田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

北区歴史と文化の八十八選巡り №1

2022-04-20 16:38:00 | 札幌市・北区歴史と文化の八十八選巡り

  北区には開拓の歴史と伝統を持つ開拓碑や文学碑、古い建築物など文化遺産が数多く存在しているという。それら文化遺産を北区が独自に88ヵ所を選定し、「北区歴史と文化の八十八選」として指定したという。これらの文化遺産を巡ってみようと思い立った。

 過日、北区の新しいウォーキングコースを踏破した際に、沿道にある文化遺産も併せてレポートしたが、どうも底が浅い感じがして満足できなかった。そこでウォーキングとは別に八十八選に絞って巡り歩いてレポートしてみようと考えた。八十八か所を一回当たり8ヵ所として都合11回に分けてレポートしてみようと考えていたのだが、いざ作成してみると、8ヵ所となるとボリュームが大きすぎる。長いシリーズとなってしまいそうだが、一回に4ヵ所ずつレポすることにしたい。なお、〈 〉内の数字は北区が指定した順に準拠したものである。

〈1〉有島武郎邸跡

   

   ※ 「有島武郎邸跡」碑は、写真のようなミニ公園風のところに建てられていた。自転車の右側がその碑です。

 有島邸跡は北12条西3丁目のビル街の角地に小公園のように造られたところに彼の胸像が立てられていた。その脇には有島武郎の業績を著す説明板が立てられていた。しかし、雨風のため判読が困難となっていたので、北区の担当者にお願いして本文を送付していただいた。その説明文が以下のものである。

   

   ※ 北区制作の説明板は雨風のために滲んでしまい一部が判読不能でした。

「『カインの末裔』、『生まれ出ずる悩み』などの作品で知られる文豪・有島武郎(1878-1923年)は、札幌農学校を卒業後、外国留学を終えて明治41年(1908年)、再び札幌の地を踏み母校である北大で英語を教えるかたわら本格的な文筆活動を開始した。この家は、大正2年(1913年)8月、札幌永住を決意して新築したもので、大正3年(1914年)11月に妻・安子の病気療養のためこの地を去るまで過ごした。マンサード屋根を持った洋風の家は有島自身の設計といわれ、ここはその家があった場所である。」

   

   ※ 有島武郎の顔像と、その下に有島安子(妻)遺稿集の一部分が表示されていました。

   

   ※ 有島武郎の顔像をアップしてみました。

 後年、この家は森雅之(有島の長男行光)主演映画「白痴」(監督黒澤明、昭和26年)のロケにも使用され、現在は、札幌芸術の森に移築・保存されている。

 碑文は安子夫人の死後、有島がまとめた有島安子遺稿集「松むし」から取った日記の一節である。有島は、あるとき、「細君というものはこんなにいいものならなぜもっと早く貰わなかったと君は思ったかい。」と友人に尋ねられ、「そりゃいい事もあり悪い事もありさ」と答えて笑った。これを聞いていた安子夫人は恥ずかしさと悲しさで泣きたくなり、「細君とはなかなかいいものさ。早く結婚したまえ」と夫に言われるような妻になろうと思ったという。」

 なお、有島武郎邸は大正2(1913)年に建てられ、有島自身は妻が病死したこともあり約1年間しか居住しなかったようである。その後は北大職員寮や学生寮として利用されていたが、昭和58(1983)年に廃されて、昭和60(1985)年札幌市芸術の森の敷地内に移築され現在に至っている。私はこの建物も現地へ行って写真に収めてきた。内部は冬季間の閉鎖期間だったために見学はできなかった。(訪問日4月17日)

   

   ※ 札幌市芸術の森の敷地に移築された有島武郎邸です。下は邸宅の裏側です。

   

〔住 所〕 北区北12条西3丁目

〔訪問日〕 4月19日

〈2〉旧札幌中学校「発祥の地」碑

      

 旧札幌中学校「発祥の地」碑は「有島武郎邸跡」からも望める道路向かいにあった。こちらは本当にビルに囲まれた隙間に立てられていた。傍にあった説明板の方は写真が掲示されているだけだったが、碑の土台のところに碑文が刻まれていた。それをメモしてきたので転写する。

   

   ※ 碑の台座のところに、碑建立の経緯が記されていたので懸命に書き写しました。

 「この地は明治28年(1895)4月 札幌尋常中学校誕生の地で, その後 札幌中学校, 北海道庁立札幌中学校, 同札幌第一中学校と改称され, 大正11年 (1522)7月南18条西6丁目に移転 するまで3000余名が質実剛健 堅忍不抜の精神に鍛えられ, 各界に雄飛し社会に貢献した。
よって母校を偲び320余名の同窓生 有志が, 篤志者および藻岩会の 後援によりこの記念碑を建立した                     昭和58年(1983)9月17日」

※ なお、原文の方は縦書きのため年数などは漢数字であるが横書きのために算用数字に変えてあります。

   

   ※ 石碑の足元の歩道には写真のような化粧タイルが埋め込まれていました。

 碑文にあるように大正11年には、現在地から現在北海道南高等学校がある地に移転したようであるが、諸事情があったとはいえ地域住民にとっては残念な出来事だったのではないだろうか?

