細川宗孝の結婚は寛保元年(1741)十一月廿二日、お相手は紀伊中納言宗直卿息女友姫、当時21歳である。しかしながらその結婚生活は長く続かなかった。宗孝が江戸城内で寄合板倉修理勝該に切り付けられ、亡くなるという大事件が発生した。延享四年(1747)八月十五日の事である。即死に近い状態であったとされる。友姫27歳である。静證院と号した。
急養子として跡をついだ重賢は、義姉であり養母である静證院に対し、終生孝養を尽くしたという。安永二年の「細川重賢御側日記」をみると、この年熊本に在った重賢は参勤之為に熊本を発し五月七日白銀邸に入った。九日には静證院に挨拶、以降八ヶ月弱に35・6回「御機嫌伺い」に訪れている。宝暦元年の「大積目録」をみると、「米壱万弐千百八十石、銀百四貫六百目--上々様江被進分」と記されている。物心両面での重賢の思いが見て取れる。重賢の同母妹清源院も、宇土支藩・細川興里に嫁いだが、こちらはわずか十ヶ月で死別している。そんな二人が一緒に重賢を訪ねたり、静證院の居室に重賢を招き食事をしたりしている。暖かい交流が窺えてほっとさせられる。
急養子として跡をついだ重賢は、義姉であり養母である静證院に対し、終生孝養を尽くしたという。安永二年の「細川重賢御側日記」をみると、この年熊本に在った重賢は参勤之為に熊本を発し五月七日白銀邸に入った。九日には静證院に挨拶、以降八ヶ月弱に35・6回「御機嫌伺い」に訪れている。宝暦元年の「大積目録」をみると、「米壱万弐千百八十石、銀百四貫六百目--上々様江被進分」と記されている。物心両面での重賢の思いが見て取れる。重賢の同母妹清源院も、宇土支藩・細川興里に嫁いだが、こちらはわずか十ヶ月で死別している。そんな二人が一緒に重賢を訪ねたり、静證院の居室に重賢を招き食事をしたりしている。暖かい交流が窺えてほっとさせられる。