街歩き研究家を標榜する和田哲さんが札幌の道路と橋の歴史を語った。北海道三大名橋のこと、本願寺道路のこと、札幌本道のこと、幻の石狩大運河のこと、等々…、興味深いお話を次々と伺う興味深いお話の数々だった。
本日午後、ニューオオタニイン札幌において、北海道不動産鑑定士協会の創立50周年記念の特別講演会として、街歩き研究家の和田哲氏が「道と橋の物語」と題する講演をされたのを拝聴する機会を得た。
和田氏は話のはじめに、札幌には郷土史の研究家はたくさんいるが、その成果を伝えることがやや弱いと思う。その成果を編集して伝えるのが私の役目だと思っていると語ったが、私もその通りだと思っている。これまで何度か和田氏のお話を聴いているが、実に分かりやすく、楽しくお話を伺っている。
お話はまず「豊平橋」のことから始まった。札幌市を分ける豊平川が遮っていたが1871(明治4)年に初めて橋が架けられたが、水害などで何度も壊れたり、流されたりして、現在の豊平橋は実に23代目だそうだ。(仮橋も含めて)そうした中、現在の豊平橋の先代にあたる橋が1924(大正13)年に鋼製で「ブレースト・リブ・タイド・アーチ」という3連アーチ型のものである。この橋は構造的にも確かなもので1971(昭和46)年まで使用されたという。この3連アーチ型が見た目にも美しく、当時は「北海道三大名橋」の一つだったそうだ。ちなみに「北海道三大名橋」とは、豊平橋の他に旭川市の「旭橋」、釧路市の「幣舞橋」だという。現在の豊平橋はごく平凡な橋でおよそ名橋とは言い難いのが残念である。
※ 三大名橋と称された先代の豊平橋です。
※ 現在の豊平橋です。
話は「本願寺道路」のことに移った。明治新政府は太平洋岸から札幌へ通ずる道路を早急に造る必要に迫られ、その作業を本願寺に要請し(その事情については割愛)、本願寺は門徒たちを動員し1年3ヵ月で尾去別(現在の伊達市付近)―中山峠-平岸間約103kmを開削したそうだ。しかし、「本願寺道路」は人が通るだけの道だったために、2年後には人馬が通行可能な「札幌本道」が完成したという。
しかし、北海道内の道路建設にあたったのは囚人たちであったという。月形から美唄までの「峰延道路」、網走から北見峠まで「中央道路」などは囚人たちの苦難の作業によって開削された道路だという。
その囚人たちの手によって造成されたのが札幌市内を流れ日本海に注ぐ「新川」だそうだ。この「新川」造成によって当時湿地帯だった北区、手稲区一帯は耕作可能地帯に変わったそうだ。
※ 講演をする和田哲氏です。
最後に1938(昭和14)年に北海道庁長官に就任した戸塚九一郎氏は石狩平野を跨いで太平洋と日本海を繋ぐ「石狩大運河」構想を打ち立てたそうだ。一部は学生の手によって堀り進められたところもあったそうだが(現在の長沼町付近)、戦争などによって中断したという。戦後は同構想を引き継いだ形で「千歳川放水路計画」が立てられたが、それも実現しないまま現在に至っているという。
その他にも道路と橋にまつわるお話を伺ったが省略したい。
今回もまた和田氏のお話は実に分かりやすく、楽しく聴くことができた。私は来週もまた電車に乗りながら、市電にまつわるエトセトラを和田氏から伺う予定になっている。それもまた楽しみに待ちたいと思っている。