物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

ホルン

2010-02-06 11:40:39 | 音楽

私は音楽とか歴史とかにはまったく弱い。

もっとも理科系の学問に強いのかといわれるとそうでもないのでお前の「とりえ」はといわれるとつらい。

そのことはさておき、水曜日にホルンのコンサートを聞いた。これは市民コンサートの公演の一つであるが、その中に「ホルン歴史探訪」という時間があった。角笛からはじまったホルンの歴史を短時間で巡るという趣向である。

狩のときに獲物がいたという知らせに角笛が使われたというのが、楽器としてのホルンの始まりであるという。

また、ポストホルンとかポケットホルンだとかアルペンホルンとかの紹介と実物を見せて、かつそれを吹いてみせるという実演付きである。

音楽そのものはどうもホルンの音に慣れていないせいか、もう一つと思われたが、この紹介はおもしろかった。

それよりもホルンとフルートの合奏で「森の小鳥」というのがあり、これはホルンが森を象徴しており、フルートが小鳥を象徴しているという対照がよく、フルートがホルンによって生きていたのが、印象的であった。


愛媛交響楽団定期演奏会

2009-12-14 12:58:23 | 音楽

昨夜は媛銀ホール(県民文化会館)でのコンサートに行った。妻の属しているコーラスグループの指導をされているT先生がチケットを下さるというご招待であった。指定席で前から数列目で真ん中の席でよく音楽を聴くことができた。音楽を聞いてハッピーという感じはいままであまりもったことがなかったが、昨夜はハッピーという感じがした。

これは愛媛交響楽団という演奏の腕の確かな楽団のコンサートということもあったのだろうが、曲目がドヴォルザークの「新世界」とか「謝肉祭」とかとショパンの曲だったからである。私のようにまったく音楽に疎い者でも中学の音楽の時間にドヴォルザークは当時レコードで何回か聞いたことがあったからである。ピアノの黒田えりさんは松山東高の出身だとかで、この地方ではよく知られたピアニストだったらしい。現在オーストリアに留学中だが、まだ20代半ばだというから、すばらしい。

また、先回の市民コンサートがやはりドヴォルザークのアメリカという曲が演奏されてドボルザークを聞いたからでもある。新世界は多分に管楽器が主役を務めているということに今回初めて気がついた。大体、私はバイオリンとかの弦楽器の音は好きだが、ピアノはあまり好きではないのだが、今回の黒田さんの演奏は気に入った。

それとコンサートに出かけたときに数人の知人に出会った。M夫妻はテニスで知り合ったし、Tさんはドイツ語の関係で知り合った。また、元同僚だったI 先生ご夫妻にも会った。また、妻がコーラスグループでお世話になっている二人のT先生にもご挨拶をした。

私などはあまり人とのつき合いがない方だが、それでも何人かの人と知り合っているということがわかった。もっとも妻のつき合いの広さのお陰でもある。


小泉文夫

2009-11-28 13:42:30 | 音楽

「小泉文夫は天才だ」と音楽にも造詣が深いドイツ語学者のMさんから聞いたのはもうかなり前のことである。鶴見俊輔さんがエッセイで書いていたのではどうも天才とまでは感じなかったが、優れた学者であるとは感じた。

小泉文夫は比較的若くして亡くなったらしい。50代の半ばで。私は音楽に暗いので小泉文夫の天才については判定のしようがない。ただ、独特の音楽観を私たちに与えたことは間違いがないのだろう。

今日の新聞に歌謡曲と童歌というか民謡というか、そういうものと同じリズムをもっていたという話が出ていたが、その小泉文夫の指摘は新しい。


交響曲第九のコンサート

2008-12-29 13:17:16 | 音楽

やっと松山でもベートベン交響曲第九のコンサートが行えるようになった。昨日の日曜日に市民会館で第九のコンサートがあった。例年はデパート三越のアトリウムコートで小さな第九のコンサートが行われていたそうだが、今年は大々的なコンサートだった。松山としては最初の試みである。

広い市民会館大ホールがほぼ満席で、二階席も全部ではないがかなり埋まっていた。なんんといっても合唱のある第四楽章は圧巻で、100人を越える人々の合唱は迫力があった。ソロの歌手さんもそれぞれよかった。指揮者の白石卓也さんもご満足であったらしい。

これは妻が合唱のアルトのパートに参加していたので聞きに行ったのだが、声のボリュームに圧倒された。これから毎年第九のコンサートが開催できるようになればいいと思う。

遠くから第九の合唱に参加するマニアの方々もいるらしい。岡山とか徳島からの参加があった。結構なことである。交響楽の演奏者の面々もかなり多数集まったらしくて、バスとかチェロとかもたくさん演奏者がいた。

バイオリンはもちろんだが、バスとチェロの演奏者がこんなに集まったのは珍しいとか。私は楽器の名を知らないのだが、オーボエかクラリネットかの管楽器の音が第二楽章までで目立ったようだった。


交響曲第九

2008-10-28 11:34:12 | 音楽

妻がいまべトーベンの交響曲第九の合唱に出るといって練習している。

毎晩私がテレビを見ていると妻がラジカセをつけて練習で歌いだす。こういうときはテレビを消して、他の部屋に行って小さなテレビをつけるか、それともつきあって練習を聞くことにする。

