除き銃眼が増加装甲により覆われています。日本もこの流れに沿うのでしょう。

 不思議なのは装備実験隊の新型装甲車両、最近の自衛隊車両が例えば16式機動戦闘車が前照灯をLED方式としているのに対し、新型車両は従来型のハロゲン灯を採用しており、89式装甲戦闘車の試作車を用いた概念実証車ではないかとも考えたのですが。しかし新型装備でもAAV-7等はハロゲン灯を採用しており、この点は判断を保留したいところです。

 共通車両の試作は2014年に三菱重工がシステム設計を二年間で3億円にて受注し、共通車体は2016年から二年間で14億円にて受注、装甲戦闘車の砲塔再利用に関する技術開発は日本製鋼所と三菱重工が2016年から2018年にかけ、3億円で受注しています。世界各国装甲戦闘車開発と比較し破格の安さですが、優秀な既存車体設計が応用出来た為でしょう。

 近接戦闘車、2000年代に陸上自衛隊は89式装甲戦闘車と87式偵察警戒車の共通後継車両を模索していました。この車両は装輪式として89式装甲戦闘車と同程度の防御力を有しつつ、当時の技術研究本部が開発を進めていた50mmCTA機関砲を小型化した40mmCTA機関砲を搭載、装甲戦闘車型を基本としつつ偵察警戒車型なども開発が想定されていました。

 近接戦闘車偵察警戒車型には車体後部に伸縮式電子光学装置を搭載した伸縮式マストを搭載、重ねて斥候員区画を兼ねる方式で車体の共通化が見込まれていました。ただ、2009年に近接戦闘車の部分試作が実施されて以降は全体試作に進まず、計画は中止されています。近接戦闘車、次の将来装輪戦闘車両という装備体系へ統合されるとも考えられていました。

 この将来装輪戦闘車両は人員輸送に指揮通信と対戦車車両に偵察警戒車と装甲戦闘車に自走迫撃砲と自走高射機関砲、補給支援車両までを含み、車体部分のパワーパックは装輪自走榴弾砲や多連装ロケットシステムに地雷原処理車を共通化する、野心的な車両でした。ただ、自走高射機関砲試験車両は試験映像が防衛装備庁により公開されたもののそこまで。

 自走高射機関砲試験車両は試験車両であるからか非常に高い車高が話題になりつつ、その後の動きはなく、特に自走高射機関砲は35mm高射機関砲から93式近距離地対空誘導弾へ転換した際に、機関砲システムに関する整備負担の大きさなどが現場から指摘され、思い切った全国配備に移行できなかったことが、装備化への影響と見て取ることも出来ます。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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中東危機と自衛隊アラビア海派遣【3】護衛艦たかなみ,二月八日に横須賀出航!アラビア海へ

2020-01-20 20:18:59 | 国際・政治
■政府,緊急時には海上警備行動
 イラン情勢は緊張と鎮静化を経てイラン国内の不穏情勢が続く中、アラビア海への自衛隊派遣が具体化しました。

 海上自衛隊は護衛艦たかなみ、を2月8日、アラビア海へ派遣します。派遣部隊はタンカーが攻撃されたホルムズ海峡やペルシャ湾までは展開せず、アラビア海を遊弋し一年間調査研究と情報収集にあたるとのこと。従来はこの種の任務は特別措置法を制定し派遣していましたが、今回は特措法ではなく、自衛隊法にもとづく調査研究名目での派遣という。

 政府はタンカーへの具体的脅威が顕在化した場合には自衛隊法にもとづく海上警備行動命令を発令し、近傍の護衛艦を急行させる方針を示していまして、また、護衛艦に加え那覇基地よりP-3C哨戒機を2機派遣、ソマリア沖海賊対処任務に参加しているP-3C哨戒機1機を転用し、アフリカ東部のジブチ航空拠点を基点に情報収集任務にあたる、とのこと。

 たかなみ、増派によりソマリア沖海賊対処任務にあたる護衛艦と合わせ2隻体制が確立するのですが、2隻の護衛艦に対応できる任務、これは意外と多いのです。護衛艦にはSH-60K哨戒ヘリコプターを常用1機搭載可能で、予備機を搭載する事も可能です。また、長時間の滞空が可能であるスキャンイーグル無人機を運用する事も可能で航空監視を補完します。

 むらさめ型、たかなみ型、ソマリア沖海賊対処任務に派遣される護衛艦は第二世代の汎用護衛艦であり、FCS-2射撃管制システムとESSM発展型シースパロー短距離艦対空ミサイルにより50km圏内の航空脅威へ対処する事が出来ます。P-3C哨戒機とのデータリンクは可能であり、またNATO諸国のペルシャ湾船団護衛有志連合とのデータリンクも可能です。

 タンカーへの攻撃切迫等、緊急時に際して、護衛艦は30ノットで航行でき、高速航行の際には燃料消費が急激に悪化しますが、共に満載排水量6000t規模の大型水上戦闘艦にあたり、航続距離には冗長性が担保されています。コクカカレイジャス号攻撃のような事態が発生した場合は、タンカーへの攻撃は今のところ対艦ミサイル等は使用されていません。

 リンペット機雷を小型舟艇に積載し航行中に装着し爆破する、携帯型規模の小型無人機による体当たり攻撃を行う、タンカーへの攻撃はこうしたものであるため、哨戒ヘリコプターにより十分制圧可能です。SH-60K哨戒ヘリコプターにはヘルファイア空対艦ミサイル搭載可能、国籍不明の小型舟艇に搭載可能である防空火器に対し破滅的な威力を発揮します。

 ただ、イラン軍は革命防衛隊を含め強力な地対空ミサイル部隊を有しており、この場合は超低空まで降下し海面近くの高度でやり過ごさねばなりません、しかし、SH-60Kは大きな威力を発揮する事となるでしょう。この存在感が抑止力という。P-3C哨戒機は海上自衛隊では最新鋭のP-1哨戒機に順次置き換わりつつありますが、世界屈指の最新鋭機でもある。

 P-8A哨戒機とP-1哨戒機を除けば、P-3Cは広範囲を哨戒飛行する世界有数の性能を有する哨戒機です。海上自衛隊は100機を導入、順次P-1に置き換わっていますが、総数ではP-3Cがまだ主力で有ると共にP-1哨戒機予算不足による調達の遅れから延命が進む。超長距離の監視手段を有しており、この性能の哨戒機を保有する国はそれほど多くありません。

 コクカカレイジャス号襲撃事件、ホルムズ海峡周辺での脅威は、イランイラク戦争においてイラン軍によるタンカー無差別攻撃が実際に発生しており、イランイラク戦争での船舶攻撃はペルシャ湾とホルムズ海峡という限られた海域であったにもかかわらず、被害が増大、日本タンカーであるケミカルベンチャー号を筆頭に日本関連船舶の被害も大きかった。

