最近、日本も捨てたものではないという希望を持つことが多くなった。たとえば政党の代表選挙で何人かの人が意見を戦わせたりするのを見聞きしたりで、かつてのように異常に世の中を単純化したり何かに盲従するような風潮が少しづつ変わってきたように感じるからだ。観念的な言葉で人が動く時代が去り、五感体感を伴った生きた言葉が力を持つ時代に変わりつつあるのでは。
さて、このコロナ禍の影響だと思うが、ウツの話を聞くことが今年は激増したように思う。そこで憂鬱とは何かとか憂鬱がなぜ起こるのかとよく考えるのだが、憂鬱、哀しみというのだろうか、の大半は大切な人が思い通りのことをしてくれないことで起きると思う。そうした憂鬱で絶望したり喧嘩をしたりいろいろ起こる。コロナ禍は生命の危機まで含んだ大きな危機なのだ。当然ながら危機なのであっちへ逃げよう、いやいやこっちに逃げようなど、各個人の五感体感をもとにした思惑が起こり憂鬱が生じる。
こうした場合、厳しい話し合いが必要になり胆力が必要になるが、その憂鬱に打ち勝つ光は人間観による。人間とは何か。身体や育ちが人それぞれであることは誰でも直感的にわかると思う。そして、その先が重要なのだが、日本では人間の尊厳という言葉であらわされるものだが、その言葉でイキイキとしたイメージを持つことはできない。これをわかるように説明してくれたのはU先生で、先生が学んだ欧米の比較宗教学や比較文化論から得た魂の知見だ。<心と身体は病むことがあっても、魂は病むことも老いることもなく、永遠不変の存在で臨終のときに身体から離れる生命体>。私はそれは愛そのものだと思うのだが、そういった魂を人間の中にイメージするというか信じる。
激烈な議論があっても、時代の風潮の無視があっても、相手の中に愛そのものがあることを信じる。経験的にこうした人間観を持つことは希望をもたらすように思う。
ところで、現代の日本人の多くは宗教には疑問符を投げかけるが、魂を信じている人は多数のようである。私はこれは縄文時代からの伝統だと直感的に思うがどうだろうか。縄文時代の祖先は魂を信じていたのだろうか。縄文時代は今では12,000年とか13.000年続いたと言われる。そして、その間にはコロナ禍に匹敵するような危機の時代があったことは確実である。例えば、縄文中期が終わり後期初頭(4300年前)になるころ。恐らく気候変動で関東や中部高原では環状集落の村が驚くべき勢いで分散化しなくなっていく。何千年も続いた伝統が崩れる時にはどのような軋轢があったのだろうか。そんな時代でも戦争は無かったようなので、多分何かを信じ(その前提として互いの魂を信じあった)集団的に変わって行ったのだと思う。
そのような変化は環状集落だけでなく、縄文後期中葉には東日本と西日本が文化的に分かれるという現象もあったという学者もいらっしゃる。縄文中期の終末期から後晩期はどうも宗教が盛んな時代のようだ。それは皮相な何かへの神頼みというより、ここで述べた人を信じることだったのではと私は思うのだが。
写真は隅田川の風景。最近江戸博に通っているので・・・
1/10 明るく生きるには
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