物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

一つの流行?

2014-08-29 12:07:51 | 日記・エッセイ・コラム

最近亡くなった方々にいくつかの同じような傾向があるように思われる。

それは亡くなって葬儀等も終わった後で、ようやく死亡通知を出される方が数人おられた。

みんな大学に勤務されたいわゆる研究者の方々である。E大学の学長まで務められたS先生の場合もそうであった。

S先生は眼科が専門の先生であったが、自分の属しておられた医学部の眼科の講座にも葬儀等がすべて終わった後の連絡であったという。

そして、いわゆる香奠等を厳しく辞退されるという申し伝えであったという。

そのときに、教え子たちは少しなんとか先生の恩に報いたいという気持ちもあったという。

私が、いつも診てもらっている眼科の医師はこのS先生の門下生の一人であり、この気持ちのやるせなさを私に話してくれた。

なかなか世の中は難しいものである。

同じことを数学者のA先生の場合にも聞いたし、他の例もある。これは一つの流行なのかしら。


A先生の追憶

2014-08-29 11:53:58 | 日記・エッセイ・コラム

私の存じ上げていた、数学者のA先生が亡くなっていたと数日前にある方から伺った。

A先生はK大学出身の数学者であり、複素解析(関数論)を専門とされていた。80歳は越えておられた思う。

なかなか先入観の強い人で、自分はいつも迫害や攻撃をまわりの人から受けていると思われていた。

このA先生と晩年にはある程度理解しあえるようになった。

そしてこのA先生が考えるほどには先生のまわりの人々は先生を迫害したり、攻撃したりしているわけではないと納得させることに成功した。

若いときの先生のつらい経験が被害妄想的な感覚を倍増させていたのだと思う。

もっとも晩年は先生は数冊の数学のテクストとか数学エッセイ集を著されて、それがかなり売れたので、先生は自信を取り戻されていた。

私もそれらの著書の1冊を先生から頂いたこともある。また、先生の著書『応用関数論』(森北出版)からは分岐点の定義についてようやく納得できる説明を読んだ。

そしてその説明を自著『数学散歩』(国土社)で紹介させてもらった。


友だちの大切さ

2014-08-26 14:04:21 | 日記・エッセイ・コラム

午前中の経験を書く。

素鵞小学校にタダ塾の出張教員として出かけていた。今日は5年生の担当教員の一人として。

2時限目にかけ算のドリルをやっている、女の子を見つけた。傍で見ていて、指導が必要だと判断して、「わからないことは恥ずかしいことではないよ」といったが、自分の計算に自信がないのだろう。計算結果を手で隠している。

それで重ねて「わからないことや間違うことは恥ずかしいことではないよ」と声をかけたがなかなか心を開いてくれない。

そのとき隣にいた友だちが「わからないことがあるからここにきているんじゃないの」と声をかけてくれた。

それでようやく計算を手で隠さなくなった。10のくらい、100のくらい、1000のくらい、0.1のくらい、0.01のくらいといった、「位取りの部屋」みたいなことを話して、大きさの見当をつけるという話をしてから計算にとりかかってもらった。

大分計算結果が合うようになってきたが、それでも縦書きの計算をしなくてはわからないらしい。

縦書きの筆算で数そのものの計算はあまりまちがえないが、ときどき桁どりの間違いをする。

それでもほめて計算をさせているうちに、自分でも自信が出てきたのであろう。進んで計算をするようになった。

休憩時間に元小学校の先生が気分転換の遊びのために皿回しのお皿をもってきていたが、大多数の子どもはあまりうまく皿がまわらない。

ところがこの子が皿を回すとみごと にほとんど揺れないで皿が回る。私は「天才!」と声をかけた。

前に経験があるのかと尋ねたが、どうもやったことがないらしい。他の子ができないことが自分にはできるという経験と自分がかけ算がすこし上手にできるようになったということで、この子の自信になればいいがと思った。