 タンカー戦争とも言われたイランイラク戦争での船舶損害、修復不能な損害船舶トン数は第二次世界大戦における太平洋と大西洋や地中海とインド洋に南シナ海などでの損害の四分の一近くに上る、極めて深刻な船舶被害が生じています。アメリカ海軍やソ連海軍による船団護衛、ソ連は自国向けクウェートタンカーへ早い時期から護衛を派遣しています。

 アーネストウィル作戦としましてアメリカ海軍も1987年から原子力空母エンタープライズを中心にミサイル巡洋艦、そして駆逐艦3隻とフリゲイト4隻を派遣する船団護衛を実施しています。もっとも、この際にミサイルフリゲイトスタークがイラク空軍のミラージュF1による誤爆でエクゾセミサイルが命中、という椿事もありましたが、成果はありました。

 海上自衛隊の派遣する二隻の護衛艦と哨戒機で何処までの事が出来るのか、という視点に対しては、少なくとも同時並行して複数のタンカーに、駆け付け警護、というべき任務は実施できます。また、情報収集し、武装勢力の正体を監視し、不測の事態に備えている点を誇示するだけでも、日本タンカーに対する攻撃を抑制し紛争拡大を阻止できるでしょう。

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【G3X撮影速報】令和二年第1空挺団降下訓練始め.2020年代拓く日米空挺(2020-01-12)

2020-01-19 20:01:01 | 陸海空自衛隊関連行事詳報
■日米安保改定六〇周年の本日
 本日は1960年の日米安全保障条約改訂から60年、さてこうした中で状況は仮想の“習志野島”を舞台に島嶼部防衛の想定で訓練展示が進みます。

 CH-47J/JA輸送ヘリコプター、陸上自衛隊に至宝というべき輸送ヘリコプターは川崎重工にてライセンス生産され、航法装置等の仕様変更により直輸入機体は取得費用が物凄く高騰するのに対し、川崎重工のライセンス生産機は現実的な生産費に収まっていて幸いです。

 AH-1S対戦車ヘリコプターが敵情をうかがう。習志野訓練場は旧陸軍騎兵部隊の演習場で、明治時代に志野原騎兵隊長の天覧演習に満足した明治天皇が騎兵術は志野原に学ぶべし、と賜ったのが習志野の地名の始り。しかし、戦後はこのように宅地開発が進みました。

 UH-1J多用途ヘリコプター、マンション建設が進み、不思議な情景を醸し出しています。もっともこの構図は24-600mm光学ズームのCANON-G3Xという妙な高倍率ズームカメラの性能ゆえの構図でもあるのですが、マンションとUH-1J多用途ヘリコプター、面白い。

 UH-1J多用途ヘリコプターから一斉に降下を開始する空挺隊員、空挺作戦の要諦は速度に在ります。速度により、軍事上の“戦力転換点”、相対戦力比の逆転を機動力により遮二無二実現する事が骨子であり、第二戦線の構築や後方連絡線の遮断、勝機を造り出します。

 AAV-7水陸両用車の戦闘加入、一般に攻撃三倍原則という防御に対して三倍の兵力を展開させねば勝利は得られないとの原則があり、戦闘力は攻撃側にとり時間や展開する空間と共に急激に消耗する実情があります、ここを増援により優劣の変化を抑える必要がある。

 AAV-7は二両が展開し、空挺団が構築した重迫撃砲陣地を超越し第一線へ急行します。今回の想定は島嶼部防衛、通常空挺部隊は最高度の機動力を以て地上戦闘の重戦力が構成する主力にたいし、包囲部隊や迂回機動、緊要地形の確保を以て敵戦力を撃滅するのが務め。

 AAV-7から12.7mm機銃が。島嶼部防衛における戦闘では仮想“習志野島”の沿岸部に空挺部隊が強襲降下し空挺堡を構築、これを以て島嶼部奪取を担う水陸機動団主力と即応機動連隊が上陸する為の敵の接近経路を封じる事が任務です。わが着上陸は完了しました。

 第22即応機動連隊、16式機動戦闘車が第1空挺団の軽装甲機動車と協同し肉薄します。第22即応機動連隊は多賀城駐屯地に第22普通科連隊を改編し創設された新しい精鋭部隊で、第6師団隷下にあります。部隊マークをみると第6戦車大隊から大きく変りましたね。

 仮設敵部隊もT-74戦車とBTR-96装輪装甲車を展開して盛んに反撃を加えてきます。74式戦車、いやT-74戦車は油気圧懸架装置により地形防御を最大限活かす構造という事ですが、確かに稜線に殆ど隠れており、我が空挺部隊の防衛線に機械化打撃力で迫ってきます。

 16式機動戦闘車とともに第1空挺団第2普通科大隊本部管理中隊対戦車小隊の中距離多目的誘導弾が必殺の対戦車ミサイルを展開します。幌取り外し空輸に備え最大限軽量化していますが、このミサイル、射程は8km程度あるとされ、軽装備の空挺団には心強い味方だ。

 60mmB迫撃砲、空挺団の新装備が敵に向け火を噴きます。オーストリアのヒルテンベルガー社製M6C小型迫撃砲で受領僅か5.1kgと軽量ながら射程1600mを発揮し毎分15発の連続射撃が可能です。水陸機動団や特殊作戦群に配備され、空挺降下訓練始めでは初参加か。

 10式戦車と90式戦車、重戦力部隊が戦闘加入を開始します。10式戦車は駒門の第1戦車大隊の所属、そして90式戦車は林の向こう側に車体と砲身の一部が見えています、自衛隊迷彩というものは本当に日本の国土に溶け込むのだ、90式戦車が証明してくれました。

 10式戦車の射撃、AAV-7と比べ小柄で精悍な車体には120mm滑腔砲が先進的な射撃統制装置と共に搭載され、蛇行し回避運動を継続つつ遠距離での移動目標を高精度に撃破する性能があります、相方となる新装甲戦闘車の試験も昨今、装備実験隊にて進む最中という。

 AH-1S対戦車ヘリコプターが上空から敵戦車にTOW対戦車ミサイルを以て猛攻を掛ける、年々老朽化により用途廃止が進む機体、後継機AH-64Dが高過ぎ調達中止となったのですが、AH-1ZにしろEC-665/PAH-2にしろ世界に安い戦闘ヘリコプターなんてありません。

 90式戦車と10式戦車は装甲防御力に物を言わせて第一線を超越、奥に展開する空挺団降着部隊は後続する空挺団の軽装甲機動車と合流を果たしました、仮想“習志野島”に着上陸した敵は戦車に蹴散らされたとの想定、こうして訓練場には状況終了のラッパが鳴り響く。

 空挺団集合。例年ですと、逆襲部隊が攻撃を仕掛けてきまして、負傷者が発生しヘリコプターによるダストオフ緊急搬送や、逆襲部隊と我が増援部隊と第一線の維持を巡る激しい攻防戦が展示されるのですが、何か本年はあっさりと状況終了、となった印象なのですよ。

