今日も朝早く起きて台所に立った。
昨晩、皮付きたけのこをスーパーでみつけ、ゆでておいたのである。
どれどれ・・・と思って、皮をむくことにした。
その一方でホームベーカリーではパンを焼いている。
こちらはちょっとバターと砂糖を多めにスイッチを入れた。粉も昨日ちょっと高い粉を用意したのだ。
あぁ、どんなパンが焼けるか楽しみ・・・(*^_^*)
そんなことを思いながら、タケノコの皮をむく。
皮付きタケノコを初めてゆでたのは初めてではない。1~2回ゆでたことがあり、いつも迷うのは皮はどこまではげばいいのか、よく分からないことである。
それでも一応むいていき、穂先の柔らかい皮を食べてみる。
ペッ、ペッ、ペッ!
なんだこの不快感は。
どうやらこれが「えぐみ」と言うもののようである。
前にやったことがあるから簡単簡単とコバカにして、ヌカもとぎ汁も入れずに水だけでゆでたからであろうか。苦いとも辛いとも言えない舌がピリピリする感じ。。。(泣)
(ショックで写真も撮れず。)
でも今さら捨てるわけにはいかない。このまま料理すればそれなりに食べられるかも、とサッサと使うことにした。料理本を取り出し、「たけのこご飯」と言うページを開き、油揚げやシイタケ・ニンジンをみじん切りにしてサッサと炊くことにした。その一方で鶏肉・ニンジン・シイタケ・例のタケノコで、「筑前煮」も作ることにした。

炊飯器にスイッチを入れ、煮物をコトコト煮ていると、やがてホームベーカリーがピピピと鳴った。パンが炊けたお知らせブザーである。よしよし・・と思って、蓋を開けると、やたらパンが小さい。
分かった!@@
ドライイーストを忘れたのだ。
だからパンがまったく膨らまなかったのである。

凝縮された小麦粉のカタマリ。
この光景を見て、思い出したことがある。
前にも同じようになってしまったことがあるのだ。
それは「米粉」と言う粉を買って、パンを焼いてみたらこうなったのだ。
(ダメじゃん、米粉ってうまくパンが焼けないじゃん!)と私は怒りつつ、二度と米粉でパンを焼くことはなかったが、あれは米粉のせいではなくて、同じようにドライイーストを入れ忘れたのではないだろうか。(だからだろうか、その後同じ米粉でピザを焼いた時はうまくできたのは。)
だとしたら、今まで米粉サンに対してえらい誤解をしていたことになる。いろいろ問題はあるが、誤解がとけてこの結末も良かったと思いたい。
そしてやがてもう1つのブザーが鳴った。
たけのこご飯ができたのである。
おそるおそる、タケノコを中心に食べてみる。ご飯はおいしいが、タケノコを食べると、さっきの舌のピリピリ感がほのかに甦る。このタケノコもえぐいのか、タケノコを食べたことでさっきのエグミを思い出すのか分からない。少なくても「おいしい」ものではないような気がする。

がっかりして、小ねぎも散らす元気がない。
kekeが帰ってきたので「このタケノコどうかしら」と1切れ食べてもらうと、あまり気がつかないようである。(やっぱり気のせいかなァ・・)と思って、タケノコご飯を食べてみると、やはりピリピリ感は残る。食べられないわけではないけれど、不穏な気持で迎え入れねばならない、そんな感じ。
今日のだしは、これまたイイ感じで、ダシパックに(水の量が多いので)煮干も数匹加え、ネギの青いところや、シイタケの軸も入れた、それから昨日のアジの食べなかった頭と骨も入れた豪華版だっただけに、返す返すもこの惨状が悔やまれる。このダシを使ったタケノコご飯も、筑前煮も心許せるものではなく、舌のピリピリにおびえながら食べるものになってしまった。
そしてこの現実を早く忘れたいと、思い出してはタケノコご飯と小麦粉のカタマリを今日は一日食べている。
筑前煮はまだ食べていない、割と甘めの味付けにしたので、これは食べられるものになっていると信じたい。(kekeは不穏な空気を感じ取り、昨夜の残った白いご飯を食べたようだ。)
悪い記憶はその後でいい記憶にすり替えることができると言う。
また近いうちに皮付きタケノコを買って、今度はうまく成功させたい。そうすれば今日の失敗もチャラである。
(でも早いトコさっさと食べて忘れたい。)
ちなみに今日はこの後ブログとふて寝。
もう真っ暗になっている。
部屋の片付けはまた今週も出来なかった。
昨晩、皮付きたけのこをスーパーでみつけ、ゆでておいたのである。
どれどれ・・・と思って、皮をむくことにした。
その一方でホームベーカリーではパンを焼いている。
こちらはちょっとバターと砂糖を多めにスイッチを入れた。粉も昨日ちょっと高い粉を用意したのだ。
あぁ、どんなパンが焼けるか楽しみ・・・(*^_^*)
そんなことを思いながら、タケノコの皮をむく。
皮付きタケノコを初めてゆでたのは初めてではない。1~2回ゆでたことがあり、いつも迷うのは皮はどこまではげばいいのか、よく分からないことである。
それでも一応むいていき、穂先の柔らかい皮を食べてみる。
ペッ、ペッ、ペッ!
なんだこの不快感は。
どうやらこれが「えぐみ」と言うもののようである。
前にやったことがあるから簡単簡単とコバカにして、ヌカもとぎ汁も入れずに水だけでゆでたからであろうか。苦いとも辛いとも言えない舌がピリピリする感じ。。。(泣)
(ショックで写真も撮れず。)
でも今さら捨てるわけにはいかない。このまま料理すればそれなりに食べられるかも、とサッサと使うことにした。料理本を取り出し、「たけのこご飯」と言うページを開き、油揚げやシイタケ・ニンジンをみじん切りにしてサッサと炊くことにした。その一方で鶏肉・ニンジン・シイタケ・例のタケノコで、「筑前煮」も作ることにした。