それにしても横に座っていたよくできるお友だちの一言が大いに役に立った。

いい友だちをもった子は幸せである。


ホームステイ

2014-08-25 14:10:56 | 日記・エッセイ・コラム

正式のホームステイではないが、この2日ほどホームステイごときものをしていた。

土曜日にたまたま徳島から高松駅に着いたときにそこのトイレの近くの電気のコンセントから自分のスマホを充電をしている外国人に出会った。

どこから来たのですかと尋ねたのだが、どうも日本語を話せないらしいので、同じことを英語で言ったら、フランスからでパリの出身であることがわかった。

それで電車の中で、松山までの2時間ほどの間をそのフランス人と片言のフランス語で話をした。

30年以上もフランス語を勉強しているのだが、フランス人と話すことはまったくなかった。

大学の3年生のときに話されたフランス語に接するようになったのがはじめであるが、それから考えてもう55年くらいたっている。

NHKラジオのフランス語講座を聞き始めてからでも、30年以上だと思う。だが、なにせ初級の講座を聞くだけでそれも聞いたり聞かなかったりである。

他にフランス語に接する機会はない。それでも30年以上のキャリヤはあるもので片言ながら、この2時間ほどを乗り切った。

もっとも話づめではなく、話題を探しての話だし、それに話題を見つけてもそれを表現する語彙を思いつかない。

それで、その若いフランス人はなにをしているかと聞いたら、学生であることがわかった。

お父さんは建築家であり、パリで仕事をしていることとか、お母さんは先生をしているとか、お姉さんが東京におられて、日本滞在が4年ほどになることもわかった。

そしてお姉さんに会いに日本に来て、3週間の予定で日本国中を旅行していることがわかった。

それで松山で泊まるところは決めているのかと聞いたら、着いてから探すという話であったので、私の仕事場に泊まれるということを話した。

でも私の一存では決められないので妻と相談するから、付いてきなさいと言っておいた。

駅に車で迎えに来ていた妻と相談したら、妻も同意してくれたので、仕事場に泊めてあげることにした。

それが土曜日の夜の10時半過ぎである。大急ぎでベットを設え、シャワーの使い方を教えて私どもは帰宅した。

つぎの日の日曜日の10時前に来てみたら、まだ起きていなくて、石手寺に連れて行くと言ったら、大急ぎでシャワーを浴びて、出てきたので石手寺を一緒に参拝した。

その後、砥部の梅山窯の工房を訪ねたが、ちょうどお昼休みにかかっていたので作業は見ることはできなかった。その後で古い登り窯を見た後で、また私の仕事場まで連れて帰った。

午後は自由に松山城と道後温泉へと行くことを勧めておいた。

今朝は午前中に用事があったので、9時すぎにちょっと会ってから、その用事に出かけた。

1時前に来てみると、もうフランス人は出かけていた。お別れの手紙が残っていた。


7箱の書籍の送付

2014-08-18 13:32:25 | 日記・エッセイ・コラム

土曜に本の売却としてブログを書いたが、それを今日の午前中に佐川急便の係りの人に渡した。

段ボールの箱を送ってもらったのは5個だったが、それでは収まりきらず2個の余分の段ボール箱を追加して送った。

それでも残っている書籍はまだ半分くらいである。それを何処かに納めなくてはならない。

岩波新書の収める場所は見当をつけたが、残りの3箱くらいの処置は途方にくれている。

これらはまだ売却を決心できないからである。

妻はこのところとみにシビアになって、昨夕ファイルを百円ショップに行って2つ、すなわち6冊買って来たら、今朝言うのにはいつ死ぬかもわからないのだから、なんでも不必要なものを買って来るなという。