 降下訓練始めは前篇で示しました通り、防衛大臣視察の公的行事、訓示に向けて集合を急ぎます。第82空挺師団と共に降下した第1空挺団、なにしろ日本唯一の軍隊とかいろいろといわれる空挺団ですので、引き締まっているのが羨ましいですね。私も運動しなければ。

 AH-1S対戦車ヘリコプターとUH-1J多用途ヘリコプター、一時代を築いた陸上自衛隊ヘリコプターですが、後継機の問題と真剣に向き合わねばなりません。特に第82空挺師団と連携するのですから、思い切ったUH-60JAやAH-64Dの一括大量取得が必要だとも、思う。

 状況終了とともにCH-47J.JA輸送ヘリコプターが編隊飛行を行います。実はこの最中、小雨が飛んでいたのですね。天気予報では雨天が曇天と二転三転し、遂に降雨か、と嘆息に防滴装備準備の右往左往でしたが、本降りとなる前に状況終了となったのは幸いでした。

 河野防衛大臣に対し敬礼。CANON-G3X、同じCANONのカメラでも昨年この様子を撮影しましたCANON-G7Xmark2では24-105mmというズーム、対してCANON-G3Xはデジタルズームで2400mm相当まで延びるのですが、ノイズを抑える設計でもう少し見える。

 河野防衛大臣訓示。自衛隊はこの二週間前の年末にホルムズ海峡タンカー攻撃事案を受けてアラビア海へ情報収集への護衛案派遣が決定していまして、更に南シナ海の緊張と東シナ海の情勢、北朝鮮ミサイル等、緊張感を以て地球規模の情勢と向き合わねばなりません。

 第82空挺師団副師団長と第1空挺団長の降下徽章交換式、防衛大臣訓示に続いて実施されました。グリーンベレーも並ぶ最中でこうした式典、なるほど、今年の訓練展示が素早く状況終了となりましたのは、日米空挺部隊のこうした交歓の式典が在る為、だったのか。

 降下徽章交換式、多国間の空挺部隊が共同訓練を実施した際には行う交換行事という事ですが、この後に集合している日米空挺兵全員が降下徽章を交換しました。世界中の何処の国でも空挺部隊は最精鋭部隊、この精鋭部隊同士の交歓というものは、なにか新しかった。

 グリーンベレーと徽章を交換するのはやはり精鋭、特殊作戦群の隊員なのでしょうか、日米空挺部隊の協同と共に展示された島嶼部防衛、令和時代初の空挺降下訓練初めにして新しい2020年代の始まりを告げる日米空挺部隊の降下訓練は、こうして完了しました。

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衛生自衛隊が必要だ:3.11東日本大震災追悼【1】巨大災害,自治体防災の限界という現実

2020-01-18 20:11:04 | 防災・災害派遣
■来たる次の巨大災害へ備えて
 環太平洋火山性弧状列島に国土を構成する我が国では災害というものは常に認識せねばなりません。

 巨大災害、今年も東日本大震災鎮魂の日が近づいて参ります。3.11、実に二万人近い人命が地震と津波により失われ、この巨大津波により引き起こされた福島第一原子力発電所事故は我が国のエネルギー政策を根本から転換させるとともに、資源価格高騰という形で世界へも影響を及ぼしたと共に、帰還困難地域では今なお除染作業が延々と続いています。

 東日本大震災を教訓として、これまで派生を想定外として来ました巨大災害への脅威度が見直され、我が国では数百年周期で発生している巨大災害を再検証した結果、首都直下型地震や南海トラフ巨大地震という、自治体の防災枠組を根底から破砕し押し流す懸念が認識されるに至りました。そこで、衛生装備という観点から今年は巨大災害を考えてみたい。

 自衛隊の衛生装備は一例としてNATOや同盟国アメリカ軍と比較し、非常にその能力が限られているのではないか、この視点はPKO南スーダン派遣に際し問題視されました。第一線部隊では、しかし当然以前より問題視されており、自衛隊派遣に際し国会において議題化されたことも併せ従来低かった予算上の優先度を繰り上げ、改善した事は記憶に新しい。

 衛生部隊、実は自衛隊は諸外国と比較し野外衛生システムという装備では、少なくとも米軍よりも先進的な部分を有しています。米軍ではダストオフ、有事の際には可能な限り早く航空搬送を実施し、軍団単位で野戦病院を設置、治療を実施します。自衛隊の場合は軍団単位で野戦病院を設置するよりも専守防衛故に大都市病院施設をそのまま利用できます。

 自衛隊の衛生装備はこうした背景から、包帯所の十数kmから数十km後方には野外衛生システムを展開させ、入院可能な病院施設までの究極の応急処置というべき外科手術を含めた野戦医療体制を構築しているのです。ただ、この有事に備える装備体系をもう少し視点を変えて考えてゆく時代を迎えているのかもしれません、特にあの3.11以降の我が国では。

 巨大災害。さて自衛隊の医療システムですが幸いにして自衛隊創設以来国土が戦場となる事態は回避出来ています。しかし日本国内で大量の死者が発生する状況を戦後に限って回顧してみますと、5000名以上の人命が失われる事態では、1959年伊勢湾台風、1995年阪神大震災、2011年東日本大震災、実に三回ありました。これは異常事態といえましょう。

 先進国で短時間に5000名以上の人命が失われる事態、戦争を含めて、なかなかありません。1000名以上の人命が失われる、と限定しますと2001年の9.11同時多発テロや2005年のハリケーンカトリーナというアメリカの事例が加わりますが、我が国では1940年代から1950年代にかけ多数発生しています。戦災直後故にこの実情を忘れてはいないでしょうか。

 地震災害と台風災害、死者数で1000名以上という規模で再考しますと、1945年枕崎台風の3756名、1946年南海地震の1443名、1947年カスリーン台風の1930名、1948年福井地震の3769名、1954年洞爺丸台風の1761名、1958年狩野川台風1269名、1959年伊勢湾台風の5098名、実に9回にも上ります。防災対策の多寡もありますが災害規模も大きい。

 公共事業の膨大な実施、実のところ日本は戦後、ソ連軍の北海道上陸よりも巨大台風の本州上陸のほうが脅威としては蓋然性が高く、この為に主権者が求める優先度の高さは軍事的な防衛もさることながら国土強靱化を求める声の方が大きかったといえるでしょう。しかし、国土強靭化、堤防建設や防波堤建設に耐震構造強化には限界を突き付けられました。

 2011年東日本大震災は19000名以上の人命が一度に失われるという未曾有の大災害となりました。安全神話、という単語は1995年阪神大震災の阪神高速道路や山陽新幹線橋脚崩落とともに過去のものとなった、とは云われているところですが、あくまで京阪神地区の限られたものとの認識であったのでしょうか、社会を変革させるものではありませんでした。

 2011年東日本大震災はこの部分に直接揺さぶりを掛けた構図といえましょう。そこで、災害と武力攻撃を一つの“有事”という概念で包括的に受け止め、その上で受傷後の救命を社会インフラが機能しない状況下においても平時と同様に維持する機構として、衛生自衛隊、という概念を陸海空自衛隊と同格の新しい自衛隊として検証する必要を、提示したい。

