flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

明石海峡

2006-11-18 06:00:37 | 海道・みなと
(1988年11月9日の日記から)
 大鳴門橋を渡ると、イザナギ・イザナミが最初に国生みしたという阿波路、淡路島へ。
沿道の植物を見て、気候が温暖だということがよくわかる。
片側一車線の神戸淡路鳴門道は途中、津名一宮ICで供用区間が終わり、一般道へ。これより先は昭和73年度明石海峡大橋完成時に全通する。
 午後二時大磯港到着。ここからフェリーで明石海峡を渡る。
西に陽が傾いた頃の穏やかな瀬戸内海を眺めていると、それだけでいろいろ教えられる、そんな気がした。
須磨港から本州へ。阪神高速の高所から窓越しに夕刻の六甲を眺め、車内に流れるバラードを聴く。
情緒が心の奥底まで染み入る、そんな思いがした。
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鳴門

2006-11-18 00:00:37 | 海道・みなと
(1988年11月9日の日記から)
 讃岐から阿波へ、徳島県入りは初めてである。
昭和60年に完成した道路鉄道併用(計画)の吊り橋、大鳴門橋と鳴門の渦潮を眺められる鳴門公園に立ち寄る。
ここで昼食を摂り、特産品のワカメと鯛を味わう。
そして橋を渡り、鳴門海峡を上から望んだ。

(関連記事:徳島 明石海峡
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高松

2006-11-17 00:00:26 | 城郭・城下町
(1988年11月8日・9日)
 市内兵庫町にある宿泊先から夕食の後、市街地を散策。高松はアーケードが充実している。
最近、アーケードを取り外し、空の見える商店街という動きが全国で起きているが、全天候型でゆっくり買い物ができ、人々が寄って来るというものはやはり屋根付き街路であり、無くすよりもむしろ推進していくべきであると思う。
 そのアーケード内で早速、讃岐うどんを食し、香川の夜も味わった。
 翌朝、部屋のカーテンを開けると、昨日のアーケードが見え、その上に朝日が昇るときであった。
午前八時半、玉藻城の横を通り屋島へ。
 源平合戦で知られる屋島は中世まで、その名の通り島であり、7世紀頃には朝鮮式山城の形態を持つ屋嶋城が存在した。その後土砂堆積、埋め立てによって現在の様な半島状地形になったものである。
ここには現在ドライブウェイがあり、頂まで上ることができる。
屋島の屋根に着くと、過ぎ去った時代の如く静まり返っていた。
瀬戸内海を見下ろせるところには鑑真開基の四国八十八ヶ所第八十四番札所屋島寺がある。
小豆島に近いこともあってか、オリーブオイル、コロン等が売られており辺りは俄かに香っていた。

(関連記事:栗林公園 鳴門
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栗林公園

2006-11-16 00:00:57 | 城郭・城下町
(1988年11月8日の日記から)
こんぴらさん”から今日の宿泊地、高松へ向かう。
途中、水の少ない讃岐平野特有の溜池群を見ながら高松市内の栗林(りつりん)公園へ。
午後四時頃の到着であったため、太陽が借景の紫雲山に隠れ若干薄暗くなったが、趣と情が感じ取れた。
 この庭園の始まりは、室町時代の普陀落寺の庭園としてであり、その後生駒親正臣佐藤道益邸庭、慶長七年(1602)からは生駒親正孫一正庭、寛永十九年(1643)からは松平頼重、道益園栗林荘となり、宝永七年(1710)藩主別館檜御殿完成。延享二年(1745)全庭完成し、小堀遠州式池泉回遊式23万坪の庭園となった。
 然し藩籍奉還により、敷地は官有地となり、明治2年南湖弁天島を村民に与え、日暮亭を栗林村民に売却。檜御殿は円座村に売却し南湖掬月亭(きくげつてい)は小学校に利用され、最終的に全体を五民間千円で売却してしまった。
 その後久保秀景が公園として再興し、明治8年に県立公園となり一般開放された。そして明治末から大正初期にかけて宮内省内苑寮技師市川之雄が一部を改修し、やや趣きの違う現在の北庭が造られ、昭和28年に国特別名勝に指定され現在に至っている。