だが、昨夕、妻にファイルを買ってきてと言われたから買って来たのではないかとのど元まで出かけたが、ひと悶着が起こりそうなので黙っていた。

私などは70歳半ばではあるが、まだまだ数年は生きられると楽観的である。もっともだからといって不必要なものを買っているつもりはない。


本の売却

2014-08-16 11:55:48 | 日記・エッセイ・コラム

長兄のもっていた蔵書の一部を売却しようとしている。

長兄が亡くなったのはもう約20年前であり、これまで彼の家が残っていたのだが、それを取り壊すとのことで蔵書の一部をもらって帰った。

しかし、私の家にもその蔵書をおく場所がない。それで少なくとも私も持っていた、図書は売却することに決めた。

これは私の家の客間をそれらの本が占拠していて、客間の用をなさないからである。妻から今月末までにそれらを始末しないと別居だと最後通牒を突きつけられた。

それで先日インターネットの古書の買取りサイトを見つけてそこに頼むことにした。

梱包用の箱が8月17日の日曜日の午前中に到着し、つぎの日の8月18日の午前中に宅配業者に引き渡す予定である。

もちろんそれくらいではすべての書籍がかたづくわけではない。

それでもすこし少なくなる。それにこの際に亡父の古書も始末をしようとしている。

昭和の初期の古書なので、引き取ってくれてどこかで誰かが利用してくれるとうれしい。

長兄の書籍は亡父の蔵書よりももっと現代的なものであり、こちらの方は古書として市場に出されるとそれを購入して読んでくれる人はいるだろう。

(注)7,8箱を宅急便で送ったのだが、その送料の費用がかかったせいか結構いい本もあるはずだと思っていたが、全体の評価額は300円くらいでさんざんだった。 それ相応の価格をつけてもらうには自分で宅急便の送料を払うくらいでないとだめなのかもしれない。アンケートがその評価の後で来たが、2度と利用しないと返事をした。できるのはそれくらいだから。

またさらに利用する気が起きない。


盆も正月もない

2014-08-15 12:06:35 | 日記・エッセイ・コラム

忙しくしているということの表現に「盆も正月もない」という言い方がある。

実際に正月に仕事をしたことはほとんどないが、お盆に仕事をしたことはある。

お盆は日本古来の休みであるが、祝日にはまだなっていない。

だが、お盆は夏のお正月だということを知ったのは1967年の夏にある研究をしていたときであった。

その研究のために8月だが帰省をしないでいた。だが、お盆には近所の食堂も閉まってしまった。

それで駅まで行ったら、さすがにそこの食堂は開いていた。それでようやくお盆は夏のお正月であることを認識させられた。

今日は8月15日であり、世間ではお盆の最後の日だが、13,14,15日とお盆休みをとってはいない。

70歳を過ぎて何をすることがあるのだと不思議に思う方々もおられようが、やはりすることはあるのである。


雨続きの夏

2014-08-09 12:22:54 | 日記・エッセイ・コラム

梅雨は大体平年通りに上がったが、その後台風続きで雨が多い。

何年か前に雨が多かった夏があったので、今年が初めての体験ではない。

昨夜は涼しくて夜のエアコンが必要なしでも、よく眠ることができた。今朝、10時半ごろに室内の温度計をみたら、25.5度だった。

これでは涼しいはずだ。もっとも家を出るときには風は強くなかったが、仕事場についたときには強い風が吹くようになっていた。

これほど強い風はあまり経験したことがない。台風11号が近づいているのであるから、これはしかたがない。

あわててバルコニーの鉢植えを床の上に下ろした。風によって鉢植えが舞い上げられて階下に落ちれば、災害事故になりかねないから。

これは台風が近づいたときにいつも予防的に行っていることである。


ジャーナリズムのあり方

2014-08-08 11:34:40 | 日記・エッセイ・コラム

慰安婦問題で朝日新聞の取り上げ方がまちがっていたので、悪い評価を日本に与えられたという非難がある。

先日の朝刊でそれの検証記事が2面にわたって出ていた。それを読んで結論としては大きな過誤は朝日新聞にはなかったと思ったが、それにしても新聞はなかなか大変だという印象をもった。