 衛生自衛隊、実のところ規格外の巨大災害に備えるには自治体の防災システムには限界があり、社会インフラというものも東日本大震災規模のものに確実に備えられる水準のものを整備することは不可能であり、自衛隊の構造そのものを変革し、強靱な防災枠組みと防衛枠組、巨大災害を有事と例えて、いや有事そのもの、と取り組む必要はないでしょうか。

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令和元年度一月期 陸海空自衛隊主要行事実施詳報(2020.01.18-01.19)

2020-01-17 20:20:13 | 北大路機関 広報
■自衛隊関連行事
 本日は阪神大震災鎮魂の日です、そして金曜日で行事紹介の日なのですが今週末は行事は行われません。

 今週末の自衛隊行事無し、という週末にはやんわりと防災資材の点検に勤しみたいところですが、思い切ってプラモデルなどを組み立ててみる事はどうでしょうか。模型愛好家から自衛隊関連行事でウェザリング、つまり車両のどこに泥が付くか、整備工具の配置等を研究するべく駐屯地へ行事を撮影される方も少なくないようですが、模型は発見も多い。

 当方も十代前半の頃までは戦車模型を多数、日曜日に自衛隊行事へ行く事が難しく、なによりインターネット普及前では行事日時も分からなかった為ですが、戦車は戦車大隊規模で組み立てました。最近は海外製メーカーの金型精度も向上し、素組でも満足できるものが多いのですが、ただの模型からでも設計思想や運用思想と戦略観の片鱗が見えてきます。

 実物を海外まで見に行くのはちょっと難しい、という方でも、部隊編制の概要と戦史の研究書や予算体系の分析に併せて、どういった設計思想かを見てゆきますと、軍事力という輪郭が書籍以上に見えてくるものです。自衛隊行事にて知る知識や何よりも雰囲気に応用させ、軍事力全般を俯瞰しますと、軍事力への新しい視点が見えてくるかもしれませんね。

 さて撮影の話題を。ミラーレス一眼カメラ、いよいよ各メーカーからフルサイズとAPS-Cとで様々な機種が栄華を誇っていますが、価格帯が手頃なものはファインダーを有さない機種が大半となっています。ここで一つ思うのですが、コンパクト機種では電子光学ファインダーを有する者は圧倒的に少数派ですし、スマートフォンのカメラ機能にファインダーはそもそもない。

 カメラ愛好家で若い方などはファインダーでカメラを操作する事を、知識としては知っていても実感として慣れていない方、というのが実はその内に多数派を占める時代となるのかな、と思いつつ、例えば高倍率ズームレンズや高倍率ズーム機種、慣れている方は例えば飛行機雲を曳く成層圏の旅客機の様な被写体も画面だけでバチンと狙えるのでしょうか。

 一眼レフでは被写体を認識できない場合はズームを解除して場合によってはマニュアルフォーカスでフォーカシングします、それで撮り逃す事はほぼないのですが、ミラーレス機種はどうもこの性能がまだまだ開発中という印象でして、若しかして画面だけで撮影する方は、余り被写体を熱心に追わないものなのでしょうか、ちょっと気になってしまいます。

■駐屯地祭・基地祭・航空祭

・今週圧の行事なし

■注意:本情報は私的に情報収集したものであり、北大路機関が実施を保証するものではなく、同時に全行事を網羅したものではない、更に実施や雨天中止情報などについては付記した各基地・駐屯地広報の方に自己責任において確認願いたい。情報には正確を期するが、以上に掲載された情報は天候、及び災害等各種情勢変化により変更される可能性がある。北大路機関
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阪神大震災二十五年:鎮魂の1.17,巨大災害“想定外被害”への万全対策を如何に築くか

2020-01-16 20:03:19 | 防災・災害派遣
■巨大災害には"相"がある
 明日の未明に神戸は阪神大震災二十五年目の鎮魂の日を迎えます。しかし祈るだけの鎮魂とともに次の災害への備えを万全とする鎮魂の在り方も必要だとかんがえるのです。

 二十五年目の震災、阪神大震災から学ぶべき教訓は、阪神大震災の再来を警戒して次の阪神大震災、野島断層が同じ規模の揺れを引き起こした場合でも一軒の倒壊家屋も出さない準備を兵庫県が実現したとして、”相”の異なる南海地震などの災害には無力である可能性がある、という事なのかもしれません。南海地震が想定最大規模で起こった場合は、と。

 南海地震は南海トラフが周期的に引き起こす巨大地震で、地球物理の原則に従い動き続ける大陸プレートが歪みを蓄積し発生します、この揺れの周期は直下型地震と異なり中層と高層建築物に影響を及ぼす、2011年東日本大震災において痛感した長周期振動が被害を引き起こすとともに、神戸だけを想定しても南海地震が誘発する津波は確実に懸念されます。

 由良水道から南海地震の津波は大阪湾に侵入し、第二室戸台風規模の高潮を想定した大阪湾の防潮設備を越える懸念があります。また揺れに対しても確実な安全性へは安全係数を再検証する必要がある。明石気象観測所、実のところ兵庫県南部地震の揺れの計測は多くの測地施設により計測されていますが、明石測地施設、これをもとに補正したものです。

 神戸市内の激震には計測数値を補正した数値が公式の計測値となっており、実のところ阪神大震災を想定した耐震構造は必ずしも万全とはいえない、という。摩耶水害を想定した重厚な屋根構造が、阪神大震災の直下型地震には重心の住宅への影響が、という実状、実際に災害の相が相互悪影響を及ぼす一例ともいえるのですが、耐震構造にも不安は残る。

 阪神大震災に耐える耐震性、例えば耐震補強に安易に住宅外部に鉄骨を這わせる補強方式は数値上強度を高めることはあっても振動幅の相によっては逆に鉄骨の固定部が住宅を圧潰させる懸念もあり、対策の難しさを示しているのかもしれません。地震対策、それでは阪神大震災を念頭とした対策は無意味であるかと問われれば、これは次元が異なります。

 直下型地震の対策は、以上の通り、海溝型地震に対処できるものではない事は事実ですが、直下型地震が再来しないわけではありません。直下型地震対策も海溝型地震対策も津波対策も巨大台風対策も豪雨深層崩壊対策も必要だ、という事です。カルデラ噴火、例えば災害には”相”があるという懸念は同時に全く異なる角度からの災害も懸念しなければない。

 カルデラ噴火を例に挙げれば、例えば四国沿岸の原発が九州の阿蘇カルデラに対し破局噴火による全包囲火砕流が発生した場合に脆弱性がある、として九州沿岸住民から訴訟もありました。この点は災害全般を再認識すべき事例ともいえる。阿蘇カルデラ噴火、この懸念が前駆現象として認識された場合には、九州のほぼ全域と本州や四国の一部が危険です。

