昨日は、午前中が雨で残念でしたが、午後からは天候が回復。一昨日の温羅伝説のある吉備津神社や吉備津彦神社とも関わりの深いと思われる鬼ノ城に行ってきました。
写真は鬼ノ城の西門(正門?)をとったもの。遺物は7世紀後半から8世紀にかけてのもので、白村江の戦いで任那・倭連合軍が唐・新羅連合軍に敗戦し、その後唐の脅威に対抗して、水城や山城を沢山作り、大津京に遷都までしたという天智天皇の時代の城。
天候が良かったので、岡山・広島、そして瀬戸内海、四国まで見渡すことができ、当時の防衛について考えを深めた。
さらに、この鬼ノ城の鬼について考えをめぐらすと、吉備津彦神社の祭神が十代崇神天皇の治世の大吉備津彦命になっており、研究者の多くは3-4世紀の実在の大王としている。弥生時代にかかる時代であり、この鬼はひょっとすると縄文文化を色濃くつたえた人たちだったかもしれない。
帰りには、時代はやや下るが奈良時代の備中国分寺周辺にも行ってみた。武蔵野国の8重の塔は崩壊して久しいが、この地には5重の塔があり、8世紀の律令国家成立時の聖武天皇や光明皇后に思いを馳せたりした。
間もなく終戦記念日になるが、先日行った近江神宮が天智天皇を想い昭和天皇が建立したことを思い出した。第二次世界大戦の時の終戦。歴史上は、もう一つ唐・新羅に敗れた終戦もあった。そのことは、私も含めて殆ど意識していなかったが、昭和天皇はこのことを意識していたのだ。この天智天皇の時代の終戦は当然、唐が2000人大宰府に駐留したが、その実像はどうだったのだろうか?
今も昔も戦争の悲惨と愚かさは語られてきたが、なぜ繰り返されるのだろうか?