炊飯器にスイッチを入れ、煮物をコトコト煮ていると、やがてホームベーカリーがピピピと鳴った。パンが炊けたお知らせブザーである。よしよし・・と思って、蓋を開けると、やたらパンが小さい。
分かった!@@
ドライイーストを忘れたのだ。
だからパンがまったく膨らまなかったのである。

凝縮された小麦粉のカタマリ。
この光景を見て、思い出したことがある。
前にも同じようになってしまったことがあるのだ。
それは「米粉」と言う粉を買って、パンを焼いてみたらこうなったのだ。
(ダメじゃん、米粉ってうまくパンが焼けないじゃん!)と私は怒りつつ、二度と米粉でパンを焼くことはなかったが、あれは米粉のせいではなくて、同じようにドライイーストを入れ忘れたのではないだろうか。(だからだろうか、その後同じ米粉でピザを焼いた時はうまくできたのは。)
だとしたら、今まで米粉サンに対してえらい誤解をしていたことになる。いろいろ問題はあるが、誤解がとけてこの結末も良かったと思いたい。
そしてやがてもう1つのブザーが鳴った。
たけのこご飯ができたのである。
おそるおそる、タケノコを中心に食べてみる。ご飯はおいしいが、タケノコを食べると、さっきの舌のピリピリ感がほのかに甦る。このタケノコもえぐいのか、タケノコを食べたことでさっきのエグミを思い出すのか分からない。少なくても「おいしい」ものではないような気がする。

がっかりして、小ねぎも散らす元気がない。
kekeが帰ってきたので「このタケノコどうかしら」と1切れ食べてもらうと、あまり気がつかないようである。(やっぱり気のせいかなァ・・)と思って、タケノコご飯を食べてみると、やはりピリピリ感は残る。食べられないわけではないけれど、不穏な気持で迎え入れねばならない、そんな感じ。
今日のだしは、これまたイイ感じで、ダシパックに(水の量が多いので)煮干も数匹加え、ネギの青いところや、シイタケの軸も入れた、それから昨日のアジの食べなかった頭と骨も入れた豪華版だっただけに、返す返すもこの惨状が悔やまれる。このダシを使ったタケノコご飯も、筑前煮も心許せるものではなく、舌のピリピリにおびえながら食べるものになってしまった。
そしてこの現実を早く忘れたいと、思い出してはタケノコご飯と小麦粉のカタマリを今日は一日食べている。
筑前煮はまだ食べていない、割と甘めの味付けにしたので、これは食べられるものになっていると信じたい。(kekeは不穏な空気を感じ取り、昨夜の残った白いご飯を食べたようだ。)
悪い記憶はその後でいい記憶にすり替えることができると言う。
また近いうちに皮付きタケノコを買って、今度はうまく成功させたい。そうすれば今日の失敗もチャラである。
(でも早いトコさっさと食べて忘れたい。)
ちなみに今日はこの後ブログとふて寝。
もう真っ暗になっている。
部屋の片付けはまた今週も出来なかった。