田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

北区歴史と文化の八十八選巡り №11

2022-10-03 19:23:11 | 札幌市・北区歴史と文化の八十八選巡り

※ 実に2ヵ月半ぶりの「北区歴史と文化の八十八選巡り」シリーズの再開である。このプロジェクトはまだ八十八選の半ばに差し掛かったばかりである。今年中の達成は難しそうだが、これから少し重点的に取り組もうかな、と思っているところである。

 屯田防風林は「日本の美しい歩きたくなるみち500選」にも選ばれている札幌市を代表するウォーキングコースの一つである。そして二つの記念碑は防風林に続く「屯田西公園」内に設置されていた。

45〉屯田防風林 

   

 「屯田防風林」は我が家からは10キロ以上離れているために、訪れた回数は多くはないが、訪れるたびに癒される散策路である。

   

   ※ 「屯田防風林」内にあった案内図ですが、ここには「ポプラ通」と表示されています。

 私が「屯田防風林」を初めて訪れたのは記録によると2008年5月となっている。(その時の記事はこちら⇒)それ以来、友人を案内したり、観察会に参加したりと、もう何度も訪れている。訪れるたびに思うのだが、散策路の路面が土のために足にはとても優しい散策路である。そして防風林全体も自然がそのまま残されたように保全されているのだ。一見人の手が入っていないように見えるが、実はその陰で危険防止の対策はしっかりと施されているに違いないはずなのだが、それが表に出ていないところが素晴らしいと思っている。防風林の片隅には、北区が制作した説明板があり、そこには次のよう説明されていた。

   

   ※ 防風林内で一か所だけこうした水場がありました。

   

   ※ これはかなり意図的に植樹したシラカバの木と思われます。

    

   ※ 防風林内の紅葉はまったく見られませんでしたが、オオウバユリは種子をたくさん付けていました。                            

この防風林は、大正時代に厳しい季節風から農作物を守るため大正時代に植えられたのが始まりである。泥炭地のために常緑樹は不向きとされ、熱心な話し合いの結果ヤチダモが最初に植えられたと言われているが、今は、ヤチダモの他にハルニレ、ナナカマド、シラカバ、エゾイタヤ、イチョウなど数多くの樹種で構成されている。開拓が進むにつれて防風林も拡張され、約8キロメートルの長さに及んでいる。現在、周辺は宅地化が進み、防風林は人々の憩いと安らぎの場へと変わってきている。

 この説明に中で不可解な部分が2か所ある。一つはその長さである。説明では8キロメートルとなっているが、私が歩いた感じではとてもそれほどの長さはないように思われる。事実地図で見てもせいぜい5~6キロと思われる。別の説明書では3キロという表示もあった。関係機関に尋ねてみようと思っている。

 もう一つ、説明板では防風林の樹種についてポプラの記述がない。ところが「屯田防風林」の別名が「ポプラ通り」とも称されている説明もある。今回訪れてみても、特に私が始点としたJR学園都市線に近い東側にはポプラの木が目立ったのだが…。

        

        ※ 防風林の東側ではこうしたポプラの木が非常に目立ちました。

   

   ※ ゴツゴツとした木の肌が特徴のポプラの木です。

 まあ、そのことは別にして、散策路そのものは素晴らしい。貴重な自然が残る場所としてこれからも長く人々の憩いと安らぎの場として在り続けてほしい。

    

  ※ 2008年に来た頃はなかったはずですが、こうした規制線が貼られているのも死後防止のためと思われます。                      

〔住 所〕 北区屯田1条2丁目~5条12丁目 

〔訪問日〕 10月3日

 

46〉植樹碑

   

この「植樹碑」を見つけるには少し苦労した。公園内で憩っていた人に尋ねても、その存在を知っている人になかなか出会わなかったのだ。何人かに伺ったとき「あれでは?」と言って教えてくれた方がいてようやく目的を達することができた。碑は公園の野球場の外側にひっそりと建っていた。その碑の傍に次のように書かれた説明板があった。

   

この碑は、昭和56(1981)年に「札幌すずらんライオンズクラブ」が公園内に約1,000本のサクラの木を植樹した記念に建立された。高さ70センチメートル、幅1.5メートルの日高産赤石が台座の上に置かれている。碑面の「逞しく育て」の文字は、板垣武四郎札幌市長の揮ごうによる。植えられたサクラは、毎年春になると美しい花を咲かせ、地域の人たちのお花見の名所になっている。

    

〔住 所〕 北区屯田4条10丁目屯田西公園内 

〔訪問日〕  10月3日   

 

〈47〉はたちのつどい記念塔

   

 「はたちのつどい記念碑」は、「植樹碑」と同じ屯田西公園内に建てられていたのだが、こちらは道路傍にあったことと、高さが4メートル近くもあって大きかったために直ぐに見つけることができた。

 その記念塔の傍にも次のように書かれた説明板があった。

   

「はたちのつどい」、これは新成人を契機にした新しい仲間づくりであり、自主的にレクリェーション活動やイベントの企画・実施をするサークル活動。若者の発想から生まれたアイデアを「はたちのつどい記念事業」として実現し、市民の方に大変喜ばれている。“新しい仲間をつくりたい”“何かおもしろいことはないかな”と考えているあなたが主役。この塔は「はたちのつどい記念事業」で昭和52(1977)年に建立。

   

この時の新成人は計算すると現在45歳になっている。彼らがこの塔を今見た時に何を感ずるのだろうか?それにしても今もこうしたことは継続されているのだろうか?

〔住 所〕 北区屯田4条10丁目屯田西公園内 

〔訪問日〕 10月3日


北区歴史と文化の八十八選巡り №10

2022-07-20 14:00:57 | 札幌市・北区歴史と文化の八十八選巡り

※ 蔵出し第3弾である。№9で新琴似地区にある新琴似神社境内の9件を一挙レポしたが、新琴似地区では3件が残ってしまったので、その3件をレポする。

 今回レポする3件はいずれも当時を偲ぶ具体物が無いという、なんともレポしづらいものばかりが残った。レポする側としては苦しいがお付き合い願いたい。

42〉歌人・若山牧水来訪の地 

   

    ※ 現地で来報の地と分かるのはこの看板一枚だけでした。

 大正時代というとまだまだ首都圏との交流が難しかったと思われるが、歌人・若山牧水は道内の歌人と交流があったようだ。下記の説明文にも出てくるが、この地に居住していた歌人・吹田晋平と一夜歓談を楽しんだようだ。その地は、現在の新琴似小学校の直ぐ近くで、ちょうど新琴似神社の道路向かいにあたる地である。周りには当時を偲ぶものは何もなく、説明板だけが道路脇に立っていた。その説明板には次のように書かれていた。

   

   ※ その看板は建物の片隅に設置されていました。右奥の建物は新琴似小学校の校舎です。

   

    ※ 来訪の地の看板は道路を隔てて、新琴似神社の向かいに設置されていました。

「旅と酒をこよなく愛した歌人・若山牧水が喜志子夫人を伴い、この地を訪れたのは大正15年(1926年)11月14日。牧水が主宰する歌詩(誌?)「創作」の社友・白水春二宅で一泊。新琴似短歌会同人と歓談した。ときに42歳。新琴似で詠んだ歌はないが、紀行文の一節に「咫尺(ししゃく)は辯ぜぬ(注:視界がきかず、近い距離でも見分けがつかないこと)という吹雪に出會ったのは(中略)札幌から新琴似村に行く宵闇のなかであった」と記されている。そして翌朝、30センチほど積もった雪の中を、同社友・吹田晋平の仕立てた馬そりに乗り、鈴の音をききながら札幌へ向かった。」と記されています。

          

          ※ 歌人・若山牧水の顔写真です。

〔住 所〕 北区新琴似7条3丁目 

〔訪問日〕 6月6日

 

43〉新琴似歌舞伎の跡地

   

    ※ 新琴似歌舞伎の跡地も、この看板だけが当時を偲ぶものでした。

 この新琴似歌舞伎座の跡地も何の形跡も残ってはいなかった。跡地にはニトリ麻生店が建っていたが、劇場跡と考えると現在のニトリ店舗の敷地ほど広くはなかったとしても、なんとなくそうした劇場が建っていた跡かなぁ、と思わせる広さだった。その道端に立っていた説明板には下のような説明が書かれていた。

   

    ※ 跡地と思われる所には、現在「ニトリ」の大きな店舗が建っていました。

   