 阿蘇カルデラ噴火、鹿児島県南部と長崎県離島を除く九州全域の警戒区域指定と全住民一時退避、1200万名規模か、こうした施策も検討する必要さえ、出てくるようになり得ます。しかし、これも現実的に何処まで可能なのでしょうか、ここが視野狭窄です。要するに阪神大震災だけに視野狭窄となることは逆に次の災害へ脆弱性を高めてしまう、ということ。

 危機管理、阪神大震災を追悼しつつ過去の南海地震や摩耶水害に第二室戸台風の犠牲者を追悼する、西日本豪雨災害も含めて広い視野をもつということは、逆にあらゆる被害に手持ちの防災資材で対応する、危機管理の意識、というもの、この養成と共有こそが必要なのかもしれません。想定外災害は起き得る、逆に想定外を無くす事は可能なのでしょうか。

 想定外を完全に払しょくしようとするならば、中二病的な危機管理が必要となる。しかし、平時の手続きを考えるならば、巨大地震は直下型と海溝型、津波にカルデラ噴火と豪雨に暴風まで備える羽目となり、日本に暮らすことは出来なくなってしまいます。そしてすべての災害に対応する、要塞のような城郭都市に暮らすことは、息苦しい事となりましょう。

 要塞都市のような万全の災害対策、息苦しいという観念的な発想を示しましたが、同時に経済発展をも阻害するのではないでしょうか。核攻撃。実のところ危機管理の意識というもの、特に想定外の事態に対しても手持ちの資材と人員を有効活用し、対処できる能力を資材ではなく資質として養成するならば想定そのものが成り立たない事態へ対応出来ます。

 阪神大震災への鎮魂は、併せて東日本大震災はじめ多くの災害への鎮魂とともに、想定外はありうる、万全の対策はない、という原点こそ、共有すべきなのかもしれません。ただ、これは組織の垣根や平時の法秩序との関係もあり、一概に考えられる以上に困難さが伴います。その認識と想定外の非常事態はある、こうした認識が防災には必要なのでしょうね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】智積院(五百佛山智積院),二〇二〇年代最初の拝観は和解宥和の歴史を湛える

2020-01-15 20:01:03 | 写真
■智積院,二つの寺院二つの歴史
 年末年始は国際情勢に中東と極東に緊張が生じいまも継続していますが、京都の歴史はその和解の道筋を今に伝えています。

 智積院。金剛界大日如来を奉じるこの御山は、東山区東大路通七条下ル東瓦町、京都駅から上って最初の大路である七条通を東山の方角へ、鴨川を越えて更に歩みを進めますと至る寺院です。2020年最初の拝観、角松迎える御山は2020年代最初の拝観となりました。

 五百佛山智積院。知人友人と拝観する際には三者三様の趣きが可笑しく、無論私を含めて幾つか。智積院、先ず読めない難読寺院です。智積院、隣接の三十三間堂から見える七条通りに面した門は閉ざされ拝観できないと誤解も。瓦町、阪急の河原町と聞違える、など。

 玄宥が開山の智積院、ちしゃくいんと読むのですが、上記複雑さ以上にその歴史も深く、開山は慶長年間1598年、しかし二つ寺院が統合し創建された寺院なのですね。一つは豊臣秀吉創建の祥雲寺、そしてもう一つは紀州の大伝法院根来寺、歴史に残るあの根来寺です。

 祥雲寺は豊臣秀吉の嫡男で太閤溺愛の愛児でしたが、健康に恵まれず齢三歳にてこの世を去った鶴松、その冥福を祈り豊臣秀吉が建立した寺院であり、父として秀吉はこの隣の豊国神社より鶴松の御山を今も見守っている、という心温まる話です。そして根来寺は、と。

 大伝法院根来寺は平安朝後期の大治年間1130年に興教大師覚鑁により紀州に建立成った新真言宗の寺院です。興教大師覚鑁は弘法大師空海の再来と云われた高僧です。しかし、高野山とは対立し保延年間1140年には錐もみの乱として根来寺は焼き討ちにも遭っています。

 根来衆。伝法会道場として多くの経典と共に信徒と信仰が集った御山には室町末期には寺領72万石を数える程となり、膨大な経典と共に膨大な鉄砲も集まり、自衛のための実に二万近い僧兵も囲う。根来衆は織田信長とも親交を結び、共に石山本願寺を攻めています。

 紀州。しかし、信長没後に徳川家康と豊臣秀吉の対立が激化すると、天正年間1584年の小牧長久手の戦いに際し、岸和田城等豊臣陣営の近畿根拠地に重大な脅威となり、豊臣秀吉は翌1585年に根来攻めを決意します。動員兵力実に10万、根来寺は灰燼に帰しました。

 智積院。さてもともと七条の御寺は根来寺の塔頭寺院でした。根来寺の僧徒は根来寺失陥に際し真言宗の御縁で当初高野山を頼りますが、信長の高野山攻めに際し根来衆は信長と協力関係に在り、流石に荒廃から復興最中の高野山も快く迎えるには限界が、といえます。

 玄宥。根来寺の法主は僧兵を囲ってはいたが元々は伝法院であり教育が目的であるとして新真言宗を伝え残すべく、高尾山神護寺、醍醐寺三宝院、今の京都市の郊外を転々としますが、豊臣秀吉存命中は流石に再興は叶いませんでした。しかし、徳川家康の理解を得る。

 豊国神社。没後の豊臣秀吉を祀る巨大な社殿は慶長年間1600年、その社領一部が徳川家康により玄宥に寄進され、五百佛山智積院として再興を果たします。その地というのが、豊臣秀吉の子鶴松、早逝の冥福を祈る祥雲寺であったのですね。元和元年1615年に転機が。

 大坂城落城、元和元年1615年に豊臣家が滅亡します。豊臣家所縁の祥雲寺はこうして廃寺の危機を迎えるのですが、寺領は幕府により智積院に与えられ、幾度か火災に見舞われるも再建、今日でも秀吉造営の利休庭園と共に智積院として現存し、拝観する事が出来ます。

 和解の象徴といえるのでしょうか。徳川家康は酷な事をする、とは根来寺と豊臣家と豊国神社の関係を思い当時考えたものですが、見方を換えれば和解の象徴ともいえます。年末年始は中東と極東の情勢が不穏過ぎる出来事が重なりました故に、なにかこう考えました。

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阪神大震災二十五年:鎮魂の1.17,四半世紀経た今日に回顧する“あの震災”と将来の防災

2020-01-14 20:20:48 | 防災・災害派遣
■二十五年目の阪神大震災
 二十五年と云いますと長いようで短く、大事を成し遂げるには短すぎしかしながらと教訓を継承するには長すぎる、そんな印象を覚えるところです。

 阪神大震災から今週で25年目となりました。平成時代の幕開けとともに数千名の犠牲者が生じた巨大災害は1950年代の悪夢である、耐震構造と地震予知や防災行政の数多施策が造営した安全神話、これが都市直下型地震にたいして想定以上の脆弱性を突きつけた巨大地震の被害でした。死者6434名、政令指定都市が震度七の激震に襲われた初の事例です。

