札幌の街の始まりの地ともいえる創成川の界隈を歩いた。札幌の古き佳き時代を調べることをライフワークとしている案内人に連れられて興味ある数々のお話を聴くことができた歴史散歩だった。
9月7日(土)午前、(一社)新渡戸遠友リビングラボが主催する「歴史散歩~遠友夜学校時代の創成川の西と東」に参加した。案内人は札幌建築鑑賞会代表の杉浦正人氏が務めた。
※ この日の案内人を務めてくれた杉浦正人氏です。
私は以前に札幌建築観賞会が主催した「札幌軟石」製の建築物を探す催しに参加したことがあり杉浦氏は顔なじみの方だったが、杉浦氏は主として札幌の歴史的建造物を調べ、その保存に奔走されている方である。
杉浦氏に案内されて見て回ったところは次の12ヵ所である。
杉浦氏に案内されて見て回ったところは次の12ヵ所である。
① 都通に面する札幌軟石の元倉庫(現パタゴニア店舗) 南3条西2丁目
② 京城屋の小路(南北の仲通り) 南4条西1丁目
③ 竹山食品・Hさん宅 創成川界隈
④ 新渡戸記念公園 南4条東4丁目
⑤ 日本清酒工場・千歳鶴酒ミュージアム 南3条東5丁目
⑥ 三叉路 南2条東4・5丁目
⑦ 森田たま生家跡 南1条東4丁目
⑧ 創成川公園
⑨ 豊平館跡 ハルニレの古大木 大通西1丁目
⑩ 「新渡戸稲造住居跡」銘板 北3条西1丁目
⑪ 札幌農学校演舞場跡碑 北1条西2丁目
⑫ 札幌時計台 北1条西2丁目
以上を見て回ったが、杉浦氏の説明の中で特に興味深かったのが、札幌の条・丁目がどのようにして定められたか?という説明だった。よく札幌市の街は碁盤の目状で分かりやすいと言われているが、実はそうでもない複雑さを内包している。
※ ②の京城屋の小路で杉浦氏の説明を聴く参加者です。
札幌の街が本府と山鼻屯田兵村が別々に街づくりが行われた結果、その二つの街の道路の結節点で微妙に曲がっていることは「ブラタモリ」でも紹介され有名であるが、創成川界隈もちょっと複雑になっていることが説明された。もともと札幌の街は南北に貫く南1条通りを基本に道路割が決められていったそうだが、創成川の西側と左側では条・丁目区画の間に造られた仲通りが西側では南北に造られているのに対し、創成川の東側では仲通りが東西に通っている。これは東側が創成川の流れに沿って街づくりが進められたために、西側とは異なった通りが造られたそうだ。
また創成川の西側は大きな通りを境に条・丁目が割り振られたが、東側は大きな通りに面する商店や事業所を同じ条・丁目とするために、条・丁目の境目が仲通りを境にして定められたという違いもあるそうだ。このあたりは、札幌を訪れた人たちには戸惑うところではないかと杉浦氏は説明された。
札幌市の条・丁目の表示が大きな通りを跨いで定められていることに、もともと札幌人でない私は札幌に転居してから戸惑ったことがあったが、さらに複雑な決め方をしていることが今回の街歩きで知ることができた。
また、「遠友夜学校」がなぜ南4条東4丁目に立地したのか?ということについても、「遠友夜学校」が創立された明治27年当時、辺りは商店とか工場などが密集していて、そこの子弟、働く人たちが満足に学校に通えない子が多かったことから、豊平川の分流となっていた河原のところ立地したそうだ。つまり繁華街の外れに位置していたということだった。
※ 遠友夜学校記念公園で新渡戸稲造の像の前で集合写真を撮りました。
というように、私にとっては未知だったことが杉浦氏から次々と聴かされ、非常に興味深い歴史散歩となった。
私は併せて、杉浦氏が最近刊行した著書「さっぽろ探見(たんけん)~ちょっとディープなまち歩き」を杉浦氏から購入したのだった。