   ※ 跡地から少し行くと、地下鉄麻生駅があり繁華街が近いところに建てられていたようです。

 「明治30年頃から20年後の大正5年(1916年)まで、新琴似では農村青年を中心に開拓を支える慰安として歌舞伎が華やかに演じられていた。当初は、新琴似神社境内で上演されていたが、最盛期には屯田兵2世も加わり明治43年(1910年)には収容能力が310人の常設劇場「若松館」が開設された。ここはその劇場の跡地である。道内の農村芸能史上、常設劇場が建設されたことは珍しいことであり、同時代に存在した篠路歌舞伎とならんで北区の貴重な農村文化史を語る。」と記されていた。

           

          ※ 当時の新琴似歌舞伎の舞台の様子を伝える写真です。

 〔住 所〕 北区新琴似7条1丁目 

〔訪問日〕  6月6日

 

〈44〉帝国製麻琴似亜麻工場跡

   

 この工場跡も工場跡は跡形もなく、その跡地は現在の麻生球場付近と言われている。工場関連施設は球場付近だけではなく、もっと広大に広がっていたようである。下記の説明にもあるように工場長宅があったと言われているところは、麻生球場からはかなり離れたところだった。下記の説明にもあるようにアカマツが残っているところを探したが、なるほど住宅街の細い通りにアカマツの古木が立っていた。面白いと思ったのは、細い通りの半分を占めるようにアカマツが立ち、通りを狭めていたことだ。車一台がようやく通ることができるほど狭いのだが、付近の住民は納得しているのだろう。説明板は下記のように説明されていた。

   

   ※ 帝国製麻琴似亜麻工場は、現在の麻生球場の当たりだったと伝えられています。

 「明治7年(1874年)当時ロシア公使・榎本武揚が開拓使長官黒田清隆にロシア産の亜麻種子を送ったのが、本道の亜麻栽培の始まりであったと言われている。
 明治20年(1887年)に後の帝国製麻株式会社となる亜麻会社が発足。現在の麻生町一帯の約8万坪(244,000平方メートル)の地に製線工場を建設し、同23年に操業を開始した。明治後期、亜麻事業は全盛期を迎え隆盛を続けたが、昭和20年代に入り原料のコスト高や化学繊維の進出などで、工場は閉鎖の運命を余儀なくされた。昭和32年(1957年)のことである。ここは、工場長宅があったところで、当時からのアカマツが残っている。工場は現在の麻生球状付近にあったと言われている。」

          

    ※ 当時の工場長宅の前にあったアカマツが伐採されずに残存していました。

    

    ※ そのアカマツは写真のように道路を遮るように立っていました。地域の人たちは不便なのではと思いますが、不便をしのいで歴史を護っているということなのかもしれません。

〔住 所〕 北区麻生町3丁目 

〔訪問日〕 6月6日

※ 八十八選巡りもちょうど半分の44ヵ所を終えた。どうやら今年中には終えることができそうである。


北区歴史と文化の八十八選巡り №9

2022-06-23 12:33:26 | 札幌市・北区歴史と文化の八十八選巡り

※ 蔵出し第2弾である。この「北区歴史と文化の八十八選巡り」も6月6日に終えていたものである。なかなかレポする機会がなかったが無理して今日のレポとして押しこんだ。

  北区歴史と文化の八十八選巡りはこれまで1度に4ヵ所ずつレポしてきたが、 今回は史跡などが新琴似神社境内一か所に集中的に保存されていることもあり9つの史跡等を一挙レポすることとした。

〈●〉新琴似神社

   

   

 新琴似神社自体は八十八選に選定されているところではない。しかし、9つの史跡が一か所に設置されていることから、その場所等について簡単にレポしたい。

 神社の場所はJR新琴似駅、北区体育館の直ぐ近くに樽川通に面して立地している。比較的麻生の繁華街から近いところにある。

   

 比較的広い境内の一隅が神社の駐車場となっているが、その周囲に「新琴似屯田兵中隊本部」の復元建造物を中心として各石碑等が点在している。

33〉屯田兵もやい井戸跡

   

 新琴似神社境内に保存されている史跡の中で唯一その跡地の特定に苦労したのが「屯田兵もやい井戸跡」である。境内のあちこちを捜し歩いたが、それらしき跡が分からなかった。諦めかけた時に、新琴似屯田兵中隊本部の建物の前に来た時、そこに「屯田兵もやい井戸跡」の説明板が立てられていた。ということは中隊本部の近くにそれがあったことを示しているものと考えた。形跡はまったくなかった。説明板によると屯田兵屋の4戸に一つの共同井戸ということだから、跡地そのものではないのかもしれないが、一応その地を井戸跡とすることにしたい。その説明板には次のように書かれていた。

 明治20年(1887年)新琴似に九州出身を中心とする屯田兵146戸が入植。その生活を支えた井戸は4戸の共同使用で、風呂が併設されていた。「もやい」とは「共同」の意味。この井戸は水源までモウソウ竹を打ち込んだもので、水が30センチほど自噴していた。竹の長さは約30メートル、継ぎ目にはコンブが巻かれていたと言われている。

〔住 所〕 北区新琴似8条3丁目 新琴似神社境内

〔訪問日〕 6月6日 

34〉東繁造君学勲碑(ひがししげぞうくんがくくんひ)

   

 この石碑以降は、いずれも新琴似神社境内を取り囲むように建立されていたので、説明板の文章だけを紹介することにする。

 東繁造は大正9年(1925年)●●当時の東大教授三田定則の門下生として血液の鑑別方法を研究。それまで鑑別しにくかった人と家畜類の血液を早く確実に見分ける科学的鑑別法に成功。この方法は、恩師と自分の名をとって「三田・東法」と名づけた。この碑は、氏の功績を称えるため、昭和35年(1960年)に当時の東大名誉教授古畑種基らによって建立された。 

〔住 所〕 北区新琴似8条3丁目 新琴似神社境内

〔訪問日〕 6月6日

35〉新琴似兵村記念碑

   

 新琴似地区は、明治20年(1887年)、屯田兵の入植によって開かれた地で、開村50年を記念して昭和11年(1936年)に建立された。既に開村5年を記念して建立された「新琴似開村記念碑」が神社の東側にあったが、永年風雪にさらされて、文字の解読も困難になったところから、新たにこの碑を建立したものである。
 札幌軟石の外棚を巡らしコンクリートの基礎、この上に幅3.5メートル、高さ5メートル、厚さ30センチメートルの板石を建てている。裏磁には、入植屯田兵220名の氏名が刻印されている。 

〔住 所〕 北区新琴似8条3丁目 新琴似神社境内

〔訪問日〕  6月6日

〈36〉新琴似の馬魂碑  

    

 この馬魂碑は、大正8年(1919年)に光明寺境内(新琴似7条1丁目)建立されたが、昭和50年(1975年)に新琴似神社境内に移された。開拓時代、その家の手足となって働いた農耕馬を供養するためのもの、当時の主な農家は、自分の愛馬を弔うため、それぞれ自分の農地の片隅などに建てたりしていたが、これを総括し「馬頭観世音」として奉遷したものである。

〔住 所〕 北区新琴似8条3丁目 新琴似神社境内

〔訪問日〕 6月6日

37〉吹田晋平歌碑 

   

 吹田晋平歌碑(本名 菅 進)は、明治35年(1902年)8月19日に新琴似に生まれ
永年にわたり歌人として、さらには政治家として地域の発展に貢献した。55年間にわたり歌人として数々の秀作を発表する一方、札幌市議会議員を通算6期24年勤め、市政の発展と地域の振興に尽力した。この碑は、氏の功績に報いるため有志により昭和47年(1972)に建立された。

〔住 所〕 北区新琴似8条3丁目 新琴似神社境内

〔訪問日〕 6月6日

38〉新琴似「百年碑」

   

 明治20年(1887年)の屯田兵入植に始まる新琴似地区は、当時、あまりにも厳しい自然環境に耐えきれず、離農する人たちが後を絶たなかったと言われている。●●ま●●の地に望みをかけて踏み止った少数の屯田兵と、新天地を求めて新たに渡ってきた一般の入植者の不屈の精神によって、昼なお暗きうっそうたる原始林が切り開かれ、良好な農耕地から住宅地へとめざましい発展を遂げた。この記念碑は、開基百年を記念して昭和61年(1988年)に建立された。

「百年碑」には添え書きがあり、「この地に育つ 若人よ 今日を創りし 先人の 自耕自拓の 精神を 継いで努力の 人となれ」と刻まれていた。

〔住 所〕 北区新琴似7条3丁目 新琴似神社境内

〔訪問日〕 6月6日

39〉新琴似屯田兵中隊本部

   