 午後五時をまわり、緑色が深くなってきた。宿泊先へと向かう。
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金刀比羅宮

2006-11-15 00:00:46 | かみのやしろ

(香川県仲多度郡琴平町 1988年11月8日の日記から)
 与島から北備讃瀬戸大橋、三ツ子島、南備讃瀬戸大橋を経て香川坂出から四国へ。陸からの四国入りは当然初めてである。
丸亀を経て西進、午後一時半金刀比羅宮に到着。
平日というのに商店は繁盛し、参道は祭りのように参拝客で一杯であった。豊川閣も見習わなくてはならない。
 象頭山腹に鎮座する全国金刀比羅神社の総本宮、こんぴらさんの石段を同行者と競争して15分で上り詰めた。
船舶関係の崇高が厚い金刀比羅宮の境内は、伽藍が思いのほか小ぢんまりしているが、そこから望める讃岐富士や琴平の町並みは雄大で、蓮華花弁の一端に佇むようである。
  
 鼓楼 宝永七年

(関連記事:栗林公園

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瀬戸大橋 与島

2006-11-14 00:00:47 | 海道・みなと
(香川県坂出市与島 1988年11月8日)
 昨夜、高坪山から前照灯のラインが見えた、瀬戸中央道に乗っていざ南進。やがて児島半島最南端、鷲羽山が近づき、眼鏡隧道が現れた。これを抜けると瀬戸大橋だ。暗闇から抜け、陽光を浴びると秋晴れの空に瀬戸内海の青が目に映った。
 竣工してまだ三ヶ月のこの橋には、延べ200万人が携わり1兆3千億円の経費をかけて完成した。耐久年数は100年とされている。本州と四国が陸続きになったが、宇高連絡船が廃止され情緒が無くなった。然し大橋の通行料が高いため、運送業はフェリーを多く利用しているという。
 瀬戸大橋六橋のうち、下津井瀬戸大橋、櫃石島橋、岩黒島橋、与島橋を渡り、与島SAに降り立った。小さな島からすれば、天から降り立つ様な雰囲気である。下から見上げても島の最頂部よりも高い橋。
 瀬戸大橋、クルージングしている「咸臨丸」を見ながら昼食。付近を散策してみたが、瀬戸内の小島に巨大な橋脚の白いコンクリート塔が聳えていることが一番印象深かった。

 再び瀬戸大橋に上がり、更に南進する。
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倉敷 高坪山

2006-11-13 00:00:02 | 城郭・城下町
(1988年11月8日の日記から)
 岡山での宿泊は、倉敷市東部、有城の山上に建つ公共宿泊施設である。ここから倉敷市街を望めるが、付近に点在する山々は島の様、水田平地が海の様に見える。それもその筈で、中世までは海であり、それぞれが島であったといわれている。
平安末期には平氏二千艘の船団、源氏二万人の軍勢で源平合戦が繰り広げられたところであり、各山々は城塞であったのである。この宿泊施設のある「高坪山」も、川田氏の城があり、源平水島合戦の際には陣地が置かれた。
 夜、倉敷市街へ出かけてみた。然し人口41万を有する市でありながら、倉敷駅前の商店は早々に扉を閉め、ひっそりと静まり返っていた。賑やかか?と思えるのは一部の夜間飲食店のみであった。
 翌日、美観地区へ向かった。周辺は平日にも関わらず人々でごった返していた。やはり観光地は、まちにとって必要である。
 先ず、ギリシャ様式とロダン・カレー市民の彫刻が目につく大原美術館へ。ここは倉敷紡績創始者大原孫三郎と、画家児島虎次郎が収集した美術品を中心に展示。本館、分館、陶器館、棟方館、芹沢館、東洋館と観覧したが、各所行列を成していて雰囲気に浸る暇すらなかった。それでも印象の残った絵画を羅列してみると、クールベの秋の海、ル・ジダネルの夕暮の時、セガンティーニのアルプスの真昼、コロ・フオルテのミロンの風景、ミレーのクレヴィユの断崖、等であった。
 続いて古代ギリシャ、エトルスク・ローマ時代の蜷川美術館と西洋近代美術彫刻の倉敷美術館、日本郷土玩具美術館を観覧。そして倉敷川を渡り、典型的な倉敷建造物の考古館へ。館内には主に吉備地方の遺物が展示されているが、その中に、私が所有し謎に思っていた土器が展示されていて、弥生時代の「飯蛸坩」と書かれていた。
この考古館は全体的に研究者の書斎の拡大版といった面持ちであり、落ち着いている。
  そして最後に路地裏の蔵景を見ながらひと時の物思いに耽った。

