

もうすぐ午後4時になります。いやあ、きのうの天気が全くウソのようなきょうの天気です。このような天気は大歓迎です。気象台の公式発表?では、きのうの最低気温は5.6℃、最高気温は11.3℃となっていますが、これは現実とはかけ離れています。5.6℃というのは、朝までの最低気温、11.3℃というのは夕方までの最高気温ということになります。

きのうの正午の気温は3.9℃、午後3時は0.8℃、午後6時は0.9℃でした。きょうの気温は正午9.9℃で午後3時は11.2℃となっています。いやはやこの気温の激変、困ったものです。心身や行動に大きな影響を与えます。


ところで、きのう26日で終了したものがあります。1926年・大正15年から約100年間続けてきた「気象目視観測」がなくなりました。自動化できるものは自動化した結果、「快晴」とか「薄曇り」、雲量もかな、なくなりました。これも時代の流れでしょうか。でも、気象台の職員が屋上に上がって周囲の雲の状況等を黙視するというのはなかなかに風情があっていいものではないのかなあ、なんて思ったりして。


毎日掲載されている鷲田清一さんの「折々のことば」、毎朝楽しみにして読んでいます。短いコラム?(といっていいのかな)ですので、文章は要点の要点し書かれていないため、書き出されなかった言葉等を考えながら読んでいますが、正直なところついていけないところも無きにしも非ずですが、この認知症の頭でいろいろ考えたりしています。

(この木、逞しいと思いませんか?いつも大したものだと思っています。)
きのうの「折々のことば」は歴史社会学者の山内明美さんでした。『近代社会とは、供養のできなくなった世界です。』という言葉で、以下のように解説しています。


(引用開始)「針や釘、獣や草木などの供養塔は各地にある。宮城県南三陸で江戸期に建立された塔も、人の暮らしとともにあって飢饉の犠牲になったすべてを供養した。(しかし、)13年前の震災では、人をのみ弔うことで、山や海どころか、人の心も『取り返し』つかなくなった」(引用終わり)


痛いところをついていると思いませんか。まさにその通りで、なんでそうなってしまったのでしょうか。なにがそうさせるようになったのでしょうか。日本人の宗教観からすると、万物に神は宿り、自然の前に謙虚であり、自然とともに生きているという気持ちが薄くなってしまった・・・。


そういえば、能登半島地震でもそうですが、家屋の倒壊等により生じたいわゆる”がれき”と称されるもの、地震で倒壊する直前まではごみやがれきではなかった。大半は生活必需品であったはずです。そこにはトータルとしての人間の生活があったはずです、あったはずですよね。では、残されて人間はそれらにどう向きあえばいいのか、いろいろ考えさせられますが、結論は分かりません。