 この建物は、明治20年九州各地の士族146戸の入植(翌21年に74戸を補充)により発足した新琴似兵村(屯田兵第1大隊第3中隊)の本部として、明治19年に建てられました。 明治36年の屯田兵役解除後、新琴似兵村会の共有財産として引き継がれ、明治44年の兵村解散後は、新琴似屯田親交組合、新琴似兵村部落会、新琴似自治会、新琴似町内会、琴似産業組合、新琴似中学校仮教室、札幌市新琴似出張所等に使用されるなど、時代の変遷を経て昭和40年11月、札幌市に寄付されました。その後、昭和43年度から昭和46年度にかけて、創建当初に復元するための改修工事が行われ、昭和49年4月20日には歴史的価値が高く建築構造の上からも貴重な建造物として、札幌市有形文化財に指定されました。
 建物の構造は木造、小屋裏部屋付き平屋建て、全体の形は素朴でおおらかさがあり、玄関出入口、窓回り等の細部、小屋組などに当時流行した洋風木造建築の特徴を良く残しています。現在札幌市では、新琴似屯田兵中隊本部保存会の協力を得て建物を保存管理しています。(札幌市有形文化財) 

 訪れた日は月曜日だった。建物の開館日が火・木・土の週3日のため入館は叶わなかった。しかし、私は以前に入館した経験があった。内部は中隊長室、下士官集会室、軍医室、事務室などからなっており、現在はそこが屯田兵に関する資料が展示されている。私は「思っていたほど大きな建物ではないなぁ」というのが正直な感想だった。                                 

〔住 所〕 北区新琴似7条3丁目 新琴似神社境内 

〔訪問日〕  6月6日 

〈40〉新琴似「拓魂」碑  

   

 新琴似開基百年を記念して、開拓を支えてきた先日と、共にあった農業組織の歴代の会長を顕彰するもので、昭和61年(1986年)に建立された。

 日高産の赤石で、正面に「拓魂」の2文字と碑文、表面には歴代の組合長の名前が刻まれている。 

〔住 所〕 北区新琴似7条3丁目 新琴似神社境内 

〔訪問日〕 6月6日

41〉新琴似「開村記念碑」

            
 新琴似地区は、明治20年(1887年)、屯田兵の入植によって開かれた地で、開村5年を記念して建立された。しかし、この開村記念碑が永年風雪にさらされ、文字の解読も困難になったことから、先人の開拓の功を後世に伝えるために、神社の西側に「新琴似兵村記念碑」として昭和11年(1936年)に再建されている。

 ※ 現地で撮った写真を整理したところ、この「開村記念碑」の写真を撮ることを失念していたようだ。よってこの写真だけウェブ上から拝借してしまうことになった。

〔住 所〕 北区新琴似8条3丁目 新琴似神社境内

〔訪問日〕 6月6日 


北区歴史と文化の八十八選巡り №8

2022-06-07 06:10:48 | 札幌市・北区歴史と文化の八十八選巡り

  今回も前回に続いて北区の中でも西側に位置する歴史と文化の史跡等を巡って歩いた。一日で巡る計画が私のミスで二日間にわたってしまった。そのミストとは?恥ずかしいほどの私のうっかりミスなので公表は差し控えることにする。

※ 本日の私は午前7時から行動を開始して、帰宅するのが午後8時近くになる予定である。その理由は、「いしかり市民カレッジ」の講座に受講申請した「世界遺産登録となった北海道北東北の縄文遺跡群」の現地見学で千歳市、伊達市方面にバスで見学する予定なのだ。本来なら、先に座学を実施して見学先の予習をするのだが、講師の都合でいきなり現地見学ということになり、どこの遺跡を見学するのか、現時点では分かっていないのだ。私の期待としては千歳市、伊達市、洞爺湖町の4ヵ所の遺跡を回ってくれるものと期待している。しかし、今のところは分かっていない。まあ、ミステリーツアーに参加する気持ちで楽しんでこようと思っている。そのため、本日の投稿は昨夜作成したものを本日早朝に投稿することにしました。 ご理解ください。

29〉新川「開基百年記念」碑

 新川「開基百年記念」碑は、新川中央公園内に建てられていた。新川中央公園は比較的大きな公園だったが、碑は公園の南側の入口近くに建っていた。碑は高さ 5~6mほどもあったろうか?とても大きな石碑だった。

   

   ※ 立派な百年碑です。

   

   

   ※ 百年碑を背後から撮ってみました。公園が緑豊かです。

 石碑の裏には次のような碑文が刻まれていた。

 苦節百年 不撓不屈の精神をもって、過酷な自然条件を克服し、新川地区の生生発展の貢献した屯田兵および部有地へ入植した開拓者の偉業を偲び、その功績を顕彰する。開拓に心血を注いだ先人の魂は、我ら新川住民のコ頃に永遠に継承されるであろう 今日の新川地域の栄光と住民の幸せは、我らの一層の協力と親和への努力により、未来へ向かってより輝かしいものとしなければならない ここに新川開基百年を記念し、この碑を建立する。       平成元年(一九八九年)十月二十二日 新川開基百年記念協賛会

 また、傍に立てられていた北区制作の説明板には次のように説明されていた。

 新川地区の開拓は、明治22年頃から屯田兵や一般入植者が定住して本格化した。湿地帯であったことから幾度となく水害に襲われたが、先人はこれを乗り越えて豊かな農耕地帯へと導き、そして現在の住宅地へと発展させた。新川という地名は、物資輸送と水害防止に役立った人工河川「新川」から由来している。この記念碑は、開基百年を記念して平成元年に建立された。

〔住 所〕 北区新川4条14丁目 新川中央公園内

〔訪問日〕 6月4日 

30〉近藤牧場

 近藤牧場は新川中央公園に近いところに位置していたが、辺り一帯は市街化が進み、郊外型店舗が集まり新市街を形成しているような一角で、今なお現役として牧場を経営されているようであった。だからちょっと歴史を感じさせる牧舎やサイロもきっと現役で使われているようで、メンテナンスも十分のように見えた。

   

   ※ 道路向かいから近藤牧場の牧舎全体を撮ってみました。

   

   

   

 牧場の傍に立てられていた説明板には次のように記されていた。

 大正4年(1915年)からこの地で酪農を始めた近藤牧場は、札幌の近郊によく見られた牧場の形態を今に残す数少ないものの一つである。場内にある冬期間の乳牛の飼料を蓄えるサイロ(大正14年建築)は、木軸にコンクリートを打ち込み、表面を下見板張りにしたもので、大変珍しい構造である。 

〔住 所〕 北区新川694番地

〔訪問日〕 6月4日

31〉安春川の水辺と散策路

 私が安春川を訪れるのは初めてではない。おそらくこれまで3~4度訪れているはずである。記録を調べてみると最初に訪れたのは14年間前の2008年6月である。その時私は安春川の印象を次のように記している。

   

   ※ 安春川の水源地(?)です。近くにある下水処理場で高度処理した水を流しているそうです。

   

   ※ その水源地から安春川を眺めたところです。

   

   ※ こちらは水源地とは反対の西端の散策路が始まるところです。

「少し資金を費やし過ぎているのでは」と思われるくらい、見事に整備された散策路です。
 小さな流れの両岸は大小の石で固められ、その脇には鉄平石が敷き詰められた素晴らしい遊歩道が続いています。さらに、ところどころにベンチを配したり、東屋があったりといたれりつくせりの感がします。」

   

   ※ 水辺すべてではありませんが、散策路にはこうした鉄平石が敷かれています。

   

   ※ 途中にはこのような板敷の散策路もありました。

   

    ※ 川幅はけっして広くなく、せせらぎといった感じです。

   

   ※ よく見ると川底も石が敷き詰められていました。

   

   ※ 川辺のいたるところにこうしたベンチが配されています。

   

   ※ また東屋も適度に設置されています。

 今回訪れてみて、その印象は大きくは変わらないが、以前に比べると川の周囲の整備の状況が以前より後退したのではないか?との印象を抱いた。安春川が現在のように整備されたのが1987年(昭和62年)だという。以前に訪れた時は、周辺住民が積極的に川辺の整備をされていたように思えた。しかし今回は…。時代を経て、住民にとっては当たり前の光景となってしまい、住民自らによる整備を忌避する傾向が出て来たとしたら残念なことである。

   

   ※ ちょっと残念な光景でした。実はもっと酷いところもあったのですが…。

  今回、私は1987年に整備されたという約1.4キロの水辺を往復した。水源地(これが特殊な水源池なのだが…。後述)に向かって行きは左岸を、帰りは右岸を歩いたが、途中から右岸の方は遊歩道が無くなってしまい、左岸に移らざるを得なかったのは、取得用地の関係だと思われるが、ちょっと残念なところである。

