まちの思い出をたどり、自然の息遣いを感じる上砂川ルート
上砂川岳温泉「パンケの湯」を通過すると車の往来もなくなり、道路はジャリ道、いよいよ山道に導かれた。上砂川町民の水源地である「水源公園」は人っ子一人いない静かな公園だった。そして私はそこから折り返しゴールを目ざした。
「上砂川岳国民休養地」の一角にある「日本庭園」を後にして、同じエリアにある「上砂川岳温泉『パンケの湯』」を訪れた。別に温泉を楽しもうということではない。マップによると、ここの売店に上砂川土産の「し~たんサブレー」が販売されているという。「し~たん」とは上砂川特産のシイタケをマスコットキャラクターにしたものということだ。
※ 上砂川岳温泉「バンケの湯」の建物です。けっこうなお客が入っていたようです。
※ 上砂川町の土産として買い求めた「し~たんサブレー」(780円)です。
ところで「パンケの湯」と冠した温泉だが、「パンケ」とは当然アイヌ語である。意味は「下」とか「下流」という意味らしい。しかし、そのことよりも命名の理由は「パンケウタシナイ川」沿いにある温泉という意味のようだ。
上砂川岳温泉の直ぐ目の前には閉鎖されてしまった旧「上砂川岳国際スキー場」が雑草に覆われたままの斜面を晒していた。調べてみると、平成18年3月をもって閉鎖されたと出ていた。立派なロッジも残っていた。地元スキー愛好家にとっては痛恨の閉鎖だっただろうが、人口3千人強で、スキー人口の減少がいわれる中、他からのスキー客も期待できないとあっては閉鎖もやむを得ないことかもしれない。
※ 雑草に覆い尽くされてしまった「旧上砂川岳国際スキー場」です。
※ スキー場のロッジは外見上はまだまだ使用できそうな感じです。
上砂川岳温泉を過ぎると行き交う車もなくなった。というのも道理で芦別市に通ずる道々115号線がその先落石が多いため通行止めとなっていたからだ。
その通行止めが施されているところから枝道に入り「水源公園」に向かう道となる。その入口のところに赤黒の文字で「熊出没注意!」の不気味な看板が掲示されていた。
沢を流れる水の音を聴きながら、ジャリの坂道をひたすら上っていく。熊の気配に注意しながら…。
※ 写真の左側にご注目を!「熊出没注意!」の文字が見えます。
※ 写真のような砂利が敷かれた上り道が延々と続きました。
上りつづけることおよそ1.5キロほどだろうか、水源公園の建物が見えてきた。山奥に立つには相応しくないほど立派な近代的な建物である。入口には「上砂川町浄水場」と記されていた。
辺り一帯はきれいに整備されていて、東屋やトイレ、ニジマスの池など町民が家族連れで憩うに相応しい公園そのものといった感じだった。しかし、日曜日にも関わらず公園に憩う人の姿は皆無だった。
※ 山奥に近代的ビルが!「上砂川町浄水場」でした。
※ 「ニジマスの池」ということでしたが、私には一匹も見えず…。
※ 取水堰も公園らしくおしゃれな装いでしたよ。
※ 東屋や滑り台まで配されて…。でも人影は見えませんでした。
「水源公園」で小休止した後は、来た道をひたすら引き返すだけだった。
特に立ち止まるでもなく、できるだけ時間を稼いで「かみすながわ炭鉱館」での見学時間を少しでも長くしようと努めた。
往路では見逃した上砂川名産のシイタケの生産工場も確認できたが、道路から少し奥まったところにあったので立ち寄ることはパスすることにした。
そうして「かみすながわ炭鉱館」に着き、炭鉱館に入館した。(入館料100円)そうしたところ、一人の高齢者の説明員のような方が私にピタリと張り付いた。「これは参ったなぁ」と思った。というのも、説明に耳を傾けると見学時間が大幅に増えるからだ。
しかし、親切を無下にするわけにはいかない。私は帰宅時間が大きく遅れることを覚悟した。
※ 「かみすながわ炭鉱館」のエントランスです。右にいる方はボランティアの方です。
実はこの炭鉱館は、マップによると「休館中」となっていたのだ。それが何故開館していたかというと、「上砂川の栄華を偲ぶ炭鉱館が休館とは情けない。自分らが手伝うので何とならないか」と上砂川町に元炭鉱マンたちが要請した結果、ボランティアの手によって土日祝日のみの開館を実現させたそうである。