   

   ※ 道路向かいから石碑を撮りましたが、ビルの隙間にひっそりと立っています。写真の真ん中です。

〔住 所〕 北区北11条西3丁目

〔訪問日〕 4月19日

〈3〉石川啄木下宿跡

        

 啄木の下宿跡は、札幌駅の直ぐ北側のビルの一角にその碑は啄木の胸像と共にあった。まるで当時の面影の残っていないビルのエントランスにそれはひっそりと立っていた。北区が作成した説明板には次のように書かれていた。

   

   ※ 「札幌クレストビル」というビルの右手前のところに石川啄木の胸像が置かれていました。 

    

   ※ 写真のようにひっそりと置かれていました。

「詩人・石川啄木が函館から札幌入りしたのは、明治40年(1907年)9月14日のことである。札幌停車場に午後1時すぎに到着した啄木は、詩友・向井夷希微(いびき)らに迎えられ、彼らの宿でもあった「北7条西4丁目4番地・田中サト方」の住人となった。ときに満21歳。ここはその下宿があった場所である。滞在2週間であわただしく札幌を去るが勤め先の北門新報に「札幌は寔(まこと)に美しき北の都なり」の印象記を残し、またしても小樽、釧路へと放浪の旅に出た。」

   

   ※ 北区制作の説明板です。

 また、啄木の胸像の下には「秋風記」と題する上記の北門新報に寄せた一文が碑に刻まれていた。それを写すと…。

   

   ※ こちらは胸像の下に展示されていた「秋風記」の一節です。

「札幌は寔(まこと)に美しき北の都なり。初めて見る我が喜びは何にかに例えむ。アカシアの並木を騒がせ、ポプラの葉を裏返して吹く風の冷たさ。札幌は秋風の国なり、木立の市(まち)なり。おほらかに静かにして人の香よりは樹の香こそ勝りたれ。大なる田舎町なり、しめやかなる恋の多くありさうな郷(さと)なり、詩人の住むべき都会なり。」

 啄木が札幌に滞在したのは9月後半わずか2週間である。北国札幌は初秋の冷たい秋風が吹く頃だったようだ。もし、啄木が札幌の街がもっとも輝く6月に訪れていたとしたら、彼は札幌の街をどう描いただろうか?興味がある果たせぬ夢である。

   

   ※ 啄木の胸像の裏側から撮りました。啄木が街を行く人たちを眺めている図です。   

〔住 所〕 北区北7条西4丁目

〔訪問日〕 4月19日

〈4〉朔風

        

 「朔風」とは碑文によると1980(昭和55)年、北海道自治労会館の竣工を記念して建立された彫刻である。作者は札幌在住の彫刻家・本田明である。「朔風」はちょうど自治労会館の横の三角形の空き地(?)のところに立っていた。北区の説明板はここだけ立派なステンレス版になっていた。そこには次のように書かれていた。

   

   ※ こちらの説明板は何故かステンレス製でした。

「厳しい北海道の北風に向かいながら、たくましく前進を続けるエネルギーとくじけることを知らない強固な勇気と気迫を表現。」とあった。

   

   ※ 高い台座の上に身長173cmの女性の像が立っています。

   

   ※ 裏面から撮ったものです。

〔住 所〕 北区北6条西7丁目自治労会館横

〔訪問日〕 4月19日


西岡水源地を往く月例自然散歩

2022-04-19 16:53:02 | 環境 & 自然 & 観察会

 札幌都心からそれほど離れていない「西岡水源地」は自然がいっぱいである。水源地のそこここには春の訪れを告げる植物や生き物たちが密かに躍動の時を待っているようだった。ガイドの適切な案内で早春の「西岡水源地」を楽しんだ。

   

  ※ 西岡水源地(公園)のマップです。矢印の方向にグルっと一周しました。

 一昨日(4月17日)である。「西岡の自然を語る会」主催の「西岡水源地 月例自然散歩」が開催されたので参加した。この種の催しの参加者はやはり女性が多い。全体の参加者は主催者も含めて16名だったが、うち男性は5名だけだった。(そのうち3名は主催者)

   

   ※ 月例自然散歩の開会式の様子です。

 リーダーの方も説明してくれたが、西岡水源地は明治末に帝国陸軍第7師団が軍用水道として引水するために軍が掘った池が始まりだという。その後、水源池としては使用されなくなったものの池は現在まで残されているということだ。

   

   ※ 西岡水源地を象徴する光景です。向こうに見える建物は取水塔だった建物です。

 散歩のコースは、その水源池の周囲を巡るものだった。朝9時にスタートしたのだが風が強く、池を渡ってくる風が思いのほか冷たいのが堪えた。そんな中、池にはピンクロハジロが多数浮かんでいた。遠くなので良く見えなかったがリーダーのバードスコープで確かめることはできたが、カメラの収めるのは難しかった。(池の反対側へ行ったところでカメラに収めることが出来た)

   

   ※ リーダーは写真のようにバードスコープのピントを合わせて参加者に見せてくれます。

   

   ※ 割合近くで撮れたビンクロハジロです。

   