   

   ※ 川には相当の数のマガモが生息していました。また、川で棲息する鯉もかなりたくさん目撃しました。

   

   ※ 若い女性が二人、川の中に入りザリガニ採りに夢中になっていました。

 安春川は自然にあった川ではなく、農業用水を得るために当時の周辺農民が掘削した川である。そのあたりの経緯について説明板で下記のように説明していた。
 明治23年(1890年)、湿原の地下水位を下げ農業の発展を期すために、屯田兵により開削された「安春川」。その川も、都市化の波により流水が枯渇し、降雨時のみの廃水路と化していたことから、快適な生活環境を創造するため、創成川高度処理水によるせせらぎの復活と、河川敷のオープンスペースを利用した遊歩道の整備、さらには、快適な冬期生活に向けての融雪施設を設置することとし、昭和62年度から事業に着手した。長さ約1.4キロメートルにわたり、遊歩道や親水広場などが整備されており、地域の人たちや子供たちの憩いの場として親しまれている。 

〔住 所〕 北区新琴似5条1丁~10丁目付近

〔訪問日〕  6月6日


 〈32〉新琴似屯田兵屋  ※ 跡地になってしまったために削除された。

   

   ※ 「新琴似ポッポ公園」の表示板には「札幌市北区新琴似1条6丁目」と表示されていましたが…。

 新琴似屯田兵屋については建物が撤去され、跡地となったために削除された、となっていたが、一応跡地を見てみようと現地に赴いた。現地に赴き、辺りを探したのだが新興住宅地となっていて、跡地そのもの見つけることはできなかった。ただ「新琴似1条6丁目」の一角に「新琴似ポッポ公園」があった。もしここが跡地だとしたら何らかの掲示がされているはずであるから、ここではないとしても近くであることは間違いないとして、それ以上の探索は諦めた。

 〔住 所〕 北区新琴似1条6丁目1

 〔探索日〕  6月6日 


北区歴史と文化の八十八選巡り №7

2022-05-31 13:16:56 | 札幌市・北区歴史と文化の八十八選巡り

  北区歴史と文化の八十八選巡りは、札幌駅に近かった北大構内から、いよいよ北区の奥深くに分け入ってゆく。今回は〈25〉札幌飛行場正門跡と「風雪」碑、〈26〉力士若勇像、〈27〉馬頭大神、〈28〉新川さくら並木・新川緑地と巡り歩いた。

25〉札幌飛行場正門跡と「風雪」碑

   

   ※ 写真のように正門が通りに面して立っていました。(前方に小さく「風雪」碑も見えます)

   

    ※ 門には「札幌飛行場」と 表示されていました。

   

    ※ 足元には飾りタイルで八十八選に選出した門と碑であることを表示していました。

 ここに私は以前にも訪れたことがあり、その上北24条通りという東京オリンピックのマラソンコース上で、北海道芸術デザイン専門学校の校舎の隣ということで割合簡単に見つけることができた。正門跡というが、そこには「札幌飛行場」と刻まれた正門そのものが立っていた。また二つの正門に挟まれる形で坂胆道作の「風雪」碑があった。またその横にはいわくありげな木柱が立っていたので、調べてみたがそれに触れた文献を発見することはできなかった。「風雪」碑について書かれた文章を見つけることができたので、参考までに転写することにした。

   

   ※ 坂胆道作の「風雪」碑です。

「大空に憧れ、空高く飛んだ 父も兄も弟も、遠い想い出になって消えてしまうだろう。」碑にはこう刻まれている。 ここはかつて「札幌飛行場」があった。昭和2年(1927年)、旧北海タイムス社(現:北海道新聞社)はこの辺り周辺に飛行場を開設。やがて国営飛行場となり、札幌―仙台―東京間の定期航空路も開設された。飛行場といっても草を刈って整地してあるだけの滑走路で、機体がぬかるみにはまれば、みんなで力を合わせて引き上げるというのどけさだったという。昭和19年(1944年)には初めて軍用の板敷き滑走路が完成。さらに拡張しようとした矢先に終戦。戦後、進駐軍によって飛行機や施設が焼き尽くされ閉鎖された。 付近一帯は住宅地へと変貌を遂げ、二基の門柱だけが残された。ここにアトリエを建てた彫刻家坂坦道は当時をしのんで、プロペラ型のブロンズ記念碑を制作設置した。 

        

          ※ 傍に立っていた木製の塔の意味が調べても分かりませんでした。

〔住 所〕 北区北24条西8丁目 

〔訪問日〕 5月25日 

26〉力士若勇(わかいさみ)碑

   

    ※ 新川の堤防上に建つ「若勇碑」です。

       

 「力士若勇碑」は新川橋のたもとに建っていた。力士というのできっと札幌出身の大相撲で出世した力士かと思っていたが、そうではなくて素人相撲で大いに名を上げた人だと傍にあった説明板で知ることができた。その説明板の文章を転写する。

 この碑の「若勇関」は、大正2年(1913年)、25歳で富山県から本道に来て琴似村新川地に住居を持った。本名を前谷省三といい、素人相撲ながら大関を張り、その豪快な取口は人々の話題をさらったと言われている。また「若勇関」は、当時としては大型の農業を営み、新川地区の農業の基礎を作ったとも言われている。農民として、また力士としての功績を称えたのがこの「力士・若勇碑」である。大正10年(1921年)、相撲を引退した記念に建てられた。

とあった。素人相撲で石碑まで建てられるのだから、相当に周りの人たちには印象深い力士であり、農業人だったのだろうと想像される。 

   

    ※ 碑の向こうに見えるのが新川橋です。

〔住 所〕 北区北24条西19丁目 新川橋のたもと

〔訪問日〕 5月25日

27〉馬頭大神

   

    ※ 新川の住宅街の中に建つ「新川皇太神社」です。真紅の鳥居が印象的です。

   

   ※ 新川皇太神社の社殿です。

 この「馬頭大神」がある新川皇太神社が遠かった。この日私は自転車で巡って歩いたのだが、いやいや遠かったぁ。昨年夏、私は「花手水」巡りで新川皇太神社を訪れてはいたが、その時は乗用車で巡って歩いたので距離感がまったく違っていた。なんとか辿り着くと、「馬頭大神」は神社境内の奥深くに鎮座していた。

   

   ※ 社殿の左奥に鎮座していた「馬頭大神」の石碑です。

「馬頭大神(おおかみ)」という呼称は私の中ではあまり馴染みではなく「馬頭観音」という言い方の方が一般的に思うが、その建立の趣旨は同じようで、農耕馬である馬に農民が感謝の意を込めて建立した碑である。

 実は新川皇太神社にはもう一つ「馬頭大神」が建っていた。その碑の裏側には「手稲区より新川皇太神社境内に遷碑す 観音改め馬頭大神とす。 平成14年9月22日」とあった。  

   

   ※ もとからあった馬頭大神の傍に立てられていた手稲地区から遷碑した馬頭大神です。 

〔住 所〕 北区新川3条13丁目 新川皇太神社境内

〔訪問日〕  5月25日

 

〈28〉新川さくら並木・新川緑地

   

   ※ 桜の季節が終わってしまった新川のさくら並木の一部です。

 新川のさくら並木は、新川の川沿いにずーっと続く並木である。人によっては「新川のさくら並木は日本一ではないか?」と主張する方があるという。それは新川のさくら並木は全長が10.5kmもあるからだ。しかし、正直言って日本一を称するのは少々おこがましいかな?というのが正直な印象である。というのも、一部を除いてサクラの木が少々貧弱な印象が拭えない。特に石狩湾に近い方は海風の影響があるのか十分に育ってはいないのが現状である。あるいは10数年後には見事な並木になるのだろうか?私が写真の収めた市街地に近い右岸通りで北24条西14丁目辺りである。この辺りから右岸を下流方向にしばらくの間が最も並木が素晴らしいところである。私の写真は5月25日現在のものであるが、ウェブ上から満開時の写真を拝借して掲載した。将来的にこうした光景が長~く続くことを期待したい。

   

   ※ こちらも5月25日に撮ったさくら並木です。

   

   ※ ウェブ上から拝借した満開時の新川のさくら並木です。こうした並木がずーっと続くといいのですが…。

 続いて「新川緑地」だが、こちらも捉えどころのない新川の長い長い河川敷を指す。私は2020年に札幌市の緑地巡りをした際に緑地全体を隈なく歩いたことがあるので、興味のある方はその際に投稿したものをご覧いただきたい。(新川緑地についてのレポはこちら⇒前編〈2020/6/19〉後編〈2020/6/20〉)