説明をしてくれた方も当然元炭鉱マンだから、説明にも力が入っていた。
彼が特に力を入れて説明してくれたのは、上砂川町が炭鉱で栄華を極めていた頃は、現在の街の東側に大きな炭住街があったそうだ。その炭住跡は跡形もないが、往時の炭住街を再現したジオラマ模型の前での説明だった。
統計では1950(昭和25)年当時、上砂川の人口は3万人を超えている。その大半は炭鉱関係者で、炭住街もそれだけの規模を誇っていたという。ところが1987(昭和62)年、炭鉱の閉鎖に伴って親会社の三井では地元に迷惑をかけないためにと全ての炭住街を取り壊したという。
説明員の彼は上砂川が栄華を誇った時代を私に知ってほしかったのだろう。
※ このジオラマ模型の左端から今の上砂川町の市街が広がっています。
その彼がもう一つ、私に伝えてくれたことがあった。
それは館内にも目立った一人の画家のことである。黒ずんだ色遣いのその絵はとてもインパクトをもって見る者に迫ってくる画だった。
実はその画家も元炭鉱員の方で、絵の世界ではかなり有名な方ということだった。
その画家の名は「早川季良」氏という方だった。説明員の方が早川氏を紹介してくれて、私はそこでしばし早川氏と歓談することになったのだった。(この項について明日のブログで)
※ 「幻花」と題された早川季良氏の作品です。
上砂川町を訪れての私の印象であるが、歌志内市も上砂川町も国道12号線から外れ、私にとっては初めて訪れた市町だった。両市町ともに炭鉱で栄えた街だったから、炭鉱産業が衰退するとともに街も勢いを失ってしまったようだ。
訪れた日がお盆と日曜が重なっていたということもあったのだろうが、街中が閑散としていたのが印象的だった。
街の人口が減少する中で「街に活気を!」と外部の者が言うのは簡単だが、街の人たちにとっては深刻な問題であるだろうことは想像に難くない。
縮小する街だからこそできる何かをぜひ見つけて、魅力ある街づくりを志向していただきたいと強く思った。
《フットパスウォーク実施日 ‘14/08/17 距離約11.6Km》
※ 明日は炭鉱館で出会った早川季良氏について投稿することにしたい。
上砂川岳温泉「パンケの湯」を通過すると車の往来もなくなり、道路はジャリ道、いよいよ山道に導かれた。上砂川町民の水源地である「水源公園」は人っ子一人いない静かな公園だった。そして私はそこから折り返しゴールを目ざした。
「上砂川岳国民休養地」の一角にある「日本庭園」を後にして、同じエリアにある「上砂川岳温泉『パンケの湯』」を訪れた。別に温泉を楽しもうということではない。マップによると、ここの売店に上砂川土産の「し~たんサブレー」が販売されているという。「し~たん」とは上砂川特産のシイタケをマスコットキャラクターにしたものということだ。
※ 上砂川岳温泉「バンケの湯」の建物です。けっこうなお客が入っていたようです。
※ 上砂川町の土産として買い求めた「し~たんサブレー」(780円)です。
ところで「パンケの湯」と冠した温泉だが、「パンケ」とは当然アイヌ語である。意味は「下」とか「下流」という意味らしい。しかし、そのことよりも命名の理由は「パンケウタシナイ川」沿いにある温泉という意味のようだ。
上砂川岳温泉の直ぐ目の前には閉鎖されてしまった旧「上砂川岳国際スキー場」が雑草に覆われたままの斜面を晒していた。調べてみると、平成18年3月をもって閉鎖されたと出ていた。立派なロッジも残っていた。地元スキー愛好家にとっては痛恨の閉鎖だっただろうが、人口3千人強で、スキー人口の減少がいわれる中、他からのスキー客も期待できないとあっては閉鎖もやむを得ないことかもしれない。
※ 雑草に覆い尽くされてしまった「旧上砂川岳国際スキー場」です。
※ スキー場のロッジは外見上はまだまだ使用できそうな感じです。
上砂川岳温泉を過ぎると行き交う車もなくなった。というのも道理で芦別市に通ずる道々115号線がその先落石が多いため通行止めとなっていたからだ。
その通行止めが施されているところから枝道に入り「水源公園」に向かう道となる。その入口のところに赤黒の文字で「熊出没注意!」の不気味な看板が掲示されていた。
沢を流れる水の音を聴きながら、ジャリの坂道をひたすら上っていく。熊の気配に注意しながら…。
※ 写真の左側にご注目を!「熊出没注意!」の文字が見えます。
※ 写真のような砂利が敷かれた上り道が延々と続きました。
上りつづけることおよそ1.5キロほどだろうか、水源公園の建物が見えてきた。山奥に立つには相応しくないほど立派な近代的な建物である。入口には「上砂川町浄水場」と記されていた。
辺り一帯はきれいに整備されていて、東屋やトイレ、ニジマスの池など町民が家族連れで憩うに相応しい公園そのものといった感じだった。しかし、日曜日にも関わらず公園に憩う人の姿は皆無だった。
※ 山奥に近代的ビルが!「上砂川町浄水場」でした。
※ 「ニジマスの池」ということでしたが、私には一匹も見えず…。
※ 取水堰も公園らしくおしゃれな装いでしたよ。
※ 東屋や滑り台まで配されて…。でも人影は見えませんでした。
「水源公園」で小休止した後は、来た道をひたすら引き返すだけだった。
特に立ち止まるでもなく、できるだけ時間を稼いで「かみすながわ炭鉱館」での見学時間を少しでも長くしようと努めた。
往路では見逃した上砂川名産のシイタケの生産工場も確認できたが、道路から少し奥まったところにあったので立ち寄ることはパスすることにした。
そうして「かみすながわ炭鉱館」に着き、炭鉱館に入館した。(入館料100円)そうしたところ、一人の高齢者の説明員のような方が私にピタリと張り付いた。「これは参ったなぁ」と思った。というのも、説明に耳を傾けると見学時間が大幅に増えるからだ。
しかし、親切を無下にするわけにはいかない。私は帰宅時間が大きく遅れることを覚悟した。
※ 「かみすながわ炭鉱館」のエントランスです。右にいる方はボランティアの方です。
実はこの炭鉱館は、マップによると「休館中」となっていたのだ。それが何故開館していたかというと、「上砂川の栄華を偲ぶ炭鉱館が休館とは情けない。自分らが手伝うので何とならないか」と上砂川町に元炭鉱マンたちが要請した結果、ボランティアの手によって土日祝日のみの開館を実現させたそうである。
説明をしてくれた方も当然元炭鉱マンだから、説明にも力が入っていた。
彼が特に力を入れて説明してくれたのは、上砂川町が炭鉱で栄華を極めていた頃は、現在の街の東側に大きな炭住街があったそうだ。その炭住跡は跡形もないが、往時の炭住街を再現したジオラマ模型の前での説明だった。
統計では1950(昭和25)年当時、上砂川の人口は3万人を超えている。その大半は炭鉱関係者で、炭住街もそれだけの規模を誇っていたという。ところが1987(昭和62)年、炭鉱の閉鎖に伴って親会社の三井では地元に迷惑をかけないためにと全ての炭住街を取り壊したという。
説明員の彼は上砂川が栄華を誇った時代を私に知ってほしかったのだろう。
※ このジオラマ模型の左端から今の上砂川町の市街が広がっています。
その彼がもう一つ、私に伝えてくれたことがあった。
それは館内にも目立った一人の画家のことである。黒ずんだ色遣いのその絵はとてもインパクトをもって見る者に迫ってくる画だった。
実はその画家も元炭鉱員の方で、絵の世界ではかなり有名な方ということだった。
その画家の名は「早川季良」氏という方だった。説明員の方が早川氏を紹介してくれて、私はそこでしばし早川氏と歓談することになったのだった。(この項について明日のブログで)
※ 「幻花」と題された早川季良氏の作品です。
上砂川町を訪れての私の印象であるが、歌志内市も上砂川町も国道12号線から外れ、私にとっては初めて訪れた市町だった。両市町ともに炭鉱で栄えた街だったから、炭鉱産業が衰退するとともに街も勢いを失ってしまったようだ。
訪れた日がお盆と日曜が重なっていたということもあったのだろうが、街中が閑散としていたのが印象的だった。
街の人口が減少する中で「街に活気を!」と外部の者が言うのは簡単だが、街の人たちにとっては深刻な問題であるだろうことは想像に難くない。
縮小する街だからこそできる何かをぜひ見つけて、魅力ある街づくりを志向していただきたいと強く思った。
《フットパスウォーク実施日 ‘14/08/17 距離約11.6Km》
※ 明日は炭鉱館で出会った早川季良氏について投稿することにしたい。