   ※ 体色の違いは雌雄の違いだと思うのですが、その違いが分かりません。

 場所を変えたところで潜りの上手なカイツブリを観察したが、カメラで撮ることはできなかった。

 リーダーの方がサプライズを用意してくれていた。それは前日に仕掛けたというシラカバの樹液を採取して、それを私たちに試飲させてくれたのだ。ほ~んのりと甘さが漂う上品な味の樹液だった。リーダーの気遣いに感謝である。

   

   ※ シラカバの樹液を採取ところです。幹に3cmくらい入れて採取するようです。

   

   ※ ケヤマハンノキの雄花(先の長い方)と雌花(根元の小さな方)です。雄花から花粉が飛びます。   

           

           ※ ケヤマハンノキです。

   

   ※ ヤドリギが落ちていました。

 西岡水源地は2年前くらいから池の周囲をはじめ、湿地帯に木道を整備する工事が行われていたが、それがどうやら完成したようだった。少し整備し過ぎでは?と思われるくらい人間から自然を隔離する仕組みが出来上がったような感じがした。(つまり湿地帯には一歩も踏み出せないようになっている)

   

   ※ 写真のように水源池の遊歩道は自然と人間をかっちりと分ける仕組みとなっていました。

   

   ※ 途中で出会った西岡の自然を年間を通して学ぶ少年少女たちです。

 そんな池の奥まった湿地帯では春の湿地帯の風物詩(?)ともいえるミズバショウが白い仏炎苞を見せていた。まだ全体的には二分咲きといった程度だったが、一週間後くらいには辺り一帯が白く染まるのではないだろうか?またナニワズが黄色の小さな花を付けていた。

   

   ※ ミズバショウはこれから1~2週間が見ごろとなりそうです。

   

   

   ※ ナニワズも小さな花を咲かせていました。

 続いて水鳥以外の鳥類だが、私が目撃できたのはアオサギが頭上を舞っていたのと、チバシリという小さな鳥(体長14cm程度)が樹上を上り下りする姿、そしてリーダーの教えでクマゲラが飛んでいくところを見ることができた。水源地の森の中では、コガラ、シジュウカラ、ハジブトガなどがいたようだが、いずれもが小柄の上、動きが激しいために探鳥初心者の私には何が何だか分からない、というのが本音だった。 

   

   ※ 帰路は一時水源池沿いを離れて森の中に入っていきました。

 散歩の最後になってエゾアカガエルの鳴き声を耳にすることができただけでなく、カエルそのモのも、カエルの卵も観察することが出来た。

   

   ※ エゾアカガエルです。

   

   ※ エゾアカガエルのタマゴです。

 3時間にわたって、ゆったりと水源池の周囲を歩き、出会った自然の植物や生き物たちを親切に教えてくれる「西岡自然を語る会」の「月例自然散歩」はなかなか興味深い。これから違う団体の観察会にも参加予定だが、さてどの団体の観察会をメインとしようかな?悩んでみたい。

   

   ※ 帰路、道端に落ちていたアカゲラの羽です。水玉模様が鮮やかです。                                   


北海道交響楽団第92回演奏会

2022-04-18 15:24:01 | ステージ & エンターテイメント

 さすがに北海道内のアマチュアとしては最高水準を誇るオーケストラである。難曲といって良い交響詩や交響曲を堂々と素晴らしい演奏を披露してくれた。レベルを保つために日頃の研鑽に努力されていることを伺わせてくれた。

   

 1昨日(4月16日)は昼の札幌市中央図書館での講演会に続いて、夜に札幌コンサートホールKitaraで行われた「北海道交響楽団第92回演奏会」に出かけた。

 いただいたパンフレットによると、「北海道交響楽団」は1980年に設立され、故川越守氏の指導・指揮のもとに成長を続け、今や北海道内最大級のアマチュアオーケストラとなっているという。ステージに上がった団員数が66名という数も凄いが、その実力も北海道内トップクラスといって過言ではないだろう。

 また、団の正式名は創設者であり、指導者だった川越氏の功績を称え「川越記念 北海道交響楽団」が正式な楽団名だそうだ。

          

 当日演奏した曲目が本格的である。以下、演奏順に…、

 ◇ワーグナー/歌劇「ローエングリン」より「エルザの大聖堂への行列」

 ◇シベリウス/交響詩「春の歌」作品16

 ◇マデトヤ/交響曲第3番 イ長調 作品55

 ◇チャイコフスキー/交響曲第2番 ハ短調 作品17「小ロシア」

といった具合で、いずれもが本格的な曲に取り組んでの演奏会である。

 指揮者はプロの長岡聡季氏、トレーナーにも専門家が付いて指導しているようだ。アマチュアであるから団員の誰もが他に仕事を持ったうえでの音楽活動であるから、技術の維持・向上には大変な努力をされていると想像される。そうした努力の上で、私たちに十分に聴かせてくれるレベルの演奏を披露されるのには頭が下がる思いである。

      

