津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

姫様の名前

2009-10-06 16:38:55 | 歴史
 今日の新聞を読むと、徳川家定夫人篤姫の鹿児島時代の名前のことが出ている。「一」と書いて「かつひめ」と読んできたが、叔母に当る人が勝姫を名乗った為、「いちひめ=於一」としたらしい。

 細川忠利夫人は「千代姫」と呼ばているが、彼女の輿入れに従ってきた岩間六兵衛の記録によると「おせんさま=(千姫?)」と呼んでいたという。同時代の家光の娘に「千世姫」がいるから「おせんさま」が本当かもしれない。処がよくよく考えると、誕生が々慶長ニ年の徳川秀忠の娘「千姫(豊臣秀頼→本多忠刻室)」があり、だとすると六兵衛の記述も怪しい。保壽院様と申上げるのが、いらぬ心配も無い大正解である。

 加藤清正の研究家・福田正秀氏によると、清正の息女については今迄語り伝えられた名前が違っていたり、生母が取り違われていたりしていたことが明らかになっている。すばらしい研究成果であるが、これが修正されて当り前に使われるように成るには、相当な時間を要する。

 歴史を極める醍醐味である。
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佐田右平・嘉永六年癸丑日記より ・・(Ⅱ)

2009-10-06 10:18:05 | 歴史
御奉行 
    ■ 佐田吉左衛門 (佐田右平)
        9代、右門(右平・吉左衛門) 
                     右門-御目付 三百石
                     右平-旧知二百五十石
                     吉左衛門-旧知三百五十石
                細川斎護公御書出(文化九年)
                         同上     (弘化四年)
              天保元年七月(大組付)~天保三年二月 高瀬町奉行
              天保三年二月~天保五年九月 奉行副役
              天保五年九月~安政元年八月(病死)奉行-吉左衛門ト改名

         佐田右平 名は玄景、右平と称し、後吉左衛門と改む。藩に仕へ食禄三百五十石、
                奉行職を勤む。平素好んで詩書を謡し、史事を考證し、手に巻を廃せず。
                安永元年八月弐拾日没す。享年七十四。

    ■ 真野源之助
        8代、源之助  御知行取諸御目付・学校方御奉行触 時習館句讀師 百五十石
              文政十年九月~天保三年三月 八代郡代
              天保三年三月~天保三年九月 阿蘇南郷郡代
              天保三年九月~天保三年十二月 野津原鶴崎郡代
              天保三年十二月~天保七年十一月 上益城郡代
              天保十年八月~天保十二年六月 奉行副役
              天保十二年六月~嘉永四年三月 奉行
              嘉永四年六月~安政四年四月 奉行・大奉行助勤
              安政四年四月~万延元年十一月 大奉行

         真野源之助 名は景豊又景福、字は子純、通称を源之助と云ふ。大観堂の号あり。
               禄三百五十石、奉行職より大奉行職に昇り蕃の要路に在る事廿二年
               秩禄職俸を併せて千五百石に至る。又蘰園の学を好み康済に志あり、
               持論鑿々條理あり、時勢に明にして頗る機宣に達せり。
               万延元年十一月朔日没す。年六十八。墓は京町往生院。

    ■ 上野十内
         8代、十平(十郎)  旧知二百石
              天保十二年七月~弘化四年二月 奉行副役
              弘化四年二月~安政二年五月    奉行

         上野十平 名は惟遠、藩に仕へ奉行副役を経て、奉行職となる。
                文久二年閏八月廿七日歿す。年八十。

    ■ 小山門喜
         6代、権八郎(養子 実・久野岡右衛門・長子) 四百石
              天保十年十二月~天保十二年二月 菊池郡郡代
              弘化三年三月~嘉永三年九月    奉行副役
              嘉永三年九月~嘉永五年十月    奉行
              嘉永五年十月~嘉永五年十一月   用人
              嘉永五年十一月~文久二年十二月  奉行

         小山閑山 名は武、門喜と称し、閑山と号す。藩に仕へ世禄三百石。
                使番、江戸留守居、郡代、目付等を歴て奉行職、用人等の要職を勤む。
                又梅堂新地、八代新地築造に功あり。仍て禄百石を加増せらる。
                明治三年九月廿五日歿す。年七十五。墓は五町尼光塔。
                *梅堂新地築造に両三度崩壊す。其時の狂歌に「切時に木六竹八葦九月
                 小山が腹は今が切りとき」以て閑山当時の苦心知らる。
                   