 兵庫県南部地震、1995年1月17日の0546時、淡路島付近を震源としたマグニチュード7.3の地震が発生、震源の深さは16kmと浅く、震源から少し隔てた大阪市や姫路市の被害はそれほどではありませんでしたが、活断層のほぼ真上の神戸市と西宮市、宝塚市と淡路島のほぼ全域は震度七の突き上げるような、叩き崩し、突き刺すような激震に圧されます。

 摩耶水害を念頭に豪雨対策として重厚な瓦屋根を重視していた住宅が、特に平屋や二階建住宅に最悪の振動周期で神戸の住宅街を襲い、未明の地震は特に就寝中の市民に厳しい結果を突きつけ、直後に神戸市東灘区を中心に大火災を誘発、そして阪神高速道路や山陽新幹線高架、阪神電鉄はじめ主要私鉄の本来地震に強いとされた施設をも倒壊させました。

 野島断層、淡路島北部から神戸市に延びる活断層、実のところ巨大地震への対策はそれほど後手とはいえない我が国、神戸は過去に明治以降巨大地震がないということで対策が手薄とも後に指摘されていましたが、耐震基準の厳格な適用と近代的な消防設備は、今風に言えば想定外、市民を守りきるほどに高度な対策を実現できていなかった事が露呈します。

 自衛隊災害派遣要請の遅れ、当時の井戸知事(※202001151205訂正-正:貝原)が知事公舎から送迎車を延々と待ち続け、当時の村山総理が首相公邸にてテレビを視聴するに留めており、自衛隊災害派遣は指揮官判断で行える近傍災害派遣にとどまり、主力の投入まで超法規的措置を執らなかった事で当時の中部方面総監が批判されています。しかし超法規的措置は法治国家には理想的なのか。

 超法規的措置、実のところ東日本大震災では統合任務部隊設置命令を待たずして隣接方面隊支援などを開始しましたが、全て緊急時に超法規的措置を公使できるならば危機管理法制さえ不要であるものの、それは法治国家として妥当なのか、という素朴な疑問が生じます。一方これは同時に阪神大震災ではもう一つの分析視野、安全神話があったのだ、とも。

 安全神話とは災害への想像力といえましょうか、大規模な自衛隊災害派遣を必要とする災害ではない、そんな巨大災害が神戸で起こるわけがない、という認識とともに、防災当事者が視野狭窄、目の届く範囲の被害が全てである、という認識を各所で共有していたことが、結果的に甚大な被害を防ぐためのいくつかの基点を逃す事となったのかもしれません。

 東日本大震災、阪神大震災、伊勢湾台風、戦後の巨大災害を回顧しますとこの三つの災害が特に印象深いのですが、ここから導き出せる、導き出すべき教訓は数えることができないほどに多いのですが、二十五年目の本年、改めて考えたいのは同じ災害というものが来るという事はない、災害個々に個性というか傾向があり“災害には相がある”ということ。

 巨大災害には“相”というものがある、前回の巨大災害を念頭に整備された防災基準や防災計画は、次の災害には役に立たない可能性がある、ということなのかもしれません。実際、阪神大震災を念頭に厳格化された耐震基準の遵守は東日本大震災には別の脅威の前に脆弱でした、震度七に耐えた建物もあの震災の災厄、津波には耐えられなかった為です。

 関東大震災、耐震基準の多くは関東大震災規模の地震が再来した場合でも全壊はしても倒壊を回避し人命を守る、という基準がある。しかし、関東大震災は相模トラフの海溝型地震であり、同じ関東を襲った安政江戸地震の直下型地震と比較しても、被災地域が重なる以外は揺れの周期が根本から異なります、阪神大震災はいうなれば安政江戸地震型でした。

 地震予知。実は東日本大震災までは予知の精度を上げる予知が認識されていました、関東大震災を契機に海溝型地震で活断層が陸上まで延びている東海地震のみに対しては体積歪計や深深度井戸精密地震計測装置により前駆現象を把握できるのではないか、という関東大震災を受けての1940年代からの東海地震予知の試みがあったためで、誤解を生みました。

 東海地震、地震が予知しうる、と誤読させていたのかもしれません。実際、東海地震は駿河トラフが沼津や伊豆半島に延びているために駿河トラフの前駆現象が予見しうるだけであり、同じ駿河トラフを震源とする東南海地震は予知不可能であるとともに、東南海地震の震源が東海地震を誘発させる場合には、東海地震の前駆現象は無い可能性も指摘される。

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【G3X撮影速報】令和二年第1空挺団降下訓練始め,2020年代拓く日米空挺(2020-01-12)

2020-01-13 20:08:01 | 陸海空自衛隊関連行事詳報
■令和時代初の降下始め挙行
 日曜日の昨日に千葉県の習志野訓練場にて実施されました第1空挺団降下訓練始めの様子を紹介しましょう、本年はアメリカ第82空挺師団も参加しました。

 第1空挺団降下訓練始め視察へ習志野訓練場に到着した河野太郎防衛大臣、第145代と146代外務大臣を経て2019年9月11日より第20代防衛大臣の重責を担っています。大臣はCH-47搭乗中に空挺団幹部の空挺降下を機上から視察、その上での訓練場入りという。

 C-130J輸送機とC-130H輸送機が空中待機しています、C-130Jはアメリカ空軍横田基地より参加の航空機、C-130H輸送機は航空自衛隊小牧基地の航空機、日常的な風景に見えるものではありますが、日米輸送機が一堂に会し参加した、史上初の空挺降下訓練始めです。

 P-3C哨戒機、状況開始と共に飛来、我が国島嶼部が第三国の勢力により侵略されたとの想定で、情報収集へ参加した海上自衛隊の哨戒機です。海上自衛隊下総航空基地より参加の機体で、早朝にP-1哨戒機が厚木基地を離陸したという事ですがこちらは実任務のもよう。

 LR-2連絡偵察機が、P-3C哨戒機の島嶼部への着上陸察知を受けて、敵情を偵察すべく“習志野島”付近へ進出しました。現実的にはLR-2は敵防空火器の前に脆弱性が高く、実際の有事に際しては新装備であるスキャンイーグル無人偵察機が投入される事となりましょう。

 パスファインダーの展開、CH-47JA輸送ヘリコプターより高高度降下を開始します。高高度から滑空する自由降下傘を用いた場合、30kmもの長距離を滑空する事が出来、有事の際には夜間空挺降下による隠密進入等に多用されます。この日の悪天候が雰囲気を盛上げる。

 C-130J輸送機の展開、アメリカ空軍の輸送機が空挺降下の先陣を務めました。概算で航空自衛隊の輸送機はC-130HとC-1輸送機が各1個航空隊の30機、そして最新鋭のC-2輸送機が10機程度ですが、横田基地のアメリカ空軍では、C-130J等を30機装備しています。