そしてそれが特にためにする議論に使われるときにはそうである。どこかの記事で書かれたことは終生記録として残るからである。


台と塔

2014-08-07 15:05:20 | 日記・エッセイ・コラム

私は日本人だから台と塔と言われてそれがどんなものか知っている。

だが、それを説明できるかとなるとどうも説明できそうにないということを知った。

先刻、NHKのフランス語応用編を聞いていたら、Un yagura, c'est une tour en bois. (櫓とは木でできた高い台のことです)とあった。

それでtourを台と訳してあった。さてはて台とは何か。国語辞典を引いてみた。「地上より高く作って、あたりを見わたせるようにしたところ」とあった。

tourには塔の意味もある。塔とはとこれも辞書を引くと「高くそびえたつ建造物」とあった。

その塔も台のどちらもフランス語ではtourと訳されるのが目新しかった。


69回目の原爆記念日

2014-08-07 12:35:07 | 日記・エッセイ・コラム

昨日は69回目の原爆記念日だった。

そのことに気がつかなくて昨日は起きるのが10時過ぎだった。

そして、新聞を朝読む暇がなくて、夜家に帰ってようやく8月6日であることを知った。

あしかけ10年にわたって広島で学生だったのだが、実はその当時原爆記念の式典に一度も出たことがなかった。

1967年8月には私はその当時D3であり、その夏は広島で後で私の学位論文となった研究の計算をしていた。その当日は朝早く起きて原爆慰霊碑にお参りしたことを覚えている。

4,5年前に医療生協のグループに加わって、広島の原爆記念式典に初めて出た。そのときにはまだ存命だったマンガ『はだしのゲン』の作者、中沢さんの講演をどこかの体育館で聞いた。そして、その午後バスで松山に帰った。

その何年か前にはテレビで記念式典の様子をつぶさに見たこともある。

だが、あまり原爆禁止運動にかかわらなかった。あるときに研究室の教授の命で数人の友人と科学者の原爆禁止運動とかかわりのある懇談会の録音テープを起こしたことがある。それはほぼ一夏かかった。

これがあえていえば、唯一原爆禁止運動にかかわったことであった。


笹井芳樹氏の死

2014-08-06 17:56:22 | 日記・エッセイ・コラム

昨夕のNHKのニュースのトップはSTAP細胞問題で注目を浴びた、笹井氏の死であった。

いろんな見方があるであろうが、私はやはり死んでほしくはなかった。

これからの彼の人生がとてもつらいものであろうことは想像ができたが、だからと言って死んだほうがいいというふうには思っていない。

科学者だって人である。間違うこともある。そのときにできるだけ自分に正直に振舞うことであろう。

名誉とかをふり捨てて、やはり一科学者として今後の彼の人生を生きてほしかった。それはもしかして自分がまちがったのなら、どこでまちがったのかが自分にもわからないのなら、そこをつきつめること。

もしどこでまちがったかわかっているのなら、その反省を自分でしておくこと。これは別に公表しなくてもいいのではないか。

ただ、その後の人生をただ単に惰性として生きるのではなくて、真摯に生きることだろう。

聞くところによるととても優秀な学者だったとのことである。こういうことが今後2度と起こらないことを願っている。


たぬき

2014-07-30 11:31:06 | 日記・エッセイ・コラム

先日、何のテレビ放送か覚えていないが、マレーシアかシンガポールの動物園と日本の動物園が動物の交換をして、日本では珍しいある種の河馬か何かの珍獣を手に入れたという。

そのときに交換された動物は日本ではさほど珍しくはない狸であった。その国では狸を初めて見たとインタビューで動物園の訪問者が言っていた。

日本ではお腹の丸い狸の像は幸福を呼び込むという言い伝えがある。そういう説明が訪問者にもされていた。

そういう狸像で思い出したのは私の郷里、今治市の銘菓、「他抜きモナカ」である。お腹の丸いところに餡がいっぱい詰まったモナカである。

もう40年以上も前のことである。当時人気俳優の森繁久彌がつぶやいたというCMは「だまされて食うてみぃ」であった。これは日本では狸が人間をたぶらかすという伝説にもとづいたCMのキャッチフレーズである。

