あんな話こんな話

会津生まれの会津育ち…三匹の猫と柴ワンコや家族に囲まれ、家庭菜園に勤しみ都会には住めそうにないローカルな私の日常。

会津の歴史 皆鶴姫哀歌

2009-08-28 23:16:22 | プチドライブ・地域の事
新しく若松市となった河東藤倉地区のはずれに、こぢんまりとした碑がある。
以前通った時に目にして、とても気になっていたが…すっかり忘れてしまっていた。
先日その通りを通ると、新しく作られた『皆鶴姫の碑』の案内標識を見て
親戚の法要の帰りだったが立ち寄ってみる事にした。

元々 藤倉地区には、延命寺地蔵堂 (藤倉二階堂)があり国重要文化財指定されている。

昔むかしの事…時代は、そうまだ源義経が牛若丸と呼ばれていた
紅顔の美少年…だったかどうかは定かではないが…皆鶴姫とのお話。


皆鶴姫の碑

皆鶴姫とは、正一位大納言藤原成道卿の側室である桂御前の一人娘だったのだが
彼女が生まれて直ぐに父である藤原成道卿が亡くなってしまったので
母は皆鶴姫を連れて里に帰り、その後鬼一法眼吉岡憲海と言う兵法学者と再婚。
むろん皆鶴姫も鬼一法眼の養女となったそうだ。

その頃、鞍馬寺には牛若丸から名を改め遮那王(後の義経)がいて
彼が成人するに付け平家の追求の手が身辺にも及ぶ様になり
知人の金売り商人の吉次の手引きで奥州に逃れ
その途中、熱田神宮で元服して義経と名乗る様になった承安二年の頃。

奥州では平泉の藤原秀衡の庇護の元、源氏の再興を志し始め
密かに京に舞い戻った義経は、平家の動向を探りながら
鬼一法眼が持っている兵法秘伝の書を見せてくれる様頼みますが許されず
そこで義経は鬼一法眼の養女となった皆鶴姫と親しくなり、
彼女を通して密かに秘伝の書を書き写した…という事だ。

そのとき、姫と義経に帽子丸という男児が生まれる。

その頃義経は、四条の上人正門坊の元に身を寄せていたが
密告により上人は捕らえられてしまい、義経は奥州へ逃れる。
皆鶴姫は、それを知って帽子丸を抱き、義経を追って奥州に向かう途中に起きた悲劇!

帽子沼で…会津若松市神指町柳原地内の菅原神社の東に沼があった。
皆鶴姫は、京都を旅立ってから40余日後にこの沼のほとりに辿り着いたが
敵の追手に捕まり、そこで帽子丸は近くの沼に沈められて殺されてしまう。

また別な説もあり…義経の行方は全く解らず疲れ果てて途方に暮れ
思い余った皆鶴姫は帽子丸を抱き締め沼に身を投げ
従僕達に助け上げられたが、帽子丸だけは溺死してしまった…。
という説もあったが、帽子丸を偲んでこの沼を“帽子沼”と呼ぶ様になった。

同じ地内にある帽子丸の墓がある こちら!! 

因みに『呼橋(よばるばし)』松長字松窪地内にあった橋で
義経の行方が解らなく、この橋の袂に立ち彼の名前を呼び続けたと言われ
名付けられたのだが、今では当時の面影はなく、暗渠になってしまったようだ。

助けられた皆鶴姫は旅の苦労が重なり、藤倉村に辿り着いたが病に臥せってしまい
村人達の手厚い看護を受けて快方に向かった頃には、すでに会津は雪に閉ざされ
姫はそのまま一冬を越す事になってしまった。


皆鶴姫の碑の傍にある駒繋石

駒繋石の説明文

やがて季節は変わり春が巡ったが…皆鶴姫は難波の池に映った自分のやつれた姿に驚き
池に身を投げてしまったのは、時は弥生の十二日…まだ十八歳であったという。
だが、この時皮肉な事に義経は直ぐ側の町にいて、この話を伝え聞くと
居ても立っても居られずに藤倉村に駆け付けて姫の菩提を弔ったそうだ。


駒繋石の向かい側にある小さな池が難波の池

藩主は、後世一夫の役を免じて堂守を置き、参詣すれば必ず良縁が授かると言われ
城下や付近から参詣する人が多かったという。  


そして明日 第3回かわひがし皆鶴まつりが行われる



という事で、皆鶴姫の碑の近くで撮った磐梯山をUP!




コメント (16)
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