〔住 所〕 北区新川3条17丁目 天狗橋

〔訪問日〕 5月25日   


北区歴史と文化の八十八選巡り №6

2022-05-28 15:49:10 | 札幌市・北区歴史と文化の八十八選巡り

  北区歴史と文化の八十八選巡り第5弾は長く続いた北大関連最後の1件と、その他の3件である。「北海道大学農学部第二農場」、「旧藤高等女学校校舎(キノルド記念館)跡」、「北27条公園通り」、「いのち」の4件をレポする。

21〉北海道大学農学部第二農場

   

    ※ 第二農場内に入った直後に見られる光景です。

  北海道大学構内の中央道路を北に向かって進んだ突き当りに広がるのが「北海道大学農学部第二農場」である。私はこれまで何度も訪れているが、2019(平成31)年に「さっぽろの古を訪ねて Ⅱ」の現地学習で訪れた時には、担当の教授から直接お話をうかがう機会があり、特に印象に残っている。主要な建物である模範家畜房(モデルバーン)、種牛舎、穀物庫(コーンバーン)などの内部も見せていただき、詳しい説明もいただいた。それらが現在の北海道の畜産の基礎を築いたことがよく理解できた。

   

   ※ 牝牛舎です。

   

   ※ 模範家畜房(モデルバーン)です。

 次に紹介する文章は、第二農場についてより理解できる文章だと考え紹介することにした。

 1876(明治9)年、札幌農学校の開校とほぼ同時に開設された農黌園(のうこうえん)が北大農場の原型だ。初代教頭クラーク博士の指導によって造られ、近代的な大規模洋式有畜農業を日本に導入するための拠点となった。第二農場には北海道の風土にあった酪農のモデル農場の姿が当時のまま残されている。その中心を担うのが1階が家畜舎、2階が干草置き場の模範家畜房。クラークの後を継いだ第2代教頭のホイーラーが、マサチューセッツ農科大学農園の家畜房にならって設計をした。風船構造と呼ばれる建築様式で、屋根を支える柱がないのが特徴的だ。1969(昭和44)年、国の重要文化財に指定。 

   

   ※ 場内に植わっている大木です。(ハルニレ?)

〔住 所〕 北区北18条西8丁目 北海道大学構内

〔訪問日〕 5月10日 

22〉旧藤高等女学校校舎(キノルド記念館)跡

 「旧藤高等女学校校舎(キノルド館)」は1924(大正13)年に造られた木造3階建ての校舎である。設計はスイス人建築家のマックス・ヒンデルという人だそうだ。

   

   ※ 旧藤高等女学校校舎の一部を再現した「キノルド資料館」です。

 校舎は、高等女学校から、学制が次々と変わり女子中学校、女子校などと変ったけれど藤学園のシンボルとして長く使われてきたそうである。しかし、老朽化により維持が難しくなり2001(平成13)年に解体された。現在は跡地に「旧藤高等女学校校舎(キノルド館)」の資材の一部を使いスケールを小さくして2003(平成15)年に「キノルド資料館」が建てられている。

   

   ※ 「キノルド資料館」の屋上中央には旧藤高等女学校のシンボルタマネギ型のポールが立っていました。

 私が訪れた時、校舎のシンボルでもあった中央の塔にタマネギ型をしたポールが立っていたので「あれっ?」と思ったが、上記のように復元したものだと分かり納得した。なお、内部は許可さえ得られれば見学可能のようだが、現在は「コロナ禍のために中止している」とのことだった。

 ところで私は「キノルド」ということについても何も知識がなかった。調べてみると、キノルドとは「キノルド司教」のことで、藤学園の創始者だということが分かった。

 いつか機会があれば資料館の内部も見学させていただきたいと思っている。

   

   ※ 旧藤高等女学校校舎について説明する北区制作の説明板です。

〔住 所〕 北区北16条西2丁目 藤学園内

〔訪問日〕 5月10日

23〉北27条公園通り

 「北27条公園通り」は、もともとは旧札幌飛行場の防風緑地帯を利用した通りである。

   

   ※ 「北27条公園通り」の西6丁目側の入口のところです。左の大木のようなものはコンクリート製のモニュメントです。

 1926(大正15)年に旧北海タイムス社が報道用のために北24条以北を滑走路として使用していたことに始まり、その後は東京への定期航空路を持つ飛行場として使用されたり、戦時中は陸軍飛行場としても利用されたりしたが、終戦と共に閉鎖されたところを活用したものである。

   

   ※ こちらは公園通り中央付近にあった時計付きのモニュメントです。

 通りは10mくらいの幅でおよそ400m続く通りで、通りには公園のように樹木が植えられたり、ベンチや東屋、花壇などが配されたりして、周辺住民にとっては貴重な憩いの場となっていることを伺わせた。市の当局も造成時はかなり予算を投じて整備されたものと推察できた。ところが、今回訪れてみると、全体が雑草で覆われているのが何とも残念に思えた。

   

   ※ 木々が生い茂り通りに木陰を造っていますが、その下の雑草が気になります。

   

   ※ 子どもたち作成の壁画が並んでいますが、ここも雑草が気になります。

   

 恩恵に浴している周辺町内会などがリードして、住民自らが整備するようなことは考えられないのだろうか?なんとも残念な光景に思えた。 

   

   ※ 通りは写真のように大仰な塀に囲まれていました。

〔住 所〕 北区北26条西5丁目~8丁目

〔訪問日〕  5月25日

〈24〉いのち

   

   ※ 若草公園の入口から公園全体を望んだところです。

 彫像「いのち」は北27条公園通りから1条分南に寄った「若草公園」内にあった。作者は羊ヶ丘展望台の「丘の上のクラーク像」の作者として知られる坂胆道氏の作品である。

   

   ※ ここも雑草が目立ち過ぎです。奥に母子像が見えます。

 母子像「いのち」は、1976(昭和51)年8月に幼児が交通事故で亡くなったことをきっかけに、その翌年交通安全を祈願して北第二町内会が中心となって建てたものだそうだ。

   

   ※ 母子像「いのち」の全体像です。

 母子像の傍には北区が作製した説明板に次のように説明されていた。(一部省略)

「この『いのち』の像は昭和52年(1977年)に建立されたが、10年にわたる風雪で腕や足に亀裂が入るなど傷んできたため、昭和63年ブロンズで作り直したもの。母とその両手に抱かれ、もみじの葉のような手を広げ、大空を見上げる幼児の姿は、見る人の心を強く引き付ける」(当初の像はポリエステル樹脂製だった⇒筆者註)とあった。 

   

   ※ 像の裏側から公園全体を望んだところです。

〔住 所〕 北区北25条西7丁目 若草公園内

〔訪問日〕 5月25 日


北区歴史と文化の八十八選巡り №5

2022-05-19 11:05:27 | 札幌市・北区歴史と文化の八十八選巡り

  北区歴史と文化の八十八選巡りの第5弾はまだまだ北大関連である。それだけ北区にとって北大の存在は大きなものということだろう。今回は「北大イチョウ並木」、「母子像」、「恵迪寮歌『都ぞ弥生』歌碑」、「北大遺跡保存庭園」の4ヵ所をレポートする。

〈17〉北大イチョウ並木

   

   ※ 北13条門側から北大中央部方向に見たイチョウ並木です。

 「ポプラ並木」と並んで北大の観光名所の一つとして知られる「イチョウ並木」は北13条通りの道路の約380mの両側に70本のイチョウの木が頭上を覆うように並んでいる。このイチョウ並木は夏の青葉より、10月下旬から11月にかけてイチョウの葉が黄葉するときが人気である。私が今回訪れた5月初旬はあの独特の形のイチョウが小さな葉を付けたばかりのようであった。

   

   ※ こちらは反対に北大中央部から北13条門方向を見たところです。

   

 このイチョウ並木の歴史を調べてみると、北13条通りは最初からイチョウ並木ではなく、大正11年頃はサクラとカエデの並木だったという。さらに昭和14年頃にはイチョウも植栽され、サクラ、カエデと小さなイチョウが混在した並木だったが、やがてサクラとカエデは病害で枯死したり、伐採されたりしてイチョウだけが残され、現在の姿になったそうだ。 

   