 第1空挺団の主力が降下します。先ほどの自由降下は誘導員等を専攻展開させ、この主力を誘導したのですね、しかし時代も変わりました、空挺降下訓練始めの先陣をアメリカ空軍の輸送機から自衛隊の空挺隊員が降下するのです。令和時代初の降下訓練始め、開始だ。

 16式空挺傘が花開く。C-130J輸送機がアメリカ空軍の機体ですので、此処から降下した空挺兵もアメリカ陸軍第82空挺師団の将兵か、と思いますと次々と花開くのは自衛隊が装備する16式空挺傘です、まぎれも無く自衛隊の空挺部隊が米軍輸送機から降下していますね。

 第101空挺大隊臨時空挺練習隊、自衛隊初の空挺部隊が創設されたのは1955年、自衛隊空挺部隊は精強部隊を育てるには空挺部隊が良いとのアメリカ陸軍助言と共に第101空挺師団の支援を受け、第187空挺連隊の教育とともに九州で創設されました。そして現在に至る精鋭部隊が育ちました。

 C-1輸送機からの降下開始、第1空挺団は団本部、団本部中隊、中隊本部、偵察小隊、降下誘導小隊、第1普通科大隊、第2普通科大隊、第3普通科大隊、空挺特科大隊、通信中隊、施設中隊、空挺後方支援隊、空挺教育隊、以上を基幹とする現在2200名規模の編成です。

 C-2輸送機からの空挺降下、2019年の空挺団降下訓練始めより川崎重工が開発した最新鋭のC-2輸送機がこの訓練に参加しています。習志野訓練場は空挺部隊訓練場としては非常に狭く住宅地に囲まれている為、同時降下に制限があり、単機に分かれて降下訓練を行う。

 C-1輸送機が再度続きます。16式空挺傘は空中接触に際しても原型復帰が素早く、こうして左右両方の扉から次々と降下する事が出来るようになりました。前のM696M1空挺傘ではこうは行かず、時間が掛かりました。同時多数の降下、実戦的になったといえますね。

 C-2輸送機からの降下が続く。狭い習志野訓練場でもこうして空挺降下が可能である為、実のところ有事の際には相当狭い地域、飛行場強襲は勿論策源地強襲が重要施設強襲といった任務にも、投入し得る練度が在るようにも思えるのですが、地の利の功名、といえます。

 空挺降下は落下傘により優雅に舞い降りる、と表現されると事ですが無風快晴などの良好状態でも衝撃は建物の二階より荷物を背負って飛び降りるのと同じ衝撃が加わり、この日の様に少しでも風が吹きますと条件は三階から着地するのと同じほどの衝撃があるという。

 第1普通科大隊と第2普通科大隊と第3普通科大隊、第1普通科大隊は第1中隊と第2中隊に第3中隊、第2普通科大隊は第4中隊と第5中隊に第6中隊、第3普通科大隊は第7中隊と第8中隊に第9中隊、全体で9個中隊が置かれ、ローテーションで即応体制を執る。

 空挺普通科群、2004年までは4個中隊を基幹とし各中隊は220名規模の編成でしたが、2004年の改編で3個空挺大隊態勢となり、空挺大隊は380名規模となり、三巡待機体制を執る事が出来る様になりました。各大隊には情報小隊と通信小隊に対戦車小隊、独立性を持つ。

 空挺部隊が精鋭部隊である、という背景には空挺降下に頑強な体力と気力が必要であり、開くかは多少運が在った草創期の空挺部隊にはこれに加えて胆力も必要でした、が、何よりも独立運用が基本で掩護を受け難い挺身運用を背景には戦闘力の高さも求められました。

 精鋭部隊である空挺団は、例えば情勢悪化により在外邦人に危機が生じた場合、邦人救出任務で明日、イランとの緊張が高まるイラクやトルコ親中に揺れるリビアや内戦が続くイエメンや北朝鮮の影響大きな韓国へ出動を命じられる可能性もあり、即応部隊なのです。

 習志野訓練場に降下完了し、落下傘を収容しつつ第一線へ向かう空挺隊員、しかし習志野訓練場が住宅街に囲まれているという事を象徴するように近くの住宅地から降下訓練を眺める方々も、一度はこちら側から撮影してみたい、と思う事もあるのですがどうですかね。

 UH-1J多用途ヘリコプターが2機、次の展開に向けて離陸します。東部方面航空隊に所属する航空機です。さて、降着した空挺隊員と共に異なる迷彩服の一団が参加されていた事にお気づきかもしれませんが、本年はアメリカ陸軍第82空挺師団の空挺兵が参加しました。

 第82空挺師団、AAことオールアメリカンの愛称を冠する師団は1917年創設の歩兵師団が1942年に空挺師団となったアメリカ最古の空挺師団でノルマンディー上陸作戦、マーケットガーデン作戦、ヴェトナム戦争、グレナダ侵攻作戦、湾岸戦争等で勇名を馳せている。

 師団司令部任務大隊、第1旅団戦闘団、第2旅団戦闘団、第3旅団戦闘団、第18砲兵旅団、航空戦闘旅団、以上を以て編成されます。しかし親しみが増すのはベレー帽でマルーンカラーベレーを着用している、マルーン色、つまり阪急電車と同色のベレーを持つのですね。

 第82空挺師団からは本年、副師団長が参加、空挺降下を実施しています。降下に続いて陸上自衛隊が展開する、UH-1Jに続いてCH-47からも空路進入してゆきます。エアボーンに対してヘリコプター空中機動はヘリボーンと云われ、空挺堡を空路で迅速に補強してゆく。

 CH-47JA輸送ヘリコプターは原型のCH-47Jと共に自衛隊に75機が配備され、同じ千葉県の木更津の第1ヘリコプター団に32機が集中配備されています。訓練展示は状況が続き、想定“習志野島”というべきこの地域へは、更に部隊が増強、反撃に転じてゆきました。

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【日曜特集】観艦式2009-守る!この海と未来-【08】観閲航空部隊祝賀飛行(2009.10.23)

2020-01-12 20:03:18 | 海上自衛隊 催事
■相模湾陸海空自衛隊祝賀飛行
 相模湾での自衛隊観艦式、威風堂々の護衛艦初め艦艇によるその観閲式を終えると共に上空に大編隊が飛来しました。

 受閲航空部隊指揮官機としてP-3C哨戒機の2機編隊が飛来しました、自衛隊観艦式は艦艇部隊の受閲部隊に続いて祝賀飛行を展開します。P-3C哨戒機は1981年より100機が調達、一機護衛艦いしかり建造費に匹敵する高価な装備により今我が国海は守られています。

 SH-60J哨戒ヘリコプターとUH-60JA救難ヘリコプターより成る受閲航空部隊第一群、イージス艦あしがら艦上を飛行します。SH-60K哨戒ヘリコプターにより置き換えられつつあるSH-60J哨戒ヘリコプターですがこの2009年自衛隊観艦式ではこちらが主力でした。