(関連記事:倉敷-Jeans city- 瀬戸大橋与島
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岡山

2006-11-12 00:00:15 | 城郭・城下町
(1988年11月7日の日記から)
 東名高速を西へ向かう。米原JCT以西を通行するのは18年振り、つまり大阪万博以来ということである。然し記憶は無い。
完成して間もない西宮名塩SAで一休み、そして中国道を縦断。この辺りは6車線工事が進み、渋滞対策が進んでいる。
 美作ICを降り、吉井川を下って最初の訪地、岡山城、後楽園に到着。
 後楽園は貞享四年(1687)十二月、池田輝政が津田永忠に命じて着工した大池泉廻遊蓬莱様式の庭園である。
続いて濠として利用された「旭川」を渡り、別名「金烏城」といわれた岡山城へまわる。時間が無く天守には登城できなかったが、昭和41年に戦災復興された天守を眺めながら、当時の様子を感じ取った。然し現状ではかつての六十二万石の重みはそれ程無く、庭園の方に負けている感があった。
 
 今夜の宿泊地、倉敷へ向かう。
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デジタル化失敗

2006-11-11 23:30:59 | kourei-ki-日記-
 フィルムカメラであった時代の過去記事を投稿する際、貼り付ける写真はアルバムにあるプリントされた写真をスキャンする。
今回も昭和63年の写真を取り出そうとした。(岡山から鳴門まで)然しこの写真だけは保管方法が違い、一連の思い出を一冊のアルバムにして綴じられていた。
 粘着紙に張り付いた写真は、剥がそうとすると破れてしまう。そこでアルバムさらスキャンすることとした。ところがイラスト、またはカラー文書として認識してしまい、エンピツ画のようになってしまった。
 そこでネガを持ち出し、写真屋にてデジタル化してもらうこととした。然しこのネガのフィルム、現像場所、保管場所の違いから表面がカビ等で汚れていて、デジタル化できないということであり、現像所へ持ち込んで洗浄すればまだ可能性があるということであった。
「家でキレイにすればいいじゃないか」と思い、裏側は薬品の跡が取れなかったので表側のみキズにならないよう清掃した。そして改めてデジタル処理に出すと、すんなり出来上がってきた。が然し…一体何時代の写真?というほど見苦しい出来上がりとなってしまった。
 仕方なく、仕上がりのあまり芳しくない我が家のスキャナのネガ読み取り機能を使って読み取った。そうするとけっして良くはないが、一番マシな結果となった。

 ここ三日間の遠回りをした戯言であった。

前日記へ
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讃岐屋敷

2006-11-11 00:00:35 | 城郭・城下町
(牧野屋敷 愛知県豊川市牧野町)
 私が子どもの頃は鬱蒼とした茂みの中に廃屋と門が存在していた。まるで探検をするかのような気持ちで調べたことを思い出す。そんな屋敷跡も、末裔が土地家屋を手放し、市の管理のもと当時からの門を保存して「さぬき屋敷公園」として開放された。
 応永四年(1397)に讃岐国から移り住んだ田内成富が、地頭を務めた牧野の地の名を苗字とし、城を構えた。讃岐屋敷はその牧野氏が代々居住した屋敷跡である。
 牧野一族は、今橋城を始め近隣各地の城主となった。その一流が譜代大名となり上野大胡、そして越後長岡へ向かった。然し、当初からこの地を守っていた牧野氏は、明治までこの地に居住し続けたといわれている。
  