今治のちょっと年配の人なら知っている本町と広小路の角に権太という菓子舗があって、「他抜きモナカ」はそこの銘菓であった。いまでもそこに菓子舗があるのかどうか私は知らない。

その後この菓子舗は松山にも進出して、また銘菓ポエム(母恵夢)を売り出して、いまではポエムは東京のデパートでも売られているほど有名な松山銘菓ということで知られている。

そしていつしか菓子舗「権太」はポエムという名に変えたのではないかと思われる。

いまはないようだが、松山市の勝山通(電車通り)にmon poemeという名前のポエムのお店があった。

20年以上昔のことであるが、その当時勤めておられた、E大学のあるフランス語の先生がmon poemeはまちがいでma poemeとすべきであろうという文章をどこかに書かれていた。

ところがいま仏和辞書を調べてみると、poemeは男性名詞であるから、mon poemeで間違いがないように思われる。

いくら日本人でもフランス語の先生がpoemeの性を間違えるとは思えないので、これはどういう私の記憶違いでもあろうか。謎である。


路上ウォッチング

2014-07-29 11:30:00 | 日記・エッセイ・コラム

先週の土曜日にここ10年以上路上ウォッチングでユーモラスな光景を写真に収めてきたYさんのお話とその写真を見せてもらう機会があった。

なかなかユーモラスな写真で笑ったり、考えさせられたりである。

いま愛媛で活発に活動している人は3人に限られているようだが、10年ほど以前にはもっとたくさんの人々がこのような趣味に関わっておられた。

村おこし、町おこしをもくろむ市町村の行政側からも注目されたが、本来は利益を生むものではなく、自分たちでそのユーモアを楽しむというところが本来のあり方だという。

恐竜の像が旧国道沿いにあったりして、それが何かに綱でつながれていたりすると、「綱で飼われる」とかいう題をつけたとか。

写真をもちよってそのタイトルをどうするかを議論するらしいが、写真とそのタイトルとが人々を楽しませるのだという。

そして、同好の士が集まってタイトルをどうつけるか議論するのもユーモラスな光景を撮影することと同じくらい楽しいらしい。


メダカ

2014-07-26 13:27:01 | 日記・エッセイ・コラム

お隣のお子さんのJY君は小学校3年生だが、生物が好きで、小学校の校庭にある小さな池の中のお玉じゃくしとかメダカとかを観測するのに熱中していて、池に落ちたという話はいつかこのブログで書いた。

そのJY君の影響ということもあって、妻がどこかからメダカの稚魚をもらってきて育て始めた。

粉末の餌を日に2回、耳かきのような小さなスプーンですくって水の上にまいてやる。

もらって来たときに見たら、どこにいるのかというような小さなものが動いていた。

ところが数日たつとまだメダカらしいとまではいえないが、それでも少し大きくなってきた。

どこかで水草を手にいれてきて、水鉢に入れている。その一部をペットボトルの横腹を切り抜いた入れ物に水を入れて食卓においている。

メダカを飼うなどということに関心をもったのはJY君の影響であろう。JY君の家でははじめJY君がメダカの世話をしていたが、水の交換のときに水と一緒にメダカも流してしまった。

それでその後はメダカの世話は忙しい医師であるお父さんの役目となってJY君は世話させてもらえない。それでもJY君はお父さんがどのように世話をしているかを注意深く観察しているらしい。

私の妻にJY君は彼のお父さんがどのように世話をしているか話したらしい。気の毒に思った妻が私の家で飼うことにしてすこしJY君の自由にメダカに接触できるようにしたいと考えた。