(豊川村古屋敷 豊川市西豊町)
鎌倉時代初期、三河国司であった大江定基の孫、大江定厳がこの地に館を構えたのが始まりという。
三百年後の天文年間(1532-53)同地に浄土宗終南山光明寺が創建された。
慶長七年(1602)その光明寺に隣接するところに、水野忠直によって屋敷が築かれた。
忠直は、刈谷城主水野忠重の子で、京都伏見より転封し、宝飯郡内外で四千石の旗本として領地を管理し、度々洪水を被っていた豊川村を、大堀川(旧帯川)の改修によって守ったという。
然し「参河志」には、「悪人にして下人に殺せらせ、今此墓時々火燃るなり、此人の悪行、此辺口碑に種々言伝るなり」と書かれている。
寛永十一年(1634)忠直が亡くなり、子政直が継承したが、翌年、軽率な訴えがもとで家禄は没収され、屋敷も取り壊されたという。
光明寺境内には水野家墓所がある。
また、「豊川城趾 愛知縣」と刻む碑が立つが、県として建てたものではなく、個人が建てたものである。
鎌倉時代初期、三河国司であった大江定基の孫、大江定厳がこの地に館を構えたのが始まりという。
三百年後の天文年間(1532-53)同地に浄土宗終南山光明寺が創建された。
慶長七年(1602)その光明寺に隣接するところに、水野忠直によって屋敷が築かれた。
忠直は、刈谷城主水野忠重の子で、京都伏見より転封し、宝飯郡内外で四千石の旗本として領地を管理し、度々洪水を被っていた豊川村を、大堀川(旧帯川)の改修によって守ったという。
然し「参河志」には、「悪人にして下人に殺せらせ、今此墓時々火燃るなり、此人の悪行、此辺口碑に種々言伝るなり」と書かれている。
寛永十一年(1634)忠直が亡くなり、子政直が継承したが、翌年、軽率な訴えがもとで家禄は没収され、屋敷も取り壊されたという。
光明寺境内には水野家墓所がある。
また、「豊川城趾 愛知縣」と刻む碑が立つが、県として建てたものではなく、個人が建てたものである。