緊張の9日間を終えたせいだろうか?朝起きてみると全身を疲れとだるさが覆っていた。まだまだ今回の旅を整然と振り返ることはできないかもしれないが、今できるかぎり今回の旅を振り返ってみたい。
北海道・北東北の縄文構成遺産17
昨年、日を分けて北海道の6遺跡を巡り歩き、そして今回北東北の11遺産(プラス関連遺産の1遺産)を訪ねることで全構成遺産を訪ね終えることができた。私にとっては ここ数年来の願望を成し遂げることができた。このことで私が何かを得たか?何かを掴んだか?と問われると残念ながらそこには何もないというのが現実である。旅の途中でも書いたが、私は縄文遺跡については俄かファンであり、考古学とか遺跡とかにはまったく不案内の人間である。したがって、私が縄文遺跡の旅を振り返るといってもそれは単なる印象記の域を出ないことをお断りしておきたい。
※ 大湯環状列石(鹿角市)の全景です。感情列石としては代表格のものというるようです。
縄文時代とは?
まず縄文時代と一口にいうが、それはとてつもなく長い期間であることを確認しておきたい。
定説によると、紀元前13,000年前から紀元前400年前までのおよそ1万2千年以上の長きにわたり続いた時代だということだ。あまにも長い期間のために、細分化し「草創期」、「早期」、「前期」、「中期」、「後期」、「晩期」の6つの時代に分けているという。
したがって、私が訪れた遺跡も例えば外ヶ浜町の「太平山本遺跡」は草創期、青森市の「三内丸山遺跡」は中期、鹿角市の「大湯環状遺跡」は後期、八戸市の「是川石器時代遺跡」は晩期といった具合に栄えた時代がマチマチなのである。そこを私は短時日に時代を激しく前後しながら巡り歩いたということになる。
だからここでの私の印象記は細かなことを抜きにしてのものとなることを断っておきたい。
※ 御所野遺跡(一戸町)に行くには深い谷を渡っていかなくてはいけないのですが、ご覧のように「きききのつりはし」という120mの吊り橋を渡ると、そこに素晴らしいガイダンス施設が現れるという憎い演出がされていました。
定住時代の幕開けとなった縄文期
良く言われることとして、世界において定住が実現したのは農耕や牧畜を人間が獲得したことに始まるとされているが、我が日本においては農耕や牧畜ではなく、狩猟や漁労、採集によって定住を可能とした点において世界の歴史とは異なるとされている。
事実、今回私が訪れた遺跡においては、周りの自然を巧みに利活用し、年間を通して食物を手に入れていたことが分かった。中には成長の早いクリの木を意図的に栽培していたのではないかという説もパネル説明されていた。クリの木は堅い木材のために住居の材料としても重宝されたらしい。
また、縄文時代においては「土器」が誕生したことの大きいようだ。土器の誕生によって食料の煮炊きや保存が可能になったという。巡る中で面白い表記があった「縄文人はごった煮が得意だったのではないか」と…。
※ 伊勢堂岱遺跡(北秋田市)のガイダンス施設の縄文館の入口にはこの遺跡のシンボルである板状土偶のデフォルメが展示されていました。
縄文人は祖先を敬う精神に富んでいた?
今回巡り歩いた中の特徴の一つに、「環状列石(ストーンサークル)」関連の遺跡が多いことがある。「大湯環状列石」、「伊勢堂岱遺跡」、「大森勝山遺跡」、「小牧野遺跡」と…。環状列石は死者を祀る場所であり、祭祀を行う場所だったとされる。
その他の遺跡においても環状列石のような形はとらなくとも、死者を祀る場所が必ず集落の中心にあったことから考えても(時代によって集落からは離れ、数集落が合同で集まるような形になった時代もあった)、現代人以上に祖先を敬う気持ちが強かったのではないかということが窺われる。
※ 大森勝山遺跡(弘前市)のストーンサークルは、発掘跡に複製品の石を配して、見学者が自由に足を踏み入れることのできる遺跡として公開されていました。
人骨が残っていないのは?
縄文遺跡において意外なことに人骨はほとんど残っていない。中には稀に北海道・洞爺湖町の「入江貝塚」や、八戸市の「是川石器時代遺跡」において人骨が発掘された例もあるが…。ガイドの方々が異口同音に語っていたのは「我が国の土壌は酸性のために人骨が溶けてしまい残らないのです」と…。
時に運良く残っていた例は、貝殻などによって中和されたためではないか、ということだった。人骨が多く残されていれば、また縄文人の謎が一層解明されたのではないか、と思うとちょっと残念である。
※ 三内丸山遺跡(青森市)では、シンボルの大型竪穴建物の建設した際の柱の跡の穴の中に遺った柱の遺物の模造品が展示されていました。本物はガイダンス施設の中に展示されています。
本日はこの辺でこのあたりで終わりとします。