   ※ 秋の黄葉のイチョウ並木です。

〔住 所〕 北区北13条西5丁目~7丁目 北海道大学構内

〔訪問日〕 5月10日 

〈18〉母子像

 この「母子像」を見つけるのにやや苦労したが、北大病院の正面の西5丁目通り沿いに北大医学部の先駆者たちの胸像が並ぶ隣に立っていた。

   

   ※ 北大病院の正面付近に「母子像」は建てられていました。

 「母子像」は1986(昭和61)年、財団法人協共会(北海道大学附属病院)が創立65周年を迎えた時、彫刻家・本田明二に依頼し制作して寄贈したものである。

   

   ※ 母子像の周辺に雑草が多いのが気になりました。

 「母子像」の傍に立てられていた説明板には「全身の愛と力を両脇に込めて、いとし子をしっかりと抱くその姿は、訪れる人たちや患者の心を強く引き付ける」と書かれてあった。 

        

        ※ 本田明二作「母子像」です。

〔住 所〕 北区北14条西5丁目 北海道大学構内

〔訪問日〕 5月10日

〈19〉恵迪寮歌「都ぞ弥生」歌碑

 この歌碑は北図書館のところから平成ポプラ並木に向かう道路脇に建てられている。そこは以前に恵迪寮があった入口のところと思われる。寮歌「都ぞ弥生」は寮歌として大変有名であるが、その経緯に著した文書を見つけることができたので参照していただきたい。なお、この「都ぞ弥生」歌碑の近くには「寄宿舎跡の碑」という石碑も建てられていた。

   

   ※ 「都ぞ弥生」の歌詞が刻まれた歌碑です。

   

   ※ その歌詞を大写ししました。

 歌碑の位置を確認したので、現在の「恵迪寮」を訪ねた。現在の恵迪寮は北大構内の北西端に建てられている。やや隅に追いやられているような印象も受けてしまうが、致し方のないことか?

   

   ※ 現在の恵迪寮の門柱です。整備が行き届いていないのは学生の自主管理のせいでしようか?

   

   ※ 大きな恵迪寮の一部です。

 次の文書が「都ぞ弥生」歌碑と「寄宿舎跡の碑」にまつわることが記された文書である。

 札幌農学校の寄宿舎「恵迪寮」の寮歌として作られた「都ぞ弥生」。日本三大寮歌の一つで、今なお学生たちに歌い継がれています。

 恵迪寮の歌碑を尋ねて、恵迪寮を目指すと、道端に「恵迪寮歌歌碑」が出て来た。「都ぞ弥生」の碑文には「横山芳介作詩 赤木顕次作曲 明治四十五年恵迪寮歌 都ぞ弥生の雲紫に 花の香漂ふ宴遊の筵 盡きせぬ奢に濃き紅や その春暮ては移らふ色の 夢こそ一時青き繁みに 燃えなん我胸 想ひを載せて 星影冴かに光れる北を 人の世の 清き国ぞとあこがれぬ」と5番ある内の1番が刻まれていた。

 次に、恵迪寮跡の「寄宿舎跡の碑」が現われる。碑文は送り仮名がカタカナで昔風だ。

 碑文には「北海道大学桑園学寮は、昭和24年/札幌市北3条西14丁目に創設され、/昭和36年北海道大学構内のこの地に/移転した。昭和58年3月その歴史を閉じたが、/その間学部男子学生512名がその青春を/謳歌した。/平成11年10月 記念碑建立委員会」と刻まれている。

   

   ※ 「寄宿舎跡の碑」です。

   

〔住 所〕 北区北16条西9丁目 北海道大学構内

〔訪問日〕  5月5日

〈20〉北大遺跡保存庭園

 私は今回の「北区歴史と文化の八十八選」めぐりをすることによって、はじめて北大構内に「遺跡保存庭園」があることを知った。そのこともあり、その位置を見つけるのにやや手間取ったが、北大の陸上競技場の横を辿っていくと「遺跡保存庭園」という表示が目に入った。

   

   

 ここは遺跡保存地区だから手つかずの自然がそのまま残っている。私はその鬱蒼とした庭園に足を踏み入れ、竪穴住居跡らしい窪みを見つけることができたので、深入りはせずに早々に庭園を後にした。札幌市内にはこの他にも数か所竪穴式住居跡が保存されているが、北大の庭園のように当時の面影を残したものは少ない。(もちろん下草刈りなどは定期的にされてはいるが)それだけにここの庭園は貴重なのではないかと思われる。

   

    ※ 微かに窪みがみられ竪穴住居跡と思われます。(下の写真も)   

   

 下の文章は、私と同じようにこの庭園を訪れた人の文章である。

 かつて、この一帯は多数のメム(アイヌ語で「泉」)がわき、古代人の漁猟基地でした。竪穴式住居跡があります。「遺跡保存庭園」がグランド脇の奥にあったので寄ってみる。入口には門柱があり、中に入ると草を刈ったばかりだったので、竪穴住居跡の窪みの遺跡が見えた。遺跡をぬうように小道が延びているが、カラスの縄張りになっていて、歩くのが怖い。 

   

    ※ 庭園内にはこうした古木然とした木が生い茂っていました。

〔住 所〕 北区北17条~18条西11丁目 北海道大学構内

〔訪問日〕 5月5日


北区歴史と文化の八十八選巡り №4

2022-05-10 14:15:28 | 札幌市・北区歴史と文化の八十八選巡り

  北区歴史と文化の八十八選巡り第4弾は「旧札幌農学校校舎」、「小麦研究記念碑」、「北大ポプラ並木」、「『人工雪誕生の地』碑」の四つについてレポする。「北大ポプラ並木」については、事情により2度訪れたうえでこのレポを完成した。

〈13〉旧札幌農学校校舎

 この「旧札幌農学校校舎」を特定するのにはやや苦労した。というのも、次の「北海道文化資源データベース」に書かれていた次の文章のためである。

 1902(明治35)年に完成した札幌農学校の新校舎は、各専門科目の教室をそれぞれ独立して建てるという、当時としては珍しいアメリカ式の校舎配置でつくられました。その一つがこの昆虫学及養蚕学教室です。現在は、北大交流プラザ「エルムの森」として使われています。近くには北海道大学旧札幌農学校図書館読書室・書庫もあります。

 この文章でいう北大交流プラザ「エルムの森」とは、北大正門前にあるが、資料にあるような建物の外観とは似ても似つかない建物である。やや迷ったが、建物の位置、外観の様子から「旧昆虫学及昆虫学教室」と呼称されている建物を「旧札幌農学校校舎」と判断した。周りに「北区歴史と文化の八十八選」に関する表示はなかったが、建物の壁には「国登録有形文化財」に指定されたプレートが張られていたので間違いないと判断した。

 ただ、「旧札幌農学校校舎」についてウェブ上でいろいろと検索すると「エルムの森」として利用されているとなっているので、今後もその点については調べていきたいと思っている。

   

   ※ 現在は「北大交流プラザ エルムの森」として利用されているとのことだったが、現地へ行ってみるとどうやらそのように活用はされていなかっ??

 

   

   ※ 玄関部分を大写しすると、向かって右側のところに「国登録有形文化財」のプレートが貼られていました。(黒く四角に見えるプレートです)

   

   ※ 教室の裏側です。   

   

〔住 所〕 北区北7条西7丁目

〔訪問日〕 4月19日

〈14〉小麦研究記念碑

 この「小麦研究記念碑」は北大総合博物館の裏手の建物の前に設置されていた。記念碑の前には北区が設置した説明板に次のように記されていた。

「小麦研究記念碑

 北海道大学の農場には、札幌農学校時代から麦類の種ならびに品種が多数集められてあった。坂村徹博士はこれらについて研究し、はじめて小麦の正しい染色体数を明らかにした。ひきつづき木原均博士は、小麦種間雑種の細胞遺伝学的研究を行い、この領域に新しい時代を画した。ここは、木原均博士が小麦の研究を開始した地点であり、北海道大学創基百年に際して同門相この記念碑を建立した。昭和51年(1976年) 建立」 とあった。

   

   ※ 理学部の校舎の片隅(写真右側)に記念碑がありました。

   

   

   

   ※ 記念碑の手前には紹介したような顕彰文が写真のように記されていました。

〔住 所〕 北区北7条西7丁目

〔訪問日〕 4月19日

〈15〉北大ポプラ並木

 北海道大学のシンボルであり、札幌観光の目玉の一つでもある「北大ポプラ並木」は大型台風での倒木などがあったが、現在も67本のポプラが全長250mの道の両側に立っているが、現在はその並木道の80mほどが散策可能となっている。

   

   ※ 4月19日に訪れた時にポプラの枝先に若葉は見られませんでした。

           