 今回の演奏では、特にチャイコフスキーの「小ロシア」の第4楽章の最後の盛り上がりにはとても感動した。

 年間に2回の定期演奏会を実施しているようだが、今後もレベルを保つ努力をされ、道内の音楽ファンに質の高い演奏を披露していただきたい。

※ プログラム以外の写真はウェブ上から拝借しました。 


作家・子母澤寛生誕130周年記念講演会

2022-04-17 20:02:17 | 講演・講義・フォーラム等

 幕末に京都で治安維持のために暴れまくった新選組のことを広く世に広めたことで知られる「新選組始末記」を著した子母澤寛は現在の石狩市厚田区の生まれである。彼の生誕130年を記念した講演会を聴いた。

      

       ※ 中央図書館内に掲示されていたポスターです。講演題がちょっと違っているのですが…。

 昨日(4月16日)午後、札幌市中央図書館で子母澤寛の生誕130年を記念する講演会が開催され、参加した。講演は、元函館中央図書館長の丹羽秀人氏「新選組の名を世に広めた作家 子母澤寛」と題して講演された。

   

   ※ 講師を務められた丹羽秀人氏です。

 お話は子母澤寛の生涯、特に生育期についての話と、彼の著書に関するお話と大きく二つに分かれていた。私のその中でも子母澤寛の幼少期や彼が世に出る前のお話に興味をもった。彼の生い立ちは非常に複雑だったようだ。できるだけ分かり易くまとめることを心掛けたいと思うが…。

   

    

 ※ ちょっと見づらいですが、講師から提供された子母澤寛の家系図です。

 まず彼の母である三岸イシ、その人が三岸家の養女だった。その三岸イシが年頃になって厚田にいた若者(竹内伊平)との間に身ごもったのが子母澤寛こと梅谷松太郎である。しかし若者はすぐにイシのもとを去り、イシは松太郎を出産するが、松太郎をおいて橘巌松と札幌へ出奔してしまう。残された松太郎はイシの義理の叔父(三岸イシの叔母スナの夫)にあたる梅谷十次郎に引き取られて戸籍上は十次郎の実子として育てられる。

 長じて松太郎は函館商業高校に進学するも、函館大火に遭い小樽商業高校に転向する。この頃、叔母スナが亡くなり、十次郎の商売も傾いたこともあり、松次郎は実の母親イシの夫、橘巌松の援助を受け北海中学(現北海高校)に再転校し、卒業する。

 松次郎は相当に優秀だったようだ。また橘巌松も素晴らしい人格者だったと言える。松次郎は橘巌松の援助を受けて明治大学法学部に入学する。ただ、東京での生活は苦しく松次郎はアルバイトで「赤本」の執筆をして生活費を稼いだそうだ。「赤本」とは明治時代に世間で流布している面白可笑しな話をまとめた講談本だそうだが、講師の丹羽氏は他人から聴いた話をもとに一つの話にまとめるというスタイルを子母澤寛はこの時期に体得したのではないか、と推測した。

 明治大学を卒業した後も、彼は幾多の変遷を繰り返すが、大正7(1923)年に読売新聞社に入社したのが転機だったようだ。ここで彼は新選組の研究、つまり様々な関係者から聞き取りすることを始めた。そして昭和3(1928)年に彼の初の著であり、出世作となる「新選組始末記」を出版した。この本が大評判となり続編である「新選組遺聞」、「新選組物語」と次々と著し、作家としての基盤を築いたという。

   

    ※ 講演に聴き入る受講者たちです。

 ちなみにペンネームの「子母澤寛」は「新選組始末記」を出版する際に居住していたところが新井宿子母澤だったことから「子母澤」という姓とし、名の「寛」は菊池寛から取ったとも、単に語呂が良かったからとも言われているという。彼の作家としてのデビューは36歳とけっして早くはないが、生涯に600冊を超える作品を世に出したというから多作の作家といえるようだ。

          

 講演の方は彼の著書の内容にも触れたが、私は講演を聴くにあたって彼の代表作である「新選組始末記」を読んでから講演会に臨んだ。なるほど関係者から聞き書きや、残された手紙などが多いことが一つの特徴だった。私が苦労したのが幕末の漢文調の手紙類だった。漢文の素養がない私には意訳すらも難しかった。しかし、新撰組の結成前に江戸で浪士を集めて京に上った清川八郎と袂を分つ下りなど、読者の興味を惹き付けるに十分な内容であり、大評判になったことも頷けた。

 なお、書き遅れたが画家の三岸好太郎(彼の遺作を展示する道立三岸好太郎美術館が知事公邸と同じ敷地にある)は、彼の異父兄弟である。

 私にとってこれまであまり馴染みのない作家・子母澤寛であったが、これを機に彼の著作にもあたってみたいと思っている。


札幌ウォーク 北区・屯田防風林コース〔後編〕

2022-04-16 12:07:07 | 札幌ウォーク & Other Walk

 コースは「屯田みずほ通り」から「創成川緑地」に入る。創成川沿いに設けられた緑地は静かな佇まいで地域住民には絶好の散策路と思われた。続いてこのコースのメイン「屯田防風林」である。まったく人の手が入っていないかのような自然いっぱいの防風林は魅力いっぱいだった。

  

 「屯田みずほ通り」を右折すると、創成川沿いの「創成川緑地」に繋がった。緑地内には緩やかに婉曲した散策路が設けられている。その外側の創成川に接しているところには別の真っすぐなアスファルト道路も並行して走っていた。「創成川緑地」は札幌市内の他の緑地同様に、適度にベンチやバーコラなども配されていた。そうした中で緑地中央付近にモニュメント風の彫刻が鎮座していた。彫刻の裏に回って見るとCINQ作「宙(そら)の船」と記されていた。

   

   

   ※ 彫刻の裏面には「宙の船」 1997  CI NQと記されていました。

   

   ※ 緑地内の散策路は右側の細い道、真ん中の舗装路は創成川沿いの堰堤に造られた道です。

 やや残念だなと思われたのは、「創成川緑地」と「屯田防風林」が直接には繋がらず、一部住宅街を通り抜けねばならなかったことだ。仕方のないこととはいえ、やや残念に思われた。

 いよいよこの日のハイライト「屯田防風林」である。コースは防風林の東端から入る。その入口に立て看板があり、そこには「ポプラ通中央緑地」と記されていた。どうやら「屯田防風林」は通称で、正式名は「ポプラ通中央緑地」と称する通りのようだ。通りとは言え、舗装はされておらずもちろん車などは通ることが出来ない完全な人道である。この「屯田防風林」自体が「北区歴史と文化の八十八選」に選ばれている。

   

   ※ 「屯田防風林」の入口にはこのような立て看板が…。

        

        

        ※ 確かにこうしたポプラの木が目立ちました。

〈45〉屯田防風林    

厳しい季節風から農作物を守るために植えられ、約8kmにわたり樹林帯をつくっています。現在では憩いと散策の場になっています。

   

 私がここを訪れるのは確か4度目だと思うが、いつ来て歩いても心地良い思いに包まれる。それは散策路が舗装されておらず、自然の土の道で足に優しいからだ。さらにはまるで手つかずのように樹木が生い茂っている様が都会の住宅街の真ん中で感じられるのが嬉しいのだ。もちろん手つかずということはなく、管理する側では住民の安全に配慮した管理がなされてはいるのだが…。この日も多くの地域住民の方々が散策していた。           

 私は現存されている約2.2kmのうち約1.9kmを縦断したが、その縦断中に目にした光景の中から印象的な何枚かを掲載することします。

   

   

   

   ※ この若い木は自生した木のように思えますが…。

   

   ※ 自然いっぱいに見えた防風林内ですが、ところどころに子うした規制綱もみられました。

   

   ※ 春間近!オオウバユリの幼芽の群落がありました。

 なお、この「屯田防風林」は「美しい日本の歩きたくなるみち500選」にも選定されている道であることを申し添えたておきます。

 コースの最後に「北区歴史と文化の八十八選」に選定されている二か所の石碑を見つけるのに苦労した。ガイドブックはおおよその位置しか表示していないため、実際には辺りをウロチョロして探さねばならない。二か所とも、周りにいた地元の人と思われる方に尋ね回りながら探したが、かなりの苦労の末になんとか見つけることができた。

〈47〉はたちのつどい記念塔

 はたちのつどい記念自儀容として建てられた。タイムカプセル入りの記念塔です。

   

〈46〉植樹碑

 札幌すずらんライオンズクラブが公園内にサクラの木約1,000本を植樹した記念に建てられました。

   

 そうした最後にスタートした「屯田みずほ通り」の始発点に戻った。コースの距離としてはガイドブックで5.9kmとなっているが、「北区歴史と文化の八十八選」の建造物などがコース上になかったり、あるいは見つけるために右往左往したこともあり、私の歩数計では9kmにもなっていた。当初は隣りの「遊水地コース」も踏破の予定だったが、時間的に無理と判断し、後日を期すことにした。

※ 「北区歴史と文化の八十八選」の〈 〉内の数字は、北区で指定したロット№です。


札幌ウォーク 北区・屯田防風林コース〔前編〕

2022-04-15 17:36:39 | 札幌ウォーク & Other Walk

 このコースは数多くある札幌市内のウォーキングコースの中でも最上位にランクするほど素晴らしいウォーキングコースだと私は思う。三角形のコースそれぞれが個性的な顔を持ち、車などに煩わされることもなくゆったりとウォーキングが楽しめるコースである。

 古い話になるが、私は2008年1月から2010年6月までかけて札幌市内に設定された118のウォーキングコースを全て歩いた体験がある。(もちろんそのことは拙ブログにアップしている)

        

        ※ 2013年に北区から改訂されたウォーキングマップが発行されたようです。

 その中には北区が指定した6つのコースも含まれていた。ところが昨夜2013年に発行された「北区 ウォーキングマップ」を何気なく見ていたところ、それまで設定していたウォーキングコースを再編したらしいことを発見した。同じ6コースなのだが、コース名も変わりコースそのものも手直しされていた。さらにはコース上に北区が独自に(?)に指定した「北区歴史と文化の八十八選」の歴史的建造物や文化遺産を巡ることが出来るコース設定に改編したようなのだ。私は「北区歴史と文化の八十八選」を巡ることを主として、改編された北区のウォーキングコースを巡ってみようと思い立った。

