私の母方の祖母は猿木氏、その猿木氏を遡ると猿木左門なるひとが居た。左門の二男が藤崎言斎の養子に入っている。そうなると何だか身近に感じるから不思議なものである。
2代・藤崎作右衛門(喜八郎・義近)
猿木左門二男。忠興児小性に召出され、元和七年七月二百石。元和九年忠利に属し供の者。
寛永元年、命により藤崎言齋の養子となり六百石。のち御小性頭等を勤む。二十年正月作右
衛門と改め。寛文元年二月歿。
(東大資料編纂所、大日本近世史料・細川家史料-人名索引による)
原城にて武功之面々御褒美被下候--黄金一枚袷単物帷子五宛(綿考輯録・巻四十九)
(1)御詰衆 八百石 (真源院様御代御侍名附)
(2)有吉内膳組 八百石 (寛文四年六月・御侍帳)
(3)千石 (真源院様御代御侍免撫帳)
肥陽諸士鑑では三代作右衛門を猿木氏としているが、二代の間違いだと思われる。
以下
3代、作右衛門
4代、作右衛門・正治(丸山)
千三百石 御番頭三番御着座旅御家老 屋敷・塩屋町
(元文元年一月~延享元年十月(致仕)家老脇)
大野退野に学びて大に自得する所あり。藩に仕へて食禄千三百石、取次用人、
番頭等を勤め家老脇となる。延享四年七月七日没す。享年未詳。
六間町見西寺に葬る。
5代、源大夫
延享元年十月~延享四年二月 用人
延享四年二月~寛延四年七月 番頭
6代、喜八郎(作右衛門)
比着座 千三百石 宝暦六子七月六日当役
7代、喜八郎 御留守居大組附 千弐百石
寛政十年九月~寛政十一年四月 中小姓
8代、勇馬
9代、大蔵(養子 作右衛門) 千百石
細川斎樹公御書出には(文化九年)千百五十石とある
10代、寿三郎(喜八郎)
(1)無役着座 千石
(2)御番方・松下清蔵組 千五百石
天保三年十二月(比着座)~天保七年十二月 留守居大頭
天保七年二月~天保十一年三月(病死)番頭
天保十年九月~ 同上 鶴崎番頭
細川斎護公御書出には(文政九年)千五十石とある
11代、太郎彦(喜八郎・作右衛門) 千石
2代・藤崎作右衛門(喜八郎・義近)
猿木左門二男。忠興児小性に召出され、元和七年七月二百石。元和九年忠利に属し供の者。
寛永元年、命により藤崎言齋の養子となり六百石。のち御小性頭等を勤む。二十年正月作右
衛門と改め。寛文元年二月歿。
(東大資料編纂所、大日本近世史料・細川家史料-人名索引による)
原城にて武功之面々御褒美被下候--黄金一枚袷単物帷子五宛(綿考輯録・巻四十九)
(1)御詰衆 八百石 (真源院様御代御侍名附)
(2)有吉内膳組 八百石 (寛文四年六月・御侍帳)
(3)千石 (真源院様御代御侍免撫帳)
肥陽諸士鑑では三代作右衛門を猿木氏としているが、二代の間違いだと思われる。
以下
3代、作右衛門
4代、作右衛門・正治(丸山)
千三百石 御番頭三番御着座旅御家老 屋敷・塩屋町
(元文元年一月~延享元年十月(致仕)家老脇)
大野退野に学びて大に自得する所あり。藩に仕へて食禄千三百石、取次用人、
番頭等を勤め家老脇となる。延享四年七月七日没す。享年未詳。
六間町見西寺に葬る。
5代、源大夫
延享元年十月~延享四年二月 用人
延享四年二月~寛延四年七月 番頭
6代、喜八郎(作右衛門)
比着座 千三百石 宝暦六子七月六日当役
7代、喜八郎 御留守居大組附 千弐百石
寛政十年九月~寛政十一年四月 中小姓
8代、勇馬
9代、大蔵(養子 作右衛門) 千百石
細川斎樹公御書出には(文化九年)千百五十石とある
10代、寿三郎(喜八郎)
(1)無役着座 千石
(2)御番方・松下清蔵組 千五百石
天保三年十二月(比着座)~天保七年十二月 留守居大頭
天保七年二月~天保十一年三月(病死)番頭
天保十年九月~ 同上 鶴崎番頭
細川斎護公御書出には(文政九年)千五十石とある
11代、太郎彦(喜八郎・作右衛門) 千石