(鵜殿城 蒲郡市神ノ郷町)
1978年以来、何度か訪れているが、1999年10月9日を最後に暫く訪れていなかった。
その当時から殆ど変わらない光景は、地域の特産である蜜柑畑となっていて、堀、土塁、郭等の遺構も往時の形を今に伝えている。
2007年冬、将来の史跡公園を前提として、主郭部の発掘調査が行われ、建物基礎遺構や、土器、陶器破片、炭化物等が検出された。
残念ながら私はその期間中に訪れることができなかったが、今回(5月初旬)の時点では、調査跡が草生地となっていた。

上ノ郷城は、一説によれば平安時代に最初に城が築かれ、鎌倉時代以降、紀伊鵜殿から移ってきた鵜殿氏が、今川氏のもとでこの上ノ郷を本拠とし代々居城したが、永禄三年(1560)桶狭間の戦いによって今川義元が討死すると、永禄五年(1562)松平元康勢が攻め、火を放たれ落城したという。このとき、城主鵜殿長照は討死した。
その後、元康の異父弟である久松俊勝が入り、子康元が天正十八年(1590)下総関宿に移封した後は、三河吉田池田輝政の持城となったが、慶長六年(1601)輝政が播磨姫路移封した後廃城になったと考えられる。
(関連記事:下ノ郷城 不相城)
1978年以来、何度か訪れているが、1999年10月9日を最後に暫く訪れていなかった。
その当時から殆ど変わらない光景は、地域の特産である蜜柑畑となっていて、堀、土塁、郭等の遺構も往時の形を今に伝えている。
2007年冬、将来の史跡公園を前提として、主郭部の発掘調査が行われ、建物基礎遺構や、土器、陶器破片、炭化物等が検出された。
残念ながら私はその期間中に訪れることができなかったが、今回(5月初旬)の時点では、調査跡が草生地となっていた。





上ノ郷城は、一説によれば平安時代に最初に城が築かれ、鎌倉時代以降、紀伊鵜殿から移ってきた鵜殿氏が、今川氏のもとでこの上ノ郷を本拠とし代々居城したが、永禄三年(1560)桶狭間の戦いによって今川義元が討死すると、永禄五年(1562)松平元康勢が攻め、火を放たれ落城したという。このとき、城主鵜殿長照は討死した。
その後、元康の異父弟である久松俊勝が入り、子康元が天正十八年(1590)下総関宿に移封した後は、三河吉田池田輝政の持城となったが、慶長六年(1601)輝政が播磨姫路移封した後廃城になったと考えられる。
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