 北大のポプラの始まりは、1903(明治36)年に森廣という札幌農学校の2代目校長の息子がアメリカから数本の苗を持ち帰ったのが始まりとされ、その後1911(明治44)年に新渡戸稲造に同行して渡米した南教授が多数の苗を持ち帰り、それを植えたことでポプラ並木が出来上がったという。

 ところがポプラの大木は台風に弱く、1954(昭和29)年の洞爺丸台風、2004(平成10)年の台風18号によって多くのポプラが倒木してしまい、その後補植もされて現在の姿になっている。

 北大では2000(平成12)年に構内の別なところに「平成ポプラ並木」として苗木を植樹したのが、現在ではかなりの高木の並木となっている。

   

   ※ 平成ポプラ並木を構内奥から道路側を見て撮ったところです。

   

   ※ こちらは反対に道路側から奥へ向かって撮ったところです。(5月5日撮影) 

 なお、私は当初4月19日に一度並木を訪れたのだが、まだ枝先に若葉が付いていなかったので、5月5日の日に再訪して若葉が出たところを写真に収めてきた。

       

       ※ 入域が許されていない奥側の北大ポプラ並木です。

       

       ※ こちらは散策が許されている手前の並木です。(5月5日撮影)

   

   

   ※ ポプラ並木の脇には、北大ポプラ並木の造成に関わりのあった新渡戸稲造の胸像が建てられてありました。   

〔住 所〕 北区北9条西5丁目北海道大学正門前

〔訪問日〕 4月19日 & 5月5日

〈16〉人工雪誕生の地」碑

 中谷宇吉郎北大教授は1936(昭和11)年、世界で初めて雪の結晶を人工的に造りだしたことで知られているが、その人工雪を作り出した場所跡(北大常時低温研究所)に六角形をした雪の結晶をかたどった白い御影石製の石碑が建っている。

 中谷教授は「雪は天から送られた手紙」という有名な言葉を残した研究者としても知られている人である。 

   

   ※ 北大のメインストーリートの中央付近に碑は建てられてありました。

   

   

   ※ 石碑の裏面には人工雪誕生の経緯などについては記された碑文が刻されていました。

〔住 所〕 北区北9条西5丁目北海道大学構内

〔訪問日〕 4月19日


北区歴史と文化の八十八選巡り №3

2022-05-03 13:19:20 | 札幌市・北区歴史と文化の八十八選巡り

  北区歴史と文化の八十八選巡り第3弾は「北海道大学百年記念会館」、「サクシュコトニ川」、「ウィリアム・S・クラーク像」、「古河記念講堂」の四つについてレポする。

〈9〉北海道大学百年記念会館

 北大の正門から入って大学本部の事務局棟を過ぎた右手の森の中に佇むようにして2階建ての「北海道大学百年記念会館」が建っている。アクセスの仕方で1階にも、2階にも直接入られるような構造になっている。

   

   ※ こちらは「北大百年記念会館」の一階エントランスです。

   

   ※ こちらは2階部分に直接入ることのできる入口です。

 この百年記念会館は、昭和52(1977)年、北大創基100周年を記念して同窓生などの寄付によって建てられた記念会館だそうだ。1階には大会議室やレストランが入り、2階は札幌農学校から始まる北大の歴史に関する資料を展示する展示室がある。

   

   ※ 2階部分に展示されいる北大の歴史を物語る数々の記念の品や文書です。

   

   ※ 百年記念会館の前を流れるサクシュコトニ川です。

 私は訪問日とは別の後日、記念会館のレストランである北大マルシェ Cafe&Laboで食事をする機会があった。オーダーしたのは「北大牛乳のモッツアレラの焼きチーズカレー」である。チーズが絡んだ非常に濃厚なカレーとジャガイモ、ニンジン、カボチャなどの野菜がゴロンゴロンと入ったインパクトの強いカレーだった。

   

   ※ 百年記念会館の一階にある「北大マルシェ Cafe&Labo」の店名表示です。

   

   ※ レストラン部分の様子です。

   

   ※ 私が食した「北大牛乳のモッツアレラの焼きチーズカレー」です。

〔住 所〕 北区北9条西6丁目北海道大学構内

〔訪問日〕 4月19日

〈10〉サクシュコトニ川

 サクシュコトニ川は緑多い北大構内の景観に水辺を提供することによっていっそう素晴らしい光景を産み出している。

 そもそもサクシュコトニ川は伏流水の多い札幌の街にあって北大植物園付近から湧き出した水を水源として、北大構内に流れ込んでいた小さな小川だったそうだが、昭和の初期までは鮭の遡上もみられたという。しかし、時と共に水源が枯渇し流れが無くなっていたが、2004年の再生事業により復活し、北大構内を流れて現在は大野池までその流れを確認することが出来る。(地図上ではそうなっているが、先日確認したところ大野池からも川は続いているようだった)現在は中央ローンと呼ばれる芝生の間を流れ、学生や市民の絶好の憩いの場となっている。

   

   

   

   ※ 現在のサクシュコトニ川は、写真手前のところからポンプアップした水が流れています。

   

   ※ 川辺で楽しむ親子です。

〔住 所〕 北区北8条~9条西7丁目北海道大学構内

〔訪問日〕 4月19日

〈11〉ウィリアム・S・クラーク像

   

 ご存じ北海道大学(その前身である札幌農学校)を語るとき、欠くことができない人物が札幌農学校の初代教頭を務めたウィリアム・S・クラーク博士である。クラーク氏の功績については、私が紹介するまでもないので省略するが、中央ローンを背後にして立つクラーク像について、その経緯を著した文章に出合ったので、それを転写することにする。

【北海道大学のクラーク像】

 正式名称は「ウィリアム.S.クラーク胸像」、「W.S.クラーク胸像」とも略される。北海道大学構内、中央ローン北西角(古河記念講堂前)に設置されている。初代の像は田嶼碩朗の制作で1926年(大正15年)5月14日に建立されたが、太平洋戦争中の1943年(昭和18年)6月に、金属類回収令によって供出された。現存するのは二代目の像である。田嶼が1946年(昭和21年)に死去した後、田嶼が制作した石膏原型(2016年現在、札幌キリスト教会に保存されている)を使用し、加藤顕清の監修で再鋳造して、1948年(昭和23年)10月に建立したもの。二代目像は、背面に田嶼の名が刻されているにもかかわらず、加藤が「制作」した像であると長年にわたって誤伝されてきた。札幌芸術の森美術館・副館長の吉崎元章は、現存する石膏原型を田嶼が作る過程で撮影された「粘土状態のクラーク像」の写真を検討し、現存する二代目像と形状が同じであることから、二代目像の制作者は田嶼のみをクレジットするのが妥当であると述べている。

   

   

   

   ※ 構内を行き交う学生を見守るクラーク像です。

※ 私は文中にある田嶼氏が制作した石膏原型を2019年に札幌独立キリスト教会にて見せていただいたことがある。ところが対面した石膏製のクラーク像は、なんと!真っ黒な像だったのだ。本来白いはずの像がなぜ黒くなってしまったかというと、長年の保存でホコリが付着したり、変色が目立ったりしたそうだ。そこで信者の一人である靴屋さんが黒い靴墨を塗ってしまったという。( Oh my God!) かくして私は真っ黒に塗られたクラーク現像と対面したのだった…。

 その真っ黒に塗られたクラーク像はこちらをクリックすると見られます。

〔住 所〕 北区北9条西7丁目北海道大学構内

〔訪問日〕 4月19日

〈12〉古河記念講堂

   

 北大正門から、各学部校舎に向かう途中、中央ローンと道路を挟んでやや古風な西洋風の木造の建物が建っているが、それが「古河記念講堂」である。古河記念講堂についても、その経緯を綴った文章を見つけたので、それを転写して紹介することにする。なお、講堂は現在研究室として使用されているため、内部は一般公開されていないのが残念である。

   

   ※ クラーク像のところから道ひとつ隔てたところに古河記念講堂は建っています。

   

    

