京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

 自分とのつきあい

2010年09月07日 | 日々の暮らしの中で
「前途三千里のおもひに胸ふさがりて…」、旅立ちの朝である。今度いつここへ戻って上野・谷中の桜を見ることができようかと心細さも生じる芭蕉の胸中。

旅と言えば歩くしかなかった時代。かの龍馬さんも長崎にいたと思えば京の街に姿を現す。
だからと言って、同次元に語るのは無理があるのだけれど、歩けないことはないのだろうか…。

「甦る神々のみち 熊野古道」
現地まではバスで向かい、全14回で完歩となるようにコース配分がされている。
語り部と歩く、その第1回は、紀ノ川南岸の布施屋の渡し場からスタート。矢田峠を越え汐見峠を越えて、熊野の入り口の藤白神社へと歩く。“距離はありますが比較的平坦でのんびり歩けます”とある。距離は16.0キロ、時間4時間20分(かけて、だろう…)とな。ウーン、思わず深い息をつく、歩けるだろうか。

学生のころからの憧れの道。とても個人では行けそうになく、足を踏み入れたことのない地だ。熊野三山を目指す信仰の道。平安の頃からいったいどれだけの人が歩いた道か…。
ひたすら足元を見つめ黙々と歩き続ける。それしかないのだろう、そして、熊野詣に神のご加護を願う。本来なら観光バスで向かうこと自体、罰当たり、ご利益半減なのか。

何度もくじけた思い、今行かなきゃチャンスはないのかもしれない。
と思いつつ自信がない。歩けるかもしれないが、ダメかも知れないという不安。歩いてみないことにはわからないだけに複雑だ。
そうした自分と付き合うことで、歩きながら何を考えていることだろう。行ってみようかな??

こうしてできることがひとつ減りふたつ減りと、自分の行動範囲を狭めてしまうのだとしたら、まだいささか惜しい気がする。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする