大袈裟に表現すれば、本日は私の人生において超弩級の決断をした日となった。というのも50年以上にわたって付き合ってきたフォルクスワーゲン車と分かれる決断をした。ということは、車生活にお別れするということだ。苦渋の決断であるが、高齢者の人身事故が多発していることから、敢えて決断した。
最初に私のクルマ遍歴を辿ってみたい。まず就職と同時に叔母が使用していたTOYOTAの「ガッツパブリカ」を譲り受けたのが始まりである。
その後、三菱の「ギャランFTO」、続いてTOYOTAの「ライトエース」と乗り継いだ。しかし私の憧れはフォルクスワーゲンだった。
というのも、私が学生時代にヨーロッパ・アジアを一年間にわたって彷徨した時に、フォルクスワーゲンの本社があるドイツのブォルフスブルグ市(Wolfsburg)の街に偶然に立ち寄ったことがあった。“偶然” と記したが、私はヨーロッパ内をヒッチハイクで巡っていた。その際にブォルフスブルグ市を通過した際に、あの “VW” のマークを掲げたフォルクスワーゲンの本社工場が目に入った。そこで私は車を降ろしてもらい、本社を訪れたところ幸いにも工場見学を許されて、広大な工場の見学者通路(その長さは軽く1キロを超えていた)を歩いて見学した体験があり、それ以来私の中でフォルクスワーゲンは私にとって特別な車となったのだった。
※ ブォルフスブルグ市の本社工場です。(当時の写真ではありませんがイメージは同じです)
そうした中で、教員風情で外車を所有することに対する躊躇があったのだが、時代は教員の中でも外車に乗っている人が珍しくなってきたことから、35歳の時についにフォルクスワーゲンの代表車種の一つ「ゴルフ」を購入するに至った。真っ赤な車体のゴルフジーゼルを駆って私は北海道のいたるところを旅してまわった。それからはフォルクスワーゲン車オンリーで今日まで乗り継いできた。
※ ゴルフ
その遍歴は、「ゴルフ(GOLF)」」⇒「サンタナ(SANTANA)」⇒「ヴェント(VENTO)」⇒「パサート(PASSAT)」⇒「ツーロン(TOURAN)」と乗り継いできた。それぞれに思い出があるが、その中、「サンタナ」という車は日産自動車がフォルクスワーゲンから製造認可を取り付けて生産したという、いわば “珍車” ともいわれた車でもあった。
※ サンタナ
※ ヴェント
※ パサート
※ ここまでの写真はいずれも私が撮り貯めた写真ではありません。いずれもウェブ上から、車体の色も含めて当時のイメージを彷彿とさせる写真を拝借しました。
いずれも新車を購入して乗り継いできたのだが、唯一最後の「ツーロン」だけは中古車だった。というのも、「パサート」を購入してから10数年が過ぎていたころ、今は故人となってしまった登山愛好家であり、歩き旅の達人でもあった函館在住の坂口一弘氏と知己となり、坂口氏が車中泊の達人でもあったことから、車中泊に憧れを持つようになり、息子が「父さん、ツーロンという車が車中泊には適しているようだよ」と言って格好の中古車を紹介してくれたことで、その車の購入を決めたのだった。以来、私は年間に10数泊の車中泊の旅を楽しみ、2度の本州旅行を楽しんだ車である。いわば私のクルマ遍歴の最後を飾るに相応しい車だったのかもしれない。
※ こちらの「ツーロン」は今朝私がお別れ前に撮った写真です。
それとは違って思い出深い車はやはり最初に購入した「ゴルフ」である。ジーゼルエンジンということで多少エンジン音が気になったが、燃費も良く、快調に走ってくれた。当時はまだ若かったこともあり道内のあちらこちらとずいぶん走り回ったが、頑丈な「ゴルフ」は実に30万kmを超えて走り、とうと乗り潰してしまった車である。
日本車を含め、思い返してみると私のクルマ遍歴は55年間にもなっていた。現在、車を駆使している方も同様と思うが、車無しの生活など考えられない生活を続けてきた私である。その生活を、本日をもって断ち切ることにしたのは、まさに私にとっては超弩級の決断だった。
※ 長年、私の運転時のお尻を保護してくれたVWマークのマットです。
幸い札幌において市内を移動するには公共交通機関が発達していることからもそう不便は感じないかもしれないが、郊外のイベントや行事に参加すること、あるいは近郊でスキーを楽しむこと、さらに北海道内に出かけることも制限されることになる。
どのように私の生活が変化するのか計り知れないが、これからの日々、車のない生活でも人生を楽しむ工夫を凝らしていきたいと思っている。
ともかく今日までの車生活を大過なく過ごしてGood-Byeできたことを是として車生活におさらばしたい。