flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

平井 大谷城

2007-07-10 02:00:55 | 城郭・城下町
(新城市上平井)
 私が最初に訪れたのは、昭和53年の夏。
当時は、この大谷(おおや)城跡の山のすぐ前方に築かれていた国広城跡の丘も、全体が残っていたが、今は見る影もない。
その国広城とよく混同されるのが、この大谷城である。
昭和48年、市が城跡標柱を建てる際、国広の丘と、この城山とで迷ったそうである。
それは明確な遺構が確認できないからだとして、今でも国広城跡を大谷城跡とする説が残っている。然し、双方の関係は深いものと考えられる。
 
 大谷城は、永正十年頃(1513)田峯菅沼定忠の子定広が築いた城である。
天文元年(1532)定広の子定継(定綱)のとき、石田村新城へ移り、廃城となったという。
 
 山の南斜面に建つ、何軒かの民家、その間には山道があり、城跡の東側を通っている。
堀割を利用したような山道、下方側の法面には犬走程度の土盛りがある。
更に進むと尾根上に達するが、道は築堤となっていて、左方へ下る山道と接するところは、土橋状となっている。

以前、入口付近の民家の方に、この山道のことを尋ねたことがあった。
昔から変わらない道だということで、植林等の際に造ったものではないということであった。
それを踏まえて考えると、この道は大手口であったのか、堀及び堀切と土塁を改変したものであるのか、何れにせよ城に関する遺構とみることが妥当と考える。
  
 主郭は、尾根に向かう途中の左側上方である。
頂きはやや傾斜があり、南側に祠等と標柱がある。また、中腹には帯郭とも考えられる平地がみられる。
  
 先程の尾根を更に北側上方に進んでみる。
傾斜がきつくなり、城の施設は無かったであろうと思うが、とよがわに注ぐ田町川の源流があり、水源は確保できる。
付近の木々にテーピングが施してあった。どうやら、この辺りも「第二東名」の予定地であるようで、この先著しい開発が待っているようである。
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