   

   ※ 今回私は左側の赤線のコースをぐるっと一周し、周辺の八十八選に選定された石碑などを巡りました。

 私が本日巡り歩いたのは赤線で示された「防風林コース」である。スタート&ゴールはマップに例示されたところではなく、右側の角青字のスタート&ゴールとして歩いた。それでは巡り歩いたところを写真で羅列します。なお、「北区歴史と文化の八十八選」については北区が示したロット番号を〈〉内に記すことにします。

 なお、今回は掲載写真が多くなるので前・後編に分けてレポすることにした。まずは稲作のかんがい溝跡に造成された「みずほ通」を歩き、「みずほ通」近辺に散在した八十八選の石碑等をレポすることにします。

〈48〉屯田みずほ通り

屯田の稲作を長年支えたかんがい溝跡に造られました。札幌市北区屯田5条1丁目から西に2.6kmの遊歩道が続いています。

   

   

   

   ※ 「屯田みずほ通り」はご覧のように周辺住民の方々がよく整備されている遊歩道でした。

〈49〉屯田の太陽

屯田開基100年記念事業の一環として建立されました。明るい太陽に恵まれた屯田地区を象徴しています。

   

〈50〉屯田郷土資料館

館内には、開拓時の屯田兵屋が復元されているほか、屯田兵に関する資料が展示されています。

   

〈51〉「屯田兵第一大隊第四中隊本部跡」の碑

屯田の開拓を進めた第四中隊の本部が建っていた地点を明確に示すため、屯田開基百年を機に昭和63(1988)年に建てられました。

        

〈52〉篠路兵村「開拓碑」

明治22(1889)年、篠路村(現屯田)に屯田兵が兵村を開設したのを記念し、開基40周年の昭和3(1928)年に建立されました。

   

〈53〉水田開発記念碑

農業経済を立て直そうと始められた水田開発から45年になるのを記念し昭和33(1958)年に建立されました。

   

〈54〉屯田兵顕彰の像

この地を開拓した屯田兵の功績をたたえ、屯田開基100年記念の際に建立されました。

   

〈55〉馬魂之像

農耕につくして倒れた馬魂の慰霊碑です。屯田開基100年を記念して建てられました。

   

 

   

   ※ 地域の鎮守「江南神社」境内にも八十八選関連のものが以下の3点がありました。

〈56〉篠路兵村「移住記念碑」

明治22(1889)年、この地に屯田兵が入植し兵村を開設したのを記念し明治29(1896)年に建立されました。

   

〈57〉屯田開基九十周年記念顕彰碑

碑面には吹田晋平の歌が刻まれています。「神をうやまい祖をとうとびて九十年にい宮はなる江南のさとに」

   

〈58〉望郷のアカマツ

明治27(1894)年、屯田兵中隊本部が「望郷の松」と銘打ってアカマツとオンコを配布しました。今は4本しか残らないうちの1本です。

   

※ 「北区歴史と文化の八十八選」の説明は北区のHPの説明を転写させていただきました。現地ではもう少し詳しく説明された看板が立っていました。

   

   ※ 「屯田みずほ通り」の中でとても目立った「シダレヤナギ」が涼やかに立っていました。

   

   ※ シダレヤナギの枝には小さな緑の芽が出ていました。

   

   ※ 「屯田みずほ通り」の東端で創成川に行き当たりました。創成川沿いのポプラの並木が見事です。

 明日、後編をレポすることにします。


ロシアの蛮行、プーチンの愚行

2022-04-14 17:04:37 | その他

 政治的問題は拙ブログにおいてはタブーとしてきた。それは政治問題ほどいろいろな見方があり、さまざまな価値観があるからだ。しかし、これは政治的な問題ではない。はっきりと人道問題である。遅きに失した感はあるが声を大にして叫びたい。

 2月24日、ロシアは突如として、というよりは周到に準備してウクライナに攻め入った。その理由は「ウクライナ東部住民を保護するため」だと言いながら、ウクライナ全土を略奪するかのような軍事作戦を展開し、戦闘要員でもない民間人の命を虫けらのごとく虐殺している。侵攻が始まってからすでに1ヵ月半に及び、民間人の被害は増加の一途を辿っているが、ロシアの独裁者・プーチンはそのことについて一顧だにしないかのごとく侵攻の手を緩めようとしない。

 ロシアがウクライナの首都・キーウを陥落させようとしたものの、ウクライナ軍の執拗な抵抗に遭ったことでキーウの陥落を諦めて軍を引き上げた後には、虐殺された多くのウクライナの民間人の死体が残されていたという。こうした残虐行為が21世紀の今、許されて良いのだろうか?中山俊宏慶大教授が「国内の悪事には警察が存在し対処するが、国際的な悪事には警察がいない」と指摘したが、まさに今国際社会はロシアの悪事に対して手をこまねいて傍観するばかりである。

 今回のロシアの暴挙の原因はアメリカにあり、との評論があるのも承知している。また、過去にアメリカをはじめとした西側諸国が敵国の現地人に対して同じような行為をしたにもかかわらず、私たちの目に触れなかった、などという報道も確かにあることは承知している。だからといって、ロシア軍がいま行っていることが許されるはずがない。

 私が今回こうした投稿をしようと思ったきっかけは、退職組織の会報の原稿依頼があったことがきっかけだった。「現在の関心事は?」と問われたときに、このことをおいて他にはないと思ったのだ。原稿は300字以内という制限のため十分な思いを表現することはできなかったが、その投稿文を掲載して本日の投稿を閉じることにする。

    

    ※ 掲載した写真はウェブ上から拝借しました。

理不尽なことが罷り通る現代?

