今日の新聞を読むと、徳川家定夫人篤姫の鹿児島時代の名前のことが出ている。「一」と書いて「かつひめ」と読んできたが、叔母に当る人が勝姫を名乗った為、「いちひめ=於一」としたらしい。
細川忠利夫人は「千代姫」と呼ばているが、彼女の輿入れに従ってきた岩間六兵衛の記録によると「おせんさま=(千姫?)」と呼んでいたという。同時代の家光の娘に「千世姫」がいるから「おせんさま」が本当かもしれない。処がよくよく考えると、誕生が々慶長ニ年の徳川秀忠の娘「千姫(豊臣秀頼→本多忠刻室)」があり、だとすると六兵衛の記述も怪しい。保壽院様と申上げるのが、いらぬ心配も無い大正解である。
加藤清正の研究家・福田正秀氏によると、清正の息女については今迄語り伝えられた名前が違っていたり、生母が取り違われていたりしていたことが明らかになっている。すばらしい研究成果であるが、これが修正されて当り前に使われるように成るには、相当な時間を要する。
歴史を極める醍醐味である。
細川忠利夫人は「千代姫」と呼ばているが、彼女の輿入れに従ってきた岩間六兵衛の記録によると「おせんさま=(千姫?)」と呼んでいたという。同時代の家光の娘に「千世姫」がいるから「おせんさま」が本当かもしれない。処がよくよく考えると、誕生が々慶長ニ年の徳川秀忠の娘「千姫(豊臣秀頼→本多忠刻室)」があり、だとすると六兵衛の記述も怪しい。保壽院様と申上げるのが、いらぬ心配も無い大正解である。
加藤清正の研究家・福田正秀氏によると、清正の息女については今迄語り伝えられた名前が違っていたり、生母が取り違われていたりしていたことが明らかになっている。すばらしい研究成果であるが、これが修正されて当り前に使われるように成るには、相当な時間を要する。
歴史を極める醍醐味である。