昨日は楽しく奈良旅行の打ち合わせをし、帰りの電車の中でU先生と大内山陵(天武天皇・持統天皇陵)から望む景色や体感について語りあった。その後、この御陵の位置について気になり地図やGoogleで調べてみた。
御陵の北側は藤原京の朱雀門方面だが大津宮や天智天皇陵も位置する。南には伝文武天皇陵、高松塚古墳、キトラ古墳など近しい皇族と思われる御陵、そして遠く熊野本宮。東は島庄遺跡など蘇我氏との関係が深い土地、そして伊勢神宮!
西は欽明天皇陵(推古天皇の父)、葛城山、そして瀬戸内海から、韓国、中国方面に続く。
6月に行く、天武・持統天皇陵。そこで私たちは新たに何を感じ、どう表現するだろうか?興味津々である。
感情表現は、頭で考えるのではなく、五感・体感で感じた本当の何かを表現することである。魂の表現といったように。意識された表面的な感情だけでなく、深層の感情までを表現できれば、どんなに良いか。
さて、持統天皇の時代を勉強していくと、権力闘争の中で悲運を背負った方々を思い出す。天武天皇・持統天皇ともに縁の深かった、甥・姪である大津皇子と大伯皇女。この二人の悲劇は大津皇子と共に殉死した山辺皇女とともに忘れられない。
3月に、私は伊勢神宮に行った。そのときに咲いていた馬酔木の写真が冒頭の写真である。大伯皇女は、天武天皇の時に伊勢神宮の斎宮にもなった皇女だが、弟が謀反(謀略か?)を起こし処刑される。悲しみの歌が万葉集に二つ収められているが、ひとつは有名な二上山の歌。そして次の歌である。
磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど 見すべき君がありといはなくに
弟の大津皇子に馬酔木を折って差し上げたいと思ったが、すでに弟は処刑されて(持統天皇に)いない。そういった慟哭の歌なのである。
蛇足ながら、天武天皇が亡くなった時の長歌も万葉集に収められている。
明日香の 清御原の宮に 天の下 知らしめしし やすみしし 我が大君 高照らす 日の御子 いかさまに 思ほしめせか 神風の伊勢の国は 沖つ藻も なみたる波に 塩気のみ かをれる国に うまこり あやにともしき 高照らす 日の御子
尚、大君の枕詞のように使われている「やすみしし」は原本では「八隅知之」と表記されているが、数字の8は意味があるようで、この天武・持統天皇陵も下方上八角墳となっている。この陵から春分・秋分のときに登る朝日。それは伊勢から登る太陽なのだろう。
今年は式年遷宮の年である。一番初めに式年遷宮を決めた天武・持統天皇。その魂は何を感じているのだろうか。
歴史から自分を知る 4/10