だいぶん詩の全体を覚えてきてだんだん様になってきつつあるが、それでもまったくドイツ語の意味がわからないで歌うのだからおかしなところも出てくる。

楽譜とCDを買ってきて、CDをつけては聴きながらそれにつけて歌うのだ。こちらまで詩の一部を暗誦できるようになった。Seid  umschlungen  Millionen, diesen  Kuss  der  ganzen  Welt-----。

日本では第九は年末恒例の歌となったが、本国ドイツでは別に年末とは関係がないらしい。

Freude, Sch"oner G"otter Funken,

Tochter aus Elysium,

wir betreten feuertrunken,

Himmlische, dein Heillightum !

Deine Zauber binden wieder,

was die Mode streng geteilt;

alle Menschen werden Br"uder,

wo dein sanfter Fl"ugel weilt.

Schillerのこの詩はべトーベンのこの第九の曲がなかったら、これほどまでに有名になっただろうか。もっとも全体の詩は100行近い壮大なものであるという。

まだまだ第九の合唱曲との付き合いは続く。12月28日のコンサートの日まで。


小さい秋

2008-10-21 12:41:01 | 音楽

先日、ボニージャックスと「ともに歌おう」という伊予銀行創立130周年記念の会の第2部に行ったということを書いた。そのときに「小さい秋みつけた」という歌を聞いたが、そのときにこれは「秋の始めの歌です、または夏の歌です」という紹介があった。

その後だったか、その前だったか秋の兆しとか春の兆しを告げる短歌とか詩をこのブログで紹介した。よく考えてみるとこの「小さい秋みつけた」はまさに夏の暑さにうんざりした詩人のサトウハチロの秋を見つけたという詩なのだ。そのことを気づくのが遅すぎたと思う。

歌の一部を紹介しておこう。

まずは1節から

”目かくし鬼さん 手のなる方へ

すましたお耳に かすかにしみた

呼んでる口笛 もずの声”

つぎは2節から

”わずかなすきから 秋の風”

最後に3節から

”はぜの葉あかくて 入り日色”

とある。サトウさんの心情の本当のところはわからないが、こういう解釈は一つの解釈だろうか。それにしても前に述べたような心情だとすれば、サトウさんはどこからそういう発想をえたのだろうか。妻によればサトウさんは茶の間に座ったままでさらさらとこの詩を書き下したらしいということだ。

明日は「香り」について書いてみたい。


演奏のミス

2008-09-30 11:31:29 | 音楽

To err is human, to forgive is divine. とは高校の英語の時間に習ったproverbだ。これは人間には過ちはつきものだという意味だろう。

市民コンサート(昔の労音)を聴きに行くようになってから、数年が過ぎた。いつも思うことは演奏者が演奏ミスをしないのかなと思っていたが、岩波のPR誌「図書」(10月号)にピアニストの青柳いずみこさんが書いているのを見てなるほどと思った。

それによると演奏者は小さなミスをするらしい。もっともそれはとても小さなミスで大多数の聴衆はもちろんのことプロの音楽家でもその曲のことをよく知らない限り気のつかないようなミスなのだそうだ。

ミスをしないという神話はないようである。これは人間なのだから仕方がない。もっとも誰でも気のつくようなミスはプロの演奏者はしないのだろうが。

私は音楽には疎いものの一人ではあるが、青柳いずみこさんのエッセイは音楽をめぐる小説というか文学の話なので毎号楽しみにして読んでいる。


モーツアルト生誕250年

2006-01-29 12:45:31 | 音楽

私が音楽について知っているはずがないので、モーツアルト生誕250年といってもそれについて語ることはできない。

しかし、昨日、松山モーツアルト会の会長さんN先生宅でモーツアルト生誕250年を祝うミニコンサートがあり、参加をした。N先生自らピアノを弾かれたり、H.F.さんの独奏とかN先生との協奏もあった。N先生の息子さんのバイオリンもあり、H先生以外はアマチュアだが、レベルは高かったのではないかと思う。

いつも思うことだが、N先生の音楽に関する知識の深さ、傾倒には感嘆させられる。私など物理のプロというにはどうも後ろめたいものを感じる。セミプロにも至っていないのではないかと思う。

どんなモーツアルトの曲を聴いているかとそのときN先生に聞かれて答えられなかったのでしらべてみたら、聞いているCDは

K.338, K.385, K.425, K.216, K.219, K.428, K.458, Requiem, Die Zauberfloete

等である。ほとんど自分で買ったCDではなく、息子が置いていったCDである。

Requiemは I 先生から勧められて買ったが、やはり前半は活気があり、変化があっていいが、後半は平板になっているという妻の指摘はあっているように思う。

このRequiemは亡くなった物理学者の朝永さんが好きで聞いていた曲だということで後半はモーツアルトの弟子による作曲だと言われており、朝永さんは前半を特に気に入っていたということをどこかで読んだ。I さんは前半も後半もそれぞれによいとのご意見であった。