 HSS-2B哨戒ヘリコプター後継機としてSH-60Jは1989年より103機が量産されています、吊下式ソナーと日本独自のセンサーを有する高性能機ですが後継機SH-60Kの量産によりこの観艦式十年後の2019年には24機まで規模が縮小、UH-60JAは12機が装備中です。

 MH-53E掃海ヘリコプター、受閲航空部隊第二群は海上自衛隊最大の掃海ヘリコプターで、米海軍で運用されているものとほぼ同型で掃海艇に先立ち絶対安全な空から最初の掃海を行う、令和元年の現在には全て除籍されMCH-101掃海輸送ヘリコプター10機が運用中だ。

 あしがら艦上を飛行するMH-53E,海上自衛隊最大のヘリコプターであり、航空掃海器具を曳航するその出力は怪物並と云って過言ではなく、ホイットビーアイランド級揚陸艦を一機で曳航した能力を持つ為、理論上本機一機で輸送艦おおすみ型を曳航する事も可能です。

 こんごう上空を飛行するMH-53E,この後継機であるMCH-101掃海輸送ヘリコプターはレーザー掃海器具等、従来型の航空音響掃海器具や磁気掃海器具よりも先進機雷戦装備を搭載する半面、これらは軽量となっている為にMH-53Eよりも非常に軽量機となりました。

 受閲航空部隊第三群は陸上自衛隊からの祝賀航空部隊です。CH-47J/JA輸送ヘリコプター、人員55名や装甲車を空輸可能で吊下げ空輸により短距離であれば機内と併せ軽装甲機動車2両を同時輸送可能、陸上自衛隊に至宝というべき装備で55機と多数を運用しています。

 あしがら艦上を飛行するCH-47J/JA輸送ヘリコプター編隊、イージス艦はこの2009年には艦隊防空に加えミサイル防衛任務が本格化していた時代ですが、今後は新たに水陸両用作戦における両用作戦部隊への直掩広域防空という新任務が付与される事となりましょう。

 CH-47J/JA輸送ヘリコプター、は川崎重工にてライセンス生産が実施されており、航空自衛隊も運用中、自衛隊全体で75機を装備します。実は大型輸送ヘリコプターは非常に高価であり、韓国軍や台湾陸軍は15機程度しか有していません。75機の運用は巨大といえる。

 あぶくま艦上を飛行するCH-47J/JA輸送ヘリコプター、あぶくま型護衛艦は6隻が建造されており、満載排水量は2900tとなっています。後継に3900t型護衛艦が鋭意建造中であり、満載排水量は5400t水準となりましょう、水陸機動を支援する掃海隊群へ配備予定だ。

 くらま艦上を飛行するCH-47J/JA輸送ヘリコプター、水陸機動団が新編されるのはこの9年後ですが、遡る事この7年前の2002年に西部方面普通科連隊が編成されています。ただ、現在自衛隊には、くらま除籍により艦砲を二基搭載する火力の大きな護衛艦がありません。

 受閲航空部隊第四群はTC-90練習機です。徳島航空基地の第202教育航空群へ集中配備される航空機でアメリカのビーチクラフト社製双発機を転用した計器飛行練習機となっています。15機が装備されており、老朽化した機体は新造のTC-90により代替されています。

 受閲航空部隊第五群は飛行艇部隊、US-2救難飛行艇とUS-1A救難飛行艇の編隊飛行、US-1Aは平成29年即ち2017年に最終機が除籍されました、US-2はその後継機で2016年に8号機が発注されています。海洋国家たる我が国に行動半径の大きな飛行艇は必須だ。

 飛行艇部隊は試作二号機を含む三機編隊の飛行ですが、実戦塗装の洋上迷彩US-2とまだUS-1Aは救難機塗装を維持したまま、US-2試作機は試作評価試験塗装を採用しています。期せずして三種類の塗装による飛行艇展示は観艦式2009のみの貴重な情景といえましょう。

 こんごう上空を飛行する飛行艇部隊、波高3mという荒天でも離着水が可能で、波高10mという救いようのないような悪天候下でも凪の瞬間には3m波高に収まる事も多く、時間をかけて上空待機するならば、台風直下の暴風状況でもない限り救助は可能となっています。

 受閲航空部隊第六群はP-3C哨戒機、実に100機が取得されていますが、この観艦式から十年を経た令和元年には54機が残るのみ、後継機となるP-1哨戒機は2007年に初飛行していますが、令和元年現在でもP-1哨戒機はUP-1実験機含め20機しか配備されていません。

 P-3C哨戒機は米海軍アップデートⅢ仕様へ近代化されていまして、捜索レーダー換装やソノブイ信号処理装置改修、衛星通信装置を搭載し、実のところ現代でも世界最高水準の性能を維持しています。このP-3Cは高価でシーレーン防衛を重視する故に維持されています。

 P-1哨戒機の配備は始まりますが、P-3Cは単に54機へ除籍減勢された訳ではなく、EP-3電子データ収集機へ5機、OP-3C画像データ収集機へ4機、UP-3C評価支援機1機、UP-3D電子訓練支援機へ3機が改修、世界有数の電子情報収集部隊を構成する事となりました。

 受閲航空部隊第七群は航空自衛隊のC-130H輸送機です。三機編隊での飛来ですが、受閲艦艇部隊第7群の余市防備隊第1ミサイル艇隊ミサイル艇くまたかと佐世保警備隊第3ミサイル艇隊ミサイル艇おおたか二隻が航行している様子がまだ見ています、航空機は速い。

 こんごう上空を飛行するC-130H輸送機、航空自衛隊の機体ですが海上自衛隊はこの時点で運用していましたYS-11M輸送機の後継としましてアメリカ海兵隊KC-130R空中給油輸送機中古機6機の屋外モスボール機を非常に安価に取得し、第61航空隊にて運用中です。

 くらま、先ほどのC-130H輸送機三機編隊を以て受閲航空部隊の観閲飛行は完了しまして、このまま訓練展示へと向け観閲艦くらま、は大きく変針しました。艦隊の一斉回頭は各部隊の司令官による変針発動により一斉に270度を回頭する、非常に緊張の瞬間、といえる。

 いなづま、先導艦は既に変針を完了しています。この回頭は総理大臣の乗艦する観閲艦を陣形再編前に各艦から見る事が出来るよう進路272度と微妙に動いた陣形運動を行います。私も安倍総理を望見、と言いたいところですがこの日の観艦式は予行、乗っていませんね。

 いなづま、くらま、回頭。受閲航空部隊の観閲完了と共に一斉回頭するのは、此処からいよいよ訓練展示が開始される為です。訓練展示の為に回頭するのは何故か、と云われますと、此処は相模湾、いつまでも前に進みますと伊豆半島下田港に入港してしまう為という。

 くらま観閲艦、しらね型護衛艦二番艦の観閲艦は、しかし永く一番艦しらね、の名誉となっていましたが、定期整備などの関係から2006年観艦式、2009年観艦式、2012年観艦式、そして平成最後の2015年観艦式、都合四回のみ、くらま、が観閲艦となっていました。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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