(関連記事:瀬木城
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東海道 小坂井

2006-11-10 06:00:21 | 街道・宿場町
 吉田宿御油宿の間にあった、間(あい)の宿の地でもある小坂井。
往時は本陣や木賃宿も存在し、吉田道(伊那街道)や吉良道(平坂街道)の分岐点でもあり、交通の要所として栄えた。
 現在も人々や物流の往来は激しく、往時以上の交通の要衝となっている。
 また、東海道の前身である鎌倉街道以前からの古東海道の宿駅が、この小坂井の地に渡津駅として置かれたといわれている。
  (伊奈村立場茶屋跡と芭蕉句碑)
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吉良道 星越峠

2006-11-09 00:00:15 | 街道・宿場町
(平坂街道 蒲郡市)
 この道が商業路として繁栄していた時代、この星越峠は難所として挙げられていた。
現在は昭和43年に完成した国道247号線開削によって自動車で一気に通り過ぎてしまうが、往時は急坂であり大変だったであろう。
 往時からすれば、やや低い位置になったであろう峠から見下ろすと、三谷の町や大塚のラグナマリーナが望められる。
 天文十三年(1544)上ノ郷城(蒲郡市神ノ郷町)城主鵜殿氏を訪ねた連歌師宗牧は、星越峠まで見送ってくれた西ノ郡(現在の蒲郡市西部)の人々との別れを惜しみ、東国紀行の中で歌に詠み残している。

(関連記事:吉良道三谷 大塚 三河三谷
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課題提出開始

2006-11-08 06:00:26 | kourei-ki-日記-
 今日から課題提出が開始された。
とは言え私はまだ進度50%である。
その課題内容は…
「小・中学校の情報教育の特徴と問題点」
「人間発達の特色と教育の役割」
「学校における教育課程と教育方法について」
「社会教育の理解」
「『中小都市における公共図書館の運営』(中小レポート1963)の役割と意義」
「情報化社会、生涯学習時代と言われる現代における、公共図書館の役割・意義」
「生涯学習支援と生涯学習社会の関係」
「生涯学習社会と知識社会(知識基盤社会)の関係」
「生涯学習の必要性」
「博物館の設立目的、活動方針を踏まえた利用者動線とは」

…まるで教員養成のようである…これらには文字数のそれ以上と以内がそれぞれ設定されており、非常に難題だ…。

前日記へ)(後日記へ
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第10次三河国府跡確認調査

2006-11-08 00:00:22 | 城郭・城下町

(豊川市八幡台地遺跡群白鳥遺跡 第10次国府跡確認調査 2000年11月5日)
 先回(2000年9月24日)から発掘範囲はさほど広がっていないが、下層への掘り下げが進み、奈良末~平安中期の掘立柱・竪穴遺構が確認され、また特殊遺構(廃棄土坑)内からは全体の約9割の遺物が出土した模様である。
 遺物の内訳は、須恵器・土師器が主体だが、製鉄所が付近にあった模様で、鞴(ふいご)の羽口・鉄鎌・鉄宰(鉄屑)、地層からは灰の堆積などもみられた。
 そのほか、製塩土器や土睡(おもり)、はそう・平瓶形水滴、蹄脚形円面硯、また全国で5例目の羊形硯が出土し、当時東アジアでは生息していなかった羊を象った硯は、その実物を知る同一の製作集団が製作した可能性が考えられる。
 これらの遺構・遺物はこの調査地点に倉庫類が建てられていたことを示すものであり、「日本文徳天皇実録」に「参河国上言今月六日庁院東庫振動」(地震)とある点などから、現在の三河総社東、曹源寺付近と確認されている国庁跡の東側に位置するこの付近に倉庫群が存在したことは確実なことであろう。
  9月24日
  
(関連記事:美濃国府跡 三河国分寺塔跡発掘調査

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立冬の日

2006-11-07 19:00:21 | kourei-ki-日記-
 表題らしい一日となった。
久し振りの冷たい風。
北の台地では突風に見舞われ被害もでたようである。

私事でも忙しい嵐が吹き荒んでいる。
明朝は一桁の気温。
 気が引き締まる季節がやってきた。
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