   ※ 記念講堂の裏側ですが、ペンキの剥がれやや目立っていました。

 下は「古河記念講堂」の設立の経緯などについては書かれた文章です。

 1906(明治39)年、古河鉱業は足尾銅山鉱毒事件判決後も社会の非難を浴びていました。また政府は日露戦争後の財政不足のため、各地で盛り上がる帝国大学昇格運動に対応できずにいました。そこで、内務大臣で同鉱業の顧問も務めていた原敬が古河虎之助に寄付を勧めます。古河は帝国大学創設費として百万円を政府に寄付。そのうち約14万円が北大の前身・東北帝国大学農科大学に分配されました。
 古河講堂はその時新・増築された8棟のうち現存する唯一の建物です。設計は茨木出身の文部技官・新山平四郎、施工は札幌の大工・新開新太郎が担当。建築面積127.5坪、総工費3万円余の建物は6ヶ月の工期を経て、1909年11月末に林学教室として誕生しました。
 「古河家寄贈」と正面に記された白亜の洋館は、当時の建築技術の粋を集めたものになりました。フランス・ルネサンス風の緑色のマンサード屋根と両翼のドーマー窓が華麗に配置されています。
 玄関を入ると仕切扉の上に「林」をデザインした欄間があり、その奥にはイオニア式円柱を手摺子にした階段が目に入ります。半円形の明かり取り窓やアーチを支えるインポストなども独特な装飾が施されています。
 謎は柱や半円窓の台に刻まれた14頭もの鹿の線刻装飾です。「林」の欄間と共に北海道の自然を表すのか、学問の森での飛躍を願うのか、はたまた鹿鳴館的文化の発祥をここに委ねたのか、いずれにせよ明治的ロマンを感じさせます。
 国の登録文化財及びさっぽろ・ふるさと文化百選にも指定された歴史的建造物ですが、薄い一重ガラス窓のため冬には内部も氷点下になることがあります。教官達には不評ですが、歴史を体感しながら学問を追求できるのは贅沢な悩みかも。
 竣工から90年、明治からの歴史を眺めてきた古河講堂は年末にはお色直しを終え、新世紀を迎えようとしています。(1999年の話? 筆者註)

 内部は文学部の研究室として使われているため、現在のところ一般公開はされていません。

〔住 所〕 北区北9条西7丁目北海道大学構内

〔訪問日〕 4月19日


北区歴史と文化の八十八選巡り №2

2022-04-29 08:44:29 | 札幌市・北区歴史と文化の八十八選巡り

 「北区歴史と文化の八十八選巡り」の第2弾をなかなか投稿する機会がなかった。本日ようやく№2を投稿したい。「偕楽園跡」、「清華亭」、「新選組隊士永倉新八来訪の地」、「佐藤昌介像」の四つについてレポする。

〈5〉偕楽園跡

 偕楽園は明治4年、開拓使によって造られた日本で初めての都市公園と言われている。当時は幾多の施設が設けられて賑わったようだが、開拓使の廃止と共に土地は人手を転々とするなどして公園としての機能は失われていったという。そのあたり経緯について、説明する銘板が公園跡の近くにあったので転写することにしたい。

「明治4年(1871年)開拓使は、この地に市民の憩いの場である『偕楽園』を設置しました。日本の公園制度は明治6年の太政官布達によってはじまりますが、これにさきがけて開設された偕楽園は日本の最初期の公園といえます。かつてこの周辺一帯は「ヌプ・サム・メム(野の傍らの泉地)」と呼ばれ、泉が湧きサクシュコトニ川の清流が流れる景勝地でした。これに加え、偕楽園内には農業試験場やサケマスふ化場などが整備され、産業振興施設としても活用されていました。敷地内の清華亭は「開拓使貴賓接待所」として設けられた施設で、現在は札幌市の有形文化財に指定されています。当時の札幌市民に親しまれていた偕楽園ですが、明治15年に開拓使が廃止されると、土地の売却が行われたり周辺の市街地化が進むなど、時代の流れとともにその姿が変わっていきました。現在の「偕楽園緑地」はかつての偕楽園の一部分であり、くぼんだ地形に先人の親しんだ水辺の面影をとどめております。」

   

   ※ 偕楽園跡が建物の間から覗くことができるところに写真のような説明板がありました。

 銘板の説明にあるように、くぼ地に微かな当時の面影はうかがえるものの周りは住宅に囲まれていた。それでも小さいながら当時の一部分が「偕楽園緑地」として保全され、緑地内にはベンチなども配されて市民の憩いの場となっているのが救いのように思えた。

   

   ※ 偕楽園緑地の入口です。

   

   ※ 訪れた時(4月19日)には凹地にはまだ雪が残っていました。

   

   ※ 緑地内は小奇麗に整備されていました。

 なお直接的には関係ないが「偕楽園緑地」内に石川啄木の歌碑が建立されていた。啄木の在札期間はわずか2週間であったが、その間に詠ったものと思われるが「アカシアの街樾(なみき)にポプラに秋の風 吹くがかなしと日記(にき)に殘れり」と詠っている。

   

   ※ 緑地内に建てられていた石川啄木の歌碑です。

〔住 所〕 北区北7条西7丁目

〔訪問日〕 4月19日

 

〈6〉清華亭

 その「偕楽園緑地」の一角に建っているのが札幌市の有形文化財に指定されている「清華亭」である。外観はやや古びた木造家屋であるが保全され、内部も公開されている。周囲を見渡したところ北区制作の説明板は見当たらなかったが、札幌市の有形文化財に指定されていることからそのことについての説明板があった。しかし、内容的には主として偕楽園全体を説明しているように思えた。そこでより清華亭を説明した文章がウェブ上で見つけたので、それを掲載することにする。

   

   ※ 清華亭の門です。清華亭はこの大木の陰に建てられています。

「この建物は明治13(1880)年、札幌の最初の公園であった偕楽園に、開拓使の貴賓接待所として建てられました。開拓使長官黒田清隆が「水木清華亭(みずきせいかてい)」と名付け、明治天皇行幸の際に休憩された由緒ある建物です。外観は洋風な印象でありながら、内部は漆喰塗で大きな張出し窓が広がる洋室と、縁側のある和室を並べた和洋折衷様式となっています。明治19(1886)年の道庁設置とともに民間に払い下げられました。その後北海道史研究家らによって組織された保存会の所有を経て、昭和8(1933)年、札幌市へ寄付されました。」

とあった。訪れた時は内部が開放されていたので見学させていただいた。見学できるところは和室と洋室の二部屋だけだった。清華亭はあくまで接待所としての機能であり、宿泊所としての機能は有していなかったようだ。

   

   ※ 清華亭の玄関です。意外に質素な造りです。

   

   ※ 清華亭の建物を横から撮ったもものです。

   

   ※ 明治天皇が札幌行啓の際に休憩所とされたのが清華亭です。そのことを記した記念碑です。

   

   ※ 明治天皇がご休憩をされたであろう清華亭の洋室です。

   

   ※ 清華亭内に展示されていた偕楽園全体のジオラマです。清華亭はジオラマの一番上部に位置しています。

〔住 所〕 北区北7条西7丁目

〔訪問日〕 4月19日

〈7〉新選組隊士永倉新八来訪の地

 永倉新八というと新選組で勇名をはせた人物として知られる。新選組においては二番組々長や撃剣師範を務め土方歳三や沖田総司と並ぶ剣客として恐れられた。後に近藤勇や沖田総司と対立したこともあり、新政府軍に敗れてからは松前藩への帰参が認められ小樽に移住した。それからは樺戸集治監の剣術師範や北大剣道部の指導に当たり県道の型を指南したという。その当時の北大の道場が現北大本部の北西に位置していたことから、その近くの北大の塀のところに表示があり、歩道上には化粧タイルが埋め込まれていた。 

   

    ※ 永倉新八の足跡を示すのは歩道にたてられた写真の説明板だけでした。

   

   ※ その説明板の足元に化粧タイルが埋め込まれていました。

   

   ※ 道端に立てかけられていた説明板です。

〔住 所〕 北区北9条西5丁目北海道大学正門前

〔訪問日〕 4月19日

〈8〉佐藤昌介像

 北海道帝国大学の初代総長である佐藤昌介の銅像は、北大本部(北大正門を入って直ぐ)の庭園に設置されていた。

 佐藤昌介は札幌農学校1期生としてクラークの教えを受けたが、その後アメリカに留学し、帰国して札幌農学校教授、校長などを経て、大正7(1918)年に北海道帝国大学初代学長に就任した。現在の北海道大学は、札幌農学校として設立され、その後東北帝国大学札幌農科大学となったが、大正7年に北海道帝国大学として独立したが、その際に奔走しその後大学の基礎を築いたことから「北大育ての親」と呼ばれている北大初期の立役者である。なお、佐藤氏の専門は「農業経済学」である。

 銅像が建てられている場所は、その立役者に相応しい場所に建てられているように思えた。

   

   ※ 右側の建物が北大本部の事務管理棟です。その脇に佐藤昌介像が建立されていました。

   

   

    

〔住 所〕 北区北9条西5丁目北海道大学構内

〔訪問日〕 4月19日