  同副役 
    ■ 早川十郎兵衛
          8代、幾次(十郎兵衛) 大組附留
               弘化二年八月~弘化二年十二月 阿蘇南郷郡代
               弘化二年十二月~弘化四年四月 八代郡代
               弘化四年四月~嘉永三年一月 山本郡代(山鹿郡兼)
                       同上         山鹿郡代(山本郡兼)
               嘉永三年八月~嘉永六年九月 奉行副役
               嘉永三年八月~嘉永六年五月 奉行・後用人ニ転

          早川鶴隣 名は景佳、十郎兵衛と称し、鶴隣と号す。又別号を摘園と称す。
                 世禄百五十石。性機敏事に遭うて善断ず。
                 副奉行より用人に転じ中太夫に進む。
                 明治元年十二月二十七日没す、年六十五。墓は京町往生院。
    ■ 荒木甚四郎
          4代、丑之助(後・甚四郎)   御擬作高百石
               天保十四年四月~天保十五年十二月 菊池郡郡代
               天保十四年十月~天保十五年十二月 合志郡郡代兼
               天保十五年十二月~弘化二年十月 上益城郡郡代
               嘉永四年三月~安政元年十二月 奉行副役
               安政元年十二月(副役)~慶応三年十一月 奉行

          荒木既翁 甚四郎と称し、晩に既翁と改む。世禄百石、郡代、目付、郡目付を歴任し、
                奉行副役を経て、奉行職となる。依りて禄百石を加増せらる。
                明治九年一月六日歿す。年八十四。墓は高橋稲荷山東麓。

  御目附 
    ■ 藤本津志馬
          9代、直次(津志馬)  大組附留 三百石
               安政元年十月~安政六年十二月 奉行副役
               安政六年十二月~文久元年三月 奉行

           名は正心、津志馬と称す。世禄三百石、使番、目附役、奉行副役、奉行、作事頭
           中小姓頭等を勤む。明治三年五月廿七日没す、年五十七。墓は高麗門禅定寺。
  
    ■ 高本慶太郎
          7代、慶太郎(敬太郎)  旧知二百石
               嘉永六年六月~安政元年九月(病死)奉行副役

    ■ 佐久間角助
               寛政三年五月頃~    野津原鶴崎郡代
               寛政六年四月 ~     飽田詫摩郡代
               嘉永三年三月 ~     小国久住郡代
               元治元年九月~慶応三年九月 奉行副役

    ■ 黒川才右衛門
          
    ■ 松崎九郎平
          勇八(九郎平)  御奉行副役 五百石
               天保十二年四月(留守居切米取触頭)~天保十五年九月 
                                        高瀬町奉行・長柄頭ニ転
               弘化四年(穿鑿頭)~嘉永三年七月 川尻町奉行・目付ニ転
               安政六年十二月~文久二年六月 奉行副役 
    ■ 井上加左衛門
          7代、加左衛門(初・友之助) 御鉄炮頭 三百石
               安政五年二月~万延元年十二月 奉行副役
               文久三年三月~慶応三年十一月 奉行

          井上加左衛門 名は政房、加左衛門と称す。世禄三百石、少時窮乏因苦し人の書を借
                    りて誦讀せり。後擢でられて奉行職となる。明治九年六月十四日歿す
                    墓は高麗門禅定寺。


    ■ 吉見十内
           8代、十内    御昇頭 四百石
  
    ■ 小川次郎助
           
    ■ 須佐美九郎兵衛
           8代、九郎兵衛(養子)  川尻御町奉行 五百石
               安政三年八月(五十挺副頭)~慶応元年十二月 川尻町奉行・後普請奉行二転
               安政二年十二月本役
               慶応三年九月~慶応三年十二月 中小姓頭
               慶応三年十二月~明治元年一月 用人・後御前様附
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家紋・・鬼州浜

2009-10-06 07:31:59 | 新聞
 今日の熊本日々新聞は、「相撲道の神様」日田永季の歿後905年祭りが、藤崎八旛宮内で執り行われたことを報じている。財津氏をはじめ子孫30名ほどが各地から集まられた。私が注目したのが、皆さんの家紋が「鬼州浜」だということである。財津氏、日隈氏、竹田津氏、江嶋氏などである。日田地方を収めた日田氏が、大友氏没落後豊前ニ於いて細川家に召し出された。肥後入国後は特に阿蘇地区に領地が与えられた。俳優「財津一郎氏」も一族の一人である。

   日田社  www3.ocn.ne.jp/~tohara/hachi-fujisaki.html
   日田氏  www2.harimaya.com/sengoku/html/oku_hita.html

 私は「鬼州浜」という紋の名前がずっと判らずにいたが、今朝の新聞をみて「目からうろこ」である。名前が分かればサイトからいろんな情報が得られる。間違いなく日田氏の家紋だと紹介している。「肥陽諸士鑑」をひもといて確認したいと思っている。
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