津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家家臣・藤崎氏

2009-10-03 19:09:10 | 歴史
 私の母方の祖母は猿木氏、その猿木氏を遡ると猿木左門なるひとが居た。左門の二男が藤崎言斎の養子に入っている。そうなると何だか身近に感じるから不思議なものである。

 2代・藤崎作右衛門(喜八郎・義近)
  猿木左門二男。忠興児小性に召出され、元和七年七月二百石。元和九年忠利に属し供の者。
  寛永元年、命により藤崎言齋の養子となり六百石。のち御小性頭等を勤む。二十年正月作右
  衛門と改め。寛文元年二月歿。
         (東大資料編纂所、大日本近世史料・細川家史料-人名索引による)

  原城にて武功之面々御褒美被下候--黄金一枚袷単物帷子五宛(綿考輯録・巻四十九)
  (1)御詰衆 八百石 (真源院様御代御侍名附)
  (2)有吉内膳組 八百石 (寛文四年六月・御侍帳)
  (3)千石  (真源院様御代御侍免撫帳)

  肥陽諸士鑑では三代作右衛門を猿木氏としているが、二代の間違いだと思われる。
                          以下
 3代、作右衛門
 4代、作右衛門・正治(丸山)
     千三百石 御番頭三番御着座旅御家老 屋敷・塩屋町
          (元文元年一月~延享元年十月(致仕)家老脇)
    大野退野に学びて大に自得する所あり。藩に仕へて食禄千三百石、取次用人、
    番頭等を勤め家老脇となる。延享四年七月七日没す。享年未詳。
    六間町見西寺に葬る。
 5代、源大夫        
     延享元年十月~延享四年二月 用人
     延享四年二月~寛延四年七月 番頭
 6代、喜八郎(作右衛門)  
     比着座 千三百石 宝暦六子七月六日当役
 7代、喜八郎  御留守居大組附 千弐百石
     寛政十年九月~寛政十一年四月 中小姓
 8代、勇馬
 9代、大蔵(養子 作右衛門)  千百石
     細川斎樹公御書出には(文化九年)千百五十石とある
 10代、寿三郎(喜八郎) 
    (1)無役着座 千石  
    (2)御番方・松下清蔵組 千五百石
     天保三年十二月(比着座)~天保七年十二月 留守居大頭
     天保七年二月~天保十一年三月(病死)番頭
     天保十年九月~     同上       鶴崎番頭
     細川斎護公御書出には(文政九年)千五十石とある
 11代、太郎彦(喜八郎・作右衛門)  千石

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バルテュス * 出田節子

2009-10-03 08:39:30 | 歴史
 随分以前のことだが、あるお宅の応接間で2001年6月号の「芸術新潮」を見た。画家バルテュスの追悼特集号とあった。私はこの画家についてまったく知識を持っていなかった。ご主人をお待ちするわずかの時間で、バルテュス夫人が日本人であることを知った。

             ja.wikipedia.org/wiki/バルテュス
             www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0984.html 

そのご夫人が菊池一族の末裔・出田節子さんであることを知るのに、それから2・3年の時間を要した。時折日本に帰国された折、先祖の地菊池を訪ねて居られる。
出田氏は菊池氏の重臣であった。現在の熊本城の前身・隈本城は、出田山城守秀信が応仁年間に築城したとされている。現在NHK熊本放送局がある千葉城と呼ばれる一帯である。

             www2.harimaya.com/sengoku/html/ideta_k.html

そんな名門出田氏は加藤清正に仕え、細川家家臣となった。

        寛永十年三月十九日付 細川忠利宛 榊原飛騨守書状
       庄林隼人・出田宮内両人御かゝへ被成候由、可然人之様ニ承及候
                            (綿考輯録・巻三十五)          
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