小学生のころ、友達と学校から帰るときは、いつも寄り道をした。東京の外堀公園あたりが多かったが、ツツジの陰で隠れてよく遊んだものだ。春になると、ツツジが咲き出し紫や白、赤の花が咲いた。
ツツジは家でも、道路、公園でも、植え込みにどこでもあり。だんだん年とともに空気のような日常的な存在になっていった。花をみても素通りしてしまう。
家のそばに「アゼリア・ハウス」という洒落たアパートができたときは、アゼリアというのはどんな素敵なものかと思った。アゼリアがツツジであることを知って、ちょっとがっかりしたものである。
日常的になるというのは怖いものである。昨晩バグダットERというドキュメントを見た。イラクで爆弾テロなどで負傷した兵士の緊急医療を報告したものだった。
人の死や負傷が単なる数字として、日常的に語られる中、大切なことを忘れてしまうと思う。そんなことを実感したドキュメントであった。
恐ろしい殺戮の現場から病院に運ばれた若い兵士が、従軍牧師に「泣きたかったら泣いても良いんだよ。」と言われ、号泣するシーンを観たときは涙がでた。日本でも形は違うがバグダットはあるのだろう。
ツツジの花もよく観ると美しい!
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