 おそらく多くの方が言及するであろうロシアのウクライナ侵攻問題について思いを述べてみます。

 地球に生きる全ての人たちの幸せを願ってSDGsが叫ばれている現代において、難クセとしか思えない理由をつけてウクライナの人々の命を虫けらのごとく蹂躙する様をテレビの画面を通して見せられる私は何とも言えない無力感に陥ってしまいます。こんな悪行が21世紀の現代において許されるのでしょうか?

 幾多の悲劇を乗り越えて、世界はこうした剥き出しの暴力の行使を戒めてきたはずですが、今その暴力に対して世界は手をこまねいて傍観するだけしか術はないという悲しい現実です。

 私たちはこの現実を子どもたちどう伝えれば良いのでしょうか?


札幌・宮の沢の桜、そしてその他は?

2022-04-13 16:15:23 | 環境 & 自然 & 観察会

 札幌で毎年最も早く桜の開花が報じられる宮の沢の桜が開花したと2日前に報じられた。今日、その桜の花をみようと駆け付けたところ、確かに壁際の一部の桜が開花していた!しかし、それは特殊事情によるらしい。その他の桜の花の現在は?

   

           ※ 宮の沢の桜の木はご覧のようにビルの壁際に沿って植わっていました。

 11日夕方のテレビのニュースで西区・宮の沢駅近くの旧中の川沿いの桜の花が開花したと報じられた。そこで本日、特に予定もなかったので駆け付けてみることにした。桜の木が植えられているのは地下鉄宮の沢駅の6番出口から出ると直ぐのところである。数多く植わっている桜の木の一部が確かに開花していた。その一部とはビルの壁近くで咲いていた。つまり、宮の沢の桜が札幌市内で最も早く咲く秘密は、駅の換気口から出る暖かい空気が当たっているから、という特殊事情によるためということである。自然の暖気によって咲くにはいましばらくの時間が必要ということだが、現在の開花予想では4月25日というのが一般的な開花予想のようでまだ2週間近く後ということになる。

   

   

   

   

   ※ 全ての桜の花のバックはコンクリートですね。

 現在、日本の桜前線は山形が13日に開花し、本日満開を迎えたということだ。それでは札幌の桜の状態はどうなっているのか?2ヵ所ほど訪れてみた。

円山公園の桜

 札幌の桜の名所の一つ(?)円山公園に行ってみた。円山公園の桜の中で坂下野球場の傍の桜が毎年最も早く開花すると私は見ている。そこの桜の木を訪れてみた。確かに蕾は膨らみつつある状態だった。あるいは札幌の開花宣言前に桜の🌸を愛でることが出来るかもしれないと思わせてくれた。

   

   

      

 続いて公園内のパークセンター前に植わっているシダレザクラを見てみたが、こちらはまだまだ固い蕾の覆われていて、開花はまだまだ遠い先かな?と思わせられた。

   

   

   ※ シダレザクラはまだまだという感じでしたが…。

標本木の桜(札幌管区気象台)

 札幌の桜の標本木は、札幌管区気象台の庭にソメイヨシノが2本植わっている。そこの桜の蕾はどうなっているかと思い訪ねた。こちらは円山公園の蕾よりもまだ固い状態のように思えた。こちらの蕾を見るかぎり、やはり開花のためには2週間程度の時間が必要かな?と思わせられた。

   

   

   

   ※ こちらもまだ蕾は固そうでした。

 いずれにしても桜の開花=本格的な春到来はそこまで来ている。寒い冬を乗り越えた北国・札幌の地にも春爛漫の季節がもうそこまで来ている!という思いを強くした桜の木巡りでした。


清掃ボランティアも13年目の活動をスタート!

2022-04-12 17:51:15 | ボランティア

 昨日の「めだかの学校」に続いて、近代美術館前の歩道を清掃するボランティア活動も今朝から13年目の活動をスタートした。さすがに寄る年波に感ずる昨今だが、久しぶりの活動とあって疲労困憊だった。しかし、すっきりとした歩道が還ってきたことに満足だった…。

   

    ※ ボランティア活動中の会員の方々です。微砂利の掃き集めは砂煙が舞い立ちました。

 始まりの春である。偶然だが、二つの話題が続くことになった。というのも、清掃ボランティアの方は当初先週の8日(金)を第1回目の活動日と設定していたのだが、8日の朝が生憎雨模様だったために、本日に延期して実施したのだった。

 私はいつものように会員が集合する午前6時の30分前に出て、清掃用具を準備し一足早く活動を開始する。今朝は清掃前にスピレアマジックカーペットという低木が立ち並ぶ隙間を占める枯葉を除去することから始めた。この枯葉を除去しないと、枯葉が積もった中で害虫が発生して夏になるとスピレアマジックカーペットの葉を食べ尽くしてしまうのだ。

