久しぶりに活動弁士の名調子を楽しもうとしたのだが、思わぬアクシデントにより、その期待が不完全燃焼に終わってしまったのは残念だった…。
昨日(9月4日)午前、札幌市資料館において北海道生涯学習協会主催による「賛助会員の集い」が開催された。「賛助会員」とは、北海道生涯学習協会の趣旨に賛同し個人として寄金する団体である。例年、年に一度その会員の集いが開催されているのだが、今年は札幌市資料館において「無声映画のつどい」が開催された。
何故に無声映画を札幌市資料館で?との疑問もあろうかと思われるが、一つは歴史的建造物である札幌市資料館がその舞台に相応しい、ということと弁士であるいいむら宏美氏が定期的に札幌市資料館で「無声映画の会」を開催していることから開催会場として選ばれたものと推定される。
会はまず、札幌市資料館のボランティアガイドを務める武石詔吾氏から「札幌市資料館」の前身である「旧札幌提訴院」についての説明があった。それによると…、
※ 札幌市資料館(旧札幌控訴院)です。
◇旧控訴院は東京、札幌をはじめ全国7ヵ所に存在した。
◇その後旧控訴院は地方高等裁判所に衣替えした。
◇旧控訴院時代の建物が現存しているのは、札幌市と名古屋市だけである。
◇旧札幌控訴院は外壁が札幌軟石、内部がコンクリートの組構造である。
◇建設費は当時(明治19年)で22万円、現在価格で22億円程度である。
等々の説明があった。
続いてメインの「無声映画のつどい」に入った。
活動弁士は前述したように札幌市内では唯一の「いいむら宏美氏」である。氏によって上映前に無声映画について若干の説明があった。それによると…、
※ 札幌唯一の活動弁士のいいむら宏美さんです。
◇1890年頃に初の映画が制作された。(無声映画)
◇無声映画に弁士が付いて楽しんだのはアジア各国だけで、欧米にはなかった。
◇アジアで流行ったのは、アジアには「言葉の芸」を楽しむという習慣があった。
◇活動弁士の最盛期は1910~1920年代で、札幌市だけで110名もの弁士が活動していた。
◇また、同時に楽団も付き、多い場合は14~5名の楽団が付くこともあった。
というような説明があった後、いよいよ映画「番場の忠太郎 瞼の母」の上映、そしていいむら宏美氏弁士の登場となった。映画は長谷川伸の原作、監督は新進気鋭の稲垣浩で1931(昭和6年)制作となっている。
と、ここまで文章を綴ってきてストーリーの内容を確認しようとウェブ上を繰っていたときに、私のブログの投稿に出会った。なんと私は2020年12月4日に同じ札幌市資料館で開催された飯村宏美氏が弁士を務めた同じ映画をすでに体験していることが判明しのだ!(う~ん。私の記憶装置もかなりガタがきている?)
その際に私は次のように記している。
「時に主演の片岡千恵蔵は28歳、妹を演じた山田五十鈴が14歳の時の作品だという。片岡千恵蔵は当時から時代劇六大スターと呼ばれて大人気を博していたということだが、私たち世代が知っている片岡は渋い中年俳優として銀幕を飾っていた方との印象が強いが、若き日の表情にその面影を見ることができ嬉しい一瞬だった。」
この思いは昨日も同じだった。
さてアクシデントのことである。映画はDVDに再収録したものを放映したのだが、前半は何事もなく進行していた。そして忠太郎が苦労の末に5歳の時に生き分かれた、母らしき人・おはま(常盤操子)と出会ったのだが、おはまは頑として母親であることを認めない。それを見ていた娘のお登世(山田五十鈴)が説得するのだが…。
※ 番場の忠太郎と母おはまの再会の場面です。
アクシデントはその時起こった。なんとDVDが度々ストップしてしまうのだ。肝心の親子の対面の場面が台無しとなってしまったのだ。
何としても残念なことだったが、機器が相手だと文句も言えない。ちょっと不完全燃焼に終わってしまった「無声映画のつどい」だった。もっとも、私は一度親子が抱き合う最後の場面を一度観ていたのだが…。