先日久し振りに朝、渋谷に行った。岡本太郎氏の巨大壁画「明日の神話」の前を通る。原爆の悲惨を描いた壁画の前を、企業戦士たちがザッザッと早足で通り過ぎる。その中で、呑気に写真を取っているのは、私とあと一人しかいなかった。一人でも居ると写真が撮りやすい!
今、マイミクのD氏からお教えいただき、高橋克彦氏の「火怨」を読んでいる。まだ、半分くらい読んだところであるが、実におもしろい。8世紀の東北、多賀城等で藤原氏が蝦夷を攻略したことは、記憶の片隅にあったが、それがイキイキと、蝦夷の視点で描かれ素晴らしい。「竜馬が行く」以来の熱中である。
もともと、7歳の時にアラスカのシトカに一年弱両親と住んだことがあった。シトカには日本人に似たネイティブが住んでいらしたが、親近感を覚えたものだ。彼らもロシアと戦った歴史を持つ。そんな生育史のためか、蝦夷の話は身近に感じる。
平和を愛しているにも関わらず、私たちの祖先も、生き残るために悲惨な戦争をしたのだなと思う。ただ、本を読みながら悲惨とはいえ、自分の中に戦いにワクワクしてしま感情があることに気づく。三国志の孔明や火怨の母礼(モレ)などにうっとりしてしまう自分がいる。
想えば、幼いころに桃太郎やスーパーマンを見たり読んだりし、テレビで太閤記などを家族で楽しんだりしているので、芯から好戦的なところが自分にはあるようだ。生き残るための他者否定。そこまで言わなくても、悪を懲らす!
企業に勤めていた28年間の大半は、企業戦士であったなと思う。営業の時は、競合相手と戦い、マーケティングでは勝つための様々な活動をし・・・まさに先日の渋谷の企業戦士である。企業だけでなく、家庭も社会の中にある以上、戦いの中にあることは40歳台で実感する。
そして、戦いで傷つく。他人を傷つけ、そして自分も傷つく。他者否定と自己否定がセットで訪れてくることもある。
他者否定と自己否定の誘惑が満ちている中、私たちの他者肯定力はどう維持され、育まれるのだろうか?
これは、人それぞれの生育史があり、異なるものであって良いと思う。私の場合は、この私(自己否定して全然おかしくない、邪悪な存在としての)を肯定してくれる存在を感じたことだと思う。宗教・哲学ではキリスト、生育史としては私を愛してくれた家族や学校の先生、先輩、同志・・・
自分が戦士であったこと。あるいはあり続けること。それをどう受容するかが、第一歩かもしれない。
<他者肯定力2/4>
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