誰にでも辛い記憶というのがあるようだ。幼年期、少年少女期、青年期・・・。それは普通にあると思われるが、何故か満ち足りている幸福感を味わうべき時に、辛い思い出が無意識的に顔を出す。本当は稀な幸福感を楽しめばよいのに。この幸福感から逃げ出すような癖は、自覚すると治るとも言われている。
また、辛い時の記憶を時にのんびりと俯瞰し、新たな解釈を得るのも良いかもしれない。今朝の私の場合は、どういうわけか18歳、19歳のころの辛い記憶がよみがえった。確かにつらい経験であったが、もう少し俯瞰すると、20歳の時の大きな気づきというか特異点があり、V字状に活力のある時期に向かっている。そこから考えると、辛い経験は意味あることに変わってくる。
これは一例であるが、過去に振り回されて、今ここの大事な時を無駄にしないためにも、頭の切り替え、再解釈は大事だと思う。
さて、持統天皇の和歌は確実なものもあるが、そうでない歌もある。そんな歌の一つに次の歌がある。
飛鳥の明日香の里を置きて去(い)なば君が辺(あたり)は見えずかもあらむ
(万葉集1、78)
これは、一般に元明天皇が藤原京から平城京に移る際の歌とされているが、土橋寛著の「持統天皇と藤原不比等」(中公文庫 2017年)によると、作者は太上天皇、持統天皇の歌とし、君が辺を藤原不比等の住居大原付近と解釈されている。つまり持統天皇が藤原不比等を政治的パートナーとし、藤原京に移転するときの歌というのだ。
丁度この時期は、持統天皇が天武天皇崩御の後の混乱から立ち直っていく時期と重なるが、ある意味幸福感を感じてよい移転なのに、何か不安感が漂っている。持統天皇の幼少期からの出来事を考えると、幾つも辛いことがあったと思われるのだが(祖父の惨殺、実母の死、実父(天智天皇)の死、壬申の乱の悲劇、一夫多妻の天武天皇に嫁ぐことによる辛さ、甥の大津皇子の謀殺など)、それが幸福を感じてた経験と対比され、無意識に幸福の後の不幸への不安を抱いてしまう。
しかし、その後の藤原京で歌ったと思える、有名な名歌はどうだろうか。
「春過ぎて夏来るらし 白たへの 衣干したり 天の香久山」
過去のしがらみを振り切り、今ここに生きる女帝の清々しさではないだろうか。もし先の歌の土橋説に従うとすると、潜在していた無意識の世界の辛さを、どこかで解消したようにもとれてつじつまがあうようだ。
他者(身近な人達、あるいは神仏、いろいろな関係が含まれる)と自分の関係性、無意識の世界まで含めると奥が深い。
他者との関係性とストレス曲線 3/10
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森 裕行 | |
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