   

   ※ スピレアマジックカーペットの間にはたくさんの枯葉が溜まっているので、これを取り除かなくてはいけません。

 午前6時会員の方々が三々五々集まってきた。その日の都合によって会員が集まる人数はマチマチだが、今日は8名の方の参加だった。路上には冬期間に滑り止めに撒いた微砂利が散乱し、さらに隅々には枯葉が幾重にも折り重なって積もっていた。それを手際よく掃き集めたのだが、その量たるや普段の活動の3倍くらいの量があったのではないだろうか?そのうち微砂利の方は路上のところどころに後日業者の方に運んでもらうように、小山を作って残した。枯葉などのゴミはボランティア袋に集めたのだが、40kg入りのボランティア袋がなんと32袋にもなった!!

   

   ※ 歩道の隅には冬期間に吹き貯まった枯葉が幾重にも折り重なっていました。

 約半年ぶりの活動だったため、久しぶりに顔を合わせた会員もあり、手の方は休みなく動かしながら会話を楽しんでいた方も多かったようだ。活動開始からほぼ一時間後、ゴミの入ったボランティア袋をゴミ庫に収納して、今年最初の活動を終えた。

   

   ※ 掃き集めた落ち葉などのゴミがボランティア袋にこのように集まりました。

 問題はその後だった。久しぶりの活動で私は疲労困憊だった。疲労困憊になるほどの活動内容ではないのだが、身体の方は確実に老化が進んでいるようだ。帰宅してぐったり、 午前中は何をするでもなく身体を休めることに専念しなければならなかった。

 近年は活動後に疲労を感ずることが多くなった。私たちのグループにとって今はどのように継続するかが課題であるが、ひとまず今年はこれまでどおりに活動を続けることにしている。気持ち良い朝を迎えるために…。

   

    ※ 昨秋、球根を植え付けたクロッカスが花を付けていました。この後、ミニチューリップ、普通のチューリップと次々と花を咲かせてくれるはずです。


今年度の「めだかの学校」無事に発進!

2022-04-11 16:37:43 | 「めだかの学校」関連

 私が所属するシニアの学習グループ「めだかの学校」が本日、無事に今年度の学習活動をスタートした。昨年度はコロナ禍のために何度も中断を余儀なくされたが、本年度はなんとか計画どおりに活動ができないものか、恐る恐るのスタートである。

 私が「めだかの学校」に加入したのは、記録を調べてみると2014年4月のようである。ということは私は加入してからすでに8年が経過していることになる。その間、自分たちで学習を企画し、実施計画を立てて学習を継続する楽しさや意義を実感してきた。また、一昨年度からは図らずも「めだかの学校」の代表の任も担うこととなり、その責任も痛感しているところである。

 ところがここ2年間はせっかく計画を立てても、コロナ禍のために活動を中断せねばならないことに直面し、計画の半分程度しか消化できない事態が続いていた。今もまだコロナ禍が終息したとはけっして言えない状況だが、会場も貸与していただける状況なので恐る恐るスタートを切ったという状況である。

   

  今年度の学習計画は、年度の前半は昨年度積み残した「持続可能な環境を目指して…」をテーマとしてNHKスペシャル「2030未来への分岐点」を活用してのDV Dフォーラムと、日本とアメリカのアカデミー賞受賞作品の中から6本を会員の投票で選び観賞する映画観賞会を予定している。本日は「持続可能な環境を目指して…」の第1回目の DVDフォーラムとして2030未来への分岐点」の第1回放送分の「暴走する温暖化脱酸素” への挑戦」を題材としてフォーラムを私がコーディネーター役を担って実施した。

 私は池上彰さんのCOP26について解説した評論と、北海道新聞が温暖化によって北海道に与える影響について報じた新聞記事の二つを増す刷りして参加者に配布し、フォーラムに臨んだ。

 DVDを視聴後、参加者たちと感想などを話し合ったが、けっこう重い問題だったこともありなかなか発言がなかったが、それでも地熱発電の可能性は?とか、風力発電や太陽光発電がなぜ進まないか?といった問題点が提起されたり、原子力発電の放射性廃棄物の処理は解決できないものなのか?といったことについて発言があった。

   

 番組の中でEU(ヨーロッパ連合)が、温暖化阻止のために国・地域挙げてエネルギー問題をシステムとして解決しようと取り組んでいることが紹介されたのだが、そのことがなぜEUでは可能なのだろうか?と参加者に問うたが、私は次のように結んだ。「EUに参加する国の人たちはこの問題に対する意識が高い故、政府がやろうとしていることを支持する土壌があるのではないか」と…。つまり私たちは今回の「2030未来への分岐点」の視聴を通して、現在地球が抱える問題の所在について改めて理解し、難しいながらも自分の考えを持てるようにすることではないか、と話してフォーラムを締めた。これからの展開が楽しみである。

 というように今季の「めだかの学校」は無事にスタートできたが、なんとかこの後も予定どおりに活動が実施できることを願っている。